馬超キターーッ!! なんて叫ぶわけにもいかないので、

「うむ、よしなに」

私はとりあえず、名士ムーブをするのだった。


かたいひづめの音が、途切れることなくつづいている。長安城内の庭では、馬超と韓遂の護衛、二名の武人が馬を走らせていた。

「見事なものですね」

「うむ」

司馬懿がもらした感嘆に、私はうなずく。私たちは涼州の馬術を見学していた。

馬超は芦毛あしげの愛馬を、足だけで巧みにあやつっている。槍を右へ左へ鋭くしごき、最後に頭上で旋回させる。緑色の槍が白銀の鎧に映えて、京劇のように華やかだ。……京劇見たことないけど。

次に、馬超は弓を手にとった。揺れる馬上をものともせず、彫像のように身じろぎもせず、矢をつがえずに引きしぼる。狙いをさだめて、弦をはじく。これまた右に左に、後方に。次から次へと、弦音をひびかせていく。

そして、ふたたび槍にもちかえる。もう一方の手で手綱を握るや、芦毛の馬はぴたりと足をとめた。と、そのまま横歩きにうつってから、後退をはじめる。軽やかな蹄の音は、まるで踊っているみたいだ。

まさに、人馬一体。流れるような一連の動作には、見とれるしかない。私は素直な感想を述べた。

「これを見るだけでも、長安まで来たかいがあったというものだ」

仕事を手伝ってくれ、と鍾繇にいわれたとき、正直にいうと、「めんどくさいなあ」と私は思った。「厄介だなあ」とも。だって、交渉相手が反乱マイスターの韓遂だもの。

けれど、顔を貸すだけでいいといわれれば、断るわけにもいかない。私が暮らしている陸渾は、洛陽盆地の南に、盲腸のようにくっついた場所にある。この一帯を統括する兄弟子との関係は、おざなりにするわけにはいかなかった。つきあいを優先させた形だったけど、いまとなっては来てよかったと思う。

──ああ、「きん馬超」とうたわれただけあって、当時の人からも馬超の姿は輝いて見えたんだ。

思い返せば、この時代に生をうけて、もうそろそろ四十年になる。いつも戦の回避に全力だったから、有名武将の雄姿を見る機会もほとんどなかった。

「ははは。いかがかな、我らの馬術は」

誇らしげな声がした。韓遂だ。

「と、自慢したいところだが、あのあぶみという馬具がなければ、ああもうまくはいきますまい。胡昭どのの発明は、騎兵の運用に変革をもたらすやもしれませんぞ。なんとも、すごいものを発明されましたな。はっはっは」

さきほど声を荒らげたのが嘘のように、韓遂は相好を崩している。

……なるほど、わざとだったか。

私が名士ムーブをすることで、交渉に干渉しないと意思表示しているように。韓遂も気分を害したふりをしていたのだろう。交渉の場を、屋内から屋外へとうつすために。

自分が用意した場所で交渉できれば、それだけ心理的に余裕がもてる。鍾繇が用意した部屋より、屋外のほうが韓遂にとってはやりやすいはずだ。となると、次は──。

「しかしながら、彼らはもとよりすぐれた騎手だ。どうかな、胡昭どの」

「……うむ?」

「あなたの発明品が、我らの兵にどれほどの効果をもたらすのか。直接その目で、たしかめてみてはいかがかな?」

「…………」

韓遂の陣へと、誘いこもうとする。そういうことだ。韓遂と馬騰はそれぞれ千の兵をもって、長安郊外に陣どっている。そこが、彼らにとって最も有利な交渉場所だ。

私は無言でいた。口をはさむ人物がいるであろうことは予想できた。

「城内におぬしらの兵を数名、呼び寄せるぶんにはかまわぬぞ。だが、あの護衛たちから、感想を聞くのが先ではないかな。韓遂どの」

案の定、鍾繇が苦笑しながら、くぎを刺した。

「ふむ……。では、そうするとしようか。おおーい!」

自陣に場所をうつせなかったからか、韓遂も苦笑をひらめかせてから、大声で呼びかける。韓遂の護衛と馬超は、その声にすぐさま反応した。

栗毛の馬と芦毛の馬。二騎は競うように、ほぼ同時にもどってきた。下馬するのもほぼ同時、いや、わずかに韓遂の護衛のほうが早い。

「胡昭どの。あぶみの乗り心地、まことにすばらしきものでございました」

「この閻行えんこうは、我が軍随一の勇将だ。関中においても比類なき剛の者よ」

主君に紹介され、韓遂の護衛はうやうやしく拱手した。

「閻行、字を彦明げんめいと申します。以後、お見知りおきを」

「うむ、よしなに」

ん、閻行? もしかして……。

閻行はちらと馬超を見やり、得意げにいう。

「ふふふ、そうむくれるな。関中一の座は、まだまだおぬしには早い」

「…………」

馬超は苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。

「私と馬騰は、かつて敵対しておってな。戦をしたこともある。その際、閻行は一騎打ちで馬超を圧倒しておるのだ」

韓遂の説明が、前世の記憶と一致した。

やっぱりそうだ!

馬超に一騎打ちで勝った武将だ。いわれてみれば、ご立派なお身体、お強そう。馬術でも、馬超と遜色ない動きをしていた……ような気がする。あまり見ていなかった。失礼いたしました。

「あくまでも、三年前のことにございますれば」

馬超が不機嫌そうにいいすてると、馬騰が深々と嘆息する。

「いまでも顔を合わせるたびに、この調子よ。敵対していたのは、過去のことだというのに」

「父上、ちょうどよい機会ではありませんか」

「む、何がだ?」

馬超は、槍の石突きで地面を突いた。若獅子の両眼に、挑戦とも挑発ともとれる光が宿る。

「馬に乗り、槍を振るい、矢を放つ真似事をする。それだけで、あぶみを十分に試したといえるでしょうか? もっと実戦に近いほうがよいのでは?」

「ほう、私との手合いを所望するか。おもしろい」

好戦的な言葉に返答したのは、馬騰ではなく閻行だった。

ふたりの武人が、視線を交わす。

「いつまでも、過去の勝利を誇られてはたまらぬ」

「いまなら勝てる、と聞こえるぞ。ふん、拾った命だろうに」

これはもしや、……一騎打ちが発生しようとしている?

ふと、懐かしい記憶がよみがえった。

前世の、小学生のころの記憶。学校の図書室で、三国志の漫画を読んだ思い出だ。その漫画は全巻そろっていなかったし、表紙カバーなんかとっくになくなっていて、すり切れてボロボロになっていた。それでも、私にとってはお気に入りだった。

他にも歴史物はあったけれど、三国志ほど心を躍らせるものはなかった。一番わくわくしたのは、やっぱり豪傑同士の一騎打ちだったと思う。……そのほとんどが、三国志演義での創作だと、あとで知って、ちょっとがっかりもしたっけ。

その一騎打ちを見る、チャンスかもしれない。戦場で発生する本物の一騎打ちでこそないが、けっして練習ではない。意地と誇りをかけた真剣勝負だ。ましてや馬超クラスの一騎打ちとなると、きっと私が目にする機会は二度とないだろう。

馬超と閻行は、お互いに視線をそらそうとしなかった。にらみあったまま、圧迫するような緊張感が場を支配する。両者の闘志が高まるにつれ、私の胸中でも期待が高まるのを感じる。

「これ、閻行。客人の前だぞ」

韓遂が注意するも、閻行の耳には入らなかったようで、

「そういえば馬超よ。ずいぶんと立派な鎧を身につけているではないか。おぬしの代わりに風穴をあけた鎧には、ちゃんと感謝したか?」

「むっ」

「ふふふ、我が槍を折ってくれたあの鎧には、私も感謝せねばならぬ。あやうく、馬騰どののご子息を殺してしまうところであった」

「三年前のようにはいかぬ」

「三年前とちがうのは私も同じこと。特別にきたえたこの虎頭湛金槍ことうたんきんそうこそ、折れることのない、関中一の勇士の証よ」

閻行は獰猛どうもうに笑い、手にした槍を勲章のように誇った。黄金の虎をあつらえた、輝かしい槍である。馬超がもつ深緑の槍もあざやかで印象深いが、閻行の槍はそれ自体が威を放っているかのようだ。

「ふたりとも、黙れ」

馬騰の声は静かだったが、有無をいわせぬ力強さと迫力があった。

「やれやれ、一騎打ちの真似事だと? そんな危険なことを許すわけがなかろう」

あごひげを撫でながら、韓遂も軽はずみな行動をいましめた。その冷や水を浴びせるような声と視線が、ひりつく空気をたちまち雲散霧消させてしまう。

まずい。主君がそろって乗り気でない様子。このままでは一騎打ちはお流れになってしまう。

「父上、韓遂どの、何をおっしゃるのですか。手合わせなど、めずらしいことではありますまい」

「刃を布で包めば、問題はなかろう。それで怪我をするような軟弱者は、捨ておけばよい」

馬超と閻行が反論を試みたが、彼らの主君はかけらも感銘を受けなかったようだ。

「ならん。頭を冷やせ」

「ぐっ……」

馬騰が息子を黙らせた。

「閻行、おぬしも時と場所を考えろ」

「……ははっ」

韓遂の叱責に、閻行も頭を下げる。だめだ。やはり主君には逆らえない。

だが、私は馬超の一騎打ちを見たいのだ! 一騎打ちを実現させるには、外部からの圧力が必要に思えた。ここは、私が説得するしかない。

私の脳内で、一騎打ち推進委員会が発足される。

孔明Aいわく、

「馬超は、めずらしいことではない、といいました。手合わせそのものは、普通におこなわれているのでしょう」

孔明Bいわく、

「韓遂は、危険なことは許さない、といいました。つまり危険を減らす方法があれば、説得は可能と思われます」

孔明Cいわく、

「韓遂は、時と場所を考えろ、ともいいました。なるほど、私たち外部の者がいる場で、死者でも出たら縁起が悪い。これも危険を減らせばよろしいかと」

……なんということでしょう。どの孔明も自分の顔をしているせいで、イマイチ確信がもてません。けれど、まちがってはいないはず。

私は前世の記憶を洗っていく。何かヒントになるものはないか。探して、探して……それらしきものにたどり着く。

思い当たったのは、世界中の不思議やミステリーを発見すると題した、司会者がスーパーなクイズ番組だった。

「韓遂どの、馬騰どの。危険を減らすことができればよいのだな?」

「あ、ああ……」

「それはそうだが……」

韓遂と馬騰が意表を突かれたような顔をした。極力発言をさけていた私が、急に口を差しはさんだのだから、戸惑うのもむりはない。

「ならば、私によい案がある」

「孔明?」

「…………」

私の方針転換が理解できないのは、鍾繇と司馬懿も同じようだった。彼らも私の意図をつかみかねて、怪訝そうな顔をしている。

だがしかし、いかな司馬懿とて、私の真意は見抜けぬであろう。

私は、馬超のリベンジマッチが見たいのだ!

「柵をひとつ用意してほしい。長く、まっすぐな柵を」

参考にするのは、中世西洋の騎士文化、馬上槍試合である。

多くの死傷者を出した馬上槍試合は、危険性をすこしでもおさえようと、さまざまな工夫を取り入れた。その大きなものが、柵である。柵をはさむことによって、騎馬同士の正面衝突をふせいだのだ。私に馬上槍試合の詳細な知識があるわけではないし、中世西洋と古代中国とでは、戦いの形式も異なる。現場とのすり合わせが不可欠だろう。私たちは相談しながら、案をつめていった。

かくして三国志版、馬上槍試合の準備がはじまった。


さあ、一時は開催をあやぶまれた、関中最強決定戦!

馬超VS閻行の好カード!

いよいよ、試合開始の時刻がせまってまいりました!

というわけで、私の目の前には、試合会場となる柵が左右にのびている。場所は、長安郊外にある小高い丘のふもとである。傾斜を利用すれば、それだけ多くの人が観戦できると思い、ここを選ばせてもらった。どうせやるなら、観客をたくさん入れて、盛りあげようではないか。このエンタメ精神、三国志の時代に生きる方々にも、わかっていただきたいところである。

すでに、その傾斜地をふくめて、会場の周囲はびっしりと兵士で埋めつくされている。韓遂軍、馬騰軍、そして鍾繇軍の合計で兵数は二千五百になるそうだが、どうやら全員観戦できるようだ。

また、自軍を代表して馬超と閻行が一騎打ちをするとなれば、兵士サポーター同士の喧嘩沙汰も予測される。そのため、クッションとして、鍾繇軍を真ん中に配置してみた。兵士、すなわち観客の配置は左手から馬騰軍、鍾繇軍、韓遂軍となっている。

……自分で決めといてなんだが、とてつもなくデンジャラスな布陣であった。もし馬騰軍と韓遂軍に挟撃されたら、兵数五百の鍾繇軍は一瞬で壊滅する。

ヤバくね?

どうりで、鍾繇と司馬懿がピリピリしているわけだ。エンタメ脳全開で、軍事的な要素は考慮しておりませんでした。……なんて、とてもいえない。

なに、逆に考えるんだ。四倍の涼州兵と野戦になったら、どうあがいても蹴散らされる。……これも、口に出せたもんじゃなかった。

「…………」

司馬懿さんの無言の圧力、冷ややかな視線を、横っ面にひしひしと感じる。じつは彼の機嫌が悪い理由は、もうひとつあった。

例によって白い羽扇をもっている私は、もう一方の手に木札を握りしめていた。賭け札である。この一戦は、賭けの対象になっているのだった。

さきほど馬超に賭けてきてから、ずっとプレッシャーを感じる。賭け事に興じるのは名士らしくない、といいたいのだろう。

けれど、自分が推し進めた一騎打ちだし、賭けにも参加せず、高みの見物というのもノリが悪いように思う。

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」といいたいところ。でも、現代日本じゃあるまいし、きっと通用しないだろう。むむむ。

私がひそかにむむむってると、そこに救いの手を差しのべるようなタイミングで、韓遂と馬騰がやってきた。何があったのか、韓遂は満面に笑みを浮かべている。心の底から愉快そうな、影のない笑顔である。

「やあ、胡昭どの。貴殿にはかないませぬな」

「さあ、そろそろはじまりますぞ」

と馬騰もほがらかに笑いながら、あごをしゃくって試合会場を指ししめす。見れば、柵の左端に馬超が、右端に閻行が。それぞれ馬に乗ってあらわれたところだった。

◆◆◆

時はすこしさかのぼり、一騎打ちの準備にうつる直前のことである。長安を出た韓遂は、不機嫌そうに黙りこんでいた。怒りをこらえているのは明白であったから、同行する馬騰、馬超、閻行の三名も無言をたもっていた。

四人の中で比較すれば小柄な韓遂も、涼州で名をはせる武人なだけあって、体格はよい。最も大柄な閻行にいたっては、岩のような巨躯きょくの持ち主である。さらにいえば、彼らが乗っている馬は、筋肉質でたくましい、一見してわかる優駿だった。それが四騎、不穏な空気を発しているのだから、近づく勇気がある者はひとりもいない。あたりに人影がなくなると、韓遂が沈黙を破った。

「かつて、曹操は自分を評価してくれるよう、許子将に頼みこんだ。いやがる許子将にしつこくつきまとい、強引に評価を聞き出したそうだ。そうして得た『治世の能臣、乱世の奸雄』という評価は、手放しの称賛とはいえなかったろう。なにしろ、奸雄なのだからな」

韓遂の声は低い。彼は昔話をしているのではなかった。説教をしているのだ。

「だが、曹操はよろこんだ。一流の名士が認めた人物として、自分の名が天下に広がることを知っていたからだ」

この話の主旨は、曹操云々ではなく、名士に評価される意義にある。

「胡昭どのは人物批評にも定評がある。彼におのれの武勇を認めてもらえれば、その名は関中どころか、天下にあまねく広まるだろう」

そこでついに、韓遂は声を張りあげた。

「閻行! ついでに馬超もだ! おまえら、功名心にはやったな!」

閻行と馬超は、大きな身体を縮こまらせた。馬上でうつむく彼らに、韓遂は憤懣ふんまんやるかたない様子で追い打った。

「自分たちが何をしでかしたのか、わかっているのか!? 我々は、あやうく天下の笑いものになるところだったのだ! 客人の前で私闘をはじめる野蛮人だとな!!

「今回は幸いにして、胡昭どのが話に乗ってくれた」

と、馬騰が顔をしかめて、説教を継ぐ。

「彼が助け船を出してくれたおかげで、笑われずにすんだが……」

「ああ。馬騰のいうとおり、胡昭どのが推し進めた手合いを笑う者はいまい」

だがな、と韓遂は鬼のような形相で叱りつける。

「おまえらが訓練の延長だと思っている手合わせは、中央の者からしてみれば、粗野な私闘でしかないのだ。胡昭どののように、我らの風習に理解をしめしてくれる御仁は例外なのだと、よくおぼえておけ!!

「……申し訳ありませぬ」

閻行が頭を下げておそれいった。馬超もばつが悪そうに頭を下げる。彼らの様子を見て、溜飲を下げたのか、韓遂は説教を切りあげて、鼻を鳴らした。聞こえよがしに、「うちの閻行は中央志向が強くて困る」とぼやく。馬騰が呼応するように、「うちの息子は頭に血がのぼりやすくて困る」と嘆息する。

閻行と馬超は、ますます下をむいた。


主君からきびしい言葉をいただこうとも、本日の主役はまぎれもなく、馬超と閻行のふたりである。彼らが雌雄を決するための準備はつつがなく終わり、あとは手合わせの開始時刻を待つばかりとなった。準備といっても、必要なのは柵一枚のみ。簡素なものだ。馬騰と韓遂は、血の気の多い兵が問題をおこしていないか、周囲の様子を見まわっていた。

「もはや、ただの手合わせと呼べる規模ではないな。そう思わぬか、韓遂」

「うむ。兵卒たち全員が観戦できるように、か。胡昭どのは、奇妙なことを考える御仁だ」

「鍾繇どのの兵も、賭けに参加しているようだぞ」

「……なるほど、そういうことか」

韓遂は得心してうなずいた。

「兵たちの交流が深まれば、争いの種も減る。胡昭どのの狙いはそこにあったか」

狙いと結果をどう結びつけるかは韓遂の自由であるが、この場に孔明がいたら、そっと目をそらしていただろう。馬騰はうなずいて、

「柵を使った一騎打ちを取り入れれば、訓練での死傷者も少なくなる」

「そうだな。……馬騰よ、ときに尋ねるが」

韓遂は声を低めて、慎重に訊いた。

「董卓は、悪だったと思うか」

「むろんだ。あの男が権力を握ったのは、悪夢以外のなにものでもなかった」

馬騰は嫌悪感をむきだしに答えた。

「ああ。私もそこに異を唱えるつもりはない。やつのしたことに、擁護の余地など一片もなかろう」

と、韓遂は苦笑さえ浮かべずに、

「だがな、やつは涼州ではそれなりにうまくやっていた。ちがうか?」

「……ちがわぬな」

「奪い、分けあたえ、力をしめす。それができなければ、異民族とまじりあう辺境を治めることなどできはせん。董卓は、そうした人心掌握には長けていた。……だが、そんな野蛮な方法が、中央で通用するはずもない。あの男はそれでも力を誇示しようとして、どこまでも残虐になっていった」

韓遂は、董卓という男をよく知っていた。何度も戦った。勝ったことも、負けたこともある。部下となったことも。粗野な男だった。冷酷な一面のある男だった。それでも涼州にいるときは、暴虐非道な大悪党ではなかった。韓遂は結論づけるしかなかった。董卓は、洛陽に行くべきではなかったのだ。気風のあわない朝廷を牛耳るよりも、辺境で王様を気取っていたほうが、本人にとっても民にとっても、よほど幸福であったろう。

「馬騰。中央の統治方法で涼州を治めようとしたら、どうなると思う?」

「不可能だ。お行儀のよいやりかたをしていては、内外ともに治まらん」

考えるまでもない、馬騰は即答した。

「うむ。李傕のような残忍な男を御しきれず、寝首をかかれるか。それとも異民族に抗しきれず、全てを奪われるか。どちらにせよ、ひと月ともたぬだろう」

韓遂の声に冷笑や皮肉のひびきはなかった。ただ、淡々と、

「結局、風習がちがうのだ。函谷関を境に東を関東といい、西を関西という。両者は対等ではない。関東が主で、関西が従だ。関東が中央であり、関西は辺境にすぎないのだ」

疲労を感じたように、韓遂はため息をついて、

「漢王朝が安定して、関東が太平の世を謳歌しているときですら、関西は異民族の侵略にさらされてきた。ときどき思う。我々は本当に同じ国の民なのだろうか、とな」

武帝以来十余万をかぞえた漢朝の中央軍は二万を下まわり、辺境軍も縮小した。兵が不要になったのではない。軍事費の削減が理由である。これでどうやって異民族をおさえろというのか。中央を当てにできぬ戦いの日々は、関西の民に根深い不信を植えつけた。

韓遂の人生もまた、戦いの連続だった。相手が異民族か中央軍か、選り好みなどできはしない。手をとり、その手をはなし、生きるために戦いつづけてきた。

深くしわのきざまれた盟友の顔を、馬騰はまじまじと見た。

「老いたな、韓遂」

「ぬかせ」

「あれを見ろ」

馬騰の視線の先では、商人らしき白い衣服の男が軽食を売っていた。客となっているのは韓遂の兵であり、馬騰の兵であり、洛陽からきた鍾繇の兵である。

「どうだ。同じものを食い、同じ賭け事に興じ、同じように騒ぐ。関東の兵と我らのあいだに、なんのちがいがある。なにも変わらないではないか」

その言葉に、韓遂はようやく苦笑を浮かべた。そして気分転換のつもりか、閻行に賭けた木札を、懐から取り出した。

「ところで、馬騰。おぬしも、もう賭けたのか?」

「むろんだ」

馬騰も、馬超への賭け札を取り出した。今度は勝たせてもらうぞ、と息子の代わりに息巻く馬騰を見て、韓遂は苦笑を深めると、注意をうながした。

「賭けがおこなわれていることは、胡昭どのの前では話題にせぬほうがよいぞ」

「ああ。話を聞くに、名士とはとかく風聞や品行を重んじるそうだからな」

彼らは木札をしまって、貴賓席にむかった。貴賓席といっても、椅子があるわけではない。立ち見である。つくづく孔明は、彼らの考える名士像を破壊してくれる。とはいえ、自分が推し進めた手合いが、賭けの対象になっていると知れば、いい顔はしないだろう。そう思っていた彼らは、顔を見合わせることになった。

「…………」

騎馬民族はすぐれた視力をもつ。彼らは遠目に、孔明の手に木札が握られているのを発見したのである。韓遂と馬騰はどちらからともなく、破顔した。

関西の武を軽んじ、関東の文を重んじる中央において、いまや最大の勢力となっているのが潁川閥である。その中心人物が、おのれの足でこの地を踏み、おのれの身をもってこの地の風習に溶けこもうとしているのだ。辺境蔑視の風潮を疑問視し、一石を投じているのだ。

彼らは捨ておかれた民ではなかった。悲観に別れを告げると、韓遂は孔明に笑いかけた。

「やあ、胡昭どの。貴殿にはかないませぬな」

「さあ、そろそろはじまりますぞ」

馬騰はそういって、晴れがましい舞台に立つ息子を見やるのだった。


韓遂が叱責したとおり、閻行のように目をギラつかせるほどではないが、馬超にも功名心はあった。孔明に武勇を認めてもらえれば、武名は天下にとどろくだろう。

馬騰が頭を抱えたように、その孔明の前で過去の敗北を蒸し返されて、頭に血がのぼったのも事実ではあった。

だがしかし、馬超の本懐はそこにはなかった。

「ようやくだ。ようやく、このときが来た」

彼はこの日が来ることを、かねてより渇望していたのである。

馬騰と韓遂が手を組んだとき、「それはようございました」と、馬超は祝福してみせた。表向きは戦がなくなるのを歓迎しながら、しかし、胸にあったのは失望と絶望だった。閻行を倒す機会は失われた。もう、雪辱がはたされることはない。あの敗北は、永遠の汚点としてきざまれたのだ。

ぽかりと、胸に穴があいたようだった。

あの敗北を夢に見て、何度夜中に跳ね起きたことか。どれほど鍛錬を積もうと、地平の果てまで馬を駆けようと、心にこびりついた屈辱を拭いさることはできなかった。もうすこし頭を使え、と父にいわれることもある馬超だが、そんな彼にもはっきりわかることがある。

──敗北を上書きできるのは、ただひとつ。勝利だけだ。

まっすぐのびる柵の端に、馬超は馬を進めた。この場で馬に乗っているのは馬超と閻行だけであるから、視線は高く、周囲の景色がよく見える。会場はすっかり兵に囲まれていた。左手の斜面では大観衆が、右手では孔明、鍾繇と名だたる人物が、この一騎打ちに注目している。

申し分ない。これ以上ないほどの大舞台だった。どうやら、刻限がきたらしい。漏壺ろうこ(水時計)をつぶさに確認していた兵士が、バチを手に陣鼓を打ち鳴らした。

「我こそは槐里侯かいりこう・馬騰が長子、馬孟起なり!」

馬超は名乗りをあげ、布をきつく巻いた穂先で敵手を指ししめした。応じる閻行は、同じ処置をほどこされた槍を天にかかげる。

「関中にその人ありと知られたる、閻彦明とは、我がことよ! 馬超よ。またしても、我が前に立つこととなった、おのれの運命を呪うがいい! 地に叩き伏せ、馬乗りになり、後ろ髪をむんずとつかみあげて、その生白い首を絞めあげてくれよう! 三年前と同じようにな!!

閻行の大音声とともに、韓遂の陣がどっとわいた。嘲笑は風となって斜面を流れ落ち、馬超めがけて容赦なく吹きつける。

「…………っ!」

激怒と恥辱に、馬超の顔は朱く染まり、その双眸は煮えたぎった。

口上が終わったとみて、兵士がふたたび陣鼓を叩く。

次の瞬間、大地を蹴って勇ましく、風を切って猛然と。馬超を乗せた芦毛の馬と、閻行を乗せた栗毛の馬は、はじかれたかのように飛びだした。

ときの声にも似た大歓声が渦巻くなか、馬超と閻行はみるみる距離をつめる。柵の中央に近づき、お互いにのみ声がとどく間合いになるや、彼らは思いの丈をぶつけあった。

「死ね、閻行!」

「死ね、馬超!」

はからずも、選んだ罵声は合致していた。刃を布で覆い隠そうとも、闘志まで覆い隠す理由はない。あふれでる戦意に遠慮のない殺意をかさねて、馬超がもつ深緑の槍と、閻行がもつ黄金の槍とが激突した。

衝撃はすさまじかった。両者の身体が大きく揺らぎ、あまりのはげしさに乗馬までもがよろめいた。動揺する愛馬を、彼らは足のみで支配してみせる。一瞬、柵からはなれようとした二騎は、馬首をひるがえして再接近した。

第二撃が放たれる。わずかに先んじたのは馬超だった。閻行の顔面めがけて、緑槍がするどく突きだされる。かろうじてかわした閻行だったが、体勢がくずれ、攻撃は中断せざるをえない。

すかさず馬超がたたみかける。飛燕のごとくひらめく槍を、閻行は完全ではないながらもしのぎつづけ、しのぎきった。そして馬超の呼吸に合わせて、反撃に転じる。

長大な槍が振るわれ、うなりをあげた。

ただ一撃だった。ただ一撃で、万全の姿勢で受けとめたはずの、馬超の顔がゆがんだ。痛みによるものではなかった。衝撃の重さによって、敗北の記憶を呼びおこされたのである。馬超とて剛力自慢である。三年の鍛錬で、さらに力は強くなった。それでも閻行の巨躯が生みだす膂力には、およんでいなかったのだ。

単純な力比べの優勢が、閻行の攻勢を勢いづかせた。黄金の槍が、暴風となって襲いかかる。馬超は守勢に立たされた。

「ああ……」

と、手に汗握る観衆の目には、防戦一方となった馬超が追いこまれたかに見えた。閻行の苛烈な連撃には、見る者にそう思わせるだけの迫力があった。しかし、注意深い者であれば、別のことに気づいたであろう。閻行の槍は、燎原りょうげんの火のごとく馬超を攻め立てているが、その白銀の鎧に一度たりとも触れていないのである。攻めきれていない。少なくとも戦っている当人たちは、はっきりとそれを認識していた。

「こしゃくな!」

閻行がはきすてた言葉に焦りがある。焦っているのであれば、さらに焦らせてやればよい。馬超はすぐには攻撃に転じず、そこから十合、二十合と、完璧な防御に徹した。粘り強く守りつづけ、閻行の猛攻にようやく陰りが見えたところで、その間隙をぬって、ついに緑槍が突きだされる。神速の突きが狙うのは、閻行の喉元であった。

「くっ」

のけぞって回避したものの、閻行はあやうく落馬しそうになった。たまらず、鞍の前輪に右手をかけ、馬の腹を蹴って逃げにかかる。馬超は逃げる背中を追わなかった。追う必要はなかった。

この手合わせには取り決めがある。交戦する範囲は柵の中央付近とさだめられており、そこから先に離脱した者は、逃げたとみなされて減点されるのだ。こうした減点がふたつで、落馬と同じあつかいになる。すなわち敗北である。一度逃げた閻行に、もう逃走は許されない。

「次で終わりだ、閻行!」

逃げ帰る敵の背中に声を投げかけ、馬超は悠然と自陣にもどる。凛然たる姿の若武者を、歓呼の声が迎え入れた。

「ふぅ……」

馬超は息をついた。はげしい撃ちあいに耐えられず、穂先を包む布が痛み、ゆるんでいた。兵に槍をあずけて、布を交換してもらいながら、馬超には敵手を観察する余裕がある。閻行の顔は憤怒と屈辱に紅潮している。槍をまじえる前と、立場は逆転していた。閻行の思惑どおりに事がはこんでいないのは、誰の目にもあきらかである。たしかに、馬超の膂力は鍛えてなお、閻行のそれにとどかなかった。だが、馬超の技量は、閻行の予想を凌駕していた。膂力の差を埋めるどころか、くつがえしてみせるほどに。

両者が準備をととのえると、貴賓席の孔明が一歩前に進み出て、白羽扇をさっとひるがえす。合図を受けて、兵が再開の陣鼓を打ち鳴らした。

決着をつけるべく、ふたりの勇士は愛馬を疾駆させた。

「おおおおおおっ!」

閻行が獣のような咆哮をあげた。尋常ではない気迫だった。馬の勢いをのせた、この一撃でもって、勝利をもぎとろうというのである。力で押しきれず、撃ちあいで競り負けた。馬超の力量が上まわっているのであれば、閻行はどこかで賭けにでるしかない。ここが最大にして、唯一といっていい勝機であろう。

この機を閻行は逃さなかった。つい今しがた、馬超の呼吸を読みきって攻勢に転じてみせたように、彼はただ力まかせに槍を振るうだけの男ではなかった。数々の戦功を積みかさねてきた歴戦の勇士であり、本物の武勇の持ち主であった。

「おうっ!」

と馬超も吠えて、雄敵の覚悟にこたえるように馬を速める。

黄金と深緑、二条の軌跡が交差した。

黄金の槍が馬超の兜の表面を流れ、深緑の槍が閻行の胸元に吸いこまれる。

鎧を砕かんばかりの衝撃が、閻行の巨躯を宙に浮かせた。

砂塵をまきあげながら人馬がすれちがったとき、鞍上から、閻行の姿は消え失せていた。

決着がついたのだ。歓声は頂点に達した。

万雷の喝采を浴びながら、馬超は手綱を握った。芦毛の馬がいななき、さお立ちになって脚をとめる。彼は敵手の姿を探した。

閻行は大地に叩きつけられていた。その姿を見た馬超の顔に、勝利の実感がゆっくりと広がっていく。やがて馬超は天高く槍をかかげた。

「今日このときをもって、関中一の座は、この馬孟起がもらいうけた!」

天をつんざく熱狂の中心で、堂々と宣言する。その声は高らかに、誇らかに、全軍にひびきわたるのだった。

◆◆◆

いやあ、閻行は強敵でしたね。

一騎打ちは盛況のうちに幕を閉じ、その場で、関中軍閥との交渉もすんなり終わった。

関中側は一万の民を洛陽に送りだし、曹操側はあぶみと鞍のセットを百組提供する、という形で話はまとまった。これ以上ない成果といっていいだろう。人身売買といってはいけない。この時代、民を無料ただで引っ張ってくることすら、めずらしいことではないのだから。悲しいけど、これが乱世のならいなのよね。

「お疲れさん。孔明が手伝ってくれたおかげで、いい結果を持ち帰ることができそうだ」

長安にもどったその夜、私は鍾繇と酒を酌み交わしていた。

繇は上機嫌に酒杯をかたむけ、笑った。

「もっとも、あんな危険な真似は二度とごめんだがね。いつ韓遂軍と馬騰軍が牙をむいてくるかと、気が気でなかったわ」

「虎穴に入らずんば虎子を得ず、というでしょう。先人にならっただけですよ」

私はしたり顔ではったりをかました。計算どおり、ということにしておく。

「ふむ。おまえさんも、ずいぶん大胆なことをするようになったもんだ。……弟子をとって変わったか?」

「仲達のことですか……」

長安にもどる道中、司馬懿は、「先生の真意を見抜けなかった、おのれの不明を恥じるばかりです」と、しきりに感服していた。彼がいうには、私が一騎打ちを推し進めたり、賭け事に参加したりしたのは、すべて民心融和のためであったそうな。そういう解釈もあるのか、なるほど?

「彼は、優秀な若者ですよ」

私はそういいながら、煮豆を箸でつまんだ。

「うむ。あれは凡百に埋もれるような人材ではないだろうな。わしより出世するかもしれん」

繇はうなずいて、竹簡をひらいた。と、眉間にしわを寄せる。

どうしたのだろう? 私の視線は、兄弟子の顔と、彼のかたわらに存在する巻物の山を行き来した。

「む、これか? 読んでみればわかる」

繇は、なかば放り投げるように竹簡をよこした。ぞんざいなあつかいに驚きつつ、私は書を一瞥する。

「これは、邕さいようどのの書!? ……いや、偽書ですかね」

邕が書いたにしては、いびつな文字だ。本物とは思えない。

「うむ。長安は蔡邕どのが亡くなられた地だ。彼の書がどこかに残っているのではないかと、めぼしい廃屋を部下に探させておいたのだが、……彼の名を騙った偽物ばかりでなぁ」

邕は、董卓の破滅に巻きこまれて獄死した、博覧強記で知られた政治家である。書物の校訂に多大な貢献があり、有名な書家でもあり、私や鍾繇のような書にたずさわる者にとっては、手本ともいうべき人物だった。三国志では初期に退場してしまうので、あまり存在感はないかもしれないが。

「で、もし本物が見つかったら、鍾兄はどうするおつもりで?」

「…………」

繇は不思議そうな顔をして、しらばっくれた。当然のことながら、本物の蔡邕の書であれば価値は高い。本来なら、朝廷におさめるのが筋というものだ。

「……くすねるつもりですね?」

私はあらためて尋ねた。断定するように。鍾繇の目が泳ぐ。それって、犯罪ですよね? あなた、警視総監とか警察庁長官とか、そういう立場の人ですよね?

「そうそう、優秀な若者といえば、馬超も見事な武者ぶりだったね」

「はぁ」

強引に話を変える鍾繇に、私は呆れた。

「孔明が、『錦馬超』といいあらわしたのも見事だった。彼の英姿が目に浮かぶようではないか。うむ、しっくりくる。じつに、すばらしい表現だ」

「はぁ。それはどうも」

そりゃ、しっくりくるでしょうよ。遠い未来まで、錦馬超という異名は残るのだから。なんだか、私が命名したみたいになってしまったけれど、馬超も馬騰もよろこんでいたから、よしとしましょうか。

警察権力の腐敗から目をそむける、わけでもないが、私はなんとなしに西の窓を眺めた。乾いて澄んだ星空の下、馬騰陣営では、馬超の勝利を祝って宴がひらかれているはずだった。

◆◆◆

馬騰軍では一兵卒にまで酒と膳が出され、大宴会がくりひろげられていた。本陣の天幕の中は酒のにおいが充満し、飲めや歌えと騒いだあげく、酒壺どころか酔いつぶれた人間まで転がっているありさまである。

まだ正気をたもっている者たちが宴席に興じていると、ふいに天幕の出入り口が揺れうごき、彼らはそこに思いがけない顔を見た。天幕に入ってきたのは、今回の長安行きに同行していないはずの、馬騰の三男・馬鉄ばてつであった。

「親父っ、超兄貴っ!」

敷物の上にあぐらをかいていた馬騰が、目を丸くする。

「鉄? どうしておまえがここにいる」

「どうしたもこうしたもあるもんか。たった千ぽっちの兵しかつれていかなかったから、心配になって、追いかけてきたにきまってる」

「千ぽっちというが、我々は戦をしにきたわけではないのだぞ。本拠地の守りを手薄にしてどうする」

「でも」

「鉄、おまえには城を守るよう、命じていたはずだ」

「そ、それは、きゅう兄貴と龐ほうとくがいれば大丈夫だろ」

馬鉄の声がすこしうわずった。追及をさけるように、

「それより、超兄貴だ。あの閻行に勝ったんだって!?

「おう」

酒をあおりながら、馬超が返事をした。すでに酔いがまわり、体が火照っているのだろう。衣服をはだけて、上半身をむきだしにしている。

「あれが閻行から奪ってやった戦利品、勝利の証だ」

馬超があごをしゃくった先に、黄金の槍が飾られている。虎頭湛金槍──関中一の勇士の証、と閻行が自慢していた槍である。

「やった、さすが超兄貴だ! あの野郎、図体よりでかい面してやがるから、気にくわなかったんだ。さすがだぜ!」

小躍りしてよろこぶ馬鉄を見て、馬超が得意げに笑う。

「ふふふ。奴のくやしそうな顔を、見せてやりたかったな」

「それだけではないぞ。名士の胡昭どののことは、鉄も知っているな?」

馬騰が満面の笑みでつづけた。

「胡昭? あの孔明先生のことか?」

「そうだ。その孔明先生が、超の武勇をご覧になって、『錦馬超』と称えてくださったのだ」

「あの孔明先生が!? すげえ、すげえよ超兄貴っ!」

はしゃぐ弟に気をよくして、馬超は立ちあがった。今宵の彼は最高の気分である。不倶戴天の敵に勝利して、天下の名士に認められた。まさしく竜門をのぼった心地であった。

口笛、指笛、はやしたてる声。

馬超は右手で黄金の槍をとると、それを頭上で水平にかまえた。そして、たくましい三角筋と広背筋、ひきしまった腹斜筋を見せつけながら、左腕に力こぶをつくってみせるのだった。

建安四年(一九九年)三月、鍾繇との交渉の席で、馬騰と韓遂はどちらが関中の代表者となるかで争いになった。鍾繇の離間策であったという。そのとき胡昭がふらりとあらわれ、馬騰軍と韓遂軍の不和を解消するために、馬超と閻行の一騎打ちを提案した。かねてより辺境差別問題に関心を寄せていた胡昭が、余興を利用して鍾繇側と関中側の融和をはかろうとしたのだといわれる。

この一騎打ちに勝利した馬超は、胡昭に錦馬超と評され、その武勇を称賛された。馬超はいたく感激し、曹操に敗れて故郷を追われ、張魯ちょうろや劉備にくだってからも、涼州の錦馬超と名乗りつづけた。

馬超 三国志全書