第三章 涼州の若獅子

建安四年(一九九年)三月のある日、郭嘉から手紙がとどいた。手紙といっても木簡である。高価な紙ではなく安価な木簡を使っているのは、「飲む、打つ、買う」のせいで、散財しているからだろう。さっそく巻物をひらくと、カラカラッという小気味よい音とともに、ミミズが組体操をしているような文字があらわれた。ひどい文字である。郭嘉がとくに筆下手ということもないので、あきらかにふざけている。冒頭はだいたい、こんなふうに解読できた。

「孔明パイセン、おひさしぶりんご!」

私はクルクルと巻物を閉じた。

「……ふぅ。郭嘉め、なんという奇怪な文字を書いてくるのやら」

これが紙だったら、紙飛行機にして窓の外へ飛ばしていたかもしれなかった。まさか、そこまで見越して木簡にしたのだろうか。いや、まさかね。

「なにを遊んでいるのか知らないが、……ううむ、前世の黒歴史がよみがえるようだ」

中学生のころ、自分のサインを考案して練習したこともあったっけ。うへへ。

……気を取りなおして、私は郭嘉の挑戦を受けて立つことにした。この私に崩し字で挑もうとは十年、……いや、一八〇〇年早いのだ。崩し字になんか、絶対に負けないッ!

「ええと、なになに。『呂布を倒したことで、徐州にいた陳長文ちんちょうぶんがもどってきました』とな。ふむ」

陳長文、陳羣ちんぐんのことだ。九品官人法という官吏登用制度を制定することによって、三国志どころか歴史の教科書に名を残すことになる、超大物政治家である。

天才肌の郭嘉は、同年代の少年たちと話が合わなかったようで、年上とつるむことが多かった。それが私や荀彧であり、陳羣だった。祭りやなにかの集会があるたびに、遊び歩いて羽目をはずそうとするのが郭嘉という男で、行動をともにしてそれにブレーキをかけるのは、年の近い陳羣の役目だった。

注意したり、叱りつけたり、ときには逃げる郭嘉を追いかけまわしたり。性格は正反対でも天才同士、どこか馬が合ったのだろう。なんだかんだ文句をいいながらも、陳羣はつきあいをやめようとはしなかったし、郭嘉のほうも忌憚のない態度で接していたように思う。

「さて、次は……と。『あいつ、新入りのくせに、オレの品行をいっつも批判してくるんすよ。マジうぜえ』、さっそくかい!」

にしても、郭嘉よ。悪態を書きつらねているが、陳羣が帰ってきたうれしさは隠しきれていないぞ。心なしか、ミミズ文字が胸を張ってイキイキとして見える。ふふふ、私でなきゃ見逃しちゃうね。

「この件につきましては、全面的に陳羣に協力したいところですが。さて、最後は。『例のモノができあがりました。めずらしい人が送りとどけると思いますよ』、……ほう?」

例のモノとは、乗馬時に足をかける馬具、あぶみのことだ。私はかつて、下馬する際に足をくじいてしまい、とても痛い思いをした。その帰り道、涙をこらえながら、天に誓ったのだ。この悲劇をくりかえしてはならない。あぶみを開発しよう、と。

けれど、あぶみとなると、単なる馬具ではすまされない。革新的な兵器として、軍事利用されるのは明白である。そんなものを勝手に制作したら、おえらいさんににらまれてしまう。というわけで、折よく訪ねてきた郭嘉におおまかな設計図を渡して、開発を依頼しておいたのだ。

「なるほど、そういうことか」

なぜ、郭嘉がふざけた手紙を書いてよこしたのか。内容に目を通して、理由がわかったような気がする。

「こんないいかげんな手紙に、軍事機密に関する情報がのっているなんて、誰も思わないわな」

私は呆れながら、手紙を見る。この時代、意外と郵便制度は発達しているのだが、手紙の紛失はちょくちょくある。そのため、第三者に見られることも想定しておかなければならないのである。

極秘裏に進んでいたあぶみの開発も、試作品ではなく完成品が私にまわってくる時点で、最終局面とみていいだろう。すでに量産体制をととのえ、軍に配備する段階まで到達しているはずだ。

ここまでくると、情報どころか実物の流出も時間の問題である。とはいえ、なにも自分のところから情報を流出させることもあるまい。用心するに越したことはない。この手紙も消去しておこう。私は小刀を取りだして、木簡の文字を削りはじめる。

「それにしても、めずらしい人ねえ。誰だろう? ……まぁ、曹操でなければいいか」

前フリじゃないよ。曹操だけは勘弁な。


それから五日後。我が家を訪れたのは、私のよく知っている人物だった。

「やあ、孔明。ひさかたぶりだね。わしだよ、わし」

「これはこれは、鍾兄しょうけい、おひさしぶりです」

私は兄弟子の顔をまじまじと見て、あいさつをした。年のころは五十ほど。ひたいには深くしわがきざまれ、頬にはやわらかい笑みが浮かんでいる。彼の名は鍾繇、字を元常げんじょうという。

郭嘉の手紙にあったとおり、たしかにめずらしい人物だった。

繇は司隷校尉という高官についているため、多忙な日々を送っている。私に会いにくるほど暇ではなかっただろう。私からもとりたてて用事はなかったので、手紙のやりとりこそあったものの、長らく顔を合わせていなかった。

繇のうしろには兵が三人、四頭の軍馬をつれて、いかにも護衛らしくひかえていた。司隷校尉のお供に選ばれるだけあって、人馬いずれも熟練の気配をただよわせている。ちなみに、私の背後には司馬懿が無表情に突っ立っているので、迫力ならこちらも負けていない。

「そちらの方々を、厩舎に案内してさしあげなさい」

私が指示すると、家人がうなずいて、護衛たちを裏手へと案内する。

彼らの物々しい姿に、ふと思う。昔、私が師のもとで書を学び、鍾繇が新米官吏だったころとは立場がちがう。いまや私の兄弟子は、苦境の天子を救って、長安脱出を成し遂げた、漢室の功臣である。自衛隊の一方面におけるトップと、警察庁長官を兼任するに等しい大物なのだ。

いくら新兵器とはいえ、あぶみをとどけるためだけに、わざわざこんなところにまで足をはこぶだろうか?

お供の相手は家人にまかせることにして、私と鍾繇、司馬懿は主屋に上がった。

「孔明は昔から、型破りなことを思いつく男だったがね。このあぶみという馬具は、じつによくできている。心の底から驚かされた」

繇は目の前に置いたくらをぽんぽんと叩いた。その鞍は従来のものより、いくぶん複雑な形状をしている。あぶみをつけるために、鞍の形から見直さなければならなかったのである。

「ここへの道中も、ずいぶん楽に移動できた。軍の連中が大騒ぎするわけだ」

といいつつ、鍾繇はわざとらしく両手を広げた。

「おお、孔明よ。ついに、才能が花ひらいたか。しかし、惜しいかな。その真の才は書ではなく、発明にあったのだ。……いまからでも遅くはない。書家の看板をたたんで、本格的に発明家を名乗ってみるかね?」

ニヤニヤ笑う兄弟子に、私は肩をすくめてみせる。

「まあ、発明のほうが儲かっているのは認めます。なにせ、軍が相手ですので。……で、まさか皮肉をいうために来たわけではないでしょう?」

さらに、突き放すように、

「もしそうなら、さっさと帰ってくださってけっこうですよ。洛陽ではあなたの部下が、首を長くして上司の帰りを待ちわびていることでしょう。決裁待ちの書類を、両手にめいっぱい抱えながらね」

「はっはっは。……はぁ、恋文をもった美女と交換できないもんかのぉ」

繇は肩を落として嘆いてから、ひとつ首を横に振った。

「よし、本題に入るとしよう。わしの仕事を、ちょっと手伝ってもらいたいのだ」

「仕事とは?」

「人さらいだ」

私の問いに、鍾繇はきわめて簡潔に答えた。承諾しようのない返答だった。

「仲達。帰路につく準備をするよう、お供のかたに伝えてきなさい」

「はっ」

「まあ待ちなさい、待ちなさい」

席を立とうとする司馬懿を、鍾繇はあわてて制して説明する。

「董卓軍によって荒廃した洛陽を復興するため、わしらは尽力しておる。だが、まだ人手が足りん。関中に流出した洛陽の民を、故郷へ帰したいのだ」

「そうなら、そうといえばよろしい。鍾兄、あなたはたまに過激な発言をなさる」

私はぴしゃりと苦言をていした。

「関中の諸将は反発するのではありませんか? 人手不足で困っているのは、彼らも同じであるように思うのですが」

と訊いたのは、座りなおした司馬懿である。彼の疑問は事態の本質を突いていたのだろう。鍾繇はうれしそうに口元をほころばせた。

「そう、そのとおりだ。だから、人さらいといったのだよ。関中をまとめている韓遂かんすい馬騰ばとうと交渉せねばならん。こちらとしても、できるかぎり誠意をしめすつもりだ。そこで、このあらたな馬具と、その開発者である孔明先生の出番となるわけだ」

繇はそういって、茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせた。


私が手伝うことになった仕事は、要約すると次のようになる。

洛陽復興の人手を確保するために、関中から人を移住させたい。その見返りとして、関中諸将にあぶみを提供する。

最新兵器をそんな簡単に譲渡していいのか、と思わないでもないが、そもそもあぶみの肝は、既存の常識にとらわれない斬新な発想にある。模倣品をつくるのはむずかしくないのだ。いずれ陳腐化するなら、価値が高いうちに交渉に使ってしまおう。合理的な曹操らしいといえば、らしい判断だと思う。

そうなると、関中軍閥はうってつけの相手だった。関中軍閥の主力は、精強な騎兵軍団として知られる涼州兵である。彼らは馬を愛し、馬とともに生きる、この国きってのウマおのこだ。あぶみが驚異的な馬具であることを、ちゃんと理解してくれるはずだ。

また、地理的な要因もある。四方を敵に囲まれる曹操軍には、関中方面で戦をする余力などない。もし、関中軍閥と敵対した場合、おそらく曹操は長安を放棄して、函谷関かんこくかんの守りを固めるだろう。どうせ野戦にはならないので、あぶみによって強化された敵騎兵と戦うことになる可能性も低いのである。

私と司馬懿はいったん洛陽にむかった。ひと足先に洛陽にもどっていた鍾繇と合流し、五百の兵とともに長安へ出発する。韓遂と馬騰がやってきたのは、私たちが長安に入った翌日のことであった。

「鍾繇どの、こちらは?」

と問いかけてきたのは、ひと癖もふた癖もありそうな男だった。年齢は六十近くに見える。

「おぬしらも名は聞いていよう。彼は、わしの弟弟子の胡昭だ」

「おおっ、あなたが胡昭どのか! ようこそ、関中へ。私は韓遂、字を文約ぶんやくと申す」

つづいて、韓遂より年下だろう、堂々とした男が名乗る。

「お初にお目にかかる。馬騰、字を寿成じゅせいと申します」

「胡昭、字を孔明と申す。よしなに」

私は羽扇を揺らして、微笑をたたえる。意識するのはモナ・リザ、うふふ。

どうして、私が余裕をかましていられるのか? この場に顔を出した時点で、私の仕事は終わったも同然だからである。

私が長安まで来たのは、関中の代表者と交渉するためではない。あぶみに箔をつけるためなのだ。現代でも、ミ○ュランの星を獲得したら、そのレストランはがぜん注目を浴びるようになるだろう。それと同じで、「最新の馬具」よりも、「胡昭が発明した最新の馬具」のほうが、訴求力が高いのである。

くわえて、「胡昭が発明した最新の馬具」という名にはもうひとつ、交渉を有利に進める効果があった。あぶみの有用性は歴史が証明している。この交渉の結果にかかわらず、韓遂たちはあぶみの模倣品をつくりはじめるだろう。だからこそ、彼らは交渉を決裂させるわけにはいかない。決裂してしまうと、「名士の発明品を受けとらなかったくせに、偽物をつくっている」という悪評が立って、彼らの信望に傷がついてしまう。

するとどうなるか。韓遂や馬騰だって、関中での立場は盤石ではない。中央の名士たちとの関係が悪いとみれば、とって代わろうとする者はいくらでもあらわれるのだ。

というわけで、私の仕事はおしまい。気楽な立場になると、交渉相手の韓遂と馬騰よりも、その背後に立つ護衛のほうが気になってくる。韓遂の護衛は壮年の偉丈夫だ。そちらはまあ、いったん置いとこう。注目すべきは、馬騰の護衛のほうである。

フランスあたりの映画俳優を彷彿とさせる白皙はくせきの美貌と、みずみずしいたくましさを兼ねそなえた若武者である。白銀の鎧に、獣面模様の帯、兜には獅子の金具がついていて、これでもかってくらい派手なのに、衣装に着られている感じはまったくない。

……これ、馬超ばちょうじゃね?

馬超といえば、蜀漢の五虎大将のひとりにして、三国志の中盤で大活躍する猛将である。トレードマークは獅子に噛みつかれているような兜だ。兜は微妙に一致しないけど、いちおう獅子の文様はあるし、なにより、ただのモブキャラが出していい存在感じゃなかった。武勇に秀でた馬超が、父の馬騰を護衛している可能性はけっこう高いと思う。

そんなふうに、私が推定馬超をこっそり観察しているあいだにも、鍾繇は話を進めていた。

韓遂は、司馬懿がもっているあぶみ付きの鞍を、じろじろ見ながら、

「……なるほど。関中の民を洛陽に連行する。見返りとして、そちらはこの馬具を供与する。ということですな」

「さよう、さよう」

うなずく鍾繇を見て、韓遂は渋い顔をする。

「しかしですな。長年の争乱によって荒廃しているのは、関中とて同じこと。洛陽の復興は順調に進んでいると聞いているが、それでもこの地の民をつれていこうというのか?」

「いやいや、順調といっても、形になってきたのは市街のみよ。洛陽周辺には、いまだに耕作を放棄した土地がありあまっておる」

「ふうむ。……市街の次は、農地の復興に力を入れるつもりとな。しかし、洛陽盆地は広い。必要な民の数は、百や二百ではすまぬであろう」

韓遂は難色をしめした。盆地に位置する洛陽は、天然の山と人工の関によって守られており、その盆地全体を巨大な都市圏としている。盆地全体となれば、農地の面積は広大だ。その広さに応じて、必要な農民の人数も多くなる。あまり大勢つれていかれては、関中側だって困るだろう。

「うむ。だから、関中の代表者たる、おぬしらと話しあっているのだ」

繇が肯定すると、韓遂は唇の端をつりあげる。

「鍾繇どの。確認しておくが、まだ洛陽の宮城を再建するめどは立っておらぬのだな?」

「いかにも」

「漢室の臣として提言する。陛下のためとあらば、宮城の再建を優先すべきであろう」

「民の生活を優先せよ、と陛下は仰せである」

繇の言葉に、韓遂の目がぎろりと光った。

「はたしてそうかな? 宮城の再建をあとまわしにしているのは、曹操の要望ではないのか? 宮城を廃虚のままにしておけば、陛下が洛陽にもどられることはない。天子をみずからの本拠地である許都にとどめおこう、という腹積もりが透けて見えるわ」

正解。さすが韓遂、何度も反乱をくりかえしてきて、これからも反乱する予定の男である。生粋の反逆者トリーズナーから見れば、洛陽復興を誰が差配しているかなど明白にちがいない。だが、鍾繇も一筋縄でいくような人物ではなかった。

「いやいや。宮城の再建には、人も金も、時間もかかる。民の暮らしもおぼつかない現状でおこなえば、怨嗟の声はいや増すであろう。まずは、豊かな洛陽を取りもどすのが先決よ」

と、鍾繇はまったく動揺を見せず、それどころか人の悪い笑顔を浮かべた。

「それにだな。わしの見たところ、あぶみを提供することに、曹司空はあまり気乗りしていなかったようだぞ」

「む?」

韓遂は、相手の真意を探るような目つきをした。曹操が望んでいなければ、この交渉自体がおこなわれていないだろう、という顔だった。鍾繇は両眼に冷笑をひらめかせて、

「なにせ、曹司空はあぶみをたいそう気に入ったようでな。みずからの親衛騎兵隊に、あぶみをそろえて、天下にならぶものなき最強の騎兵隊をつくると意気込んでおられるのだ」

それでも、曹操は関中軍閥との友好を優先させた。最強なんてものは幻想だと知っているからだろう。呂布は負けた。かの覇王、項羽こううですら敗れたのだ。まして、あぶみによる軍事的優位なんて、早ければ一、二年で失われる。長く見積もっても、せいぜい五年といったところだろう。

「ほう、最強の騎兵隊か。涼州の兵をあずかる身として、その言葉は看過できんな」

「我ら涼州兵、馬のあつかいにおいて、おくれをとるつもりはない」

韓遂と馬騰が、不快げに眉根を寄せた。

最強の騎兵という言葉が彼らの矜持を刺激するのを、もちろん、鍾繇はわかっていて発言している。私の兄弟子は、世評では人格者とされているが、私はその意見にくみさない。美しい文字を書くから、心根まで美しいと思ったら大まちがいである。それを私に教えてくれやがった張本人が、他でもない、鍾繇なのだ。

「いかにも、いかにも。おぬしらの言はもっともよ。涼州は、異民族の侵略をふせいできた最前線の地である。その兵は屈強にして、馬のあつかいにも習熟しておる。涼州兵こそ、最強の騎兵集団であると、誰もが知っていよう。……だがな」

繇は声を低めてつづける。

「曹司空の親衛騎兵隊に選ばれる条件が、驚くべきことにな。『馬を走らせながら、左右のどちらにも矢を放つことができる』というものなのだ。その水準の腕前となると、騎射に長けた涼州兵とてそうはいまい」

繇の声には、嘲笑一歩手前の、愉悦のひびきがあった。墨汁でも飲んだのか、と疑わずにはいられない腹黒さである。……なんだか懐かしい。この人、えらくなっても全然変わってねえや。

「何をいうかと思えば、ばかげたことを。それほどの技量があれば、一兵卒などやっておらんわ」

話にならないといわんばかりに、韓遂は呆れ顔をした。鍾繇は勝ち誇るように鼻の穴を広げて、

「ところが、あぶみを使えば、それが可能となるのだ。その精鋭部隊は、人員の選抜も武具の配備も、ほぼ完了しておる。虎豹こひょう騎という部隊名も決まった。最強の騎兵隊、虎豹騎がお披露目される日も近いであろうよ」

おっ、虎豹騎だ。たしか、曹一族の曹純そうじゅんが率いる親衛騎兵隊だったかな。まだ、組織されていなかったみたいだ。

「……むむむ」

馬騰がうなった。涼州兵を凌駕する騎兵集団が、現実のものとなりつつあるのだ。心穏やかではいられまい。そんな馬騰を韓遂が叱咤する。

「何が、むむむだ! 馬騰、しっかりせい! そこまでいうのなら、馬術にすぐれた涼州兵にとって、あぶみがどれほど役に立つのか。試させてもらおうではないか。よろしいかな、胡昭どの?」

「よしなに」

悠然と答えつつ、私は気づく。「よしなに」の使いかたって意外とむずかしい。「よろしく」よりも「よきにはからえ」に近い高慢な印象をもたれかねない。気をつけるとしよう。

「おお、感謝いたす。我らとて、陛下のご意向に逆らうつもりはないのだ。まずは、あらたな馬具がいかほどのものか、たしかめようではないか。そのうえで、こちらが受けとるあぶみの数と、そちらが洛陽につれていく民の数、つりあいがとれるように決めればよかろう」

「うむ。それでよかろう」

韓遂と鍾繇が合意したところで、馬騰の護衛が小声でいった。

「父上。そのあぶみ、私にも試乗させていただきとうござる」

「ああ、私もそう考えていたところだ。胡昭どの、これは私のせがれでな。親の欲目を抜きにしても、武芸については光るものがある」

「ほう」

馬超かな? 馬超だろ!

護衛は黒目がちの眸を輝かせて、名乗りをあげた。

「姓は馬、名は超、字を孟起もうきと申します! 高名な胡先生にお会いでき、光栄に存じまするっ!」