「塀の陰にこそこそ隠れるより、塀の上で堂々としているべきだ。おそらく、彼はそう考えたのであろう」

「いくらなんでも、塀の上では動きにくいだけだと思うのですが……」

「うむ。しかし、それがとても価値があることのように、彼には思えたのであろう」

司馬懿は、困惑を嘆息で打ち消して、

「小僧、ここが誰の屋敷かわかっているのか」

と少年を脅しつけた。

「もちろんだ。オレの名は皇甫鑠こうほしゃく。高名な学者が陸渾にいると聞いて、遠路はるばる訪ねてまいった!」

少年、皇甫鑠は声高に名乗った。

ふと気づいて、私は地面を見る。そこに転がっている竹槍は、槍にしては短すぎるような。ちょうど剣ぐらいの長さだろうか。拾いあげてみると、意外と重さがあるというか、中身があった。空洞ではない。よくよく見ると、先端にかじった跡がある。

……これ、竹じゃない。藷蔗しょしょ、つまり、さとうきびだ。


「この家で、一番うまい茶を飲みたい」

客間に案内するなり、皇甫鑠がわがままをいった。この時代の茶は、茶葉にミカンの皮などをまぜて煮出すものだ。どのように配合するか。いれる人の経験や感性によって、まったく別物になる。だから、私が茶をいれることにした。

それにしても皇甫鑠、なんというクソガキだろうか。私は腹を立てていた。ただのさとうきびだったとはいえ、いきなり攻撃してくるとは非常識にもほどがある。もし先端をとがらせてあったなら、司馬懿はただじゃすまさなかったはずだ。

その司馬懿はというと、何事もなかったかのように平然としていた。それがまた、妙に威圧感があっておそろしい。私の前だから、遠慮しているのだろうか。それとも、叱りつけるのは私の役割だと判断しているのだろうか。だとしたら一発かまして、ビシッと決めたほうがいいのかもしれない。

だがしかし、なんだかあの少年からは、厄ネタの気配をひしひしと感じるのだ。私の知る範囲では、三国志に皇甫鑠なんて武将は存在しない。特段危険視するような相手ではないはずだが……厄ネタの匂いがプンプンする。悩ましい。

腹を立てつつ、悩みつつ、私は台所にむかう。すると司馬懿が追いかけてきた。

「先生、ちょっとお耳を」

「む? おぬしにはあのク、少年の相手をまかせていたはずだが」

「気がかりなことがありまして、すこし席をはずしました。……先生は、あの少年をどう思われますか?」

「どう思う、といわれてもだな。単なる名家の子息ではなさそうだが……」

私は眉間にしわを寄せた。声をひそめて問い返す。

「仲達、おぬしはどう思うのだ?」

「皇甫鑠と名乗っていましたが、十中八九、偽名でしょう」

「ほう……」

「私の憶測ではありますが……。彼は曹操の嫡子、曹丕そうひではないかと」

「なんと」

どういうことだってばよ。

「かつて官憲に追われたとき、曹操は皇甫と名を偽り、難を逃れようとした。と聞いております」

「ふむ」

「また、病没した曹操の次男が、鑠という名であったはず。そこから皇甫鑠と名乗っているのではないでしょうか。曹丕は武者修行を口実に、各地をうろついているらしいので、まずまちがいないかと」

ほえ~。あぶなかった。曹丕といえばの初代皇帝になる人物である。いや、あぶない、あぶない。あとちょっとで、のちの皇帝陛下をクソガキあつかいしてしまうところだった。軍師の助言とは、かくもありがたいものか。さすが司馬懿よ。

「……となると、どうしたものであろう?」

できれば、曹丕に嫌われるのはさけたいのだが。

「話によれば、曹丕は甘いものに目がないそうです。しょせんは子ども。蜂蜜でも持たせてやれば、悪いようにはなりますまい」

「なるほど、蜂蜜か。その手でいってみよう」

フフフ。さすが司馬懿、頼りになる男よ。さす司馬!

ひきつづき司馬懿に皇甫鑠、もとい曹丕の相手をまかせることにして、あらためて台所にむかう。蜂蜜の小壺を手にとったところで、私は愕然とした。中身がすっからかんだったのだ。忘れていた。蜂蜜は醸造家に全部あずけて、蜂蜜酒にしている最中だった。

郭嘉ァァァァァッ!

私は許都の友人に呪詛じゅそをとばした。だって、郭嘉が悪いのだ。なんべんいっても、不健康な生活をあらためようとしないから。郭嘉は体が丈夫ではないのに、ハードワークも遊び歩くのもやめようとしない。稀代の天才軍師が早逝してしまうことを知っている私は、なんどもなんども体をいたわるように説得した。ところがあの野郎、やたら頑固で取りつく島もない。

よかろう。そっちがその気なら、食事療法から上陸してみせようではないか。そう考えて、酒のかわりに滋養のある蜂蜜酒を飲ませよう、と計画しているところだったのである。タイミングが悪いにもほどがある。

他に甘いものはないか。台所をざっと見まわす。砂糖はない。高価だし、ほとんど出まわらないし、贅沢品だと思って買っていなかった。水飴はあるが、あまり味はよくないし、そもそも貴人に出すようなものではない。

かくなるうえは、なにかつくるしかないか。決意したとたんに、私の目に輝いて見えるものがあった。台所の片隅で、「ここにいるぞ!」とりんごと梨が自己主張していたのだった。


えー、というわけで、ジャムをつくりたいと思います。アシスタントは司馬懿さんと曹丕くんです。衛生的に調理をおこない、かつ衣服も汚さないように、司馬懿にはエプロンを、曹丕には私と同じ割烹着かっぽうぎを着用してもらっています。

「めずらしい料理をつくると噂には聞いていたが、どうしてオレまで……。なんだよ、『じゃむ』って……。なんだ、これ?」

曹丕は不満と疑問に口をとがらせながら、小ぶりの中華鍋を顔の前までもちあげている。包丁を握り、もう片方の手をりんごに伸ばそうとしていた司馬懿が、曹丕を横目で見る。

「それは鍋だ。孔明先生が発明された調理器具で、かなえより繊細な調理が可能となる」

「ふぅん、……鉄でできているのか?」

「鍛冶工房に直接足をはこんでつくらせた、鉄を叩いて打ち出したものだ。小型の鍋だから、小さいほうの掛け口を使うといい」

鉄鍋をしげしげ見つめる曹丕に、司馬懿は心なしか得意そうに説明した。

私は不安をおぼえた。司馬懿はここで何を学んでいるのだろう? いや、私は彼に何を教えているのだろうか? エプロン姿の司馬懿が、慣れた手つきでりんごの皮をくるくるむきはじめる。それを見ている私の胸中では、不安がぐるぐる渦巻いているわけですが。……気にするのはよそう。司馬懿なら勝手に学ぶべきことを学ぶでしょう。

曹丕がかまどの焚き口にまきをくべる。私は私で菌桂きんけいの品定めをする。菌桂とは小枝の樹皮を乾燥させてつくる、シナモンスティックみたいな香薬のことだ。できるだけ風味のよいものを選ぼうとしていると、曹丕のぼやき声が聞こえてくる。

「果物をぐちゃぐちゃにするなんて台無しじゃねえか。梨はそのまま食べたほうがいいって。りんごはどうでもいいけどよ」

どうやら、梨とりんごのあいだには大きな格差があるようです。この時代のりんごは小粒で酸味が強すぎるとはいえ、りんごは泣いていいと思う。

「うむうむ。たしかに、りんごはすっぱいな。しかし、だからこそジャムにする価値があるというもの」

と、私はりんごをフォローする。

土産にジャムをもたせたいだけなら、できあがっているものを渡せばいい。だが、そうはいかない。曹丕にジャムをつくらせる。そこに私の思惑があるのだ。

狙いはふたつ。ひとつは、調理実習やキャンプでつくったものは、おいしく感じるというアレである。もうひとつは、司馬懿の将来に関することだ。

毎日のように司馬懿と顔をあわせていると、仕官の話題になることもある。いずれ出仕するつもりだと聞いたときは、心底安堵したものだ。しかし、私の弟子になった分、本来の歴史よりそのタイミングは遅れるとみていいだろう。

じつは司馬懿がいつ出仕して、どのような功績をあげて出世したのか、私はよく知らない。知っていることといえば、才能を危険視されて曹操には重用されなかったことと、次の代で大出世を遂げたことだ。次の代、すなわち曹丕の代である。

ここで共同作業をすることで、司馬懿と曹丕の親密度がアップしないかな。それで出世レースの出遅れを取りもどせたらいいな、なんて画策しているわけです。

もとからドラフト一位の司馬懿は、私のコネを使ったところで、それ以上にはなりようがないので。だったら、他の手を打とうじゃないか。司馬懿の出世ペースを元通りにするためなら、私はお料理教室だってひらいちゃうぞ。

ちょっとした期待をこめてこっそり様子をうかがっていたら、かまどが盛大に火を吹いた。曹丕が薪をポンポン投げこむからであった。

「火の勢いはもうすこし弱めにな。その服が料理用といっても、あくまで清潔にするためであって、燃えない布でできているわけではないぞ」

私の忠告に、曹丕は顔を上げてこちらをむいた。

「……燃えない布って、火浣布かかんふのことか?」

「うむ? そうだな」

火浣布とは火に投げいれても燃えることなく、汚れだけが焼け落ちるという、伝説の布である。火山に住んでいる火ねずみの毛で織られる、とされている。

「へえ……。皆が称賛するから、どんな人物かと思えば、こんなもんか。とんだ期待はずれだったな」

曹丕は白けた表情を浮かべて、立ちあがった。

「がっかりだぜ。まさか、火浣布などという、でたらめな話を信じているとはな。あんたもしょせん、そこらの腐れ儒者と同類だ。世間の目は騙せても、このオレの目はごまかせねえ」

「我が師に対する暴言はゆるさん。取り消してもらおうか」

包丁を片手に、司馬懿が静かな声ですごんだ。曹丕は、両手の薪をさながら二丁拳銃のように回転させつつ、鼻先で笑う。

「じゃあ、なんだ? 火ねずみなんて生き物が、本当にいるとでも思っているのかよ?」

司馬懿の冷えたはがねを思わす視線と、曹丕の燃えあがる炎のような視線が交錯する。まさに一触即発、親密度アップどころか、敵対関係が発生しそう。

やめて! 私のために争わないでッ! なんていってる場合じゃねえ!!

「まあまあ、落ち着きなさい。火浣布も火ねずみも存在しない。皇甫鑠、おぬしは、そういいたいのであろう?」

「当たり前だ。燃えない生き物なんていてたまるか」

私が仮の名を呼ぶと、偽名の少年は不快感をむきだしに吐き捨てた。

「ふむ。……私の意見は少々ちがうな。火ねずみが存在しないことには同意するが、火浣布は実在してもおかしくない」

「……どういうことだ」

曹丕は眉をつりあげた。のちの皇帝陛下に矢のような視線を突き刺されようが、私には余裕があった。火浣布の正体は想像がつくのだ。

「伝承では、火浣布は火ねずみの毛の織物とされているが、私の見解は異なる。おそらく、火浣布とは、綿わたのような石を紡いで織られたものであろう」

思いがけない言葉だったにちがいない、曹丕はまばたきした。

綿のような石、その名のとおり石綿は、繊維状になった石のことである。別名をアスベストともいう。耐熱性にすぐれ、建築素材などによく使用されていたのだが、人体への悪影響が判明して社会問題にまでなった、いわくつきの物質である。

「石とは不思議なものだ。玉のように美しいものもあれば、溶けて銅や鉄を生みだすものもある。それらの中で、もっとも不思議な石とは、どのような石であろうか?」

「……私は、燃える石だと思います」

私の問いかけに、期待どおりの回答をしてくれたのは司馬懿で、曹丕は口をへの字にむすんでいる。

「うむ、そのとおりだ。燃えないはずの石が燃える、なんとも不思議ではないか。自分の目で見なければ、とうてい信じられないであろう」

「知っている。黒い石のことだろ」

むすっとした顔のまま、曹丕はいった。黒い石──涅石でつせきだとか石墨せきぼくだとか、呼びかたはひとつじゃないが、石炭のことだ。この時代でも、石炭は少量ながら使用されている。

「けれど、綿のような石なんてあるのか? どうしてそんな奇抜な発想になるんだ?」

少年の疑問はもっともである。私は物知り顔でうなずいた。

「うむ。私も残念ながら、火浣布の実物は見たことがない。だが幼いころに、羽毛をこすりつけたような石を見た記憶があるのだ。いまにして思えば、あれを気が遠くなるほど集めて糸を紡げば、布を織れるのかもしれぬ」

ホントは幼いころではなく、前世なんですがね。

「なるほど。燃える石ですら存在するのです。毛羽だった石があったとしても、なんらおかしくはないでしょう」

あごを撫でながら、司馬懿が首肯した。彼に賛同してもらえると心強い。ものすごく説得力が増す気がする。エプロン姿だけど。

曹丕は視線をそらしてうつむき、

「……わかった。さっきの発言は取り消す」

といって、かまどの前にしゃがみこんだ。そして、焚き口の炎を手にした薪で突っつきながら、ぶっきらぼうに。

「少なくとも、火ねずみのようなありえない話じゃない、ってのはわかったよ」

あまりに聞き分けがよかったもんだから、私は驚いた。傍若無人なクソガキと思いきや、もしかするともしかして。曹丕くんは悪い子じゃないのかもしれません。


一時はどうなることかと思われた料理教室も無事に終わり、私たちは割烹着やエプロンを脱いで、台所がある土間から板の間に上がった。席につくなり、曹丕はきちんと正座して、それまでの人を食ったような態度を一変させた。

「失礼いたした。じつは、貴殿がまことの賢者であるか試したく、名を偽っておりました。私の本当の名は曹丕、字を子桓しかんという……」

ふいに曹丕は口を閉ざした。私と司馬懿の顔に視線をはしらせると、わざとらしく肩をすくめる。

「あ~、全然、驚かないんだな。とっくに気づかれていたのか」

うん、知ってました。けれど、自分で気づいたわけじゃないので、なんとなくフォローしたくなる。

「いやいや、驚いてはいるぞ。その年で字があるとは、たいしたものだ」

私の孔明だとか、司馬懿の仲達だとか、字とは成人と同時に名乗るものとされている。もっとも、私も司馬懿も二十歳になる前から字はあった。前倒しでもらうことは、けっしてめずらしいことではない。……のだが、それにしても曹丕は若すぎるような。

「そっちか……。オレが字をもらったのは、去年のことだ。初陣を迎えた十一歳のときに、一人前の証として字をもらったんだ」

得意にしていいはずなのに、曹丕はつまらなそうにいった。十一歳で字をもらえるなんて、すごいことだと思うんですがね。

「人より早く一人前あつかいしてもらえたのはうれしかったさ。けど、すぐに誇れるようなことじゃなくなったよ。ひどい負け戦だったからな」

宛城えんじょうの戦い、か」

といって、司馬懿が眉をひそめた。曹丕が苦々しげに顔をしかめる。きっと、私も彼らとよく似た表情をしているだろう。

勝つも負けるもド派手な曹操が、惨敗を喫したのが宛城の戦いである。一度は降伏させたはずの繡ちょうしゅう軍に奇襲をかけられ、まったく警戒していなかった曹操軍は、まともに戦うことすらできずに潰走した。この戦いで曹操は、長男の曹昂そうこう、甥の曹安民そうあんみん、護衛の典韋てんいといった将を失っている。

「ああ、最悪の初陣だった。オレと、兄上にとっても初陣だったんだ。十二も年上の兄と、初陣が同時だったんだぜ。父上に自分の才能を認めてもらえたんだって、オレは浮かれていたよ」

曹丕は自嘲するように頬をゆがめた。

「オレだけじゃない。みんな、父上もふくめて、みんな油断していたんだ。張繍軍なんかに負けるわけがない。みんなそう思っていた。十一歳のガキが初陣を迎えられたのだって、敵を寡兵とみて、あなどっていたからさ」

曹丕の視線が床に落ちる。ひざに置いた手に、力がこめられたようだった。

「天幕の外がいきなり騒がしくなって、何が起きたのか最初は理解できなかった。外から兵士が駆けこんできて、張繡軍の夜襲だと伝えられて、ようやく自分が戦場のただなかにいるんだって実感したんだ。あわてて鎧を着こんで天幕を飛びだしたら、いたるところから火の手があがっていて、生暖かい風が、焦げくさい匂いと血の匂いをはこんできた。父上のもとへいくにも、馬に乗っていかなきゃ、さまにならないと思った。オレは厩舎にむかって、そこで兄上にあったんだ」

曹丕はじっと床を見つめている。

「兄上は、自分の馬と父上の馬の手綱を引いていた。オレがついていこうとすると、敵の狙いは父上だから、おまえは先に逃げろっていわれた。子どもを追いまわすような余裕は、敵にだってないはずだって」

曹丕が見ているのは床ではなく、過去の戦場なのだろう。その戦場で命を落とした、長兄・曹昂の姿なのだろう。

「いわれたとおり、オレは兄上とは別の方角へ逃げた。……想像していた戦場とは、正反対の光景が広がっていたよ。統率のとれた動きをしているのは敵ばかりで、数が多いはずの味方は右往左往するしかなくて、ひとりでうろついているところを、敵の集団に襲われていく。次々と殺されていく味方を尻目に、敵と剣を交えることもできず、オレは馬の首にしがみついて、ただひたすら逃げつづけた。馬術だって、弓術だって、剣術だって、たくさん練習してきたのに。敵兵のひとりやふたり、討ちとれたはずだったのに」

曹丕は鼻で笑うように、ため息をもらした。

「気がついたら、陣営から遠くはなれた場所にいた。夜の闇に黒煙が立ちのぼり、陣営が真っ赤に燃えていた。オレと同じように脱出してきた兵士に、背中に矢が刺さっていますって指摘されて、馬からおりて、その矢を鎧から引き抜いてもらいながら思ったんだ。オレはもうすこしで死ぬところだったんだ、オレたちは負けたんだって。それから、本隊と合流しなきゃいけないと思って、散り散りになったうちの兵士たちに、父上の行方を聞いてまわった。敗残兵はそこかしこにさまよっていたから、聞く相手だけは不自由しなかった」

父の行方を、少年は必死に聞いてまわっただろう。あるいは毅然と胸を張ってか。どちらにせよ、聞くほうも聞かれるほうも、身なりはボロボロだったにちがいない。

「父上が東の舞陰ぶいんにむかっているとわかって、オレたちも舞陰をめざした。途中、ある兵士が、父上は敵に射られて討ちとられたっていったけど信じなかった。あの父上が、たった五千ぽっちの張繡軍に討ちとられるもんか、って」

曹丕の口元がひきつった。もしかすると、笑ったのかもしれない。

「敗残兵ってのはみっともないもんさ。なかには、味方に襲いかかるような連中だっている。そいつらをさけながら東へむかった。敵兵どころか、自軍の兵からも逃げなきゃいけないんだ。みじめだったよ。父上たちと合流できたのは、夜が明けてからだった。みんな疲れきっていて、だけど……、そこに兄上はいなかった」

曹丕はいったん言葉を切って、

「敵に射られて馬を失った父上に、自分の馬をゆずったらしい。囮になって、敵兵をくいとめて、それが兄上の最期だって。もちろん悲しかったさ。だけど正直いうと、一瞬ほっとしちまった。父上さえ生きていれば再起できる、って。薄情だよな」

床をにらみつけながら、肩を震わせる。

「兄上は正しいことをしたと思った。オレたちが生きていくためには、なんとしても父上を生かさなきゃいけなかったから。でも、父上の次に生きのびなきゃいけなかったのは、嫡子である兄上だったはずなんだ。オレが本当に一人前だったら、あのとき兄上と同行していたはずで、父上に馬をゆずって死ぬ役目は、庶子で三男のオレがやらなきゃいけなかったんだ」

そこで、少年は顔を上げた。

「正しいことをしてみせた兄上が死んで、何もできなかったオレが、結果的に曹家の跡取りになる。そんなの馬鹿げた話だろ。……だから、オレは決めたんだ」

何かを失ったような、全てを受け入れたような透明なまなざしで、宣言する。

「誰にも、『曹昂が生きていれば』なんていわせない。それくらい優秀な人物になってやる。父上にも負けない大物になってみせるんだって」

それは言葉の中身とは裏腹に、力強さを欠いた声だった。まるで、シルクロードをさまよう、ひとりぼっちの旅人のような。

曹丕はこれから常に、曹昂、曹操と比較されながら生きていかねばならないのだ。窮地の曹操を救い、功績と可能性だけを残して、この世を去った兄と。英雄がごろごろ転がっている三国志において、最も巨大な足跡を残した偉大な父と。

……話が重い。重すぎる。私はしばし思案してから、口をひらいた。

「ときには昔の話をしてみようか」

司馬懿さん(二十歳)ならともかく、曹丕くん(十二歳)が相手である。教えるべきことのひとつやふたつ、私にだってあるはずだった。

「あるおじさんの若かりしころ、いまの仲達くらいの年齢だったかな、そのころの話だ。大規模な日照りになるわ、河水が氾濫するわで、ついには黄巾党の反乱が起こり、天下は麻のように乱れていた。明日の見えない世を憂え、さかんに議論をかわす若者たちのなかに、彼の姿はあった。しかし同時に、彼は自分の才覚が友人たちにとどかぬことも自覚していた。周囲には、天下の俊傑がそろっていた。年長者を見れば荀攸じゅんゆうがおり、同年代には荀彧が、年少者には郭嘉がいた」

曹丕のまなざしが「おまえのことじゃねーか」と、ツッコんでくる。

そうです。私がそのおじさんです。自分の経験にもとづいた話は、興味をもたれやすく、説得力も格段にアップするというではありませんか。

私は荀彧たちとは別の道を選べたが、曹丕は曹操と同じ道を歩まねばならない。それでも。曹操をめざさなくていい、同じでなくともいいのだ、ということだけは伝えなければならないと思う。創業者と二代目とでは、もとめられる役割がちがうのだ。これは、前世では常識となっていたように記憶している。

いずれにしても、曹丕の話はすこしばかり長くなりすぎたし、私の話も長くなるだろう。日が傾き、穏やかな朱色の光が、部屋を奥まで染めあげている。いまから陸渾を出たところで、となりのむらに着く前に日は暮れてしまう。この様子だと、曹丕は今夜、私の家に泊まることになるだろう。

……ふむ。どうやらトラブル対策のため、司馬懿にも泊まってもらったほうがよさげですかね。

◆◆◆

「あんたの師は、自分のことを、うちの幕僚たちより下に見ているようだぜ」

曹丕は揶揄するような声を投げかけた。夕餉ゆうげのあと、司馬懿に客室へと案内されているときのことである。

「私はそうは思わない」

気分を害した様子もなく、司馬懿は不同意をしめした。

「ふぅん、どうして?」

「仮に、彼らが野にいたとして、何ができた? 孔明先生にならぶほどの功業を遂げていたとは、とうてい思えぬ」

「……それはそうだな」

司馬懿の言葉を否定する理由は見当たらない。曹丕は素直にうなずいた。孔明の功績は、在野の士の中にあって群を抜いている。とくに農具の開発によって、どれほど多くの民が救われたかは想像もつかなかった。

「我が師にとって宮廷は狭すぎる、ただそれだけなのだ。誰に仕えずとも、千里先を見通し、万民を救える能力があるのなら、なにも権力争いや雑務などに追われることもあるまい」

「とんでもない自信家だな、おい」

「孔明先生がおっしゃったのではない。私がそう思っているだけだ」

ある部屋の前で、司馬懿は足をとめた。

「ここが客室だ」

「ああ」

「何かあっても勝手にうろつきまわるな。先生の手をわずらわせるな。私が泊まる部屋はすぐそこだから、用があるのなら、まずは私にいうように」

「……オレが曹操の子だとわかってからも、そんな態度をとっていいのか?」

曹丕が不思議がると、司馬懿は一瞬、少年を値踏みするような目つきをした。

「私は曹操の部下ではない。……しかし、若君がお望みとおっしゃるならば、いくらでも丁重なあつかいをいたしま──」

「やめてくれッ!」

曹丕は身体を震わせた。得体の知れない寒気をおぼえたのだ。

「なんだか気色悪りぃ」

すると、司馬懿は短い沈黙のあと、真顔で尋ねた。

「……皇甫と名乗ったのは、曹操が名乗った偽名にならったのだろう?」

尋ねるというよりも、確認するかのような声だと、曹丕には感じられた。

「ああ」

「鑠と名乗ったのは、病弱で外に出られなかった次兄のかわりに旅をしよう、とでも思ったのか?」

「…………」

曹丕は答えに窮した。家を飛び出してきたのに、家族とのつながりをもとめているなんて、とんだ軟弱者だ。そう思われてもおかしくはない。心外であった。

「では、長兄のかわりに自分が死ぬべきだったのではないか、と誰かに話したことは?」

あくまでも無表情に、司馬懿は言葉の槍を突きつけた。

「……話せるかよ、そんなこと」

ふてくされたふうに、じつのところ弱々しく、曹丕は吐き捨てた。

宛城の戦いから帰還したあと、曹操は周囲の者にこってりしぼられた。乱世の奸雄もさすがにこたえたのか、あの戦の話題になると、とたんに機嫌が悪くなる。亡兄の名を口にして、父の機嫌を損ねるような真似は、曹丕にはできなかった。

言葉として形にできぬうちに、曹丕の心には鬱屈した思いがたまっていった。兄が全てを失ったことによって、自分は全てを手に入れようとしている。それはひどい裏切りなのではないか。

彧あたりに相談していれば、このうえなく正しい答えが返ってきただろう。曹操の部下が、曹操の後継者に対して出す、疑う余地のない正答が。だが、その正しさゆえに、兄は命を落としたのだと考えると、気が晴れるとは思えなかった。

「そうか。ここに曹操の部下はいない。弱音を吐きたくなったら、また来るがいい」

「…………!」

司馬懿の硬質な視線が、曹丕を射抜いた。胸のうちを見透かすようなその眸が、曹丕は気に入らなかった。だが、不思議と不快ではない。

──ああ、そうか。

曹丕は知った。自分はただ、愚痴をこぼす相手がほしかったのだ。曹家とは関係のない相手が。自覚すると同時に、口が動いていた。

「冗談じゃない。弱音なんて吐いてたまるかよ」

弱音なんて許されない、と曹丕は思った。兄の命を代償に、自分は生きているのだ。この体には、曹家の旗に殉じた将兵の血が流れているのだ。そう思うや否や、腹の奥がかっと熱くなる。その熱の塊は、一瞬にして全身の血潮をわきたたせ、弱腰な自分を灰になるまで燃やしつくした。

「オレを誰だと思ってる。将来、百万の将兵に号令をかけ、億の民草の上に立つ男だぜ」

のちに後漢王朝を滅ぼす少年は、胸を張って、昂然といってのけるのだった。


「父上、ただいまもどりました」

「おお、どこをほっつき歩いておった」

許都に帰った曹丕は、父の部屋を訪れた。忙しい業務の合間だったのか、曹操は楽にしていた。

「はい、洛陽周辺を。陸渾の胡先生にもお会いしてきました」

「ほう……」

曹操の眸に興味の色が浮かぶ。

「おもしろい人物だったろう。おまえの目にはどう映った?」

試されていると感じとった曹丕は、緊張して、かすかに身をかたくした。

「まことの賢者とは、野に在ろうとも千里先を見通し、万民を救えるものなのでしょう」

より適切な言葉も見つからなかったので、とっさに司馬懿の言葉を借りる。どうも自分はあの無愛想なでかぶつを、存外高く評価していたらしい、と曹丕は思った。

「じゃむの人は、無理に宮仕えさせなくとも、よろしいかと思います」

「……じゃむの人?」

聞いたことがないであろう単語に、曹操は目を丸くした。

「はい。これが胡先生といっしょにつくった『じゃむ』でございます」

陶製の小さな壺をふたつ、曹丕は差し出した。中にはもちろん、りんごと梨のジャムがたっぷり詰まっている。

「……ふむ?」

曹操が興味深そうにジャムのふたをひらくと、なんともいえない甘くさわやかな香りがふわっと広がった。紅い皮の色に染まった、つややかに輝くりんごのジャムである。

曹丕は思わず、のどをゴクリと鳴らした。りんごなんて食味が悪く、すっぱいだけ。小鳥にでも食わせておけばいい、と彼は思っていた。ところがジャムにするとぐんと甘さが凝縮されて、その酸味が果実らしい切れのよさに生まれ変わるのだ。小麦の粉を焼いた皮に、こんもりとのせて、包んで食べるのがまたうまい。口を大きくあけてほおばり、ひと噛みした瞬間、口の中にジャムがどっとあふれだす。とても甘くて、だけど上品で、舌がとろけそうなほどうまかった。思い出しただけで、唾がこみあげてくる。曹丕はゆるみそうになる口をひきむすんで、曹操の反応を待った。

曹操は子どものように目を輝かせ、ひとつうなずくと、さじに手を伸ばそうとした。そのとき、郭嘉が足早にやってきた。

「曹操さま。劉備の守る小沛しょうはいが、呂布に落とされたようです」

ゆるんでいた空気が、たちまち張りつめた。

なぜ、劉備が曹操の命を受けて、小沛を守っていたのか。これには、なかなかに奇妙ないきさつがある。

興平二年(一九五年)、曹操に敗れた呂布は、徐州の劉備を頼った。しばらくはおとなしくしていた呂布だったが、丁原ていげん、董卓と主君を裏切ってきた男は、やはり裏切りをくりかえした。劉備が袁術と争っている隙をついて、徐州を乗っ取ったのである。

本拠地を失って流浪する劉備軍は、深刻な飢餓に見舞われた。味方の肉を食らいあうに至って、劉備はやむをえず呂布に降伏し、呂布は劉備を小沛に駐屯させた。

小沛は、曹操、袁術、呂布の三勢力がぶつかりあう最前線の地である。当然のことながら、劉備は募兵をはじめた。しかし、これに不安をかきたてられたのか、呂布は小沛を攻め立てたのだ。

劉備軍は、数でも練度でも大きく劣っていた。そのうえ、天下無双の飛将軍・呂布が相手とあっては、対抗しようがない。劉備が小沛を放棄して、曹操のもとに身を寄せたのが、建安元年(一九六年)のことであった。

歴戦の劉備主従が転がりこんできたのだ。人材収集癖のある曹操にとっては、願ってもない展開である。曹操は劉備を厚遇し、手を尽くして小沛を奪いとると、小沛の人心をつかんでいる劉備に城をあずけ、呂布軍に対するそなえとしたのだった。

つまり、劉備はまたしても、呂布によって小沛を追い出されたのである。

「同じ相手に同じ城を奪われるとは、何をやっているんだ、劉備はっ!」

曹丕は眉を逆立て、劉備の不甲斐なさを非難した。

「まあ、そういうな。呂布と戦って勝てるのは余ぐらいのものだ」

曹操は苦笑を浮かべるにとどめ、手をつけぬままのジャムの小壺を、文机ふづくえの上に置いた。

「あれで劉備はなかなかの良将だぞ。関羽もいるしな、関羽も。なあ、郭嘉」

「そうっすね。オレは、騎兵をおさえればなんとかなる呂布より、劉備のほうが厄介だと思いますよ。劉備は民だけでなく、商人にも人気があるんで。博打ってのは結局、金があるやつのほうが強いもんです」

「……賭博ですったのだな。そうだろう?」

主君に呆れ声で指摘されると、郭嘉はすっとぼけた。

「勝敗は兵家へいかの常というじゃないっすか」

「ふっ、勝ち運は戦にとっておけ」

曹操の鳳眼ほうがんに、機知と野望の炎が燃えあがる。

「さあ、戦の支度だ。今度こそ、呂布をしとめてみせよう」

異様な光を放つ父の双眸を見て、曹丕は胸の中心に疼痛とうつうをおぼえた。

この眼だ。おのれの才覚に絶対の自信をもつ、死中に活を見出してきた男の眼。自分には持ちえないものだと、薄々わかってはいたのだ。

曹丕はどうあがいても曹操にはなれない。目をそむけていたその現実を、受け入れなければならなかった。そもそも兄に対する罪悪感や、父に対する劣等感によって強いられた決意に、どれほどの価値があったろうか。

いつまでも曹昂の幻と、曹操の背中を追いかけてはいられなかった。あらたな時代を治めるに足る人物に、曹丕は成長してみせなければならないのだ。

曹丕の興味は詩文のみならず、未知の事象にもむけられた。その一例として、著書・典論で、火浣布について言及している。火浣布とは、周代に西戎せいじゅうから献上された燃えない布のことであり、炎火の山に住む鳥獣の毛でつくられたものだと当時は考えられていた。後漢の梁冀りょうきが宴席のさなかに、火浣布の衣を火に投げこませ、周囲の者を驚かせたとの記録が残されていたが、それから長らくこの布地が世に出ることはなく、人々はその存在を疑っていた。

曹丕は、全ての生命は火の性質の前に容赦なく焼きつくされるはずだと考え、火浣布の材料は、生き物の毛や皮ではなく石である、と典論に記した。この典論は、曹丕の子・曹叡が即位する際に、不朽の格言として石碑に刻まれた。二三九年、西域の使者が火浣布を献上したので問いただしたところ、典論に記されたとおり、火浣布の材料が石(石綿)であることが判明した。曹丕の理知に人々はみな感嘆し、その短かった治世を惜しみ、懐かしんだという。

後世、隋の開祖・楊堅ようけんは火浣布の記述が刻まれた石碑を見て、「魏の文帝は開明的な君主であり、民衆にとっては仁君であった」と評し、為政者は手本とすべきであるとした。

この石碑は元代に洛陽から大都へ移設する際、事故にあって水没してしまったが、二〇〇九年に発見され、古代中国の先進性をしめす貴重な経典刻石として一級文物に指定されている。

曹丕 三国志全書