第二章 亡国の足音
建安三年(一九八年)、曹操に派遣された
軍を撃破し、四月に李
は処刑された。李
といえば、長安を炎にくべた大罪人。洛陽を燃やした董卓の粗悪な後継者として、おそれられた人物である。この朗報に洛陽の民はわきたった。復興を進めながらも、彼らの生活は常に恐怖と隣りあわせだった。董卓軍の残党が、いつ再来するかとおびえていた。李
の死とともに、董卓の亡霊もようやく地上から去ったように感じられたのである。最盛期には遠くおよばないものの、洛陽は近年にない、活気のある秋を迎えていた。
九月上旬。洛陽で指折りといわれる武芸者の屋敷の庭で、いつものように木刀が打ちあわされていた。ただし、その中身は日頃の鍛錬とは比べものにならない。木刀と木刀の激突は、実戦とすら遜色のない熾烈なものだった。
それもそのはず、木刀を振るって武芸を競っているのは、屋敷の主人である男と、稽古場荒らしの少年なのだ。みずからそうと名乗ったわけではないが、「おまえの腕を試してやろう」といって挑んできたのだから、稽古場荒らし以外の何者でもなかった。
生意気な少年だが、すぐに口の利きかたを教わるだろう。そう期待していた門下生たちも、いまや固唾をのんで勝負の行方を見守っている。
突く、はらう、打つ、受けとめる。木刀がはげしくからみあい、両者の位置がめまぐるしくいれかわる。大口を叩くだけあって、少年は年齢に似合わぬ技量の持ち主だった。
三十合あまりの打ちあいのすえに、ふたりは正対した。数瞬の静寂。前に出たのは、武芸者の男である。
次の瞬間、男に隙が生じたのを見逃さず、少年はグッと前へ踏みこんだ。防御から攻撃への転換は、少年の印象そのままに俊敏をきわめ、男に反応を許さなかった。少年の木刀が目にもとまらぬ速度で男の胸を突くと、その音は実際よりはるかに大きく、門下生たちの耳にひびきわたった。
「この勝負、オレの勝ちだ。文句はないな?」
「……まいった」
誰の目にも、勝敗はあきらかだった。少年は、ふぅ、と肩で息をして木刀を引いた。
「先生っ!」
門下生からあがる悲鳴に、男は力なく首を振った。対照的に、少年は汗まみれの顔に、不敵な笑みをひらめかせる。
「いや、悪くはなかった。だが、オレはまだ本気を出しちゃいねえ。オレは双剣のほうが得意なんでね」
声にも表情にも、激闘をくりひろげた相手への
「くっ、こいつッ!」
門下生のひとりがいきりたった。木刀を握りしめて、少年に詰めよろうとするが、
「ぎゃっ!」
その矢先に、もんどり打って倒れこんだ。彼の額をしたたかに打ちつけたのは、少年が投じた木刀であった。
「次は、抜くぞ」
と、少年の手が腰の剣に伸びる。華美な装飾がほどこされた剣は、一見、儀礼用にも見える。しかし、少年の腕前からして、剣だけが装飾品なわけもあるまい。見せかけではない、本物の宝剣だろう。たじろぐ門下生たちに、
「いいことを教えてやる。オレは天才かもしれないが、それは弓術と馬術に関してだ。剣術なら、まだ勝ち目はあるぞ」
少年はどこまでも尊大にいって、
「腕に自信があるやつは、許都に来い。諸兄らの挑戦、待っているぞ。ハハハッ!」
勝者らしく、悠然と稽古場をあとにした。
ほどなくして、少年の姿は洛陽の外にあった。
「ちっ、かつての
李
軍が滅んだことで、人の流れは正常化しつつある。だが、関中方面が安定したとまではいえない。洛陽に人材がもどってくる日は、まだまだ遠いようだ。
馬を進める少年の顔に、勝利の余韻はなかった。かわりに、苛立ちが色濃くあらわれている。彼は優秀な人材と出会いたかったのだ。英雄になる男は、そうした縁に恵まれるものである。父からあたえられるのではない。みずからの手で天運をつかめる男になりたいのだ。
母なる河水の支流、伊水の前で少年は馬をとめた。馬上で巧みにうしろをむいて、都城の全貌を視界におさめる。一部は崩れたままで壮麗とはいえない。それでも巨大な城郭に手を伸ばして、まるで自分のモノとするかのように、ぎゅっと手を握りしめる。
「待っていろ。いつかかならず、オレのこの手で、洛陽の栄華を取りもどしてやる」
とはいえ、せっかく許都を飛びだしてきたのだ。このまま収穫なしというのもおもしろくない。
「そういや、この近くに賢者がいる、と父上がいっていたな。たしか、陸渾だったか」
◆◆◆
武芸は教養の一部ともいわれている。私も士大夫のはしくれとして、いちおう習ったことはあるのだが、残念ながら習得できたとはいいがたい。
「フッ! フンッ!」
とりわけ弓は常軌を逸していた。なんで私だけ「びちょん」とか「ぼごっ」とか、珍妙な
弩を使えばいいじゃない!
「ハッ! ムンッ!」
そんなふうに、身につかなかった武芸の話を振り返ってしまうのは、窓の外から聞こえてくる、司馬懿の暑苦しい声のせいだろう。
軍師には二種類の人間がいる。武芸を鍛える人と、鍛えない人である。司馬懿はまごうことなく前者であった。
私は部屋を出て、庭で槍の鍛錬をしている司馬懿に声をかける。
「そろそろ茶の時間に──」
そのとき、
「フッ!」
司馬懿が鋭い呼気を発して、手にした槍をひらめかせた。鉄の穂先が一閃して、襲いくる竹槍を叩き落とす。鈍い衝突音に、竹槍が地面を転がる音がつづいた。
「なにやつ!?」
司馬懿が
「ハッハッハ! よくぞふせいだ。なかなかやるじゃねえか、でかぶつ」
高らかに笑う少年を見あげて、司馬懿はうめいた。
「……なぜ、塀の上に?」
そう。なぜか少年は塀の上に立っていた。
「うむ」
私にはわかってしまった。この瞬間、私の知力は司馬懿をも上まわり、かぎりなく百に近づいていただろう。見たところ少年の年齢は、前世でいうところの中学二年生ぐらい。これはもう確定的にあきらかである。いつの時代、どこの国でも、中二病は発症するのだ!