「まあ、若いのに立派ねぇ~」

「いやぁ、たいしたもんだ」

いつの間にか、野次馬が集まっていた。感心しきりな声が、耳にはいってくる。そればかりか、

「私からもお願いします」

「お願いします、先生」

門下生たちからも、司馬懿に賛同する声があがった。

えっ。

私は戸惑いながらも、ざっと周囲を見まわした。この地に越してきてから、住民たちはいつも私の意見を尊重してくれた。何か問題があれば、当然のように私の味方をしてくれた。それがごくごく自然な流れになっている、はずだったのに。

どうして? どうして、みんなして司馬懿の肩をもってるのッ!?

私は棒立ちになっていた。遠巻きにしている野次馬たちが、そろって好奇の視線をむけてくる。目を丸くしていたり、口元に笑みを浮かべていたり。見世物を眺めるような顔がならんでいる。

「なんだか知らんけど、めでたいことじゃないですか。めでたい日ですし」

すぐ横で肉屋の主人がいった。なりに似合わぬ、ひかえめな声だった。

これが他人事だったら、私もうなずいていただろう。そもそも師の立場からすれば、門下生にするのは、たいしたことでもなんでもない。多い人なら弟子の弟子まで合わせて、ゆうに千人を超える門下生を抱えている。

優秀な若者が願い出れば、普通はよろこんで受け入れる。司馬懿を門下生とするのに難色をしめす、私のほうが異端なのだ。その異端の理由を。なぜ断ろうとするのか、本当の理由を。私は誰にも伝えることができない。

目の前で土下座している若者の動向いかんで、歴史が大きく変わることも。彼の中に、とてつもない怪物が眠っていることも。知っているのは私だけ。説明しようとすれば、結局は前世の記憶に行き着いてしまう。そんなことを口に出したら、もれなく奇人変人あつかいである。それとも占い師だろうか。どう転ぼうと、ろくでもない目にあうに決まっている。だから、どうすることもできなかった。外堀は完全に埋められている。お手上げである。観念するしかなかった。

「わかった。司馬懿よ、おぬしを今日より、私の門下生と認めよう」

司馬懿はパッと顔をあげた。おそろしい才能を秘めた眸に、喜色を浮かべて、

「ありがとうございます。もう問題は起こりませんから、ご安心ください」

しれっといってのけた言葉に、私は凍りついた。

……司馬懿は、周生が司馬懿を殺そうとしていたことを、知っている。

いつだ、いつ気づかれた?

思い当たるふしは、あった。おそらく帰路を変更するようにいったときだ。あのとき、異変を嗅ぎとったにちがいない。そのあと陸渾で何が起きていたのかを探ったのだろう。

こうなると、周生の急な引っ越しが、がぜん意味深に思えてくる。あやうく殺されるところだったと知った司馬懿が、圧力をかけて追い出したのでは? いやいや、それどころか。とんでもない可能性に思い至ってしまった。もしや、周生はすでに亡き者にされているのでは……。あの件以来、誰も周生の姿を見かけなかったそうじゃないか。

ぞっとした。

たまに城外に転がっている、誰ともわからぬむくろ。賊に襲われたとおぼしき野ざらしの遺体を、身元確認のためにひっくり返してみる。するとそこには、恐怖と苦痛にゆがんだ周生の顔が! ひえっ。

思わず内股になる私をよそに、立ちあがった司馬懿は、にこやかな声で聴衆に語りかける。

「道中、洛陽で醇酎じゅんちゅう椒柏酒しょうはくしゅを買いこんでまいりました。ぜひ、みなさんでご賞味ください」

とたんに、ざわついていた野次馬が一段と騒々しくなった。

贈賄ッ! 贈賄ですよ、それはッ!

私は何もいえなかった。全身が縮こまりそうな寒空の下、誰もが一様に顔をほころばせている。私の屋敷の前は、私をほっぽりだしてなごやかな空気に包まれていた。

……もう勝負はついたのだ。いまさらジタバタしたってしょうがない、前向きに考えるといたしましょう。

フ、フハハハハハ! 統率と知力が九十台後半の武将を手に入れたぜッ!!

そう思うことにしましょう、そうしましょう。さしあたって、私にもやらなきゃいけないことがあった。グッドルーザーを気取りつつ、腕まくりをして台所にむかう。歴史がどうなるかなんて、あとまわし。家人にまかせているあつものの仕上げをしなけりゃいけません。

◆◆◆

建安三年一月、温県孝敬里。その日の夕刻、司馬懿は父の部屋にいた。屋敷の中で、もっとも苦手としている場所である。座れといわれていないので座ることは許されず、直立不動で、父の言葉を待つ。

「報告は受けとった。いくつか訊きたいことがある」

しょうに腰かけた司馬防が、仏頂面をあげた。

「はっ」

「人前で土下座とは、思いきったことをしたな」

下からの視線が、司馬懿を精神的に見おろした。

「申し訳ございません。恥ずかしい姿を衆目にさらしました」

「その恥はおまえの恥であって、司馬家の恥ではない。……どうせ、恥ずかしいなどとは思っておらぬだろうがな」

司馬防はかすかに眉を動かして、不快げにいう。

「胡昭どのはおまえの体面を傷つけぬ。おまえは彼の温厚篤実な人柄につけこんで、弟子入りをはたしたのだ」

「…………」

父の指摘は正しい。司馬懿は反論しなかった。

「胡昭どのが廉潔の士であることは、私も知っている。だから、門下に入ることを許した。必要だというから、家人をあずけた。……だが、どうしてそこまで入れこむのだ」

「わかりませぬ」

「む?」

「私は、人より少々背が高いのです」

「…………」

司馬防は目をすがめた。発言の意図をはかりかねたのだろう。司馬家は代々大柄な家系なのだが、司馬懿が言及しているのは、むろん身長のことではなかった。

「塀の外から屋敷の中をのぞきこむように、各地で争う群雄の心理を、私はのぞき見ることができます。相手が袁紹であれ、曹操であれ、さしてむずかしいこととは思いません。彼らが、どうしてそう動いたのか。利によってなのか、情によってなのか、はたまた衝動につき動かされたのか。今後、どのような状況でどう動くのか。おおよそ把握しております。しかし、胡昭という人物がわからないのです」

「胡昭どのが、どのような人物なのか。根拠となる情報が足りないのだろう」

「いえ。どうあっても、齟齬そごが生じるのです。だから門を叩くのです」

「ふむ、子貢しこうの故事か」

子貢は孔子の最もすぐれた弟子といわれている。彼は、孔子を超えたと称賛されると、「屋敷の塀にたとえるなら、私の家の塀は肩ほどの高さしかありません。外からでもこぎれいな屋敷の中がうかがえるでしょう。しかし、師の家の塀は高すぎて、外からのぞくことはできないのです。屋敷の中がいかにすばらしいかは、門をくぐらなければ理解できないでしょう」と、巧みに比喩を用いて反論したという。

「やれやれ……、次だ。周生という門下生に、手荒な真似はしなかったようだが?」

「はい」

「意外だな。軽侮けいぶには軽侮を、害意には害意をもって応じる。相手に見合った態度をとるのが、おまえのやり口だと思っていたが」

「この件で彼を害せば、師に迷惑がかかります。今後の師との関係にも、差しさわりが生じるように思います。師の前に二度と顔を出さぬように注意して、遠い地に移住するよう忠告する。それだけで十分だと判断いたしました」

手ぬるい対処だったといっているが、やったことは忠告というていの脅迫である。

孔明の芝居に気づいた司馬懿は、家に帰ると父から家人を借りた。彼らを陸渾に送りこんで、何が起きていたのかをつきとめると、周生を脅し、周生の父には移住するよう圧力をかけた。さらに、調査の過程で接触した人々を、硬軟さまざまな手を用いて懐柔し、司馬懿に協力するよう仕立てあげたのである。

自分でやるならともかく、人を介しての工作である。司馬懿とて絶対の自信はなかった。孔明に気づかれぬよう、慎重にことを進めた。焦れったくなるほど時間をかけた。小細工を弄しすぎたかもしれないが、成功したのだからよしとすべきであろう。

「そうか。……わかった、もうさがってよい」

「この一件、分をわきまえぬ行為をしたと自覚しております。つきましては、しかるべきところへ報告する機会をいただけないでしょうか」

「うむ。そうしておいたほうがよいか。司隷校尉の繇しょうようどのに会う機会をつくってやろう。報告は自分でするがいい。……ふん、そうか。最初から、そこまで考えていたな」

司馬防はおもしろくなさそうに鼻を鳴らした。

「鍾繇どのなら、厳格に法を適用してくれるだろう。文句をつける者などいまい。だが、おまえは殺人・傷害・窃盗などは犯しておらんのだ。口頭での注意だけですむだろう。……そして、鍾繇どのは訓告しながらも、『素行の悪い門下生をよくぞ追い出してくれた』と思うのだろうよ。胡昭どのは、鍾繇どのの弟弟子だからな。彼らは同じ師から書を学んだ、懇意にしている仲だと聞く」

「計算には入れておりました」

ふと司馬懿は、孔明の兄弟子に興味を抱いた。どのような人物なのか、面識のある父に訊いてみようかとも思ったが、さっさとこの部屋を立ち去りたい気分が勝ったので、口をつぐむ。

「この件で、おまえは罰せられるどころか、漢王朝の重臣に感謝すらされるということか。けっこうなことだ」

ちっともけっこうではなさそうな口ぶりが、司馬懿にはおかしかった。が、顔に出すわけにもいかない。

「そうであれば、司馬家にとってもよいのですが」

「それも、おまえへの評価にすぎん」

司馬防は苦々しげに嘆息すると、鋭く息子をにらみつけた。

「懿よ。おまえの才能と気質は、実利にかたよっている。師と同じ道を歩めるなどとは思うなよ」

「心得ております」

司馬懿は無表情をつらぬいた。


「師と同じ道は歩めない、か……」

父の部屋を出て、司馬懿はつぶやいた。いわれるまでもなく、自覚していた。自分は実利を主体に物事を考えるというか、じつにかわいげのない物の見方をする人間だと思う。川を見れば水運を、丘陵を見ればどこに布陣すべきかを考える。貴婦人を見れば、その身を飾る装飾品で兵士を何人雇えるかが頭をよぎる。いずれ才をふるうときがくれば、成果を出すための力を欲して、ためらうことなく権力に近づくだろう。いつまでも、在野の士ではいられまい。

それでも、孔明の歩む道に羨望の念を抱いたことは、まぎれもない事実であった。

ここ温県は戦乱に巻きこまれて、略奪の憂き目にあった。あらかじめ避難していた司馬家の者は無事だったが、民の半数近くが殺され、復興はいまだ道半ばである。孔明の故郷、潁川も壊滅的な被害を受けたという。しかし、潁川はかつての活気を取りもどしている。それにくわえて、血なまぐさい戦乱の世にあっても、陸渾の人々には笑顔があった。

温県が、この国が、潁川や陸渾のようであればいい。孔明の前で口にしたのは、嘘偽りのない、本心からの言葉だった。司馬懿自身が驚いたのだ。そんなきれいごとが自分の口から飛びだすとは、信じられなかった。腐れ儒者がいいそうな唾棄すべき夢物語を、心のどこかで望んでいたことが衝撃だった。

自分らしからぬ現実性に欠けた言葉は、それを現実のものとしている孔明に触発されて、引き出された言葉だった。心に感じた衝撃は、とりもなおさず、孔明の立つ高みを自分が理解できていない証左に他ならなかった。

学ばねばならない。強く思った。

子貢と孔子の逸話はひとつではない。

あるとき、せいの景公が子貢に尋ねた。

『おまえの師、孔子は賢者だと聞くが?』

『はい。賢者でございます』

『では、どれほどすぐれているのだ』

『私にはわかりかねます』

『はて、賢者だと断言しておきながら、どれほどすぐれているかは、わからぬというのか?』

『天は高いと、誰もが知っています。しかし、どれほど高いかは誰にもわかりません。同じように、私は師がすぐれた人物であることを知っていますが、どれほどすぐれているのかはわからないのでございます』

……このように孔子を尊敬してやまない子貢だが、師と同じ道を歩んだとはいいがたい。子貢には貨殖かしょくの才があった。清貧をよしとする孔子とは異なり、彼は莫大な富を手にした。また、子貢は弁舌にもすぐれ、えいの宰相を歴任している。栄達を遂げ、孔子を上まわる業績を残したといわれながらも、彼は驕ることなく師を仰ぎつづけた。

「子貢ですら、師とは異なる道を歩んだのだ」

司馬懿はくつくつと笑うと、真顔になって夜空を見あげる。

「仰ぎ見るのに、なんの不具合があろうか。ちがうからこそ、わからぬからこそ、学ぶのだ」

蒼穹をのみこんだ黄昏は、とうに闇に押しつぶされていた。満天の将星を圧するように、銀色の月が浮かんでいる。冴えざえとした光を放つ、満月に近い月だった。

建安初頭、司馬懿は成人と同時期に陸渾に移住して、胡昭の弟子となった。このとき、司馬懿の才に嫉妬した周生が司馬懿の殺害をくわだてていると聞き、胡昭は山を越えてその計画を制止した。はじめは聞く耳をもたなかった周生も、胡昭が涙ながらに説得すると、胸を打たれて計画をとりやめたという。胡昭はこれを誰にも口外しなかったが、彼の善行は広く人々の知るところとなった。

司馬懿はこの恩を生涯忘れず、師への感謝と敬意をこめて長男を師と名付け、また、次男には胡昭から名をもらい昭と名付けた。

司馬懿 三国志全書