第一章 師弟

よく晴れたある日の、城外での出来事である。農作業を終えた私がすきをかついで歩いていると、馬に乗った青年が通りかかった。卑しからざる身なりから、士大夫の家の者だとわかる。年の頃は二十くらい。体格はよく、聡明そうなひとみをしていた。その青年は馬をおりて、私に道を尋ねてきた。

「この地に胡昭という学者が暮らしているはずなのだが、どちらにお住まいか知っているかな?」

「…………」

私です。

ここにいるぞッ!

といってみたい衝動をおさえて、屋敷までの道順を教える。青年は礼をいうと、丁寧に頭を下げてから、軽やかに馬に乗って去っていった。

「ふむ……」

私が名乗らなかったのはなぜかというと、農夫の格好をしているからである。士大夫の中には、露骨に農民をさげすむ者もいる。そうした人物からしてみれば、私が名乗ればその瞬間、見くだしていた相手がじつは名士だったと発覚する、きまりが悪い展開になるわけでして。体面重視のこの社会、相手の面目をつぶすような行為はやめといたほうが無難ですので。それに最悪の場合、

『農民ふぜいが名士の名をかたるとは、このれ者め! これでもくらえッ!』

チャキッ、キラーン、ズバッ!!

『ぎゃあああーーッ!? 本人なのに~~』

なんてことすらありえるのだ。おお、怖い怖い。

こういう状況では、あとで名士っぽい服に着替えてから、

『いやいや、失敬失敬。じつは私が胡昭だったのだよ。はっはっは』

『なんと!? これはしてやられましたわ。わっはっは』

といったふうに、笑い話にしたほうがお互いのためなのです。まあ、いまの青年は農民に対しても礼儀正しかったから、名乗ったところで問題はなかったと思うけど。しっかりとした教育を受けたのだろう、なかなかの好青年に見えた。感心しながら、私は城門をくぐって自宅にむかう。

まだ肌寒いころに陸渾に引っ越してきて、そろそろ夏に差しかかろうとしている。あたらしい暮らしにも、だいぶ慣れてきたように思う。この地で暮らすうちに、私の生活にも変化があった。もてあまし気味だった広い屋敷を利用して、私塾をひらいたのだ。そこは村人に読み書きを、門下生に学問を教えるだけでなく、名士たちが集まるサロンにもなっている。いまのように、私と面識のない人物が訪ねてくることもあった。

「孔明先生っ!」

のどかな道を歩いていると、若者が駆けよってきた。門下生の周生しゅうせいである。

「畑仕事ですか? いってくれれば、そんなことは私たちがやりますのに」

といってくれるが、私ではなく私たち、というのが要注意。自分でやるのではなく、取り巻きにやらせるつもりなのだろう。困ったものだ。私は内心でため息をついた。

「さっき、馬に乗った士大夫が通りましたよ。あれは私より年下でしょうね」

周生がいうのは、先ほどの青年のことにちがいない。

「どうやら、私の客人のようだ」

「ご存じでしたか」

「うむ、道を聞かれたのでな」

「どちらさまなんです?」

問われて、私は首をひねる。

「さて……」

「へえ」

周生は愉快そうに口角を上げた。

「なら、さっきの人は、孔明先生のことを農夫だと思っているのですね?」

「名乗っていないから、おそらくそうであろうな」

「そいつは見ものだ。ちょっと先にいって、様子を見てきます」

「周生」

身をひるがえしかけた門下生を、私は呼びとめた。

「はい、先生」

「客人に対して、粗相があってはならぬぞ」

「はい、わかりました」

周生は笑顔でうなずくと、私の家に急いでいった。

「ふぅむ……」

ホントにわかってるのだろうか? ちょっと心配。私は遠ざかる周生の背を見ながら、つい最近の出来事を思い出していた。

十日ほど前のことだ。ある士大夫が、私を訪ねて陸渾にやってきた。道すがら、農民たちに散々いばりちらすような、いけ好かない男だった。彼は運が悪いことに私の顔を知らなかった。ついでに間も悪かった。その農民の中に私がまぎれこんでいたことに、気づかなかったのである。そして、屋敷に着いた彼は、身だしなみをととのえた私が正体を告げるなり、その場にへなへなと座りこんでしまったのだ。

その光景は、たしかに見ものだったにちがいない。目撃者は屋敷の中にいたほんの数名だったのだが、この話はあっというまに陸渾中に広まった。こんな痛快な話が広まらないわけがない。あとから知った周生は、その場に居合わせなかったことを、ずいぶんと悔しがっていたものだ。

きっと、同じような光景を見られるのではないかと期待しているのだろう。さすがにあんなクリティカルな反応は、そう簡単に再現されないと思うのだが。そんなことを考えていたら、

「先生、ちょっといいですかね」

肉屋の主人がおずおずと話しかけてきた。どうやら、道ばたで話していた私と周生の様子をうかがっていたようである。

「あいつ、先生に迷惑をかけちゃいませんかね?」

「むっ。あいつとは、周生のことであろうか?」

「はい」

「ううむ。若者たちを集めて遊び歩いている、という噂は聞くが」

「周生は昔から、陸渾に引っ越してきた当時から、けっこうな悪ガキだったもんで」

「ふむ。そうであったか」

たしか、周生の年は二十四だったか。もう悪ガキと呼べる年齢ではないな。

「それでも、孔明先生の門下生になって、すこしは落ち着いたように見えたんですけど。ちょっと気になる話を小耳にはさみまして」

「ほう?」

「孔明先生の家には、おえらい人が出入りするでしょう? 周生が先生の門下生になったのは、そういった人たちに取り入って、官吏に推薦してもらうためなんじゃないか。そんな話なんです」

なんだか可愛らしくモジモジしながら、肉屋のごっついおっさんはつづける。

「オレたちゃ、あいつが先生に迷惑をかけてないか。心配になっちまって」

「…………」

いわれてみれば思い当たるふしがあった。我が家を名士が訪れると、きまって周生が顔を出していたような気がする。周生は名士をもてなしながら、教養や学問を熱心に論じあっていた。あれは学ぶためではなく、自分の能力をアピールするためだったのか。

中国での官吏登用というと科挙が真っ先に思い浮かぶが、この時代にはまだ科挙という制度はないようで、官吏になるのに最も重要なのは、地方官や名士社会での評判なのだ。つけくわえると、そういった評判をまとめる名士ネットワークの中心にいるのが荀彧でして、私のコネは最強です。もっとも、そのコネはいざというときの切り札でもあるので、みだりに使用するつもりはありませんが。ふふふ、切り札は温存しておくからこそ、切り札たりうるのですよ。

「うむ、気にとめておくとしよう。なに、この地を訪れる名士に気に入られるかどうかは、周生の才幹しだいであろうよ」

私の返答に、肉屋の主人はほっとしたように頬をゆるめるのだった。


帰宅した私は、まず服を着替える。頭のきんをといて、かんに髪を押しこむ。ちゃんと名士っぽく見えるようにしとかないとね。

「売りこみに力を入れること自体は、問題ないのだがなぁ」

周生のやっていることは、いたって普通におこなわれていることだ。ただし、度が過ぎると失礼になるし、私の名前を利用されていると思うと、やっぱりいい気分はしない。私の門下生になってすこし落ち着いたともいっていたから、しばらくこのまま様子を見るつもりだけど、あまり失礼なことをしでかすようなら、破門も考えなきゃいけない。

「よし、名士。どこから見ても名士」

鏡台の前で、服装のチェックを終える。

先ほどの青年は、学堂で門下生たちと話しているという。私がその学堂に歩み入ると、周生が悔しそうに眉と口をゆがめて立ちつくしていた。周生と対峙するように立っているのは先ほどの青年で、それを門下生たちが固唾をのんで見守っている。

むむむ。なにやら雰囲気がギスギスしております。これは、あれだ。年少の相手とあなどった周生が舌戦を挑んで、こてんぱんに論破されたとみた!

その場に私が姿を見せると、張りつめた空気が弛緩したように感じられた。この青年にひと泡吹かせてやれる、とでも思ったのか、周生の顔にも余裕がもどる。しかし青年は、私を見てもまったく動じることなく、平然と拱手した。その所作は洗練された見事なものだった。

「先ほどは失礼をいたしました。私は胡先生に教えをこいたく、河内郡温県かだいぐんおんけん孝敬里こうけいりより参りました。姓は司馬しば、名は、字は仲達ちゅうたつと申します」

「…………!?

はい? 私は自分の耳を疑った。司馬懿? ふ~ん、司馬懿ね……。

すごいのきちゃった。

本物の孔明の宿敵、司馬懿。この戦乱の世で最後に笑う人物といってもいい、三国志ファンならおなじみのビッグネームである。突然そんな大物があらわれたものだから、当然のように、私は心の中で身構える。

か、かかってこいや。いや、かかってくんな。こちとら、三国志随一の人材コレクター、曹操の誘いを拒んだ男だぞ。どんな話だろうと受け流してみせるッ!

ところが、

「私は見識を深め、幅広い視野を身につけるために、各地の賢士のもとを訪ね歩いているところです。胡先生にお目にかかることができ、光栄に存じます」

司馬懿の話を聞くかぎりでは、なんてことはない、よくあることのように思える。

ふぅむ……。司馬懿という名前に対して、警戒しすぎたか?

私はこの陸渾という地に引っ越すにあたって、戦乱に巻きこまれず、食料が豊富で、名士ネットワークを十分に活用できる場所を入念に選んだつもりでして。

そこでの暮らしが落ち着いてきたところに、不意打ちのように「こんにちは、司馬仲達です」ときたものだから、遠ざけたはずの戦乱の気配が、三国志の中心人物の形をとって近づいてきたように感じてしまったのでしょう。気を取りなおした私は、司馬懿をこころよく迎えることにした。

別室に案内して、むしろに座し、ふたりで歓談をはじめる。やがて私は、年長者らしく鷹揚にうなずいた。

「なるほど、なるほど。旅をするにはよい頃合いであろうな」

司馬懿は今年十九歳になり、きびしい父からようやく旅の許しを得たそうだ。まだ若いとはいえ、すでに司馬懿の才は名士のあいだで噂になっている。二十歳になって成人すれば、仕官の誘いが各方面から舞いこんでくるのはまちがいない。その前に各地をまわっておこうというのである。

「まだまだ浅学の身ですから」

世慣れぬ青年は恥じるように笑った。かすかに初々しさすら残るその姿からは、のちの梟雄の姿はみじんも想像できなかった。

司馬懿はその日、私の屋敷に泊まり、翌日、去っていった。小さくなっていく人馬を見送っていると、戦乱に巻きこまれるフラグまで遠ざかっていくような気がした。


それから約二か月後。夏真っ盛りの時期に、また司馬懿がやってきた。

「ちょい待った! ここは訪問済みですよッ!? 各地をまわるっていってたじゃないですかッ!!

もちろん、そんなツッコミは口が裂けてもできません。要注意人物の司馬懿とは、良好な関係を構築しておきたいところ。年若い客人を、私はふたたび笑顔で迎え入れた。

そんなこんなで、私と司馬懿は学堂にいた。門下生の詩を添削する手をとめて、ふと視線を上げれば、司馬懿は門下生たちにまざって、それなりにうまくやっているようだ。前回のようなギスギスした空気は感じられない。周生がいないからだろう。今日はこのまま顔を出さないでほしい、と切に願う。

そうしてちゃんと話していれば、司馬懿の学識の高さは自然と伝わるもので、

「まだ若いといっても、さすがに孔明先生の客人なだけあるよな」

「司馬家って、河内郡では名の通った家らしいよ」

「いや、まいった。本当に優秀な人ってのはいるもんだ」

そんな声が、ちらほら門下生たちから聞こえてくる。

うむ。

耳を澄ましていた私はこっそりうなずいた。門下生たちが敬意をもって接していれば、問題も起こるまい。司馬懿を怒らせる、絶対ダメ!

幸いにも、そのまま何事もなく陽は傾いていき、屋敷内の人影も少なくなっていった。どうやら、私の取り越し苦労だったみたいだ……と思ったのはちょっと早計だったかもしれない。宵の口になって、司馬懿が私の書斎にやってきたのだ。

椅子に座っていた私は胡床こしょう(折りたたみの腰掛)をすすめ、司馬懿はそれに腰をおろした。ちなみに、胡床という座具は、北の胡人から伝わったゆえにそう呼ばれているのであって、私が発明したわけではありません。

「この陸渾県では、ゆったり時が流れているように感じます。洛陽のそばにあるというのに喧騒は遠く、乱世であるというのに、血の匂いも戦鼓せんこの音もしない」

深く感じ入った様子で、司馬懿はいった。

「うむ。よい土地、よい民であろう」

「はい。農民がうたいながら畑を耕し、辻には笑声があふれている。太平の世には、このような光景がどこでも見られたのでしょうか」

「そうか、おぬしは光和二年の生まれだったな……」

光和二年というと、黄巾の乱の五年前だから、司馬懿は太平の世を知らぬ世代といってもいい。もっとも、それまでだって地方では戦があり、中央では弾圧があった。太平の世だったかと問われれば、首をかしげたくなる。

それでも、いまほどひどくはなかった。朝起きたら、隣の村がなくなっていた。そんな話は、どこか遠くの他人事でしかなかった。戦に巻きこまれて、賊に襲われて。あるいは凶作にあえいで、貧困に耐えかねて。さまざまな原因によって、集落がごっそり消滅してしまうのも、いまではもう、めずらしくもない話だ。

「戦のない世を知らぬ身とはいえ、私は恵まれていたように思います。士大夫の家に生まれたおかげで、食べるものにも教育にも不自由なく、この年まで育ててもらいました」

「うむ。私たちは恵まれておるな」

「ですが、世の士大夫にはそれを理解せぬ者も多い。その恵みを当然のものと思い、驕り高ぶっている者には、陸渾は少々居心地が悪く感じられるでしょう」

「ふむ……」

どういうことだろう?

「はじめてお会いしたとき、孔明先生は農民の服を着ていらっしゃいました。その真意を知り、私は心から感服いたしました」

「うむ?」

自分で畑を耕すのが、そこまで立派な行為だろうか? 私の畑はひとりで十分に管理できる程度の小さなものだし、作物の種類や栽培法をいろいろ試す実験場にもなっている。さほど収穫が期待できない作業に、他人の手を借りるのは、さすがに心苦しいのだ。

「士大夫にとって、名士は憧れの的。孔明先生が農民と同じ服を着て、同じように働いている。階層意識の強い士大夫には耐えがたい光景でしょう。そのような人物は、そのうち陸渾に寄りつかなくなるか、もしくは心を入れかえるか。そうして、この地はいずれ、道理をわきまえた士大夫のみが集まる場所となるのでしょう」

「…………」

なんと、いま明かされる驚愕の真実!? 知らなかった……。私の農夫姿にそんな狙いがあったとは……。

「天下の乱れは天下の乱れにあらず、官の乱れにあるといいます。孔明先生の志に賛同する彼らの手で、腐敗した支配者層を正していく。陸渾は洛陽に近く、許都にも近い。なるほど、この国を立てなおすためのくさびとするには、もってこいの場所といえましょう」

「…………」

なんという遠大な計画、……すんごい。どう返したらいいのかわからないが、ここはまじめな顔を崩しちゃいけないと思った。もってくれ、私の表情筋。

「私の故郷も、陸渾のようであれば……。そう願わずにはいられません。私も孔明先生にならい、世俗の名利みょうりにとらわれることなく、いつの日か故郷を豊かにしたい。そう思うのです」

静かに話す司馬懿だが、その声には熱がある。太平の世を渇望する若々しいまなざしが、まっすぐに私を見すえた。

「孔明先生。私を門下に入れてはいただけないでしょうか?」

目の前が真っ白になった。

あの司馬懿が、私の弟子になりたがっている。しかも、世俗の名利をはなれるということは……、つまり出仕せずに、私のように隠士となるつもりなのだ。

それはマズいッ!

三国志の表舞台から、司馬懿がいなくなったらどうなる!? 影響が大きすぎる、先がまったく読めなくなる!!

マズい、マズい、マズいッ!!

あわわ、なんということだ。わ、私が長年コツコツと、虚像を積みあげてきたばっかりに!?

「ならぬ。ならぬぞ。司馬懿よ」

そういいつつ、私は必死になって理由を探す。司馬懿を門下生としてはならない。その、もっともらしい理由を。

「おぬしはすでに、どこに出ても恥ずかしくないだけの学を修めておるではないか。もう、私が教えるようなことなど何もないであろう」

私は目に力をこめて司馬懿を見つめ返した。

「そこまで学問に打ちこめたのは、司馬家の教育があってこそではないか。にもかかわらず誰かの門下に入ろうなど、お父君に申し訳が立たないと思わぬのかっ!」

私の言葉に、司馬懿は表情を曇らせた。

名士の名士たるゆえんは、世間からの評判にある。道に明るく、徳を積んでいる人物だという声望にある。その徳において重要視されるのが、孝行である。私を名士として敬い、門下生になりたいというのならば、親をないがしろにしてはならないはずだ。おおっ、なんかそれっぽい理由ができたぞ。

「……おっしゃるとおりでございます」

司馬懿はしぶしぶながら引きさがってくれた。


季節はめぐり、晩秋になった。主屋おもやの板張りの床にむしろを敷いて、私は腰をおろしていた。そこへ、周生が台所から上がってきてひざをついた。

「お茶をどうぞ」

「うむ」

差し出されたお茶を受けとる。立ちのぼる湯気が顔にあたれば、ほのかな生姜の香りが鼻をくすぐる。ちなみに、師の身のまわりの雑務をこなすのは門下生の役割であって、けっしてこき使っているわけではありません。

周生は神妙な面持ちをして、そのまま私の前に正座した。

「先生、ちょっとよろしいでしょうか?」

「うむ? なにかな」

「世の名士たちは躍起になって、将来有望な若者を門下に入れようとしています。そして、その若者の立身出世によって、さらなる名声を得ようとしている、と聞きおよんでいます」

門下生の栄達は、同時に師の名声にもつながる。当たり前といえば当たり前だが、名声をほしがる名士は少なくない。

周生はちらりと壁を見た。壁にさえぎられて見えないが、彼の視線の先には学堂が建っている。

「聞けば、あの司馬懿は、孔明先生の門下に入って学びたい、と願っているそうではありませんか。先生はどうして、彼を受け入れようとしないのですか?」

「むっ。門下生たちのあいだに、そのような話が広まっておったのか……」

学堂には司馬懿がいる。またまたの来訪である。三顧の礼かな。

「……ふむ。あれほどの才を教えみちびくことなど、私にはできぬよ」

ありがたいことに、私は名士たちの名声獲得競争から無縁でいられた。なぜかというと……こう見えても私、すでに一流の名士なので!

書法家としての基礎点に、人物鑑定、料理研究、農具開発。そうしたさまざまな加点を積みかさねた結果、いつのまにやら一流名士の仲間入りをはたしておりました。そこに流行の最先端をいくライフスタイルが、芸術点として加算されていたりもします。

そう。引きこもりはステータスだ! 加点要素だ!

この国はもうダメかもしれんね。……ダメだったわ。

「才をいうならば、先生のご子息が、司馬懿に劣っているとは思いませんが……」

との周生の評に、私は思わず目を丸くした。

「いや、それはない」

「そうでしょうか。ご子息はまだ志学(十五歳)にもならぬというのに、『孝経』、『論語』、『詩経』といった書をよく読みこんでいる才子ではありませんか」

私のひとり息子はさんという。胡簒、十二歳だ。書物に触れる機会が多かったこともあり、陸渾では才子として通っている。けれど、さすがに司馬懿と比較する気にはなれない。

「いや。司馬懿の才識を十とするなら、簒の天稟てんぴんは一にもとどくまい」

「…………」

周生は絶句した。顔どころか全身をこわばらせて、ショックを受けているようだった。……司馬懿への対抗心でも、抱えこんでいるのだろうか?

「周生」

「は、はい」

「人には向き不向きがある。おぬしも、簒も、司馬懿も。才の形はそれぞれちがうのだ。上下や優劣のみではかっていては、損をするぞ」

たとえば私の場合、知識だけなら、三国志の一流どころの人材にも劣っていないのかもしれない。けれど、重責をはねのける力、緊急時における冷静さ。そういった部分で、やはり大きな壁が存在する。だったら、同じ土俵で勝負することもない。

そもそも、司馬懿と同じものさしではかれる人材が、この大陸にどれほどいるだろうか。あんな超英雄ポイントをもってそうな人物と比較して、周生が打ちひしがれる必要なんて、まったくないと思うのだが……。

◆◆◆

今日は父の仕事を手伝う日だと断って、周生は主屋を出た。

「才の形はそれぞれちがう、か」

師の言葉はありがたかった。司馬懿を見習え、司馬懿に学べ。もし、そんなふうに口うるさくいわれていたら、反発をおぼえずにはいられなかったろう。

朝方、周生が掃き清めた庭には、はやくも風に乗って落ち葉が散らかっていた。彼は舌打ちすると、学堂を横目に門にむかった。学堂では、司馬懿が門下生たちにもてはやされているだろう。そんな場所に近づきたくなかった。父の仕事を手伝う。それは師の屋敷をはなれるために、とっさに思いついた口実にすぎなかった。

周生の父は商人である。家は裕福で、陸渾では顔が利く。父の仕事の都合で、陸渾に引っ越してきたのは、十年以上も前のことだ。周生はそれまで河内郡の温県で暮らしていた。だから、温県の孝敬里にある司馬家が、力のある名家だということは知っていた。

「なぜ、こんなところにまで出しゃばってくる。そのまま地元で出仕すればいいだろうに」

司馬家の者なら、出仕も出世もむずかしいことではない。周生が必死になって追いもとめているものを、司馬懿は生まれつきもちあわせているのだ。

周生は逃げるように門をくぐり、孔明の屋敷を出た。まだ陽は高いが、風が冷たい。秋が深まるにつれ、北西の風がはこぶ寒気は、日に日に鋭くなっていた。

勝手知ったる道である。彼は足元に視線を落としながらも、何を見るでもなく、ただただ思案をめぐらせる。

司馬懿を門下生とするつもりはない、と孔明はいったが、その姿勢はいつまでつづくだろうか。司馬懿は郡をまたいで熱心に通いつめている。いずれは、ほだされてしまうのではないか。

父の金と権力を笠に着て、門下生たちをまとめてきた周生だが、司馬懿が門下に入れば、その力関係は一変する。家柄と才能を兼ねそなえた司馬懿は、たちまち門下生たちの中心となるにちがいない。この地を訪れる名士たちの目にも、司馬懿ばかりがうつるようになり、周生の存在など視界にすら入らなくなってしまうだろう。

では、司馬懿と仲よくすればよいのだろうか?

彼はとんとん拍子に出世していくはずだ。なにしろ、孔明にあれほど高く評価されている人物である。

「出世した司馬懿に取り立てられる形で、官吏をめざすか……」

それで官吏になれるというのなら、周生はいくらでも頭を下げるつもりだった。世の中は支配するか、されるかだ。支配する側に立たなければならない。なんとしても、官吏にならなければならないのだ。

「いや……むりだ。うまくいくはずがない」

討論の際に司馬懿が浮かべた表情を思い出して、周生は唇を噛んだ。いまにして思えば、相手を若年とあなどり、論戦を挑んだのは、あまりに悪手であった。名家の者を言い負かせば、自分の名も広まるだろう。才知を誇示する好機だと思ってしまったのだ。

司馬懿から返ってきたのは、虫けらを見るようなまなざしと、口の端に浮かんだ冷笑だった。いまさら頭を下げたところで、あのような冷たい目をした男が周生を認めるとは、とうてい思えなかった。

司馬懿が門下生になったとき、周生の未来は閉ざされる。

「手遅れになる前に、なんとかしなければ……」

◆◆◆

さて、司馬懿対策です。おそらく、こうして書斎にひとりでいれば、そのうち司馬懿がやってきて、門下生にしてほしいと願い出てくることでしょう。ふっふっふ、読めている。読めているぞ、司馬懿よ。

お断りしたい、でも嫌われたくない。そんな気持ちは曹操のときと同じだが、状況は決定的に異なる。そう、司馬懿より、私のほうがずっとえらい!

将来はともかく現時点では、私はトップクラスの名士であり、司馬懿は有望な若者にすぎない。それに儒教を国教とする後漢において、長幼の序は無視できるものではない。私は三十六歳で、司馬懿は十九歳、ほぼダブルスコアである。つまり、私のほうがやっぱりえらい!

交渉とは、立場が上のほうが圧倒的に有利なもの。冷静になって考えれば、断るだけならむずかしいことではないのである。あとは、恨まれないような断りかたをすればよし。というわけで、「ああ、私には君のような大器は育てられないのだ」といった姿勢をつらぬこうと思う。

ほめて、ほめて、ほめ殺してくれるわッ! 司馬懿の能力を知る私にとっては、造作もないことよ。まさに完璧な作戦である。

そうとも知らずに、司馬懿はのこのこ姿をあらわした。彼はニコリとうれしそうに笑って、

「孔明先生の門下に入る儀、父から許しを得てまいりました」

お父君ーーーーッ!? と、以前の私なら取り乱していたのだろう。思い返せば、司馬懿の名におびえたり、門下生になりたいといわれてパニクったり、動転してばかりだった。が、今回はそうはいかない。

「そうか、お父君が許されたか……」

私は静かな口調でいい、首を横に振る。

「いやしかし、おぬしにいまさら師が必要とは思えぬ。教えることもないのに師を名乗るなど、厚かましいにもほどがある。そのような恥ずかしい真似、やはり私にはできぬ」

「いえ、先生。私はこれでも、多くの名士と会ってきました。そのうえで、先生を師と仰ごうと決めたのです。孔明先生だからこそ、父も門下に入るのを許したのです」

「……そういえば、おぬしは以前、陸渾の平穏無事な暮らしぶりを見て、感心しておったな」

「はい」

「この地に移住してきて、私も常々そう感じておる。……だが、ひとたび敵襲があれば、それらは全て失われ、この地に暮らす人々も塗炭とたんの苦しみにあえぐこととなろう」

「…………」

沈黙する司馬懿に、私はいかにも悲しげにため息をつく。

「もし、私に敵襲をふせぐだけの才があれば……。兵を率いて、民を守るだけの将才があったならば、私は隠士とならずに、出仕していたであろう」

「…………」

「私にはなかったその才が、おぬしにはある。私はそう確信しておる」

知ってるし。ここで考えに考え抜いた、とっておきのセリフを使う。

鸞鳳らんほうひなをいたずらに燕雀えんじゃくの庭で遊ばせるようなことが、どうしてできようか」

私は雀にすぎない。鳳雛ほうすうを育てあげることなどできないのである。

「……私のような若輩者をそこまで評価していただき、ありがとう存じます……」

落胆を隠しきれず、司馬懿の声は揺れていた。彼は力なくうなだれ、肩を落として退室する。そのうしろ姿を見ていると、すこしばかり申し訳ないとも思う。けれど、これでいいはずだ。司馬懿が師事したい「孔明先生」は、前世の記憶によって金メッキがほどこされた虚像なのだから。

こうして私は、あの司馬懿を完封するという快挙をなしとげた。不安が解消されたからか、その夜はぐっすりと熟睡できた。そんな私をあざ笑うかのごとく、翌日の早朝、ひとりの門下生が血相を変えて、私の書斎に飛びこんできた。

「先生、た、たいへんですッ!」

まだ二十歳そこそこの若者である。彼はきょろきょろとあたりを見まわして、私以外に人がいないことをたしかめると、おそろしげな声で訴え出た。

「周生が、司馬懿を殺そうとしてるみたいなんです」

「なん……だと?」

なんで!? なにがどうなって、そんな物騒な話になってるのッ!?

「どういうことだ? どうしてそうなった!?

おっと、取り乱してしまった。いかん、いかん。

「わ、わかりませんよ。私だって、昨日、『よそ者に好き勝手されてたまるか。あの司馬懿ってやつ、やっちまおうぜ』と誘われたときは、冗談だと思ったんですよぅ。……でも、さっき周生が取り巻きをつれて、城門から出ていくのを見てしまって。ああ、あれは本気だったんだ、と……」

もっと詳細な話を聞いてみる。周生は取り巻きを三人ひきつれて、城外に出ていったそうだ。司馬懿の帰路を先まわりして、人目につかない場所で殺害しようという計画らしい。

「むむむ……。ともかく、よく教えてくれた。たしか、おぬしの家は……」

「は、はい。私の家は、周生の父から土地を借りている小作農です。周生に逆らうことは、私にはできません。……ですが、司馬懿は先生の客人ですし、いくらなんでも、これはまずいのではないかと思いまして……」

「うむ……」

おおぅ。まるで、私の客人じゃなかったら、まずくないような口ぶり。乱世ともなれば、民の殺意もマシマシである。あなおそろしや。

「どうしましょう。司馬懿はまだ屋敷にいるのでしょう? 彼にも伝えたほうがよいのでしょうか」

「いや、待て」

と制止して、私は考える。

この件が表沙汰になれば、計画の成否にかかわらず、周生は士大夫の殺害をもくろんだとして、きびしい処罰を受けることになる。そして、私も監督不行届だ。私まで罰せられる、ということはないにせよ、せっかく手に入れた名声には傷がついてしまう。

なにより、司馬懿からどう思われるか、わかったものではない。入門をかたくなに拒まれたうえに、門下生に命を狙われる。そんな目にあえば、気分を害したって当然だ。

可愛さあまって憎さ百倍という言葉もある。現状、抱いてくれているであろう好意や敬意が、裏返る可能性だって……。ちょっと考えたくありません。

これは、司馬懿にも知られないのが一番でしょう。

「この件は、誰にも口外してはならん」

「えっ?」

「私が周生を説得して、思いとどまらせてみせよう。……そうだな、ひとつ、いい考えがある。おぬしにも協力してもらうぞ」

「は、はい……」


朝食をすませて、いよいよ司馬懿が出立しようかというとき。先ほどの門下生が素知らぬ顔をして、ふたたびやってきた。

「孔明先生、おはようございます」

「うむ。おはよう」

屋敷の門前で私とあいさつをすると、彼は馬上の人となった司馬懿をちらと見やり、

「お見送りですか?」

「うむ、ちょうど司馬懿が帰るところだ」

「それはよかった。伝えておかねばならないことがありまして」

「むっ?」

「昨日、市で客商がぼやいていたのです。なんでも宜陽ぎようにむかう山道で崩落があって、通れなくなったそうで」

宜陽への道は、これから司馬懿が通る予定の道だ。

「そうか。……となると、宜陽にはむかわず、洛陽に引き返したほうがよいであろうな」

私は、その予定を変更するようにうながした。

司馬懿の家がある温県と、この陸渾県。行き来するには、途中で洛陽を経由する。まず、温県から南西に進んで洛陽にでる。洛陽からさらに南西に、伊水をさかのぼると陸渾がある。帰りは同じ道を使わず、陸渾の北に位置する宜陽、黽池べんちを経てから、東に進んで洛陽にもどる。つまり、洛陽と陸渾を時計回りに移動するのが司馬懿の移動ルートなのだが、陸渾から宜陽への道が落石でふさがっているとなれば、伊水沿いの道を引き返すしかないはず。

「そうですね。なに、今回は縁がなかったということでしょう。宜陽にも黽池にも立ち寄らず、帰ることにします」

司馬懿はそういって、うなずいた。

よしっ、望みどおりの返答を引き出せた。帰り道が変われば、周生の待ち伏せは無意味になる。

「それでは。孔明先生、いずれまた」

「うむ。道中、気をつけてな」

私は、馬に乗って去る司馬懿を見送った。やがて、その姿が小さくなると、ともに見送っていた門下生が、大きく息をはきだした。

「どうでしたか? 先生のご指示どおりにしたつもりですが……」

「おお、よくやってくれた。これで、司馬懿と周生が出くわすことはない。あとは、もう二度とこのような計画は立てぬよう、私が周生を説得すれば、無事におさまるであろう」

周生の取り巻きは、いずれも陸渾の若者である。よほど下手を打たなければ、説得は十分に可能だと思う。この地での、私の力はかなりすごい。信望、権力……周生の父よりも、ずっと大きな影響力をもっている。

「ところで先生、そのお召し物は……」

「秋らしく、五行にあわせて白を基調にまとめてみたのだが。どうかな?」

私は口元で、羽扇を揺らした。

「え、ええと。この前、教えていただいた。そうそう、神韻縹渺しんいんひょうびょう……でしたか? そんな高雅な感じが、します?」

「うむ。……ウム?」

なんだか微妙な反応であった。似合っているのか、いないのか、判断に困る。私がどんな服装をしているかというと、白地に黒いふちどりの氅かくしょう、頭には綸巾りんきん、手にするのは白い羽扇。

そう。はずみで購入したはいいものの、ついぞ着る機会のなかった、諸葛亮っぽい服である!

前世でもしたことのなかったコスプレなるものを、古代中国でしてみんとてするなり。(三十六歳男性、妻子あり)

呉に単身でおもむき、なみいる論客・重臣を、弁舌の刃でばったばったと切り倒していった本物の孔明なら、こんな場面はいとも簡単に切り抜けるにちがいない。というわけで、本物にあやかってみました。

外見は、説得力を構成する重要な要素のひとつである。諸葛亮と同じ衣装に身を包めば、説得力アップもまちがいなし。かくしてモブ孔明から、雰囲気孔明にクラスチェンジした私は、周生を説得するべく北へむかうのだった。


馬に乗って山道を駆ける。顔にあたる冷たい風が、頬を切りつけるようだ。すっかり葉が落ちて裸になった枝には、真っ赤に熟したナツメの実が辛抱強くぶらさがっている。その枝の隙間からのぞく空は、寒々とした薄雲に覆われていた。

陸渾に越してきて半年あまり。宜陽への道も何度か通ったことがある。周生が待ち伏せしているであろう場所の見当もついた。人目につきにくく襲撃に適した、山中の隘路あいろだろう。

「周生め。なんという愚かなことを」

おおかた司馬懿の才能に嫉妬でもしたのだろうが、相手をはきちがえている。官吏になりたいとか、そんな次元で競うような相手ではないのだ。

門下生の浅慮に憤りながらも、不思議と頭は冷えていた。外気よりも冷ややかな自分が、頭の中から語りかけてくる。「そもそも、あの司馬懿がこんなところで死ぬわけないだろ。周生の行動はどうせ無駄に終わってたのさ」と。

そう。歴史は前世の知識どおりに動いている。経験上、それはわかっている。

……しかし、これからも私の知っているように動いていくのだろうか?

私がいなければ、司馬懿が何度もこの地を訪れることはなかった。周生との接点もなかった。この殺害計画自体がなかったはずだ。行動が変われば、結果も変わる。歴史だって……。

「そんな十年後、二十年後のことなんか、考えてもしょうがない。なるように、なるしかない」

そのときのことは、そのときになって考えればいい。とりあえず周生だ。目の前の出来事に、全力を尽くさなければ。

いつしか山道が細くなっていた。馬の速度を落とす。そろそろ待ち伏せに適した場所である。本当に落石でもありそうな、曲がりくねった見通しの悪い道を進んでいると、

「むっ?」

前方に人影が見えた。若者が四人、周生たちだ。そのうちひとりはを手にしている。彼らが乗ってきたであろう馬が四頭、そばの木につながれていた。

近づく私の姿に気づいて、周生が、あっと口を丸くあけた。動揺する彼らの前に、私は馬を寄せて、

「とうっ」

颯爽と飛びおりる。

グキッ! と足首から脳天に衝撃がはしった。

視界の端が涙でにじむ。ぐっ、こんな大事なときに、威厳が大事なときに、なんたる失態。なにが「とうっ」だ。私って、ほんとバカ。

大地の反撃を受けて、私の足首は深刻なダメージを負っていた。だが、それでも。痛みを感じた瞬間、私はとっさに羽扇を動かして、口元を隠すことに成功していた。

耐えろ。耐えるんだ。顔に出しちゃいけない。

ヒッ、ヒッ、フー。ヒッ、ヒッ、フー。

羽扇の陰で、こっそり呼吸をととのえてから。私は周生たちをキリッとにらみつけた。

「な、なぜ……先生が、こんな場所に……」

周生はまるで酸欠の鯉のように、口をぱくぱくさせた。

「そうか。あいつが、告げ口をし──」

「だまらっしゃい!!

大気を震わす私の一喝に、若者たちは飛びあがらんばかりに驚き、立ちすくんだ。

「おぬしらのやろうとしていることなど、全てまるっとお見通しだ!」

ウソです。

報告されるまで、まったく気づいちゃいませんでした。しかし、はったりの効果はあったようで、取り巻きたちが弱気な顔を見合わせる。

「……なあ、もうやめようぜ」

「もとから、人殺しなんて気が進まなかったしな」

「そうそう。司馬懿だっけ? そいつ、いいとこの御曹司なんだろ。手を出したって、いいことなんてないって」

「だよなあ」

「な?」

「なぁ?」

彼らは、うんうん、とうなずきあい、周生に視線をやった。

「おまえら、いまさら臆したのかッ! 家柄なんて関係ない。相手はただの旅人なんだ、って説明しただろうがッ!」

「さては、おぬしら。旅人がひとり消えたところで、たいして問題にはならない。そう踏んでおるな」

周生の怒鳴り声を聞いて、私はそう判断した。

「だって、旅人が姿をくらますなんて、よくあることだし……」

「捜査なんて、ろくにされないはずだ。地元のおえらいさんならともかく、よその人なんだから、って……」

「周生がいってました!」

「「いってました!」」

息のあった取り巻きたちを見て、感じるものがあった。

周生ってば、人望ないのね。

いや。……これは、これが、私のカリスマのなせるわざだッ!

「おまえら、いいから黙ってろ!」

「周生! おまえは、自分のやってることが、まだわからんのかッ!!

周生がわめく。それを私が叱りつける。痛みに耐えている私の足首がSOSを伝えてくるが、意思の力でねじ伏せる。

「たしかに、司馬家はあくまで河内郡の名家だ。この弘農郡こうのうぐんで起きた事件を、どうこうする力はないかもしれん。そう考えてしまうのも、わからないではない。だが、おぬしらの見通しは甘い」

私は口を閉じて、呆れたように首を振った。それから、ため息まじりに宣告する。

「息子が姿をくらましたなら、司馬懿の父・司馬防しばぼうどのは、かならずや捜査を要求するであろう。誰に訴え出ると思う? そこいらの官吏ではないぞ。直接、司隷校尉しれいこういに話をもっていくはずだ」

「……ッ!?

周生がぎょっと目をむいた。取り巻きたちはヒソヒソささやきあう。

「しれいこうい、って誰だ?」

「えらい人だろ」

「おれは聞いたことあるぞ」

「周生。司隷校尉とはどのような官職か、説明してみなさい」

私がうながすと、それまでの強気が一転、顔色を真っ青にした周生が、

「……校尉とは、高級武官のことをいい、司隷とは洛陽、長安を中心とした七郡をさします。司隷校尉はこの地域の行政と軍事を統括する長官であり、あらゆる官吏の不正を摘発する強い監察権をもち、三公すら取り締まる権限があるといわれています」

かたい声で説明して、唇を震わせた。

官吏になりたがっている周生からしてみれば、司隷校尉はまさに雲の上の存在である。だからこそ、そんな上にまで話がいくことなんて、考えてもみなかったのだろう。本来、たかが失踪事件の解決に乗りだすような官職ではないのだ。けれど、それを動かす人脈という力が、司馬家にはある。

「これでわかるな? 司隷校尉が動くとなれば、捜査は本格的なものになる。司馬懿を襲えば、おぬしらは確実に捕まるのだ」

取り巻きたちの顔に、「え、やばくね」という表情が浮かんだ。一方、周生は生気のない表情で、ぶつぶつとつぶやく。

「あぁ、しかし……それでも、私は……」

「…………」

周生の横で。無言のうちに、取り巻きのひとりが剣を抜いた。白刃が息つく間もなく天にかざされ、それに倍する速さで周生の頭部に振りおろされた。

「ヒッ」

悲鳴をもらして、周生は両手で頭をかばおうとした。剣をかわそうとしたのか、腰が抜けたのか、彼は地べたにへたりこんだ。もとより、周生を斬るつもりはなかったのだろう。剣光はそのまま軌道をのばして、周生の背後にあるナツメの枝を断ち切って、とまった。

剣を振りおろした若者は、じっと切っ先を見つめたまま、肩で息をした。

「いいかげん、気づけよ」

「ちゃんと、孔明先生の顔を見てるのか?」

「おれたちでもわかるってのに、どうして弟子の周生がわからないんだ……」

つづく仲間の言葉に、周生はハッとしたように私を見あげた。まじまじと私の顔を凝視して、

「……まさか、泣いておられるのですか?」

「…………」

答えずに、私はそっと目を伏せる。熱いものが頬を伝った。そう、足首の痛みが全然おさまらないのです。とてもつらい。

「孔明先生は、おれたちを守るために、ここまできたんだ……」

「おれたちが、バカなことをしないように……」

「ううっ……」

取り巻きたちの目にも、うっすら涙が浮かんでいるようだった。周生はがくりとうなだれて、両手を地についた。

「も、申し訳ありませんでした。私が……私がまちがっていました」

同時に、取り巻きたちが駆けだした。私にむかって、感激したように顔を紅潮させて。

しまった!?

私の両手はふさがっていた。右手に羽扇、左手に馬の手綱。彼らを押しとどめるべき私の両手は、無情にもふさがっていた。心の中で叫ぶ。

やめてッ! こないでッ!

「先生!」

「先生ッ!!

「おれたち、もうこんなことはしませんからぁぁぁッ!」

若者三人分の質量が、私の体にとびついてきて、

あ、

アーーーーーーッッ!?

◆◆◆

そんな騒動から季節はうつろい、除夕じょせきになった。大晦日のことを除夕という。この日は新年の夜明けを迎えるまで、徹夜で騒ぎつづけるのが習わしである。もちろん、我が家もご多分にもれず、宴会の準備に余念がない。念には念をいれて、酒の追加購入をすませた私は、両手にふろしき包みをさげて酒屋を出た。いうまでもなく、包みの中身はどちらも酒壺である。ついでにいわせてもらうと、私はふろしきを愛用しています。便利なので。

「やあ、孔明先生じゃないですか」

通りでばったり出くわしたのは、一輪車を押す肉屋の主人だった。一輪車ではこんでいるのは、どうやら猪の丸焼きのようだ。全身がこんがりと飴色に焼かれている。

「これはまた……すごいな」

「はっはっは、豪勢でしょう? これから、孔明先生のお屋敷にもっていくところですよ」

というので、同行することになった。

家々の門口には邪気を払うために、桃の木でこしらえた人形が置かれている。いつにも増して、炊煙の立つ家が多い。食欲を刺激する匂いが、あちこちからただよってくる。

「丸焼きにしただけなんで、あとの調理はお願いしますよ。先生の家の料理は、どれもこれもとびきり美味いって、みんな楽しみにしてるんでさぁ。きっと、ひっきりなしに人が来るでしょうよ。そんでもって、明け方まで大騒ぎとくりゃあ、目がまわるほど忙しくなるでしょうねえ」

「うむ。あたたかい食べ物をきらさぬようにせねばな。まぁ、食材はしっかり買いこんだつもりではあるが」

家族と家人けにん(使用人)と門下生、十分すぎるほど人手はある。それだけに関係者も多く、来客の人数だってふくれあがる。ケチと思われぬよう、盛大にもてなしたいところです。ふふふ、酒も菓子も、たっぷり用意してありますとも。

「商いが滞らずにすんで、助かりましたよ。本当に」

肉屋の主人ががっちりとした肩をすくめたので、

「うむ、周生の引っ越しの件か。急だったからな」

同感、同感といわんばかりに、私はうなずいた。

司馬懿襲撃未遂事件からしばらくして、周生の家族は陸渾を去った。江南の地で、あたらしい商売をはじめるそうだ。有力な商人がいなくなったら、物流はどうなるのだろう。そう不安がる人もいたが、そこに商機を見いだした商人が入れかわるようにやってきたため、心配は杞憂に終わった。

周生本人はというと、結局あのとき以来、一度も私の前に姿を見せなかった。別れのあいさつにきた周生の父によると、私に合わせる顔がない、と自主的に謹慎していたそうだ。近所の人にそれとなく聞いてみても、姿をまったく見かけなかったらしい。よほどこたえたのだろう。

寒風がびゅうと吹きつけてきたので、私と肉屋の主人は足を早めた。ほどなく、屋敷の門が見えた。門の前に、なぜか門下生たちが集まっている。もちろん全員ではない。十人にも満たないが、彼らは私を見ると、

「お帰りなさいませ、孔明先生!」

かしこまって声を合わせた。

「……ぇ?」

ビックリしすぎて、変な声が出た。私の門下生たちが、こんなに折り目正しいわけがない。なにしろ出世させようだとか、学者にしようだとか、そんな立派な私塾ではない。ご近所づきあいの延長でしかないのだ。教育のゆるさには自信がある。定評だってあるんじゃないかな、なんて思う。

なのに、どうしてこんなにキビキビしてるんだろう? 疑問をおぼえてから、ほんの一秒か二秒といったところだった。私が何かいうより早く、門下生を割るようにして、背の高い若者が前に進み出た。

司馬懿だった。

「お帰りなさいませ、孔明先生」

そういって、彼は道ばたに両ひざをついた。服が汚れるのを気にするそぶりもなく、ひどく真剣な顔で、私を見あげる。

今日こんにちまで、私は脇目も振らずに学問にいそしんでまいりました。しかし、本物の学を身につけるにはどうすればよいのか、いまだ端緒をつかめずにいます。力や欲、そういう雑念に惑わされぬ場所で、刻苦勉励こっくべんれいの日々をおくってこそ、学問の本質に近づけるというもの。なにとぞ、この司馬仲達が、先生の下で学ぶことを、お許しください」

口上を述べると、司馬懿は頭を下げた。どこまでも、ひたいが地につくほど、頭を下げた。

「…………!?

私は絶句した。あまりにも意外な事態に直面して、わけがわからなくなった。除夕は家族とすごす日なのに、どうして司馬懿がここにいるんだろう? そんなことは置いとくとして、公衆の面前で土下座なんてありえない、とやっぱり思う。どうやって収拾をつければいいのか、なにもかもわからなかった。