私は万感の思いをこめて拱手した。ちなみに、前世の私は孫子の内容なんて知らなかった。この時代で読みました。ふふふ。今世の私、けっこうインテリなのですよ。
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王佐の才。荀
は若くしてそう称揚された。そこに特別なよろこびも、気負いも感じたことはない。才気
周囲の大人たちに才能を見定められながらも、それに負けじと自分の器に水を満たしていく。そうした日々を過ごすうちに、彼もごく自然に、周囲の人々の才能や器をはかるようになっていた。ところが、あまりにも振れ幅が大きすぎて、将来の読めない友人がひとりいた。
それが孔明だ。
いっぷう変わった少年だった。たまに奇妙なことをいいだし、ときにその奇抜な発想を実行にうつしては、当然のように失敗する。それは型にはまった退屈な日々を過ごす荀
にとって、ばかばかしく、それ以上にうらやましく、そしてなにより新鮮なものに感じられた。
長じてから、孔明の異才は天下にむけられた。天下の
孔明は、不思議なほどに血の匂いが似つかわしくない男だった。儒学の大家・荀子の子孫として、道徳を重んじる立場にいる荀
にしてみれば、孔明の生きかたは好ましく、高潔ですらある。
しかし、いまは暴力と権謀が全てを喰らいつくす時代である。どのような才も天運に恵まれなければ、日の目を見ることはない。孔明の才能は
はひそかに嘆いていた。
美しい文を書く几案の才でも、君主を補佐する王佐の才でもない。孔明の奥底には、もっと大きな何かが眠っているというのに……。荀
は幾度となく、そう嘆いていたのである。
「もう出てきてよいぞ」
孔明が退室するや、曹操は誰にともなく呼びかけた。その声に応じて、荀
と郭嘉が
曹操は、「群臣をならべて飾り立てているようでは、賢者と
と郭嘉は、「推挙した身としてその場に同席したい」と申し出ていたのである。
「見事にフラれてしまいましたね」
「おまえたちの予想どおりにな」
郭嘉にあっさりとした口調でいわれ、曹操は肩をすくめた。
「……いかがでしたか、孔明は」
荀
はいささか慎重に訊ねた。
「うむ。耳をそばだてている邪魔者さえいなければ、脅してでも部下にしていたのだがな……。もっとも、おまえたちが衝立の裏に身をひそめていたことは、胡昭も気がついていたようだが。ふふふ、あの男、この余に君主の道を説いていきおった」
言葉のわりに、曹操に気を悪くしたそぶりはない。郭嘉がうなずいて、
「孔明先輩のことですから、オレたちが聞き耳を立てていたことにも、気づいていたでしょうね」
もちろん、まったく、全然、気づいていなかった。
「うむ。たいした男よ。なるほど、おまえたちの称賛もうなずける。あれぞまさに天下の大賢であろう」
そうと知らぬ曹操は、孔明に対して賛辞を惜しまなかった。
「…………」
その評価を、荀
は自分のことのようにうれしく思った。漢室の庇護者として、諸侯に号令をかける曹操が認めたのだ。いずれ孔明の名は、天下の隅々までひびきわたるであろう。
「余はあきらめんぞ。いつの日か、あの男も手に入れてみせよう。といいたいところだが、それより気にすべきことがある。……余に忠誠を捧げる、という言葉だ」
周囲に人の気配がないか探るように、郭嘉の視線が宙を動いた。
「曹司空ではなく、曹操さまに……っすね」
「うむ……。漢王朝の司空にではなく、この曹操にだ……」
曹操の
「あの男は、もはや漢王朝には天下を治める力はない、そういったのだ」
「……孔明は、そのときを迎える覚悟をせよ、と伝えたかったのでしょう。そのときこそ君主のあるべき姿を忘れてはならぬ、と私たちに説いたのです……」
荀
は目を伏せた。漢王朝の天運が尽きれば、とってかわるのは誰か。袁紹と曹操がその座を争うのはまちがいない。孔明のことだ。曹操が勝つと予測しているだろう。それは近い将来、曹操が簒奪者となることを意味していた。
そのとき自分はどうすればいいのか? 荀家の者として、道にはずれた簒奪はふせがねばならない。だが、犬馬の労をとって、曹操を現在の地位へとのしあげたのは他でもない、荀
自身であった。
孔明は、荀
の身に訪れるであろう苦境を予見して、
そればかりか、孔明は大切なことを思い出させてくれた。民とともにあること。それこそが君子のあるべき姿であり、道なのだと。漢室か曹操かで悩むくらいなら、民のためになるか否かで悩むべきである。民とともに生きるみずからの道をしめすことで、そう叱咤激励してくれたのだ。
そう。民とともにあること。それさえ忘れずにいれば、荀
は過去の選択に
「ふぐっ、……うぅっ」
荀
の胸にこみあげるものがあった。目頭が熱くなるのを感じずにはいられなかった。荀
が孔明を心配していたように、孔明もまた荀
の身を案じてくれていたのだ。
「……くっ、ぅぅっ」
口元をおさえ、荀
はむせび泣くのを懸命にこらえた。何事にも動じぬ荀
が、こうも取り乱すのはめずらしい。その様子を、曹操と郭嘉はどことなく微笑ましそうに眺めていたが、
「さて、部下にはしそびれたが、胡昭を放置しておくわけにはいかん。もし敵方につけば厄介な存在となろう。あの男を余につなぎとめておくにはどうしたらいい?」
「オレに妙案があります」
郭嘉が自信ありげに献策する。
「孔明先輩は民の暮らしをささえるために、農具の開発に力を入れています。その農具を屯田制に取り入れることで、我々との関係を強固なものにしてはいかがでしょうか?」
我が意を得たりとばかりに、曹操はうなずいた。
昨年より曹操がはじめた屯田制は、従来の兵士による屯田にとどまらず、民間人を動員するという、これまでにない画期的な政策であった。耕作放棄地と流民が増える、戦乱の世ならではの土地政策といえる。そこで働く人々は軍民を問わず、あらたな農具に触れ、その性能に歓喜し、発明者の名を心に深くきざみこんだ。中央官庁に招かれながらも、それをなげうち、万民のために心を砕く。その人物を、人々は親しみと敬意をこめて、孔明先生と呼んだ。
また、これを機に、いずれ破局を迎える運命にあった曹操と荀
は、漢王朝滅亡後の治政についても議論を交わすようになる。
時の迷い人、孔明自身が気づかぬうちに、歴史の流れはゆるやかに、だが確実に変わりはじめていた。