曹操に呼びだされた私は、急いで許都を訪れた。役人に司空府を案内されながら、思考を整理する。袁紹からは、すたこらさっさと逃げればよかった。だが、曹操に嫌われるわけにはいかない。私の安住の地は、曹操の勢力範囲内なのだ。
頭の中で大陸の地図を広げてみる。
河北では袁紹の息子たちが、骨肉の争いを繰り広げる予定だ。
関中には董卓軍の残党がはびこっていて、そのうち馬超が進撃してくる。
漢中は曹操と
江東では、ただいま
徐州はというと、
ふふっ、笑うしかねえ。どこもかしこも地獄だぜ! というわけで、曹操のスカウトを断り、なおかつ不興を買わないよう気をつけなきゃいけません。昨夜、荀
の屋敷に泊まったとき、「誰にも仕えるつもりはないと述べて、
前を歩く役人が足をとめて、「曹操さまはこちらの部屋でお待ちです」といった。
大丈夫、大丈夫。曹操対策はしっかりしてきたつもりだ。深呼吸をしてから、室内に足を踏み入れる。
「おお、胡昭、よく来てくれた。待っていたぞ」
中に入ると、榻に腰かけていた小柄な男が、親しげな笑みを浮かべて立ちあがった。
……へぇ。あまり、えらそうにしないんだな。
それが対面した、曹操という人物の印象だった。部屋の中にいたのは曹操だけ。部下がならんで威圧してくるなんてことはなく、それどころか護衛すらいなかった。曹操はにこやかな笑顔のまま、こちらに歩みよってくる。とてもフレンドリィ。正直、悪い気はしない。
……いやいやいやいや! なに騙されそうになってんのッ!? くっ、さすが曹操! 袁紹とは格がちがう、格がッ!!
袁紹のプライドを生け贄にして、平常心を取りもどすことに成功した私は、とりあえずうやうやしく拱手する。
「お招きにあずかり、恐悦至極に存じます」
「うむ。かねてより、おぬしの書法家としての名声は知っていた。くわえて、その才知は
や郭嘉がいうには、天下の大略を知る人物である、とな。その器量、
「荀
に郭嘉、彼らこそ、まことの賢者にございます。私など、彼らと比べれば、まったくの凡夫でしかありません。曹司空に仕えたところで、お役には立てないでしょう」
えらい人は役職で呼ばれたほうがよろこぶ。これは文化人類学上、あきらかである。キャバクラのホステスさんが証明してくれている。
「そう謙遜するでない。……それとも胡昭、おぬしは、余に仕えるのは嫌と申すか?」
「──ッ!?」
その瞬間、曹操の
そうだ。それこそ格がちがったんだ。相手は稀代の英雄で、こちとらただの凡人なのだ。
「……では、こういたしましょう」
と、なんとか声をしぼりだす。
がんばれ私、がんばれ!
むりに機転を利かせる必要はないんだ。あらかじめ用意しておいたセリフをいうだけでいいんだ。
「私は、曹操さまに、お仕えします」
あっ、しまった。
司空つけ忘れた。
ええい、いまさら、いいなおせるか。このままいくしかない!
「そして、今日をもって、
「なにっ、たった一日で辞めるというのか? なぜだ」
「私は畑を耕し、書をひらくことしかできぬ非才の身でございます。ですが、そんな私にも、曹操さまに忠義の心を捧げることならばできます。どうか、私の忠誠心をお納めください。……孫子に『道とは、民の心を君主とひとつにさせること』とあるように、私は民とともにあり、民のひとりとして曹操さまとともにありましょう」
「ほう。……忠義はこの曹操に捧げるというか、民とともに……」
言葉の意味をたしかめるように、曹操はつぶやいた。
曹操は孫子に傾倒していたはず。頼む、孫子からの引用、どうか効いてくれ……。
「ならばよし!」
効いたああああああ!!
よっしゃあああああ!!
「人にはそれぞれ志がある。出仕するも野にあるも、人それぞれであろう。胡昭、おぬしの生きざま、まことに見事である。それをむりに曲げようとは思わぬ。この曹操が認めよう。おぬしはおぬしの道をいくがよい」
「ははぁっ!」