序章 在野の賢者

三国志のゲームをダウンロードして、さあ、はじめようか、というところで私の前世の記憶は途絶えている。それが二十一世紀の日本での、しがないアラフォーおっさんだった私の最後の記憶なのだが、前世の記憶といっていいのかどうか、いまいちよくわからない。

なぜなら、いまの私がいるのは二世紀の中国だから。どちらかというと来世の夢を見た、と表現したほうが正しいようにも思うけど、どっちが正しいかなんて、それほど重要なことではないだろう。

重要なのは、私が三国志の世界にいるという、どうしようもない現実。

ああ、人がゴミのようだ。そんな戦乱の世を生き抜かなければならないのです。


私が借りている家の庭先に、三人の同郷の士が別れのあいさつにきていた。そう、私は今日、この地を旅立つ。旅立たなければならない。

「すみません、孔明こうめいどの。私たちが袁紹えんしょうさまを制止できればよかったのですが……」

「いやいや。娘が生まれたばかりで、おぬしも忙しいだろうに、よくぞ手を貸してくれた。こうして逃げる猶予があるのも、おぬしらの助力のおかげだ」

私は辛佐治しんさちに感謝した。佐治というあざなではわかりづらいが、毗しんぴといえば三国志ファンにはわかるだろうか。優秀な文官である。

「孔明どの、もうあまり時間は残されていないかと。旅の準備が万全でなくとも、急いだほうがよろしいでしょう」

「ああ、いろいろと世話になったな」

荀友若じゅんゆうじゃくが急かしてくる。諶じゅんしんといえば三国志ファンにはわかるかもしれない。あの名軍師・彧じゅんいくの弟にして、優秀な文官である。

「それがしは、それがしはッ! 孔明どのと同じ主君を仰ぐ日を、楽しみにしていたのですぞおおおおおおッッ!」

「う、うむ。すまぬな。それと、すこし落ち着くがいい」

郭公則かくこうそくが感情もあらわに天を仰いだ。郭図かくとといえば三国志ファンにはおなじみだろう。出ると負け軍師である。

「ああ、ああッ! 胡孔明ここうめいが策をめぐらせ、この郭公則が先陣をきれば、天下は袁家のものも同然というのに。なんと口惜しいことかああああああッ!!

そうだろうか。絶対にそんなことはないと思う。あと先陣をきるな。

「やれやれ、おぬしは血気盛んであるな」

呆れる私は、胡孔明という。そう。孔明どの、孔明どのと呼ばれてはいるが、あの諸葛しょかつ孔明ではない。姓は胡、名はしょう、字を孔明という、その他大勢である。どうやら私はモブキャラに転生してしまったようなのだ。

転生に気づいた当初は、「天はなぜ、この私を孔明に転生させておきながら、諸葛孔明に転生させなかったのか!」なんて思ったりもしたけど、そんな思いはすぐにどこかへ消えていった。よくよく考えると、本物の孔明だって結局は激務のすえに、過労死といってもいい最期を迎えるわけで。あまりうらやましい人生じゃなかったわ、うん。

それに、未来を知るかのごとき(知ってる)神算鬼謀しんさんきぼうで天下統一! なんて気持ちもすぐに失った。失ったのにはれっきとした理由があるのだが、いまはそんな昔を振り返っている場合ではない。思い出すのは、昨日の出来事だけで十分だ。

こんなモブ孔明にも、三国志の英傑が魔の手を伸ばそうとしているのである。


「胡孔明よ! 私が用意した屋敷への転居を命じる! 光栄に思うがいい。これより、おぬしはこの袁紹に仕えるのだ!」

昨日、政庁に呼びだされた私は、いならぶ文武官の前で、袁紹にそう命じられた。

袁紹、字は本初ほんしょ。高座からこちらを見おろすその姿は、まさに威風堂々。名門袁家を代表するにふさわしい風貌の持ち主である。袁家は四代にわたって三公を輩出した名門中の名門で、袁紹自身も反董卓とうたく連合軍という、諸侯連合の盟主となったほどの英傑である。

それほどの人物が、厚遇をもって迎えようとするこの私。いったいどれほどすごい人物なのかというと、ちょっと名が売れはじめたばかりの書法家にすぎなかったりする。実務家としてはなんの実績もないのだが、名声を重視する袁紹にとっては、その評判こそが重要なのだろう。

そんなありがた迷惑な仕官の誘いを、私は再三にわたってお断りしていた。しかし、この場でNOというのはむずかしそうだった。

周囲には袁紹の配下がずらりとならんで、メンチを切っていらっしゃる。彼らの前でこの誘いを拒絶すれば、袁紹の体面を傷つけることになる。さすがに集団リンチとまではいかないだろうが、投獄くらいは平気でされちゃいそうな雰囲気です。

むむむ、しかたない。ひとまず従ってみせるしかないか。

「ははっ。ありがたきしあわせ……」

私がうやうやしく拱手きょうしゅすると、袁紹は満足そうにうなずいた。その顔を見あげながら、私はこの地から、河北最大の都市・鄴ぎょうから、逃げ去る決意を固めていたのだった。


名門袁家への仕官となれば、世間の目からは出世にしか見えないだろう。しかし未来を知る私にとって、袁紹に仕えよという命令は、無慈悲な通告だった。袁紹は官渡かんとの戦いで曹操そうそうに敗れ、失意のうちに病没する。その後、袁家は凋落ちょうらくの運命をたどるのだ。

泥船と知っていて乗りこむつもりはない。ないったらない。絶対にNO。絶対にだッ!

そんなわけで、私は引っ越しではなく逃亡の準備をしていた。そこに辛毗、荀諶、郭図たちが訪ねてきたのだった。

この三人は袁紹に仕える身だが、私にとっては同郷の朋友ほうゆうである。かねてより、彼らは私に袁家への仕官をすすめていたし、私は私で、袁紹には将来性がないと説いていた。

私に出仕の意思がないことを知っている彼らは、ありがたい情報をもってきてくれたのだ。どうやら、袁紹は私に見張りをつけようとしているらしい。なんとまあ、ケツの穴の小さな英傑ですこと。

「さささっ、名残惜しいですが、お急ぎくだされ。孔明どのッ」

「うむ」

背を押すような郭図の言葉に、私がうなずいたとき、

「むっ、あれはっ!」

「むむ、なにやつッ!?

諶と辛毗が、建物の陰に視線をむけた。そこに身をひそめていたのは、袁紹軍の兵士だった。こちらの様子をうかがっていた兵士は、私たちと目が合うや、「わわわ」と口をひらき、身をひるがえして逃げだした!

「待てぇぃ! ぬおおおおおおおぉぉぉぉ!!

誰よりも早く反応したのは郭図だった。郭図が駆けだし、逃げる兵士を追いかける。まずい。あの兵士を取りおさえなければ、私が逃げようとしていることが袁紹に伝わってしまう! 

「ぬおおおおおおおおおぉぉッ!」

気合十分、郭図が走る。

おおっ、いいぞ郭図、がんばれ郭図!

郭図の走りかたは陸上選手ばりにすばらしかった。時代にそぐわぬ見事なアスリート走りで、兵士との距離をぐんぐん詰めていく。

「ひぃぃっ!?

郭図のなまはげみたいな形相におびえたのか、兵士が足をもつれさせた。その瞬間、郭図の足が力強く大地を蹴るッ!

「キェェェェェェエエエエエエッッッッ!!

奇声を発して、郭図が、跳んだッ!?

その跳躍は……美しかった。

まるで、巨大なにわとりが大空を飛翔するような……得体のしれない美しさがあった!

郭図は兵士の背中に飛びかかり、押し倒すと、そのまま馬乗りになって、おさえこみに成功した。

「おおっ!? まさか、公則どのがこれほどの武勇の持ち主とは……」

「なんという身のこなし。これはもしかすると、顔良がんりょう文醜ぶんしゅうにも匹敵するかもしれませんぞ……」

諶と辛毗が呆然といった。

猛将・郭図!? コー○ーのゲームじゃあるまいし、そんな馬鹿なッ!?

「さっ、早くっ! 早くお逃げくだされ、孔明どのオオォオォォォ!!

暴れる兵士の首筋を押さえながら、郭図が絶叫した。騒がしい。その瞬間だった。

ボキッ、と何かが折れるような音がした。

私たちの時はとまった。私と荀諶と辛毗は、言葉を忘れて顔を見合わせた。こういう状況を音が消えるというのだろうか。風に吹かれた黄砂が大地に落ちる、そんなかすかな音すら拾えそうな、どこまでも静かな一瞬だった。

私たちは郭図を見た。郭図も動きをとめて、ぽかんとこちらを見つめ返していた。

「…………」

その音は郭図の手元、兵士の首あたりから聞こえたように思う。まぎれもなくアレさ、首の骨が折れる音。私たち四人は、無言で見つめあった。

「……さっ、こ、孔明どの、早くお逃げくだされえええッ! くぅ、こやつめ、まだ暴れるかッ!?

と、兵士の肩をこっそりつかんで、暴れているように見せかける郭図。

こいつッ!? なかったことにする気だッ!!

郭図に揺すられ首をぷらんぷらんさせている兵士から目をそむけ、私は荀諶と辛毗に視線で問いかける。どうしたものだろう?

「……何も見なかったことにしよう」

「そ、その通りですな。さ、お逃げくだされ、孔明どの」

諶と辛毗の返答は、なんだか気まずそうだった。彼らもこの一件はごまかすことにしたようだ。賢明な判断であろう。

「う、うむ。そうするとしよう。いかな郭公則といえど、いつまでも兵士をおさえてはいられまい」

私も兵士はまだ生きていることにした。

いや、この場に兵士はいなかった。いなかったのだ!

時代が時代である。兵士ひとりの殺人事件ぐらいどうとでもなるはず。うむ。袁家に名だたる吏僚りりょうが、三人そろってもみ消そうというのだ。きっとなんとかなるだろう。そう信じて、私は友に別れを告げる。

「さらばだ、朋友たちよ。私は故郷にもどるつもりだ。潁川えいせんに来ることがあれば、いつでも訪ねてくれ」

こうして私は袁紹の手をのがれ、南へと旅立ったのであった。

さらばマイフレンズ! サンキュー郭図!!

◆◆◆

なんといっても乱世なわけで。追いはぎ、盗賊、黒山こくざん賊に、黄巾賊の残党と、賊がぞくぞく。妻子をつれた私の逃避行は、困難をきわめること想像に難くなかった。

そうです。じつは私には妻子がいるのです、妻子が! 私が、私が守護まもらねばならぬッ!!

悲壮な決意と覚悟を胸に、旅をする……必要はなかった。……あれ? いや、必要がなくなったのなら、そりゃけっこうなことですが。

なぜ私の警戒が必要なくなったのかというと、旅に出てすぐに同行者が増え、その中にふたり、とても頼りになる人物がいたからである。彼らのおかげで、旅の不安はあっさり解消されたのだった。

各地の守衛に袖の下を送ったりしながら、私たちは南へと進み、河水かすい(黄河)を渡った。小さな村で宿をとってひと休み。旅の疲れを癒すために、私とそのふたりは居酒屋で羽を伸ばしていた。

奉孝ほうこう、すこしばかり飲みすぎではないか?」

文若ぶんじゃく先輩ってば、お堅いっすよ。こんな女の子もいないような場所で、酒を飲む以外に何をしろっていうんですか。ねえ、孔明先輩?」

まじめな荀文若と遊び人の郭奉孝。三国志ファンなら誰でも知っているだろう。三国志の覇者、曹操をささえることになる名軍師、荀彧郭嘉かくかである。

「孔明、君からもひとこといってくれ。どうやら、私の言葉では奉孝にとどかないようだ」

「文若が説得できないものを、私が説得できるわけなかろう。奉孝よ、酒も女もほどほどにせぬと、体に毒だぞ。それに、量より質を重視したほうが、気分よく酔えるのではないか?」

「なるほどなるほど。量の上に質がある。オレもそう思うっすよ~。量をこなして、ようやく質に手がとどく。まずは量が大事ってことっすね~」

むむむ。私は首をすくめると、唇を酒で湿らせた。

私たちは子どものころからのつきあいだ。彼らは武勇に秀でているわけではないが、私にとってはじつに頼もしい同行者だった。あの荀彧と郭嘉がこんなところで死ぬはずがない。彼らが同行する以上、この旅の無事は約束されたも同然なのだ!

「まあ、いいじゃないっすか。今日くらい飲みましょうよ~。いままで袁紹の追手を気にして、あまり飲めなかったんですから~」

顔を赤く染めた郭嘉がけらけら笑った。袁紹に拝謁はいえつするなり、その威風を見かけ倒しと見切った郭嘉のことだ。冀州きしゅうの地に未練などかけらもないだろう。

はぁ、と荀彧が酒臭いため息をついた。

「袁紹の追手か。冀州での暮らしは針のむしろだったな」

袁紹は大業を成す人物にあらず。私にそうこぼしていた荀彧は、しかし袁紹に賓客としてもてなされていたのだ。さぞや肩身がせまい日々だったにちがいない。

「私とて、仕事をしたくなかったわけではないのだ。だが……だが、韓馥かんふくどのから冀州を騙しとった袁紹の下でどうしてはたらけようか。それではたらけずにいると、『ただ飯食らい』だの、『お高くとまっている』だの、陰口を叩かれる毎日。孔明よ、君がいなくなったと聞いて、ここらが潮時と思って追いかけてきたが……。そうでもなければ、いつまであの生活がつづいていたことか」

彧は酒をぐいっとあおった。

「わかっておる。名門荀家のために、一族を守るために、袁紹のもとに身を寄せていたのであろう? わかっておるよ。おぬしはよく耐えた。ウム」

と、私は荀彧をなぐさめる。

私たちの故郷である豫州潁川郡よしゅうえいせんぐんは、四方がひらけた戦乱に巻きこまれやすい場所にある。潁川も戦火にのみこまれるだろうと予測した荀彧は、できるだけ多くの民をつれて、安全な地に避難しようとした。

郭嘉はひと足早く、潁川出身の韓馥が治める冀州に避難し、冀州牧きしゅうぼくの韓馥は高名な荀彧を招くために、潁川に騎兵をつかわした。その騎兵に護衛されながら、郷里をはなれる選択を受け入れた民と自分の一族をひきつれ、荀彧は長い時間をかけて北に避難したのだった。

ちなみに、郭嘉に同行しても荀彧に同行しても無事であることを知っていた私は、最後まで荀彧の長旅につきあい、苦難を分かちあう道を選んだ。「困ってる幼なじみをほっとけますの?」と頭の中で天使がささやき、「ここで荀彧と名門荀家に恩を売っておけば一生安泰ですぜ!」と悪魔にそそのかされたからである。ええ、乱世を生き抜くには、コネが何より重要なのです!

私のことはともかく、つまり荀彧にとって、韓馥は旅の護衛をつけてくれた恩人なのだ。だが、私たちが冀州に着いたとき、すでに韓馥は袁紹にその座を奪われていた。遠い地に来たばかりの一族を思えば、支配者の袁紹ともめるわけにはいかない。けれど、韓馥への恩義を忘れるわけにもいかない。う~む。板ばさみになった荀彧の心境、推して知るべし。

「おぉ……。何もいわずともわかってくれるのは、君だけであろうよ。おおおぉ……」

酔いがまわっているのだろう、荀彧は泣きだした。ああ、いかん。これ、明日の朝、気まずくなるやつだ。

「文若先輩、ここは飲みましょう。飲んで、不満なんて吐きだしちゃったほうがいいっすよ。お~い」

と、郭嘉が居酒屋の主人に追加の酒を注文してしまう。くっ、よけいなことを。吐きだすモノが不満だけとはかぎらないだろうに。

「オレ、袁紹にはけっこう期待してたんすよ。まぁ、実際に会うまでは、の話ですけど。あの様子じゃ、反董卓連合軍が董卓打倒をはたせずに瓦解したのも、盟主の袁紹が優柔不断だったせいでしょうよ」

郭嘉がまじめな顔をしながら、荀彧に酒をついだ。荀彧は酒杯の中身を一気に飲み干して、

「ははは、人の噂とは当てにならないものだ。そう考えると、会うまでもなく袁紹の為人ひととなりを見抜いていた孔明は、さすがというしかないな」

「まったく、まったく。孔明先輩の人物鑑定眼は許子将きょししょうにも勝りますよ」

「…………」

私は返答をさけ、いかにも思慮深げな笑みを口元に浮かべた。

許子将といえば、曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄かんゆう」と評した人物批評の大家たいかである。人物鑑定眼をほめるにあたって最大級の賛辞といっていい。

ふふふ、……すみません。カンニングです。

故郷に近づき、気がゆるんでいたからだろうか。酒を酌み交わしながら、私はなんとなしに、このふたりとの過去を振り返っていた。


私が前世の記憶をはっきりと自覚したのは、いまから十年ほど前、数え年で二十歳のときだった。それまでは日本人だったころの記憶なんて、おぼろげな夢のようなものにすぎなかったし、幼なじみの荀彧のことも、すごく頭のいい友人としか思っていなかった。けれど前世の記憶がよみがえり、荀彧が歴史上の人物であることを知った私は、ことあるごとに彼と自分を比べてしまった。そして、ハリボテの未来知識ではとうてい埋めることのできない、本物の天才との差を思い知らされたのだ。そこにとどめを刺したのが郭嘉だった。年下の郭嘉の才を目の当たりにした私は、彼らと自分を比べるのをやめ、同時に自分の居場所を見つけた。

もしかして私、このまま在野の士でいいんじゃね?

たとえば、私が曹操の部下になって、「赤壁の戦いは負けます。おやめください」と進言したとして、はたしてそれが通るだろうか? よほど曹操に信頼されてなければ、「黙れ! 戦を前に軍律を乱すとは許せぬ。こやつの首を打てッ!」なんて展開になりかねない。

うん。やっぱり、安全な場所でスローライフが一番だ。私は三国志の主役じゃなくていい。必要なときだけ、荀彧や郭嘉といった歴史に影響をあたえるであろう友人たちに助言する。それが私のベストポジションだと思うのだ…………、


「……明、孔明」

おっといかん、物思いにふけってしまった。耳が遠くなるにはまだ早い。私は数え年で三十歳だから、現代日本なら二十九歳ということになる。二十代ですよ、二十代。若い!

「で、人物鑑定の大家である君は、董卓の次に天下の覇権をとる人物は誰だと思っているのだ?」

現在、朝廷を牛耳っているのは、董卓という梟雄きょうゆうである。だが、帝を廃して毒殺したり、漢朝の都・洛陽を焼きはらったり、暴政のかぎりをつくす董卓は遠からず自滅するであろう。私たちの予想は一致していた。まあ、私は知ってるだけでございますが。

「一番手であろう袁紹があれでしたからねえ。群雄割拠はまちがいないっすけど……」

郭嘉がぼやいた。

私は名軍師たちの顔を見比べる。郭嘉と比べると、荀彧はひどく真剣な表情をしていた。なにかしらの決意を秘めたような。曹操の軍師となる彼らだが、仕えるのは荀彧のほうが早いはず。いまがそのときなのだろうか?

となると、かけるべき言葉は……。

これから先のためにも、私のアドバイスには価値があるのだと証明しておきたい。私は賢者の顔をつくる。イメージするものは目の前で揺れる五円玉、もとい五銖銭ごしゅせん。私はかしこい、私はかしこい──。

「うむ。潁川周辺で天下を狙える人物といえば、東郡太守とうぐんたいしゅとなった曹操をおいて他にはいまい。潁川はまだ治安が悪いとも聞く。しばらく東郡に滞在して、曹操がどのような人物か見てみるのもよいかもしれぬな。文若もそう考えているのではないか?」

彧は息をのんだ。その眼に感嘆の色が浮かぶ。よきよき。

「これはまいった。そこまで見抜いていたとは。やはり、孔明には敵わないな」

「ふふふ。この胡孔明の頭脳は、ごくまれにすばらしく冴えわたるのだよ」

具体的にいうと、知ってる出来事に当てはまる場合にかぎります。はい。

「……うーん、曹操っすか。黄巾賊や董卓といった、戦うべき相手と戦ってる気概は評価するんですけどねぇ……」

郭嘉が渋い表情で腕組みをする。わかっているといわんばかりに、荀彧はうなずいた。

「たしかに、曹操にはまだ力が足りない。それでも潁川の混乱を収めるには、彼のような覇気のある人物に、一帯をまとめあげて、もら、うのが一番で、あ゛──うぷっ」

彧は苦しげに、口元に手をあてた。

ちょっ、荀彧!? あわわ!?

「おえっ」

ゲボッ。

じゅ、荀彧ーーーーーーッ!!


私たちは店を追いだされた。

初平二年(一九一年)、戦乱に巻きこまれた潁川から冀州の鄴に移住していた胡昭は、袁紹の再三にわたる仕官要請を断ると、身の危険を感じて豫州にもどった。このとき、同郷の荀彧と郭嘉がそれに同行した。彼らは通行手形を所持していなかったので、関の守将を論破して通らなければならなかったが、荀彧・郭嘉の弁によるところが大きかったため、胡昭は「私の才は荀文若、郭奉孝に遠くおよばない」と彼らを称えたという。それに対して荀彧と郭嘉は、「私たちは袁紹と会話をして、ようやくその器を見抜くことができた。胡孔明は会わずして袁紹の為人を見抜いたのだから、誰が最もすぐれているかはあきらかである」と胡昭を称賛したという。

胡昭 三国志全書

◆◆◆

大陸の勢力図はめまぐるしく塗りかえられる。初平三年(一九二年)、長安に遷都して、権勢をほしいままにしていた董卓は、天下無双の豪傑・呂布りょふにそむかれ殺害された。その呂布を十万の大軍勢でもって打ち破り、長安のあらたな支配者となったのは董卓配下の傕りかく汜かくしであった。

傕と郭汜は董卓の真似をするように暴政をしいた。やがて彼らはいがみあい、皇帝・劉協りゅうきょうを巻きこんで醜い権力闘争がはじまった。そのさなか、長安の宮殿は洛陽がそうであったように、焼きはらわれてしまった。

帝はわずかな供に守られ、混乱する長安を脱出した。落ちのびた先は廃墟と化した洛陽。身を隠すのは、秋風もふせげぬ朽ちたあばら家であった。樹皮を煮てすりつぶしたものを食らい、草の根を煮た汁をすすって、飢えをしのぐありさまだった。

そこを保護したのが、風雲に乗じて力をつけていた曹操である。

帝を擁立したことによって、曹操の勢威はいよいよ盛んとなった。その本拠地である潁川郡のきょは、天子を迎えたことで許都きょとと呼ばれるようになり、曹操自身も最高位に位置する三公の一席、司空しくうの座についた。

建安二年(一九七年)。荀彧が曹操の部下となって五年あまり。多大な功績を積みかさねてきた彼が司空府を訪れると、そこではあやしげな会話がなされていた。

「曹操さま、妓楼の予約をとりましたよ。変装の準備は万全っすか?」

「おお、でかした。ふふふ、今宵の余は、いや、私は徐州の客商であるぞ」

昼間から女遊びをくわだてているのは郭嘉である。彼は曹操の旗下に加わってまだ日は浅いが、持ち前の才覚を発揮して、めきめきと頭角をあらわしている。

そして、とう(長椅子)に腰かけ、満足げに笑う男が曹操、字は孟徳もうとくであった。

「……でかした、じゃありませんよ」

嘆息しながらも、荀彧はまず仕事をすませることにした。曹操との二、三のやりとりのみでそれをあっさり片づけ、あらためて冷ややかな視線をむけると、曹操と郭嘉は母親にいたずらが見つかった悪ガキのような顔をならべた。こんなとき、荀彧の口からでる言葉は決まっていた。

「他にすることはないのですか?」

「……だがなぁ、荀彧よ。英雄、色を好むというではないか」

「はぁ……。しかし、陣中で未亡人にうつつを抜かしているところを襲撃されて、あやうく死にかけたばかりではありませんか……」

「それがどうした。余は乱世の奸雄と評された男だぞ」

「……何をいいだすのか、嫌な予感しかしませんな」

「郭嘉、おまえなら余のいわんとするところ、わかるであろう」

「はっ。『奸』という字は、『女』の字の横に『千』と書く。これはあまたの女を愛することの象徴である。って感じですかね」

「そう、そういうことだ。山は高きをいとわず、海は深きをいとわずという。山はどこまでも高くあろうとし、海はどこまでも深くあろうとするのが天地万物の摂理である。余も乱世の奸雄として、どこまでも国と愛を追いつづけたいものよ」

天地のことわりに挑むかのごとく、曹操は遠くを見やった。荀彧は心の底から呆れた。

「山と海に謝ったほうがよろしいかと」

「こやつめ、ハハハ!」

曹操は軽く笑って、几案きあんの上に手を伸ばした。器に盛られた小さな白い菓子を、ひとつつまんで口に入れる。一瞬、荀彧と郭嘉がその菓子に目をこらした。それに気づくと、曹操は得意げに片眉をあげた。

「うむ、これか? これは最近、民衆のあいだでひそかに流行はやっている菓子だそうだ。腹はふくれないが、それがかえっておもしろいものよ」

彧はゆっくりまばたきをしてから、

「……『めれんげ』、ですな」

「むむ、知っておったか」

食に造詣が深い曹操ですら、つい最近まで知らなかった菓子である。が、荀彧と郭嘉は「めれんげ」なる菓子を、流行りだす前から知っていた。それを考案した人物の名も。

「……この荀彧、曹操さまに推挙すべき大賢人に心当たりがございます」

「奇遇っすね。オレにも思い当たる人物がいますよ……」

やや唐突な感のある荀彧と郭嘉の進言に、

「ほう」

曹操はしばし考えこんでから、にやりと笑った。

「おもしろい。ならば、それぞれ胸中に浮かんだ人物の名を手のひらに書いてみよ。そして、同時に見せるがよい」

曹操の命に従い、荀彧と郭嘉は筆をとった。おのれの手のひらにさらさらと文字を書きつけ、筆を置いたところで、

「よし、見せてみよ」

名軍師たちが、ひらいた手を前に出す。そこに書かれていた人物の名は──。

「ハッハッハッ!」

曹操は高笑して、榻から立ちあがった。

「胡孔明、胡孔明か。噂は耳にしたことがある。おまえたちがそろって推すほどの逸材だったとはな。おもしろい、かならずや余の麾下きかに入れてみせよう!」

曹操の執務室から下がると、郭嘉が荀彧たずねた。

「……これで、よかったんですよね?」

「うむ、やむをえん。ここで推挙せずとも、曹操さまが孔明に興味をしめされるのは、もはや時間の問題であろう」

気に入った料理があれば、料理人を呼んで調理法を聞きとり、書物にして残そうとするのが曹操である。「めれんげ」の考案者の名は、遠からず曹操の知るところとなろう。

「もともと孔明先輩は、書法家としてけっこう名が通ってますしねぇ。その才が多岐にわたるとわかれば……。そりゃ、部下にほしがりますよ、曹操さまは。美女にもまして、人材にご執心な人っすから」

「どうせ呼びだされるのなら、私たちの目がとどくほうがいい。そう思うだろう?」

「ごもっともで」

郭嘉は同意すると、気づかわしげに眉根を寄せた。

「……ちょっと目立ちすぎたみたいっすよ、孔明先輩」

そのころ孔明は、潁川から西にある陸渾りくこんという地を訪れていた。

◆◆◆

「ぶぇっくしょいッ!」

私のくしゃみにおどろいたのか、地面でさえずっていたヒバリがいっせいに飛び立った。陽射しこそ春めいてきたものの、まだまだ風は肌寒い。もっとも、私の家を建ててくれる大工たちはそんなこと気にせず、上半身裸で仕事をしている。たくましい。この程度の寒さなんて、筋肉で跳ね返しちゃいそうである。

「どうです、孔明先生! なかなかいいできばえでしょう?」

屋根の上から威勢のいい声がかかった。どうやら瑠璃瓦るりがわらき終えたようだ。

「なかなかどころか、私にはもったいないくらい立派な屋敷だ!」

お世辞ではない。正直な気持ちである。私が大声で返すと、大工たちは誇らしげな笑声をあげた。

「へへへ。孔明先生にそういってもらえると、うれしいってなもんよッ!」

陸渾県は洛陽の南西、伊水いすいをさかのぼった位置にある。前回訪れたとき、私はこの地を気に入って、家を注文しておいたのだ。今回はその家のできあがりを見にきたのだが、なぜか予定より立派な屋敷が建っていた。おそるおそるいてみたところ、なんと! お値段は据え置きでいいとのこと。望外のサービスに、私が内心ガッツポーズしたのはいうまでもない。

仕事を終えた大工たちと立ち話をしていると、道のむこうから住民の一団がやってくる。満面の笑顔で先頭を駆けるのは、さっきメレンゲクッキーの作りかたを教えた十歳ぐらいの女の子だ。

「先生ぇ~、先生に教えてもらった『めれんげ』、上手に焼けましたぁ!」

少女は弾むような声とともに、木製の器を差し出した。その中には、薄茶色に焼き色のついたメレンゲクッキーが入っている。それをひとつ、うながされるままに、私はいただいた。うん、しっかり焼けてる。サクサク。

「うむ、すばらしい。上手にできておる」

卵白を泡立てて焼くだけと思いきや、これが意外とむずかしい。私も何回失敗したことか。まあ、できるとわかってたから、成功するまでつづけられたけど。

えへへ、と少女がうれしそうにえくぼを浮かべると、その母親らしき女性が、

「孔明先生、温めた蜜水をお持ちしました」

「いやいや、そのような高価なもの、もったいない」

「なにをおっしゃいますか。わたしどもの暮らしに余裕ができたのは、孔明先生のおかげなんですよ」

そこまでいわれては、と私は耳杯じはいを受けとった。

ところで、三国志で蜂蜜といえば、袁術えんじゅつを抜きには語れない。皇帝を僭称せんしょうしながらも落ちぶれ、ついには蜜水も手に入らぬと知り、絶望のあまり死んだという偽帝・袁術。一方、私は無官の身であるにもかかわらず、村人に蜜水でもてなされている。この世界では、袁術はまだ存命なのだが……、あえていおう。

袁術と私、どうして差がついたのか。慢心、環境のちがいッ!

実際、慢心なんてしていられる環境ではなかったのだ。案の定というか、董卓軍に襲撃された潁川は、ひどく荒廃していた。けれど曹操が力をつければ、その本拠地になる潁川だって安定するはず。それまでの辛抱だと思い、私は歯を食いしばった。晴れの日には畑仕事をし、雨の日には文字の読み書きを教え、わずかな時間を見つけては、以前からちょくちょく手を出していた料理や農具の研究開発にいそしんだ。

そう、前世の記憶があるからには、やらねばなるまい。現代知識チート! ふっふっふ。私の現代知識が火を吹くぜッ! ……ええ、薄々わかっていましたとも。自分にそんな知識なんてないことは。それでも、チートとまではいかないけど、それなりに成果はあった。

一番うまくいったのは、一輪車、手押し車の開発だろうか。そうです。諸葛孔明が発明したという木牛流馬もくぎゅうりゅうばを、先取りインスパイアさせていただきました。すみません、本物の孔明さん。インスパイアといっても、一輪の手押し車をつくろうという発想だけであって、参考にしたのは未来のものですが。完成形をなんとなく知ってるだけで、ずいぶんちがう。この時代にしては、すばらしいものができあがったと思う。この一輪車、私の名から胡昭車、胡輪車などと呼ばれて普及しはじめているらしい。元日本人としてコショウシャは不吉なので、コリンシャの名で流通してもらいたいところです。

そうしてすこしずつ、私たちの生活は楽になっていったのだが、どうしても解決できない問題があった。賊の出没がとまらないのだ。どこからともなく盗賊があらわれては、ヒャッハーして去っていく。これは想定外だった。ううむ。存外、曹操が頼りない。

そこで私が目をつけたのが、この陸渾である。北には復興に動きだした大都市、洛陽。周囲は山に囲まれ、伊水が洋々と流れている。魚が豊富にとれるうえに、桃や梨、この時代ではめずらしいブドウの木までわっており、集落への入口がかぎられた防衛しやすい土地ゆえか、最近は賊の姿もめっきり見かけなくなったとのこと。

いざ訪れてみると、山あいの陸渾では、悪路に強い一輪車が活躍していた。開発者の私は手厚い歓迎を受け、この地への移住を決意したのだった。聞けば、この蜂蜜も商人から買ったのではなく、農作業の手間が減って、空いた時間で採取したものだという。水に困らず、食材は豊富、治安も良好。立派な家もできたし、ご近所づきあいだって問題なさそう。うむ。よきかな、よきかな。

引っ越し先の環境に満足して、ほくほく顔で潁川に帰ってきたところ、妻から手紙を渡された。留守のあいだにとどいたそうだ。誰からかな。荀彧かな? 郭嘉かな? それとも郭図だったりして。送り主を確認した私は、

「げえっ! 曹操!?

驚愕のあまり、思わず叫んでしまうのだった。