父の指示を受け、皆が一斉に動き出した。

降り続く豪雨のなか、川はまだ氾濫していないが、既に辺り一帯は水浸しだった。

「これは、エラン発案の水抜き水路が、洪水にならなくても役に立ちそうですね……」

そう呟いたレイモンドさんは、防災部隊を率いて、堤の状況を確認するため巡回を始めた。

「貴方、後は頼みましたよ」

そう言い残した母は、メアリーとサシャが待機している、マーズの町へ急ぎ移動していった。


最高指揮官である父、ソリス男爵は、街外れの射的場を防災本部とし、そこに詰めている。

「射的場にこんな使い方もあるとはな」

嘆息してひとり呟きを漏らしていた。

そう、屋根と壁があり雨風がしのげ、高さもある広い空間の屋内施設。奥行きも十分あり、多くの人員を収容できるうえ、屋内で煮炊きが可能で食事の配給もできる。これは俺の意向で、射的場が非常時の対応施設となることも想定して、建設されていたからだ。

兄ダレクや俺たちが率いる輜重部隊も、ここに待機し、各方面に配給する食事を用意していた。輜重部隊は兵士だけでなく、受付所や実行委員の者たちで構成され、予め役割も決まっていた。

こうしている間にも、オルグ川の濁流はさらに勢いを増していった。


そして……、大いなる水の禍、後になって『水龍の怒り』と呼ばれた悪夢の一日が始まった。


「報告っ、報告っ!」

早馬が到着し、父と俺の元にオルグ川氾濫の第一報がもたらされた。

「父上、何処ですか?」

「下流だ! ここより先、フランに抜ける街道上に架かった橋と、その一帯だ」

俺も父も予想外の場所だった。

いや、数ある想定の中には一応あったが、最初にここが溢れるとは思ってもいなかった。

この橋が架かる街道は、南へ抜ける最も重要な街道であり、領内の生命線のひとつだ。橋を越えた街道の終点には鉱山があり、その手前には、集積地兼中継地であるフランの町がある。大量の鉱石や鉄を運ぶため、橋は頑丈な構造に造られていたが……、その頑丈さが災いしてしまったのか?

「状況を説明せよっ」

「橋自体は堅固に改修されており健在ですが、橋に流れ着いた流木が水流をき止めております。そのため一帯は川が氾濫して水浸しです。現在は新たに築いた堤で洪水をくい止めております」

そういえば日本でも、頑丈な橋を造ったがために、土石流を食い止めてしまい却って被害を拡大させたと言われた橋があったような。確か、眼鏡橋……。こんな時に思い出しても遅いのだが……。

「レイモンド、部隊を率いて橋より下流へ! 橋が限界を超えると、一気に大量の水が下流に押し寄せるぞ! 対策と撤退の判断を見誤るなよ」

「はっ! 了解しました。これより直ちに出動致します。エラン、サラさまと二人で私と共に! 急ぎ水の逃げ道を作りましょう」

慌ただしく彼らも出動していった。

◇◇◇ (同時刻 マーズの町近く)

視界を遮るほどの雨が激しく降りしきる中、轟音を上げて濁流が流れるすぐ脇の堤防で、必死に作業を進める女性たちの姿があった。

「サシャ、もう少しだけこの濁流、支えてね」

「はい……、奥さ、ま……、だ、い、じょうぶ……、です」

クリスにも分かっていた。サシャは限界まで頑張り、水流を何とか別の方向に逃している。

そして間もなく、それが限界を迎えることを。

「メアリー、サシャが支えてくれている今よ!」

「はい、奥さま。絶対護ってみせます!」

クリスの地魔法はかなり特殊だった。普通の地魔法士は大地の形状を変化させることに特化しているが、クリスは大地そのものの性質を推し量ること、言ってみれば土地の鑑定ができるのだ。ただその代わり、大地の形状変化をもたらす力は弱く、土木工事よりも事前調査に向いている。

クリスはいまその能力を発揮し、現在崩壊しそうな場所、濁流に削られて弱体化しつつある場所などを次々と指摘し、それをメアリーが補強していく。二人で役割を分担し作業に当たっていた。

三人はずぶ濡れになり、そして激しい風に飛ばされそうになるのを耐えながら必死に対応した。その傍らには、土嚢を抱えた防災部隊が待機し、クリスの指示で次々と土嚢を積み上げていった。

「マーズの町を護る!」

この思いだけが、不眠不休で濁流と戦う、危険で辛い作業を行う彼女たちを支えていた。

◇◇◇ (エスト郊外 街道付近)

他にも、荒れ狂う自然の猛威を前に必死に戦い、自らの無力さを悔やむ男達がいた。

「レイモンドさまっ! もう橋は限界です、どうか退避を!」

「残念だが全員、この場を放棄して堤まで退避! エラン、サラ、放水路を開放してくださいっ! 下流域への警報も忘れずにっ」

彼の決断のあと、ついに橋が限界を超えて崩壊し、支えがなくなった川の水は鉄砲水となった。奔流は一気に下流域を襲った。

これまでなんとか濁流に持ち堪えていた堤も、ついに限界を超え、次々と崩落しはじめた。

それにより堤は各所で寸断され、そこから新たな氾濫が発生していった。

「くっ! 水の勢いが強すぎる……、これではもたない。ここで何とか堤を……」

「エラン! 残念だがここは諦める! これより我々は速やかに安全な下流域へ移動する!」

悔しそうに、その場に留まろうとするエランに対し、レイモンドは撤退を指示した。橋があった付近は既に氾濫した濁流で満たされており、それを外側の堤で何とか持ち堪えていたが、橋の崩壊に伴い、鉄砲水となり狂奔した濁流は容赦なく下流の堤を削っていた。

それらによって轟音と共に堤が崩落し、新たな一帯を泥濘に飲み込みつつ、更に下流域を襲う。激しい流れにさらされた下流域には、土石流が押し寄せて更に被害は広がっていった。流木や土砂を含んだ流れは、怒涛の勢いで流域を駆け回り大地を削っていく。

◇◇◇ (エストール領内)

ソリス男爵一家を始め、地魔法士たち、防災部隊は夜を徹して各地を飛び回り対応に奔走した。

いつ終わるかもわからない水龍との戦いに。

それは、永遠に続くかと思われ、俺を含め全員が疲労の極地に達していた。

だがやがて、悪夢の夜が明けはじめたころ、やっと風雨の勢いが少しだけ落ち着きだした。

「あともう少しだ!」

誰からともなく、希望の言葉が出始めたころになって、水龍の怒りはその終焉の兆しを見せ始めていた。多くの大地を泥濘の底に沈めたのちに……。


夜が明けると、雨は小降りとなり、雲も心なしか薄く、明るい空も見え隠れしはじめた。

それに合わせるように、水の勢いも徐々に弱くなり、視界も開けてきはじめた。

それでも誰もが、戦場のような忙しさで走り回っている。

本部に詰めている父の所には、続々と各地の状況報告が入る。

それらを集約し、部隊の移動や新たな対処が命じられていく。

やがて徐々に、切迫した報告は減り、被害状況や復旧状況の報告にとって代わっていた。

それらの報告を受け、各所にも安堵のため息が漏れ始めた。


「クリス様より報告です。マーズと周辺一帯の穀倉地帯は無事、人も農地も被害はありません! 堤防を点検し、補修を終えたのち、対策本部にお戻りになるとのことです!」

「レイモンド様より報告です。防災部隊の人的被害はありませんが、下流域の被害状況は調査中! 現時点でまだ確認できていないとのことです。なお、これまでに確認できた被害状況を報告します。フランに通じる街道より下流域の被害は甚大で、街道の橋は完全に崩壊し、一帯は水浸しとなり通行も復旧もままなりません。新たに設けた堤は各所で寸断されておりますが、近隣の村々には被害が及んでおりません。確認できた範囲内の農地は被害もないようですが、下流域に行くほど土石流の爪痕は大きく、最下流に位置するエール村は相当な被害を受けた模様だとのことです」


対策本部では、その後も報告が続き、次第におおまかな被害の全容が見えてくるようになった。

今回の洪水被害は、エストール領に限って言えば、甚大という程のものではないが、それでも無視できないほどの大きなものだった。その中でも、オルグ川流域の最下流に位置するエール村ではそれなりに大きな被害を受けたが、避難指示が徹底していたため、人的被害は免れていた。

被害を大きくした原因はやはり、最後の土石流だったらしい。堅牢な橋によって堰き止められていた流れが、橋の崩落で一気に解放され、大量の水と土砂が一気に下流を襲ったからだ。

それにより、エール村や更にもっと下流の、ヒヨリミ子爵領の一帯が泥濘に沈んだらしい。


洪水が落ち着き、事態は沈静化しつつあったが、逆に慌ただしさを増した部署もあった。エストの街に設けられた避難所、炊き出し所は、数百の避難民であふれ返り、兄と俺はここからが本番、そんな忙しさで対応に忙殺されていた。

「兄さん、俺は避難民対応の指揮を執るので、この対策本部は任せていいかな?」

「ああ、任せてくれ。ただこちらにも、炊き出し関係の人員を預けてもらえると助かる!」

「クレア! 聞いての通りだ。炊き出し関係は二隊に分割して、両方の部隊への振り分けを頼む。一隊はここに残って、帰還して来た防災部隊に対し、温かい食事やスープを振舞ってほしい。もう一隊は俺と共に避難民の対応に。カーリーンは兄さんの指揮下に入り、炊き出しへの誘導を頼む。クリストフは実行委員補佐の人間を率い、町の入口にて帰還者と避難民、それぞれの誘導を頼む。ローザは負傷者の対応を継続し、ここの臨時救護所を引き続き見てほしい」

「承知しました。射的場関係者はここで対応し、受付所関係者はタクヒールさまと共に!」

「はい、今から私たちはダレクさまの指揮下に入ります」

「了解しました。実行委員補佐、全員集合しこれより街の城門前まで移動する!」

続々と帰還してくる防災部隊、そして夜が明けてからも増え続ける避難民など、その対応は多忙を極めていた。

前期五大災厄の最後、エストールの地に壊滅的被害をもたらす洪水被害は、なんとか対処の目途はついた。それなりの被害はあったものの、前回の歴史と比べれば、洪水によって残された爪痕は驚くべき程小さく、失われた命はなかった。これはもちろん、前回の歴史にはない三つのことがあったからこそ、回避できたといえる。


・事前の堤防工事や、防災部隊、避難指示など、水害対策が十分に行われていたこと

・地魔法士の増員ができ、現場でも対応ができたこと

・今回の災害を事前に予期していたため、現場で混乱がなく全て迅速な対応ができたこと


「ふぅっ、なんとか……、なったか?」

俺はこの結果に満足して安堵のため息をついた。

後日になって、歴史がもたらす悪意、真の凶報を知るまでは……。