プロローグ


 海沿いの白い街並みを、淑女が一人歩く。大きな鞄を手に、濃い栗色の長い髪を潮風に靡かせ、慎ましやかなドレスの裾を翻し、気品と力強さを感じさせる足取りで。

 はっきりとした意思を宿した瞳は、赤。その色はまるで、ザクロかルビーか、はたまた血か炎か。美しく、ともすれば不気味にも見えるその瞳が、ふと空を眺めた。夏に相応ふさわしい快晴の空を、みゃう、と鳴いてカモメが通り過ぎる。淑女は白い翼と日差しの眩しさに目を細めると、微笑ほほえんでまた歩き出した。


 そうして彼女が向かった先は、港町エルゼマリンの裏通り。表通りの白く整った街並みから一転、薄暗く薄汚れた街並みがそこにある。

 煤けた漆喰は罅割れ、剥がれ落ち、その下のレンガ壁を覗かせている。道の脇には怪しげな露店が並び、明らかに真っ当ではない人間達がちらほらと行き交い、剣呑な小競り合いも珍しくない。

 そんな街並みの中、高貴な生まれを感じさせる淑女の姿は、異質であった。だが、彼女はまるで臆することなく、実に慣れた様子で──実際によく慣れているのだが──裏通りを進んでいった。

 やがて一軒の店の前へ辿り着いた淑女は、躊躇なくその店の扉を開く。

「ごきげんよう! 買い取りをお願いしたいのだけれど」

 入って正面は、カウンター。それも、互いの顔が見えないよう、木の板で間仕切りがしてあるものである。裏通りの店では、後ろ暗い品もやり取りするため、こうしたカウンターが少なくない。

 淑女は鞄を開け、毛皮や牙を取り出し、カウンターへ並べる。すると、間仕切り板の下から骨ばって大きい、骸骨めいた不気味な手が伸びて毛皮と牙を持っていった。よく見慣れた、ここの店主の手だ。淑女は店主の名も顔も知らないが、声と手だけは知っている。彼女はここの常連なのだ。

「毛皮に傷はナシ、と。相変わらずいい腕してるね、お嬢さん。惚れ惚れしちゃう」

 掠れた声が低く笑って、淑女を褒め称える。いつものことだ。

「じゃあ、買取額はこんなところで」

 そしてカウンターの奥から、じゃらり、と重い音を立てる革袋が差し出された。いつも通り、中には金貨がたっぷりと詰まっているのだろう。……だが、淑女はそれを手に取らない。

「ああ、それ、そのままあなたに預けますわ。それで、空間鞄を注文したいの。足りるかしら?」

「はいはい。そういうことなら、この額に見合うやつをいくらか見繕っておきますよ。前払いして頂ける分、品質にはこだわっておくからね。期待していいぜ、お嬢さん」

「ありがとう。夏が終わる頃に取りに参りますわね」

 手短にやり取りを終えると、淑女は店を出て、また裏通りを歩いていく。

 やがて表通りへと戻ってきた淑女は、そこに停めてあった馬車に乗り込んだ。馬車には家紋が刻まれている。それは新興貴族、フォルテシア家のもの。


 そう。颯爽と裏通りを歩き、臆することなく裏の店に入り、自ら狩った魔物の毛皮を売り捌いた淑女の名前は、ヴァイオリア・ニコ・フォルテシア。

 歴史書に名を刻まれることとなる女傑である。