天野宗助関連の〇ikipedia 一部抜粋

・天野宗助 (1535~1574(これは活動していたとされる期間の記録))

戦国時代において奇才を示し、多様な作品を多く生み出した戦国時代の職人。

出生地や年齢等の正確な情報は一切不明であるがおよそ八の歳に活動を行う地、清条国楚那村(現 清条府楚那市)にやってきたとされる。


彼の奇抜な作品は近代の技術に近いことから当時としては斬新、革新的な技術であり、後世にも影響を与えた。

彼の作品には様々な逸話や伝説が多く残っており、山に篭り人を避けて作品を作る姿から当時の人達は彼の事を気まぐれに地上に降りてきた仙人、人の姿を借りた職人の神、人の世に馴染もうとする鬼等の噂が広がるが、彼と親交があったものからの記録にはそういった噂に大変迷惑そうな顔をしていたとあり、ただの人嫌いであったという説が強い。※1

彼を知るものはただの戦嫌いの変わり者と揃って書いている。


天野宗助の人柄は大変温厚で、月ヶ原義晴や地ノ守ちのまもり太郎助たろうすけ等多くの者に世話を焼かれることがあった。

しかし料理上手で物を大事にする人物であったと記録があり、また月ヶ原義晴が家を訪れた際に家の掃除をしていた事が多々あったという記録から生活能力が低い訳ではないという。

礼儀正しい人物であり、職人としての筋を大事にしていたため出来た人との繋がりは大事にし、また職人として初めて卸す種類の作品があるとどれだけ質が良い作品であっても相場の最低価格で売ってくれというのだがこの点だけは困った職人であると花衣屋で言われていた。※2


※1 月ヶ原義晴が天野宗助に町で仙人扱いされていると言ったところ、顔をしかめてそんな噂が出たら山に多くの物見遊山な人が来るから困ると言っていたという記録がある。(出典 月ヶ原義晴の日記から)

※2 これは花衣屋が天野宗助の卸す作品の腕の高さは信頼しているので相場より少し高めで売ろうとしたが、天野宗助はその専門の職人に対して新参に近い自分が高い値段で売るのは良くないという理由のため、花衣屋からすれば技術と価値に相応しい価格で売るのが天野宗助のためであるという意見の食い違いで起きたことであるという記録がある。(出典 花衣職人記録書「天野宗助氏」から)

出典 天野宗助資料館、清条博物館


・月ヶ原義晴 (1521~1580)

清条国の月ヶ原家8代目当主であり、日本を統一した天下人として有名。

当時悪名高い国であった莫呑なかのの軍勢を打倒したことで多くの国々が彼の傘下になると志願したために月ヶ原義晴は当時22という若さで天下人となった。

・・・・・・・

月ヶ原義晴が最も寵愛していた職人は天野宗助、ただ一人である。

楚那村に赴いた際に天野宗助が住む山にて迷い、行き倒れそうになったのを救ったのが天野宗助であった。※1


多くの不思議な逸話を持つ作品を作った天野宗助をこの世に知らしめる切っ掛けになったのは月ヶ原義晴であり、彼の愛刀である刃龍は天野宗助の初期の作品であり、この刀との出会いが天野宗助の腕にほれ込んだ切っ掛けであると自身の書に記録している。

月ヶ原義晴はこの刃龍に出会った次の日には天野宗助が住む楚那村を戦の徴集の対象から外すように命じて天野宗助が戦の影響を受けずに自由に作品を作れる環境を整え、忍びにより警護させて安全確保を行ったので刃龍をかなり気に入ったようだと家臣である此枝このえだ三九郎さんくろうは察したという。

一部ではこの待遇は刃龍を貰ったお返しではないかと言われているが、戦嫌いであった天野宗助にとってそれは一番喜ぶことであったのは間違いのないことであった。


天野宗助は生活能力が低い訳ではないが危機管理能力が低いといつも此枝三九郎にぼやいていたようで度々世話を焼いており、そんな二人が兄弟のように見える家臣達は多かったという。※2

月ヶ原義晴を知る人物の多くは天野宗助に対して大変世話を焼いている姿に驚いたとよく記録される。


※1 天野宗助は楚那村に自身の知恵を多く授けており、その中には農業に関しての知識もあったため、その調査のために楚那村に訪れたのではという説がある。

※2 此枝三九郎の日誌にて月ヶ原義晴はよく天野宗助に対して生活習慣や危機管理能力の低さから説教をしていたという記録が多く残っており、他の家臣の日記にも書かれている。

出典 月ヶ原家関連書物、清条博物館


・星落ノ山

天野宗助が活動の中心とした屋敷と工房がある山。隕石が落下したことから名がついたとされる。(元 火牟呂山)※1


楚那村から歩いて三十分で山の入口に着くが、工房に行くまでは二時間ほど時間がかかる。ただしこれは観光用に用意された道の時間であり、天野宗助と関係者は別の裏道を通っていたため約三十分程度の距離であった。(現在は江戸時代に起きた地震による崩落により復旧不可とされている)

元からであったのか、隕石の影響かは不明であるが、資源が豊富であったため天野宗助は作品の製作時に資源に困ることはそう無かったと記録がある。※2

また、彼と深く親交があった月ヶ原家8代目当主月ヶ原義晴との出会いはこの山である。(出会った経緯は天野宗助または月ヶ原義晴を参照)

水が澄んで綺麗であったため天野宗助は山の水を使い清酒を造っていたが、月ヶ原義晴によく持っていかれて量が減ることを嘆いていたという有名な話がある。※3


※1 彼が住む数十年前に隕石が落下した記録があるが、その遥かに前(現在は平安時代前と推測されている)に巨大な隕石が落下した記録が発見され、星刀剣とよばれる彼の作品はその隕石が使われたという説がある。

※2 素材がないとよく嘆いていたのは主に布や貝殻であった。

※3 月ヶ原義晴が生涯で一番美味い酒と評するほどの酒は天野宗助が造った酒であった。そのため造られた際には必ず持ち帰りたいと強請っていたという。

出典 天野宗助資料館、清条博物館


・国宝 打刀 刃龍

直刃の美しい刀身を持つ刀、切れ味も良いが何より特徴は鍔の部分とされる。


龍が刀を囲むように巻きつく姿をした鍔をしているが姿を見るたびに手や口、目を開かせたり閉ざしたりしていることから月ヶ原義晴はこの刀には龍がいると信じ話しかける姿が家臣の日記に記録されている。

また刀掛けにてカタカタと動く刃龍を多くの家臣が目撃し、今でも博物館にて動く姿が目撃されている。


持ち主の危機には龍が飛び出して守るという話があるが詳しい記録は残っていない、が月ヶ原義晴はある時期から特に大事にするようになったと複数の記録が残るため恐らくはその時にはすでに刃龍に命を救われていたのではと考察されている。

この刀が世に初めて出たとされる天野宗助の作品である。


出典 月ヶ原所蔵宝物書、天野宗助作銘品書 等

現在 清条博物館にて所蔵



・銘酒 水清酒

戦国の職人 天野宗助が造った酒の品種

星落ノ山の澄んだ水から造られた酒は舌ざわり、香り、喉越しがよく、後味も程よく残る。


初めて飲んだものは泉の精霊に会えると言われるが、二度目以降は稀に会えるとされるため何時会えるかは精霊の気まぐれとも言われる。

時間をかけてつくるため月の販売数は酒樽20本も満たない、故に希少性も高い。

天皇家に献上されているため、贈り物としても大変喜ばれる。某国の首相、大統領にも振舞われた際に彼らもまた精霊を見たと証言したことから世界に「水清酒」の名が轟いた。


天野宗助は水清酒をもっと美味しく改良させたが試飲した月ヶ原義晴が美味すぎて他の酒を飲めなくなるとこの酒の製造方法の書いた紙を破棄させた話が残る。現在でもその製造方法は不明であり、幻の酒となっている。

現在は清条国天野酒店のみで製造・販売されている。

出典 天野宗助資料館、清条国天野酒店


・星刀剣シリーズ 短刀 星海宗助

天野宗助が生み出した刀剣。

隕石を使った星刀剣シリーズの一つ。※1

初めに作られた星刀剣シリーズであり、一番初めに名前が付いた。


月の光を当てると星を浮かび上がらせるという不思議な力を持つ。

ある年に星海宗助を見せて自慢していた月ヶ原義晴はある海軍の武将から北斗七星があると言われ、他にもすばる星などの方角を示す星が見つかったことから天野宗助は星空を正確にこの刀に映したと評し、後日、褒美と酒を天野宗助に贈ったという。

義晴の部下三九郎の手記によると最初は弟刀の流星宗助を欲しがっていたが持てなかったのでやめて代わりに星海宗助を譲ってもらったという。

また流星宗助の行方に己の息がかかるものを所望していたという記載がある。


月ヶ原家の子供達の中で航海や天体に関連する職に就きたいと夢を持つ子がいれば自身の刃にて星の勉強をさせたという逸話がある。

※1 星を使ったと記録されているため2024年に没後450年を記念した大規模な調査が行われた際に他の星刀剣シリーズと共に材質を調べるとギベオンが含まれていたことから真の星の刀として注目を集める。

出典 月ヶ原所蔵宝物書、天野宗助作銘品書 等

現在 清条博物館にて所蔵


・風鈴 銘無し 友鈴

淡い青が渦巻く海の中をペンギンが泳いでいるように見える模様が特徴。


清条国の忠臣沢野木伝六が所持していた風鈴であり、彼の書物から愛用品であったとされる。

彼が夏の暑さに耐えられるようにと月ヶ原義晴から天野宗助に依頼されたもの。

この風鈴を沢野木伝六は大変大事にしており、夏の始まりにはすぐに出し、夏が終わると名残惜しそうに仕舞っていたと記録がある。

この上記の件と夏に調子が良くなることから晩年では〝夏武将〟と呼ばれ、義晴からは〝夏爺〟と呼ばれていたと城中の記録に記載される。


友鈴は環境省の環境大臣が就任する際に受け継がれる由緒正しい風鈴であり、代々愛用されている風鈴。

この風鈴は吊るすと夏場は電気いらずと言われるほど涼しくなることからもエコであると愛用されている。がそれが大きな理由ではないと〇〇代目環境大臣のつむぎ兼次かねつぐは語っている。

詳しくは語らないが夏にだけ現れる友がいるからと答え、その友の前では悪さは出来ないとも語った。※1

この発言についての詳細は不明であるが環境大臣を担当したことがある議員は全員同意していたという。※2

現在 環境省にて代々受け継がれている国宝である。


※1 夏になると沢野木伝六の傍に鳥のような生き物がいると複数の記録があるため夏にだけ現れる友はこの鳥のような生き物であるとされる。

※2 これはテレビ局が環境庁の密着取材を行った際に紬兼次議員が風鈴を吊るす場面にて発言されたもので、企画で映像を環境大臣だった議員に確認してみたところ全員が同意し、ある議員は映された画面に触れて風鈴を撫でる仕草をした。

出典 天野宗助作銘品書 等

現在 環境庁にて所蔵。


・獣型根付 梟番

天野宗助が作製した動物の形をした根付。

二匹の梟が翼で互いを包み、穏やかな表情を浮かべる作品。


蒼里国の治安部隊隊長であり、早紀野守家三男坊の高佐の妻として有名な琴音が持っていた根付で有名。

元は楚那村の村長の持ち物であったが、山賊に奪われ、当時山賊に攫われていた琴音(改名前お琴)が山賊から価値が無いものとして押し付けられたものであるという。


山賊から逃げる際に梟が彼女を救い、見回りをしていた高佐の所属する部隊に救助させたという逸話がある。


高佐に救助されて以降も彼女の命を何度も救い、高佐と結ばれる切っ掛けをつくり、琴音の子を守った等の逸話をもつことから幸福を招く根付と呼ばれる。

梟が宿る根付とも言われ、持主の危機、祝辞、吉兆の時には二匹の梟が現れるといわれ、早紀野守家では雄を白勇はくゆう、雌を白花はくかと呼び、今もこの番と親交を深めているという。

この根付から早紀野守家の家紋には二匹の梟が使用されたという説がある。


出典 天野宗助作銘品書 等

現在は早紀野守家の個人財産であり、今も継承される家宝として保管されている。


・名品 手鏡 葵姫

大手百貨店の花衣屋に代々伝わる鏡。

コンパクト型の立葵の装飾があしらわれている美しい手鏡。


映ったものがなるべき姿に変化させる鏡として有名で、数多くのものを変化させた逸話がある。

最初の持ち主であるお咲を仕事の出来る女へと変えて、輝かしい栄光を与えたが彼女はそれに慢心せずいつまでも美しさもやる気も向上させて女傑になった。

またある時はある冴えない武士をエリート文官に育てあげ、またある時は小汚い子供を超人気の舞台役者へと変えたという。

映る姿は鏡故に変わるが口調はどこか偉そうな口調であったこととまた女子の姿を映すと高貴な姫君のような口調になったことから名前に姫がつけられた。


普段は花衣屋本店のエントランスに飾られている。

これは葵姫が与える変化の切っ掛けをほかの人にも分け与えたいというお咲の思いを受け継いだもので今も尚行われているのだという。

しかし、なぜかこの鏡がある場所から鏡や店の商品を盗もうとしたり、悪さをしようとすると邪魔されてしまいすぐに捕まるため厄除けにもいいという評判もあった。


また白百合の薙刀と並ぶと女の話し合う声が聞こえるという噂があるらしい。※1


※1 人の導き方や方針を議論することが多いそうで、ある特別展示においてこれを聞いた高校の女教師は進路相談に力を入れて多くの生徒の未来に道をつくった。

出典 月ヶ原所蔵宝物書、天野宗助作銘品書 等

現在 大手百貨店の花衣屋にて所蔵並びに展示中



・名品 陶器 龍雲

清条府登尾市龍雨りゅうう神社の御神体である壺。

青みがかった灰色に白い雲のような模様が描かれた水の入った壺で、龍の寝床として龍雨神社に祀られている。


日照りが続き水不足となった村に天野宗助が住んでいた楚那村から水の入った壺を贈られたことでこの地に来たが、その後に雨を降らせて土地を潤したという逸話が存在し、今も尚登尾市周辺では干ばつの被害は一切無く、龍神様が適度に雨を降らせていると言い伝えが存在する。

書物には白い龍に体を巻かれてじゃれつかれている熊八という男の姿がよく見られたと記される。

この熊八を龍が大層気に入った故に村を救ったという当時の村長の記録から、彼が最初の所持者であると推測されている。


天野宗助作と判明したのは江戸時代に天野宗助が作ったものを管理していた月ヶ原家の記録に天野宗助が善意で水をいれて登尾村に村の者が用意した水壺と一緒に贈ったと記録があったことからである。

当時のことを月ヶ原義晴の部下、此枝三九郎は日記にこの件を天野宗助から聞いた時はすごく心臓に悪かったと書いている。

今も龍は壺に棲んでおり、時には雨を降らせて、社を守る一族(龍守氏)の傍にいるらしい。

昔から登尾市に住む人間には龍の姿を見ることが出来るようで、龍守氏の子供と遊ぶ姿や、遅刻しそうな時は咥えて空を飛ぶ姿をみたことがあるという目撃談があり日常的な事であるという。この一族から龍を離そうとする、もしくは一族を害そうとすると龍の祟りに遭い、火の災難によく遭うという昔からの言い伝えから住人は龍のことを見守っているという。※1


龍壺を刃龍の傍におく風習がある。※2


※1 ある年に龍守一族の中から他の村に嫁いだ娘がいたのだが嫁ぎ先で嫁いびりをされて泣いていた時には空から白い龍が雷鳴と共に現れた。嫁ぎ先の家に怒りから雷を落とし、娘を乗せて帰っていったという事件があったため周辺の村では特に手を出してはならないと言いつけられた。

※2 月ヶ原義晴の愛刀刃龍には頭が上がらないらしく刃龍が傍にいるときは静かにしているため、龍守氏は龍が悪さをすると罰として刃龍が展示されている清条博物館まで連れて反省させに行くという話からネットでは龍雲が清条博物館に展示される告知がされる度に龍雲反省中、刃龍兄さん今日もお説教お疲れ様です等コメントがつく。

出典 月ヶ原所蔵宝物書、天野宗助作銘品書 等

現在 龍雨神社にて保管



・簪 銘 不明

天野宗助が商売として作ったといわれる多くの簪。

豊富な種類ではあったが全てに美しい装飾がされており、商人達は一目で彼の作品とわかるほどに美しかったという。当時の花衣屋の中でも売れ筋の商品であったという。


目立った逸話はなく銘もないが、彼が作った簪は当時の女性達の間では幸運を呼ぶ簪と呼ばれた。

それはこの簪を髪に差していると失せものが見つかる、いい縁と結ばれる等良いことが起こるので幸せを呼ぶとして人気の簪であった。

また簪の特徴によっては不思議な力もあり、猫の簪をつけると猫が寄ってくる、蝶の簪だと蝶が髪に止まり、花の簪をつけているとその匂いがしたという。

また持ち主の身代わりとなり壊れたものもあるという話が多く残されている。


天野宗助が村の幼馴染であるおゆきと地ノ守太郎助に語ったとされる記録には売り物でも簪を差した女性が美しくなるようにと願っていたとあり、簪はその思いを強く受けているのではと月ヶ原義晴は考え、一部の簪を除き簪に対しては記録を取らずに好きに作らせたという。

出典 月ヶ原所蔵宝物書、天野宗助作銘品書 等


・有形文化財 花簪 四季姫

天野宗助が作った花簪、桜吹雪、向日葵、竜胆の君、梅花の四つを総称したもの。

それぞれが四季の花であること、姫のような美しさから気軽に手を出せなかったことから四季姫と呼ばれたという。

この姫達に選ばれた人間は模られた花のように華やかに、彩りのある人生を送るという話が有名。


元は花衣屋にて共に売られ、それぞれ己に相応しい持ち主の元へ行ったとされるが、桜吹雪のみ現在でも花衣屋の姉妹店である木崎屋に保管されている。


・四季姫 桜吹雪

木崎屋に代々伝わる簪。

天野宗助が作ったとされる布で作られた桜の花簪。

美しい大輪の桜が咲く花簪で所持者であった木崎屋の女将お澪は桜が似合う女として常和で有名であり桜美人と呼ばれていた。


桜の香りと花弁が舞った時は桜吹雪が何かをしており、木崎屋の風習の一つに桜の香りがするときは簪に触れないようにするというものがある。

これはある時木崎屋の二代目店主が桜の香りがするときに身に着けた妻である女将お澪に悪戯しようと触れた際に桜の花弁が怒るように彼の顔に張り付いたという逸話から行うようになったという。

また木崎屋の店の中でマナーの悪い客や店のもの(商品や従業員)に良からぬ気持ちで近づくものには厳しく、すぐに桜の花弁が店の外にまで追い出すが、常連やマナーのいい客には相応しいものを教えるように花弁が飛ぶという。


月ヶ原義晴が花衣屋に簪を卸すことを許したのは桜吹雪の化身の女が木崎屋二代目店主(当時花衣屋所属)に心を許し、他の簪をいい人の所へ渡るように頼んだのを見たからだと記録されている。

出典 月ヶ原所蔵宝物書、天野宗助作銘品書 等

現在 現木崎家当主が所有、木崎屋本店にて桜の咲く時期にのみ展示。


・名品 動物像 河童横綱

天野宗助作で河原家に代々伝わる木像の河童像。現在は河原家の子孫である豪流関の相撲部屋川之部屋が所有、管理をしている。

天野宗助が村の相撲の儀式の際に作り、当時の河原家当主河原玄三郎が河童横綱を気に入り譲ってもらったことから河原家に来たとされる。※1

河原家の居間に代々飾られており、河原家の者だけでなく仕えていた女中や奉公人達の守護をしてくれると言い伝えられており、時には河原玄三郎の妻や奉公人達の命を救ったことから玄三郎の時代から守り神として丁重に飾っていた。


また玄三郎の子供の一人を横綱にまで育て上げたという逸話から相撲の神としても後に祀られた。

これは初代川之部屋の横綱碧流関が己の師匠は河童だと言っていたとされることから河童横綱が彼を守護する際に鍛えたようだと玄三郎の日記により語られている。

また川之部屋の若い力士が夢の中で河童に稽古をしてもらったと多くの声が上がり、育てられたという者が多かったため力士を育てる相撲の神として話が広まる。


川之部屋の大事な試合には必ず会場に連れていき会場の関係者席の上に置かれ、この像が置かれると必ず他の部屋の力士達が挨拶や拝みにくるという。

※1 河原玄三郎の日記によると河童横綱は河原玄三郎と相撲がしたいために持ち帰らせる形でついてきたようだと記載がある。

出典 月ヶ原所蔵宝物書、天野宗助作銘品書 等

現在 川之部屋にて保管