九章 交わり、分かつ



 ──分析率七五パーセント──



 この研究所にいるみんなが、世界のために、人類のために働いていた。

 それなのに、どうして、こんなひどい目に遭うのだろう?

 悲鳴が聞こえた。どれも知った声ばかりだが、どんどん少なくなっていく。逆に研究所に放たれた火は勢いを増していく。スプリンクラーは、なぜか作動していなかった。

 少女はふらふらしているうちに、大食堂の壁にもたれかかって座るベンおじさんを見つけた。ベンは半目を開いたまま硬直し、口からねばついた血を垂らしていた。

「べ──」

 少女がベンの肩に触れようとしたとき、後ろから大きな手が口に回され、少女はドキッとした。しかし騒がなかった。ごつごつした手は、よく知る手だったから。

 背後の男が、少女を振り返らせる。三十代後半の男。痩せこけた頬を黒いひげで覆っていて、パワフルとは言いがたい男だ。薄汚れた白衣とがね姿だから、なおさらだ。

 しかしかれは、少女にとってこの世で最も頼れる男だった。

「手を離すけど、静かな声でしやべるんだ」

「パパ……」

 父は少女の金髪頭を右手で抱き寄せる。少女の目は、父がもう片方の手に持っている物騒なものにくぎけになった。ショットガンだ。

 父は少女を離すと、ショットガンを両手で握った。

「ママのところへ行こう。パパの服を握って、パパの背中だけ見るんだ。いいね?」

「うん、わかった」

 父は廊下を進み始めた。少女はその白衣の裾を握っていたが、約束は守れなかった。目は、あらゆるものを捉えた。廊下のメッシュ窓から見える外では、芝生や庭園が、研究所を中心に燃えている。人の形をした炎がのろのろと踊っていた。所内にも火の手が回り、床に顔も名前も知る人が何人も倒れていたが、父はけっして足を止めなかった。

 ただ。一度を除いて。

 サーバー室の前だった。ドアの窓から見ると、そこはまだ無事だった。父はその部屋の奥にある『バックアップ・コールド』と書かれたマシンをにらんでいた。

 父はドアノブに手をかけ、ハッとしてから少女を見る。そして悲痛な表情をもろい作り笑いで覆うと、ドアノブから手を離した。

「行こう。地下だ。ママが待ってる」

 父は非常階段を使い、下へ降りていく。地下二階の廊下には火も人もなく、父は大急ぎで合同研究室という部屋へと向かった。合同研究室の厚い金属ドアは半開きになっている。

 その隙間から、金髪へきがんの女性の顔がこちらをうかがっていた。

「ママ!」

 少女は研究室に入ると、母の胸に飛びこんだ。母はとびきりの美人だった。しかし今は汗まみれの額やほおに金髪を貼り付け、あんと涙で美貌をくしゃくしゃにしていた。

「ああ、神さま……。ケガはない? どこも痛くない?」

 母が少女を抱き寄せると、その後ろでドカンと音がした。父が閉じたドアの横にある端末へショットガンを撃ったらしく、砕けた端末から火花が散っていた。

「これですこしは時間を稼げるな……ガリーナ、軍へ連絡は?」

「だめ。ぜんぶ乗っ取られてる。マイルズがカナダ支部と会議中だったけど……」

 母が視線で示したのは、合同会議室の左右に並ぶ大きなカプセル。リクライニングシートを金属卵で覆ったようなそのマシンは、VRSNSに長期ログインするためのものだ。父はすぐにマイルズのカプセルへ駆け寄ると、正面の円形ガラスから中をのぞいた。

「くそっ。ヤツら、生命維持システムも緊急システムも止めやがったな」

「じゃあマイルズは?」

「ああ。きっと、通報する時間もなかっただろうな」

「……〈蛇殺し〉の試作は?」

 父はうつむく。母はその顔から全てを察したように、少女を抱きしめる手に力をこめた。

「あなたは正しい選択をしたわ」

 ──ちがう。まったく正しいことではなかった。

 父は迷子になった自分なんかより、〈蛇殺し〉の試作データを回収しにいくべきだった。

 それは、少女がこれから歩む地獄が証明していた。



 ナオトはマーリアとかれのアパートに戻り、仮想負傷の手当をして夜を過ごした。アーロンにどんなトラブルがあったかわからない以上、店にとどまることは危険だったのだ。

 そして翌朝、トージョーに連絡した。

『……そうか。ターゲット二名はったか』

「はい。しかし情報は拾えませんでした」

『わかっている。報告は読んだ』

 無味乾燥な声は変わらないが、通信ウィンドウからソファに並んで座るナオトたちを見るトージョーは、どこかイライラしているようだった。

『目標二名死亡。〝敵〟は、状況の再確認に動きをにぶらせるだろう。我々の問題を解決する時間は稼げたはずだ。……共闘の契約は、完了した』

「まってください。アーロンが音信不通です。〈ウルラート〉も意図的に断っている。なにかしらの危機下にあるのでしょう。まだわたしたちの知らない脅威が──」

『契約は契約だ。それに従うのがおきてで、プロだ』

 反論を切り捨てられ、マーリアは黙りこむ。

『ターゲット撃破は十一時間前。契約にのつとり、猶予を作る。マーリアは学校へ行け。ナオトくんは……自分で決めるといい。そちらの午後七時から、マーリアがきみを狩る』

 マーリアは無言で席を立ち、リビングを出ていく。

 ナオトはそれを呼び止めようとしたが、

『……わたしが知っていれば、昨日、ターゲットを攻撃させはしなかった』

 振り返ると、トージョーの無表情は崩れ、後悔と憤りがあらわになっていた。

『あの契約は、マーリアとボスを止めるための口実だったのだ。きみが〈ウルヴズ〉に入ってくれる方法を探すための、時間を稼ぎだ』

「それと、マーリアを電賊から脱退させるための?」

『気付いていたか』

「はい。なんとなく、ですけど」

『まあ、無理があったか。学校に潜入など』

 トージョーが人間らしい苦笑を浮かべてみせるが、それもはかなく消えた。

『わたしはきみに同情している。だから正直に言おう。わたしはマーリアを救うためなら手段を選ばん。全力で彼女を支援する。きみに勝ち目はない。──それでも、〈ウルヴズ〉にこないのか? きみに残された、最善の道のはずだ』

 黙って見つめ返すナオトをしばらく眺め、トージョーはためいき交じりに言った。

『……幸運を祈る』

 通信が途絶えた。時計を見ると、午前六時。十三時間後には、ひどいことが始まる。

 ナオトは身をひるがえすと、制服へと着替えにいった。



 通信を終えると、トージョーはデスクに一つのウィンドウを表示させた。それを眺めていると、〈テイルズ〉の副官マイクが入室してきた。

「全チーム脱出確認しました。被害査定も完了。我々の痕跡は消しました」

「ご苦労」

「……それで、お嬢とR・O・O・Tの件はどうしますか?」

 トージョーはデスクの天板を指でゆっくりたたく。

 その静かなリズムが三十回ほど鳴ったとき、言った。

「昨日、マーリアたちが〝敵〟を撃破した。なぜ、こんなことが起きた?」

 マイクはなにか返そうとしたが、口を閉じる。

 トージョーは指で天板を叩き続け、言葉を──思考を紡ぎ続けていく。

「昨日の戦闘は、許容しかねる危険度だった。だが、わたしに連絡はなかった」

「はい、対象の機転がなければお嬢は死んでいました。まちがいなく」

「つぎに。マーリアのチームがR・O・O・T奪取依頼に失敗したこと。報告によれば、チームの一人が、対象とR・O・O・Tを接触するように合図したそうだが」

「お嬢の記録にも残っています。その者は──」

つじつまが合うな」

 人差し指が天板を叩くのをめ、デスク上のウィンドウを示す。

「……アーロン・トーレス軍曹。元・アメリカ陸軍情報部。五年前に除隊」

 男の写真だった。頭を丸めた、頑丈そうなアフリカ系。下には経歴も表示されていた。

「軍人時代からグリッチャーだったようだな。除隊後の動向は不明。三年前に〈ウルヴズ〉へ自らを売りこんできた。リヴィオは、かれの能力を高く評価していた」

 マイクは黙っている。トージョーの思考のマト当てとなろうとしていた。

「だが、昨日、かれの軍人時代の経歴がわかった。六年前に、アメリカ政府と共同研究していた企業チームの、即応防衛部隊に所属していた。その企業チームとは──」

「……ライフシェル社の対〈ヴァイパー〉チーム。我々〈テイルズ〉が守り、〈無二の規範〉の奇襲を受けて壊滅したチームですか」

「そう。完璧な奇襲だった。我々すら出し抜き、致死圏にまで踏み込んできた」

「〈無二の規範〉は素人ばかりでしたが、こちら側に裏切者──しかもグリッチャーがいたのであれば、話は変わってくる。……すでに滅びたという話も、変わってくる」

 トージョーはうなずくと、吐息交じりに命令した。

「日本に二チーム、すぐにたせろ。残りは仮想戦闘に備えるんだ」

 マイクはうなずくと、通信アプリを開きながら急ぎ足で部屋を出ていく。

 しかし、ドアノブに手をかけたところで振り返った。

「ボス・フォルナーラにはそう報告するとして……お嬢には?」

「伝えない。ヤツは社会へ戻る。いまさら仲間の裏切りなど、知る必要はあるまい」

 了解し、マイクが去る。ひとり残ったトージョーは、深々とためいきいた。

 ──VRSNSにより、だれもかれもが、見えない鎖に縛られた。そのことにも気付いていない。気付いたときには、ドツボにまっている。偉大な男ですら、そうだった。

「だがな、兄弟。約束する。おれは……おまえの夢を引き継いでみせる」



 イタリアは深夜一時だったが、フォルナーラはまだ起きていて、書斎で一通のメールに目を通していた。何度も何度も、熟読していた。

 すると館に一台の車が猛スピードでやってきて、門番たちを怒声で退け、車回しで急ブレーキをかけて止まった。それから運転手が飛び出ると、館へと突進してきた。

「失礼します、ボス! ──ええい、リンカ、離せ! わたしだと見ればわかるだろう!」

「えー、でもー、ボスの警備がわたしの仕事ですしー」

 メールを閉じると、案の定、血相を変えた次席幹部フィルマンが、スーツをつかむリンカを引きずりながら書斎に入ってきた。フォルナーラがリンカを下がらせると、フィルマンはスーツのしわも直さずデスクに飛びついた。

「相談役からの、お嬢の〝敵〟との戦闘記録と考察はご覧になりましたか?」

「ああ、興味深いものだったな。R・O・O・Tは、プランターと呼ばれる一部の適合者しか扱えないという見解もそうだが、ナオト・ヒノの戦いぶりも──」

「そこではありません! 〝敵〟が〈無二の規範〉かもしれないということです!」

 なにを悠長なと、フィルマンがデスクに両手をたたきつける。

「もしヤツらがよみがえったのなら、事を構えるのはリスクが高すぎます」

ごうの衆に負けるとでも? ああ、トージョーは破れたな。しかし、わたしなら──」

「相談役との確執は、いまは忘れてください。それに、ごうの衆だからこそ、相手にしてはならないのです。勝ったところで得るものがない」

「……おやなら、無秩序に破壊をき散らすアホどもをどうするかな?」

「お父上のきようじを守るためにも、無視すべきなのですっ!」

 フィルマンは自身の大声で、あせりを自覚したらしい。アプリ〈おおかみの血〉を起動し、血流や認識力を調整して心を静めはじめる。フォルナーラは羨ましく思った。彼女は〈狼の血〉を保持していない。父の遺言だ。ボスになるなら、そんなものに頼らず統率しろと。

 ──いまなら、その真意がわかるよ、親父。

 やがて、心を静め終えたフィルマンが声量を落として言った。

「世界的テロ組織に勝利し、その名声を利益とするには、先進国と取引しなければならない。主導権は奪われるでしょう。……なにものにも縛られないという、先代の信念に背きます。そして損益を度外視して戦えば、傷を負ったところを他電賊にわれます」

「ただでさえ弱っているからな。で、次席幹部として意見は?」

「……R・O・O・Tを破壊し、この件から手を引く」

 フォルナーラは退屈そうに眉を落とすが、フィルマンは退かない。

「R・O・O・Tが〈無二の規範〉の手に渡るのだけは避けなければ。我々の市場が脅かされます。懸念はまだあります。プラチドのデバイスがゆく不明になっていることと、ヤツが隠していた事業です。我々は腹に爆弾を抱えている。賭けに出られる状態ではない」

 フィルマンはしお頭を汗でらしている。手打ちも覚悟で言っているのだ。

 だからフォルナーラが片手で肩をたたくと、こわもての男はビクリと震えた。

「安心しろ、フィルマン。わたしはもう小娘じゃない。考えがある」

「考えとは?」

「おい、わたしはだれの背を見て育ったと思っているんだ?」

 フィルマンは口を閉じた。これ以上は、偉大なるリヴィオへのぼうとくになる。

 賢い次席幹部は沈黙したまま一礼し、書斎を出ていった。

「……なにものにも縛られず、自己を貫くか」

 フィルマンが言った親父の信念をつぶやき、苦笑する。

 それから、さきほど閉じたメールを開き直し、もういちど端から端まで読んだ。

 ──親父は、どんな苦境も乗り越えてきた。非人道的売買の巨悪を相手にしたときも。荒くれグリッチャーどもが襲ってきたときも。孤立無援で、不可能を可能にしてきた。

「そう、不可能だったのだ……」

 フォルナーラはデスクの端末を操り、父の記録映像一覧を探っていく。

 どれもこれも父の偉大さやあいきようを表す動画だったが、一つだけ、不可解なものがあったのだ。だがいまは理解できる。さきほど送られてきた、このメールのおかげで。

 フォルナーラは五年前の〝兄弟ケンカ?〟というタイトルをクリックした。



 フォルナーラはリヴィオを撮っていた。かついいときはいつでも撮れと言われていた。

 だから、いつになく真剣に報告書と向き合っていた父を書斎で見つけ、カメラを回し始めたのだが、さっそく父がおどけてしまった。

『いいアングルだな、フォーラ。腕がいい。カメラマンになれるぞ』

 カメラに向かって、父がウィンクする。しかしふとった下あごには汗がまり、笑顔の下では複雑な感情を抱いているのが娘にはわかった。

『だが、いまはちょっとタイミングが悪い。あとで──』

『リヴィオ、きたぞ』

 ドアがノックされると、父は天井を仰ぎ、数回も深呼吸をする。まるで火災現場に飛び込む準備をするように。それから厳しい顔を作り、重々しく『入れ』と言った。

 入室してきたトージョーは、左目が機械眼になっていた。二年前に撃たれたらしいが、そのときは詳しいことを教えてもらえず、の左目を見るのが悲しかった。

 しかしリヴィオは責めるように、そんなトージョーの目をにらんでいた。

『さあ、どういうことか説明してもらおうか、兄弟?』

 トージョーはカメラを回しているフォルナーラをチラと見てから、静かに応えた。

『ターゲットは見つけた。だが──』

『見逃した。……なんのつもりだ? ヤツらの要求は抹殺だぞ?』

『自分で考えてみたらどうだ?』

 リヴィオが椅子を蹴って立ちあがる。

 いまにもつかみかかりそうだったが、手をはたと止め、視線を下に落とした。

『……まさか、あれを切り札にする気か?』

 トージョーは黙したまま。リヴィオはうろうろと歩きながら、思考にふけった。

 やがて、リヴィオの難しげな顔が見る見る晴れていった。

『そうか……それだよ、兄弟。ヤツらに、際の際で〝あれ〟を見せれば話は逆転するぞ!』

『なあ、リヴィオ──』

『わかっている。〝生き証人〟は生きてこそだ。すぐ安全な──いや、この館がいい。ヤツらの目を避けるには絶好だ。手続きはおれがやる。おまえは護衛と移送を』

『……任せたよ、兄弟』

 リヴィオは椅子に座り直して、そこでようやく、当惑している娘に気付いた。

『フォーラ、おまえも外で遊んできなさい。おれはちょっと忙しくなる』

 目を血走らせる父を残し、フォルナーラはトージョーと一緒に退出した。

 それから、隣の男へいた。

、泣いているのか?』



 フォルナーラは映像を止めると、デスクの写真立てへと目をった。

 陽気なイタリア人青年と、そいつに肩を組まれてぶつちようづらをしている日本人の青年。

 偉大なる父──リヴィオ。後ろ盾を持たず、謎の財力をって世界的犯罪組織に打ち勝ち、プログラマーでもないのにアプリ〈おおかみの血〉を持ってきて、荒くれグリッチャー連合を撃退した男。不可能を、可能にしてきた男。

 しかしフォルナーラは、父の隣にいる男の方を見つめ、あでやかに笑っていた。

「それがお望みなら、共に踊ろうじゃないか。……なあ、叔父貴?」



 ナオトはいつもひとりだった。だから一人で登校するのも、教室で誰とも話さないことも、慣れているつもりだった。ちがった。つい、目が廊下側最後部席へいってしまう。

 しかしマーリアと視線が合うことは一度もなかった。

 もう、ナオトを拉致する方法を考えているのだろうか? 電賊の暗殺者として。

、日野? 日野ってば」

 隣からふみアヤに呼ばれて意識を戻すと、数学の厳しい先生ににらまれていることに気付き、ナオトはあわてて教科書とノート・ウィンドウを出した。

「ご、ごめん。ありがと。授業始まってるのに気付かなかった」

「いや、いーけどさ。……マーリアとなんかあったの?」

「へいっ?」

「だって、アンタたち、今日はお昼も一緒じゃなかったしさ。それに、それ……」

 アヤが痛々しそうに見るのは、包帯をぐるぐる巻きにしたナオトの両手。仮想凍傷を負った手は、腫れがひどかった。顔も湿布だらけで試合後のボクサーみたいになっている。

「まさか、マーリアにやられたの?」

「いやいや。料理してたら火傷やけどして、びっくりして転んで顔を打っちゃったんだ」

「なーんだ。でも、アンタらケンカ中でしょ? 今日、一回も話してないもん」

「……よく見てるね」

「そりゃ見るわよ。アンタら、目立つし」

 目立つ? ナオトは陰気な笑みを浮かべた。すこし前の自分とは無縁の言葉だ。

「おれより、一緒にいたマーリアが目立っただけでしょ」

「だから、そのマーリアとフツーにおしやべりしてた時点で、アンタも変だから」

 マーリア。いきなり転校してきた謎の美女で、毎日一緒に登校し、昼ごはんを食べ、下校し、遊んだ子。正体は電賊の殺し屋である子。

 改めて自己を顧みると、恐れ知らずもいいところだ。だが、どうしてそんな人と一緒に過ごすことが、怖がりの自分にできたのだろう。考えていると、ふと思い出した。

 ──そうだった。おれ、人が怖かったんだ。すっかり忘れてた。

「で、で、。ケンカの理由は? まさか浮気じゃないだろうし」

「だからさ、そもそも付き合ってないから」

「またまたー。それじゃ、アンタにとってマーリアはなんなのよ」

「それは──」

「こらぁ! そこの二人ぃ! 授業を聞く気がないなら廊下に立ってろ!」

 ついに先生の雷が落ち、ナオトとアヤはトボトボと教室を出ていく。アヤは毎度のことだが、ナオトは初めてなのでみんなが意外そうな顔で見送った。

 しかしマーリアは振り返りもしなかった。

 その身じろぎすらしないポニーテールの後頭部から、ナオトは彼女の感情をみ取った。

 自分がすべきことを、ナオトは見つけたのだ。



 マーリアは、ずっと黒板上の旧式時計を見ていた。しかしいまが放課後だということに気付いたのは、なんミキに「マーリアさん、平気?」とかれてからだった。

「はい。なにも問題ありません、ミキ」

「ほんと? なら、いいけど。……なにか困ったことがあったら言ってね? 力になるよ」

「はい。それより、あなたは部活があるはずですが」

「あっ、そうだ。じゃあ、また明日あしたね」

 ミキと別れ、マーリアも教室を出た。

 ──そう。なにも問題ない。猶予終了まで二時間四〇分。手順はわかっている。

 かれは賢く、優しい。カンナや他人を巻きこむことはしない。逃げるなら単独だ。まず駅やバス停、路上のカメラにアクセスして探す。そして捕らえる。殺すために。

 窓から外を見ると、曇天の空からぽつぽつと雨が降ってきていた。にわか雨か。傘は持っていない。しかし迎えの車を店に頼む気は湧かず、歩いて帰ろうと決めた。

 そして、校舎玄関に差しかかったところで、眉をひそめた。

「あっ、よかった。すれ違いになったのかと思った」

 出口の検査センサーの前で、対象がばこに背を預けて待っていたのだ。

「ナオト、あなたは……」

「いきなり雨が降ってきたしさ。傘、持ってないでしょ? でも──ほら」

 対象はそう言いながら学校かばんを探り、折り畳み傘をひとつ取り出した。

「おれ、風邪ひきやすくて。いつも持ってるように言われたんだ、母さんに。帰ろ?」



 帰宅部のメイン下校時刻から少しズレているし、雨が強まっているせいだろう。下校路にほかの生徒の姿はない。小さな傘の下で、ナオトとマーリアは並んで歩いていた。

 マーリアは下を見つめつづけていた。ナオトも彼女の沈黙を尊重して、黙っていた。

「……なぜですか」

 川沿いの土手道に差し掛かったところで、マーリアは足を止めた。

「なぜ、逃げないのですか? それとも、わたしを殺せる気なのですか?」

「殺せないよ。殺せるはずがない」

 ナオトはマーリアへ、傘を握っていないほうの包帯巻きの手を見せる。

「見てよ。一晩っても、まだ震えてる。怖いんだ。あのトンボの人は、おれが殺したようなものだもん。いまも吐きそうになるし、泣きたくなる」

「……相手はあなたを拉致し、殺す気だった。気に病む道理はありません」

「けど、あの人、奥さんがいたかもしれない。子供や兄弟も。両親に、おじいさんやおばあさん、ともだちやペットも。そんな人たちの、大切な人を殺した。つらいよ」

「それでも、あなたはわたしを助けにきた。ふたたび戦うために」

「うん。マーリアが教えてくれたから。──イン・ボッカ・アル・ルーポ」

 ナオトは左手をぎゅっと握りしめ、震えを殺す。

「殺し、殺されるなんてイヤだ。マーリアと殺しあうのも最悪だ。だから、変える」

 マーリアは、されるようにナオトを凝視していた。

 しばらくあつに取られて、口を開き、閉じ、やっと声にした。

「あなたになにができると? もし〈ウルヴズ〉をかいくぐれても、いずれ〝敵〟も行動復帰します。より苛烈に。だれも殺さず、生き残るなど不可能です」

「なんでも好きにできるよ、おれは。マーリアがいればね」

「わたし……?」

 ナオトは傘をマーリアへ手渡すと、雨に頭を打たせた。この身体からだの底から湧き出てくる熱が、一時的なものかどうか確認するために冷やしたのだ。

 びしょれになっても、内なる熱は消えなかった。

「おれ、人と話すのが苦手だったでしょ? でも、マーリアとおしやべりできた。それがきっかけで、クラスの人たちとも話せるようになった」

「それが、わたしの力なのですか?」

「その程度って思う? おれは人生が変わったよ。だから、もし……あのときに時間が巻き戻っても、おれはまたR・O・O・Tをつかんで、マーリアと一緒にいると思う」

 朗らかに言うと、つられたようにマーリアも薄く微笑ほほえんだ。

「……そのせいで、わたしは死刑宣告を受けたわけですが」

「うん。だからこの出会いの結末を、悲劇なんかにしたくない。解決法はまだ思いつかない。でも、おれは命を差し出さないし、マーリアも処刑させない」

「ナオト──」

「だから、おれをもっと強くしてよ。〈ウルヴズ〉も〝敵〟も、退けられるくらいに」

 考えを口にする。心が弱った人に手を伸ばす。願ってもできなかったことが、できた。やはり、自分は変わったのだと実感した。

 マーリアは、微笑みにあきれを混ぜていた。

「……他力本願も、ここまでストレートに言われると感心しますね」

「自分の足だけで立つのは、まだ難しいよ。だから、お願いしてるんだ」

 マーリアは目を閉じると、傘を横にしてナオトみたいに雨に当たる。

 そしてまぶたを開けると、優しいへきがんを見せてくれた。

「わたしが自分の〝価値〟を得るには、電賊しかありません。電賊も、殺しの仕事も、わたしにとって安住の地。……そのはずでした」

 マーリアの唇が、緩い弧を描く。

「どうやら、あなたも、わたしのことを──」

 マーリアの背後、雨のとばりの向こうから一人の人物が近づいてくるのをナオトは見た。

 そして二つの異常に気づいた。ひとつ、その人はクラスメイトのギャル──マイコだった。彼女の下校路は、こっちではない。真逆のはずだ。

 ふたつ。その右手に、にびいろに光る包丁!

「マーリア!」

 ナオトが駆け寄ろうとしたが、旋回するマーリアに胸を突かれ、尻もちをついた。



 油断していた。緊張がほころんでいた。プロ失格だ。

 ナオトの顔に恐怖が走り、その瞳に映る背後の人影に気付いたときになって、ようやく自分の精神が無防備になっていることを自覚した。おかげで、これだ。

 腰骨の少し上に、平凡な包丁が刺さっている。とっさに襲撃者の両手首を掴んだおかげで刃は腹筋で止まったが、激痛が腕力を緩めようとしていた。

 アプリ〈おおかみの血〉が自動起動すると、やっと、自分の内臓に包丁をねじ込もうとしている相手が羽場マイコだとわかった。

「わたしは、なにか、刺されるようなことをしたでしょうか?」

「なにかした? ハッ! アンタはアタシのなにもかもをぶち壊したわ!」

「壊したと、は?」

「あら、忘れたの? アタシは覚えてるわ、子供のときのアンタの顔を。アンタがニュースから消えてからも、いまどんな顔になってるか、ずっと想像してた! 当然でしょ、アンタは、アタシから全てを奪ったんだから!」

 ……ああ、そういうことか。日本は被害者数が少なかったから縁故者と接触する可能性は低いと考えていたが、ゼロではなかった。詳しく調査するべきだった。怠慢だ。

「ま、マーリ──」

「動かないでください、ナオト」

 マーリアは後ろのナオトにくぎを刺す。いまのマイコは殺意の塊だ。ナオトが割って入ったら、問題が解けなくなるほど複雑になる。

「アンタが自分を忘れたのなら、アタシが思い出させてあげるわよ!」

 マイコがわらい、高低調律を失った声で言う。

「マリアンジェラ・アレオッティ。両親はナノマシン系企業ライフシェル社の研究員で対〈ヴァイパー〉チーム・リーダーだった。そして研究所が襲われたとき、アンチソフトの試作よりアンタを選んだ。正解? それとも、アタシは勘違いで人を刺してるの?」

「いえ、目標はまちがえていません。そして、わたしの過去も」

「あは、そうよ、まちがえるはずないわ! あのときアンチソフトが完成してれば、兄ちゃんはあんな風に死ななかったし、ママもパパも心を壊さず、アタシたちは離れ離れにならなかった! で、アンタは? アタシの前で男とイチャついてるって、なんの冗談──」

 マーリアは後ろへ倒れつつ、マイコの両手を引っ張る。包丁がさらに食いこむが、マイコの右足のかかとに自分の片足をひっかけ、二人して横倒しになった。倒れた拍子にマイコの握力が緩み、マーリアは腹に包丁を刺したまま転がって距離を取った。

「マリアンジェラぁ!」

 マイコがカッターナイフをポケットから出したときには、マーリアは無線式ショックガンを撃っていた。二つの針弾が腹に刺さると、マイコはけいれんし、どさと倒れた。

 ナオトがマイコのところへい、気絶しているだけだと知るとマーリアへ向き──。

「……マイコに、感謝すべきですね」

 へきがんの視線と銃口が向けられているのを目にし、絶句した。

 マーリアは右手のショックガンで少年の悲痛な顔をポイントしつつ、左手で腹の包丁の柄をつかみ、一気に引き抜いて傷をてのひらで抑える。その左手も、見る見る血に染まった。

「彼女は、前提を思い出させてくれた。大前提を。わたしが〝消された少女〟であると」

「意味がわからないよ。そんなことより救急車、いや、病院はダメか。でも手当を……」

「ナオト」

 マーリアは少年に微笑ほほえんだ。自分でも驚くほど、柔らかく笑えた。

「あなたの夢を聞いていたら、とてもワクワクしました。──ありがとう」

 そして、弾倉に残る二発の針弾を撃った。



 マーリアは包丁とカッターナイフを拾うと、そばの川へ投げた。土手道には彼女の血が散っているが、この雨だ。血痕も泥となるだろう。それから倒れている二人の脈を測ると、カバンから注射器を取り、キャップを歯で外してそれぞれの首筋に打った。

 そして最後に、眠る少年のほおでた。これで仕事は終わった。

 縫合キットや抗生剤はあるし、ミドウ市には何か所か隠れ家も用意している。そこで手当して帰ろう。あるべき場所へ帰ろう。マーリアは雨空を見上げ、まぶたを閉じた。

 目尻から流れたのは雨滴か、涙か。自分にもわからなかった。