五章 おおかみの契約



 翌日、一年二組内で、マーリア周辺にエアポケットが形成されていた。

 美人は、それだけで威圧感がある。それに彼女は身なりが良かった。ブランド物のカーディガンに、高級車の送迎。リンクデバイスは超高級カスタム品。クラスメイトたちは、封建時代の貴族と同席した農民の気分を味わい、目を合わせることも恐れた。

 マーリアは、クラスで孤高の人となっていた。



「うへぇ、なんでVTTバーチヤル・テスラプネ・トークンだけ円建て〇・六%も落ちてんのよ。わたし、お財布の中ほとんどVTTにしてるんですけど!」

「つっても大した額じゃねえだろ。なに投資家ぶってんだよ」

「損益評価マイナス六〇〇円よ! 六〇〇円でなにができるか知ってんのか、とうどう!」

 昼休みの教室は、いつも明るい。しかし、今日はその陽気さもどこかむりやりに感じた。全員が、教室内の異物を忘れようと努めているようだった。

 その異物──マーリア本人に、チラチラと向けられる視線を気にしている様子はない。堂々としている。堂々と、教室の真反対である窓際席のナオトを見つめていた。

 怖い。ナオトはパンをモソモソ食べているが、味がしない。

 まさか、ここで襲ってこないよね? と、マーリアを見て、あれと小首をかしげた。

 マーリアが、中央付近の空席に移動していたのだ。ナオトはあわてて視線を外した。

 ──え? ほんとうに襲う気? こんなに人がいるのに?

 いや、電賊を常識で推し量れるか? カンナによれば、マーリアは無数の書類を偽造し、適切な人に適切なカネを握らせて、ナオトと同じクラスになったそうな。

 電賊は、現実でもそれほど自由に振舞えるのだ。

 ナオトは恐々とまた横を見ると、視界がれいな青に満たされた。

 それがマーリアのそうぼうだと気づくのに、五秒ほどかかった。

「ぴっ……!

 ナオトは横っ飛びし、後頭部を窓枠に打ち付けて椅子から転げ落ちた。

 頭が痛い。右腕と肩が痛い。みんなの視線が痛い。なにより、心臓が痛い。

 混乱していると、綺麗な手がさし伸ばされた。

「平気ですか? あなたの脳は無事でなければ困るのですが」

「え、あ、う」

「まだ襲いませんから安心を。それより目立っています。注目は、グリッチャーの敵です」

 その顔とカーディガンで言う? と思うが、手を取ると、マーリアは起こしてくれた。

「ええと、それで、ポロヴェロージさん?」

「マーリアでいいです。わたしもナオトと呼びます」

「じゃ、じゃあマーリア。まだ襲わないって言ったけど、どうしておれを見てたの?」

「観察です。昨夜、師に怒られました。プロならば、まず環境に適応しろと。しかし……」

 マーリアは教室内を見回すと、クラスメイトたちが順繰りに視線をらしていく。

「これは適応とかけ離れている。──ナオト、どうすれば学校に適応できますか?」

「えっと、どうしておれにくの?」

「わたしと接点があるのはナオトくらいです。さあ、教えてください」

「お、おれもともだちいないし。教えられても、それって、おれをさらいやすくなるわけだよね?」

「ですね。……しかし、友人がいない。孤独でも学校生活が可能なのですね」

「ええとー、その、もうすこし言葉を選んでくれたらうれしい、かな?」

 他人と行動する必要はない。そう考える人もいる。だが、ナオトは友達がほしい。

 孤独に納得できていない自分も、学校に適応できていないのだろう。

 いやいや、自己嫌悪に陥っている場合ではない。マーリアと距離を取らなければ。だが、どうやって? ナオトが考えながらメロンパンの封を切っていると……。

 キュウウウウウウウウゥ。

 真横から、盛大な腹の虫が聞こえた。ついつい目が向かってしまい……。

「いや、だから近いって! 怖いって!」

 ふたたびマーリアのへきがんが間近にあり、ナオトはる。しかしマーリアの視線はナオトではなく──その手にあるメロンパンを追っていた。

「……そういえば、ずっとおれを観察してたけど、お昼ごはん食べないの?」

「日本は給食制だと聞いていたので、用意しませんでした」

「しょ、小・中学校のほとんどはそうだけど……一階に学食と購買があるよ?」

「仕事用口座に対応していませんでした。新たな口座を用意して送金手続きしましたが、完了は午後四時。やはり、すこしは現金を持っておくべきですね」

「でも電賊でしょ? 購買も食堂も、三大VRトークンになら対応してるよ?」

「よくある勘違いですね。一流の電賊はVRトークンを使いません。なぜなら──」

 ふたたびキュウゥゥゥゥという長い音が鳴り、説明を遮る。

 口を閉じ、ナオトのメロンパンをジッと眺めるマーリア。

 この人は、自分の命を狙っている。重々承知しているが、かずにいられなかった。

「……食べる?」

「いただきます」

 マーリアはすんなりパンを受け取ると、上品かつ高速にメロンパンを胃に収める。パンが消えると、マーリアは、ナオトの机にあるコンビニ袋を見つめた。

「ええとー、まだ三つくらいあるから、食べていいよ?」

「では遠慮なく。お返しは資金移送が完了したら、かならず」

「いや、気にしなくていいよ」

「たしかに。いずれ、あなたを殺すのですから、その必要はないですね。……ああ、言い忘れていました。放課後、わたしのアジトへ来てください。ミドウ市内にあります」

「えっ、やだ。拒否権は?」

 マーリアは菓子パンをくわえながら懐をあさり、筆箱のようなケースを出すと、中の注射器をナオトにだけ見せる。そしてパンをみ下すと、言った。

「状況は急迫しているようです。断ればこのきんかんざいを使い、強行しろと命令されました」

「で、でもでも、昨日は──」

「事情が変わったのでしょう。ですから、もし、また邪魔する者がいれば……」

 マーリアは制服ブレザーの左脇に右手をつっこみ、カチリと金属音を鳴らす。

 仮想世界で何度か聞いた音。拳銃の撃鉄を起こす音だ。

「わかった。いくよ……」

「結構。ところで、まだパンはありますか?」

「……おれ、現金あるから購買で買ってきなよ。逃げないよ。逃げれないのは、知ってる」

 そうしてマーリアは五百円玉を握りしめ、軽やかに教室を出ていった。

 まいった。ナオトが頭を抱えていると、ふと、周りの目が気になった。

 みんな、女王にちやな貢物を命令された庶民を見るような、同情の視線を寄せている。

 そしてその勘違いは、正解からそれほど遠いというわけでもなかった。



 ──ごめん、ミッチェルさん。色々教えてくれたのに、時間、稼げませんでした。

 放課後。マーリアと学園の駐車場で待っている間にそんなざんを繰り返していると、迎えの車がやってきてナオトをぜんとさせた。ベンツだ。白手袋をつけた運転手は丁重に二人を後部席へいざなうと、生徒たちの当惑顔に見送られながら発進させた。

「ま、マーリア? 注目は、グリッチャーの敵なんじゃ……すっごく目立ってる気が……」

「我々の組織には【きようじを忘れるな】というおきてがあります。えも重要です」

 組織──イタリア系マフィア〈ウルヴズ〉か。だが横断歩道を渡る小学生たちの前で止まり、「かっこいー」と歓声を浴びるのは、あまりマフィアらしくない気がする。

 そんなこんなでオフィス街に出ると、一角にある高級レストランの駐車場に停車した。

「ここは我々のフロント企業のひとつ。わたしのいまの偽装身分は、ここの本社役員の娘なのです。店の者はみなカタギですから、安心してください」

 待っていた従業員が車のドアを開け、足元にブランド物ハイヒールを置く。マーリアがそれに履き替えて店へ歩いていく途中、従業員は身体からだも触れずに彼女からカーディガンと上着を脱がせ、高級ジャケットを羽織らせ、れいなストールを巻いていった。

 ──ほんとうに、〝お嬢〟みたいだなぁ。

「お客さま、お召し物は?」

「へい? え、あ、いいです、平気です!」

 ナオトは車から降り、マーリアを追う。ここまで来たら、流れに身を任せるのみだ。

 さすがVR企業が結集して作ったミドウ市の高級レストラン。広い店内では、紳士淑女がすごい規模の商談を世間話に交えていた。ナオトは完全に場違いだったが、マーリアは当然のような顔で二階奥にあるVIP室へと向かった。

「戻りました」

 VIP室は、高級ホテル然とした部屋だった。しかしダイニングテーブルには料理の代わりに無数の立体ウィンドウが展開され、がねをかけた大男がひとり座っているだけ。見覚えのある顔だ。マーリアと一緒にいた電賊で──たしか、名はアーロンだったか。

「おー、きたか。薬を打ってないってことは、きちんと説得できたってことだな?」

「「説得?」」

 マーリアとナオトが小首をかしげる。アーロンも首をひねった。

「お嬢から聞かなかったのか? 事情が変わって、きみを守らなきゃならなくなったって」

「おれを、守る? どうして? これから、おれの脳を奪うんじゃ……」

「まて、まった。聞いてないんだな? なら、どうしてここへきたんだ?」

「それは、マーリアが、従わなきゃ拳銃を使うって……」

 アーロンががねをズラし、半眼でマーリアをにらむ。マーリアは静かに否定した。

「拳銃を使うとは言っていません。プロらしく環境適応中ですから」

「うそ! 撃鉄を起こしてみせたじゃん! もし邪魔者がいるなら、とも言った!」

「邪魔者がいたら……そう、穏便に対応するつもりでした」

 アーロンはあきれ顔を、ウィンドウのひとつへ向ける。

「……トージョーさん、お嬢ならうまくやるって言ってましたよね?」

『とにかく、かれはきた。重要なのはそこだ、アーロン』

 通信ウィンドウに映っていたのは四、五十代ほどの日系人男性。厳格そうな男で、葉状の火傷やけどあとが広がる左がんには機械の目がめられていた。

『わたしはトージョー。〈ウルヴズ・ファミリー〉の相談役であり、マーリアの師匠だ』

「おれはアーロンだ。いちど会ったな? あのときは、悪かった。R・O・O・Tはほかの人が触れても何も起きなかったのに、まさか、きみがインストールしちまうとは……」

 そうだ、あなたのアイコンタクトのせいでこんな目に遭ったのだ! と、声を張りあげる勇気はない。せきがんこわもて、殺し屋娘、大男。おおかみに囲まれた子羊は、こんな気分だろう。

「あのぅ、それで、おれを呼んだわけは? ええと、脳を奪う以外に」

『我々はまだきみをさらえない。設備やスタッフ、出国手段などの準備に手間取っている』

「……だが、きみとおれたちを襲った〝敵〟はちがう。おれたちの見立てでは、すでに現実の回収チームをミドウ市に送りこんでいる」

 敵。ミッチェルを雇った人たちか。

 ナオトは一昨日おとといのことを思い出すと、アーロンとトージョーに深々とこうべを垂れた。

「あの襲撃で亡くなってしまった皆さんのともだちのこと、お悔みを申し上げます」

 アーロンとトージョーが通信越しに顔を見合わせる。それから、二人そろって苦笑した。

「変な子だな、きみは。自分の命を狙っている連中の死を悼むなんて」

『我々は悪党だ。ああいう死も覚悟していただろうし、していなかった者は、愚か者だ』

「で、でも──」

「話を戻しましょう」

 ソファに腰かけたマーリアが、ボウルに入ったカットフルーツをつまみながら言う。

「〝敵〟はR・O・O・T回収準備を終えている。一方、〈ウルヴズ〉はそのすら立っていない。我々にとって最悪の結果は、〝敵〟にR・O・O・Tを奪われることです」

 弟子の説明を、師匠トージョーが引き継ぐ。

『告白すれば、我々は行き詰っている。準備完了まできみを野放しにしたら、確実に先を越される。かといって、いま拉致したら? きみは隙を見て逃げようとするし、なにより、あのリオニを操るグリッチャーだ。我々にとって、最悪の二面戦争となる』

 ──そりゃあ、逃げたいけれど、抵抗する勇気なんてどこにもないですよ?

 というのは、黙っていたほうがいいらしい。ナオトは口にチャックして続きを聞いた。

『ミドウ市にいる〈ウルヴズ〉はこの二人だけ。規模不明の〝敵〟に対応するなど不可能だ。……だが、グリッチャーが三人でチームを組めば、話は変わってくる』

 三人? ナオトはマーリアを見て、つぎに微笑ほほえんでいるアーロンを見て……。

「お、おれ? おれが戦うんですか? むりですよ!」

一昨日おとといは大活躍だったじゃないか。お嬢から報告を聞いてたまげたよ。それに──」

 アーロンはウィンドウ群から二つを取り、ナオトへ放る。表示されていたのは黄金りんに紫のまだら模様をちりばめた大蛇と、りよくし青胴のトンボのイラストだ。

「なにも〝敵〟を殺せとは言わない。この蛇とトンボのL・O・S・Tを操る敵グリッチャーを見つけ、どこのだれだか調べるのを手伝ってくれればいい」

『〝敵〟の情報を得たら、〈ウルヴズ〉がたたく。それまで現実の〝敵〟からきみを守る』

「あの、でも、そのあとは?」

『何事も流動的だからな。うかつな言葉は吐けない。しかし、ひとつ断言しよう。この共闘が成功すれば、おたがい、頭痛の種がひとつ消える』

 一見、救いに感じた。しかし、いま、かれらがナオトを捕らえられていないのは〝敵〟がいるからでは? それを追い出したら、おおかみつないでいる鎖が外れるのでは?

 とはいえ、ナオトが一人でいたら、すぐ〝敵〟に殺される。それは明白だ。

 悩むナオトを見かねたのか、トージョーが機械的に付け足した。

『……これは〝契約〟であり、いままでのは、わたしたちの要求だ。つまり、きみにも要求する権利がある。しかし、てんびんが釣り合うようにしてくれ』

 要求。ナオトはハッとした。

「あの! でしたら、部長──じゃなく寿ことぶきカンナさんと、そのご家族の安全を!」

『彼女は最初から保護対象にある。きみの弱点だ。彼女が〝敵〟の手に落ちれば、きみは従わざるをえなくなる。我々電賊は使わない手だが、〝敵〟もそうとは限らない』

 だから、それは要求にならないと言う。ずいぶん紳士的だ。電賊にとって〝契約〟とは、神聖なものなのだろう。しかし、どうする? 自分の助命は、当然、拒否される。

 ──いや、助命? それだ。

「あのぅ、一昨日、仮想世界で襲ってきた人たちは……?」

「流れ者どもか? ボス・フォルナーラ──うちのトップがおかんむりでね、もうほとんど始末したから平気だ。あとは、グリッチャー・ミッチェルだけだが」

「で、でしたら、ミッチェルさんを追うのをやめてくれませんか?」

 無言。アーロンががねをズラし、マーリアは目をまばたき、トージョーも小首をかしげていた。

 代表して疑問を口にしたのは、マーリアだった。

「……あなたとミッチェルには、過去になにかつながりが?」

「いや、あれが初対面だけど。ほんとは、襲撃してきた人全員を助けたかったけど……」

「意味不明です」

「おれが原因で、これ以上、だれにも死んでほしくないんだ」

「あんな小物のために貴重なカードを切るのですか?」

 立ちあがり、詰め寄ってくるマーリア。

 その顔には、なぜかいらちが感じられた。

「わからないのですか? この要求次第で、あなたの価値が──」

『……いいだろう。ボス・フォルナーラも、きみの信頼を得るためなら納得するはずだ』

 マーリアがトージョーの映像へ振り返る。その隣では、アーロンもうなずいていた。

「一苦労ですがね。がんばってなだめますよ。プラチドの二の舞はごめんだ」

「まってください、二人とも。変に思わないのですか?」

 事を進めていくトージョーとアーロンに、マーリアは語気を荒くする。

「この要求は不審です。〝敵〟、あるいは〈レッド・ソー〉と関係している可能性が──」

『いや、妥当だ。ボスを納得させるのは困難だが、ミッチェル程度に状況を左右されるとは思えない。契約の釣り合いは取れている』

「わたしが言っているのは、かれの思惑です。どうしてミッチェルを──」

「それが〝普通〟なんだよ、お嬢」

 すでに報告書の作成をはじめつつ、アーロンがしみじみ言った。

「普通なんだ。極めてまれで、普通な感性なんだ」

「……稀で、普通? ますます混乱します」

 マーリアは答えを求めてナオトを見るが、衝動的な提案だったのだ。うまく言葉にできず、首を振るしかない。それで、マーリアはもっと不機嫌になった。

 ナオトはマーリアから距離を取りつつ、トージョーへいた。

「と、ところで、守ってくれるって、このお店にかくまってもらえるわけですか?」

『いや。〝敵〟も裏の者なら、ここが〈ウルヴズ〉の店だと知っている。副次的被害を考慮せず、むしろ大胆な攻撃をしかけてくるだろう。防御構築の時間も人員もない』

 これは闇でうごめく者の戦争。電賊と関係ある店は、〝敵〟が全力を出せる闇というわけだ。

寿ことぶきカンナくんは〝敵〟にとっても低優先。電子的監視で済ませる。そしてきみの警備だが、日本の治安を利用すれば、相手も小規模戦力しか動かせまい。護衛ひとりで足りる』

 護衛。自然と、視線がアーロンへ向く。あのたくましい二の腕を見たら〝敵〟も諦めるかもしれない。しかし、そのアーロンは人差し指で不機嫌顔のマーリアを示した。

「ええっ? マーリア?」

「わたしでは不満ですか? 現実戦闘でも、アーロンに引けを取りませんが」

 アーロンは苦笑いするが否定せず、トージョーもうなずいた。

『〝敵〟の捜索に関してはわたしに任せてくれ。手がかりをつかめば連絡する。心配しなくていい。マーリアの力量はたしかだ。それは、鍛えたわたしが保証しよう』

 マーリアの腕は疑っていない。懸念はそこではないのだ。

 一日中張り付くとは、つまり……。

「では、わたしはナオトのアパートへいきます。アーロン、このアジトは任せました」

 ──ああ、やっぱりそういうことなんだ。

『よし。これから〝敵〟の対処が完了するまで、きみたち三人はチームだ』

 トージョーがあごで促すと、アーロンはファイル・ウィンドウをナオトによこしてきた。フォーラム名簿みたいな画面で、アーロンとマーリアの名が載っていた。

「〈ウルラート〉。うちのチーム用通信アプリだ。高速秘匿連絡にバイタル確認、合流ログイン、高度代理入力などができる。ま、フレンド登録みたいなものだね」

 ポンと、承諾と拒否のパネルが表示される。

 逃げる潮時は逸した。ナオトは力なく承諾を押すと、項目に自分の名が追加された。

『よし。〝敵〟の対処を終えたら、たもとを分かつまで二十四時間の猶予を作ろう。いいな?』

 宣言が終わると、マーリアは隅に置いてあった大きな登山バッグを背負った。

「ではナオト。しばらくのあいだ、よろしくお願いします」



 契約を終えると、トージョーは席を立ち、近くの窓から差しこむ陽光にいやしを求めた。

『……これでナオトくんの安全は確保され、〝敵〟グリッチャー二名の情報収集のも立った。お嬢の処刑までに、なんとか間に合いそうだ』

 開きっぱなしの通信ウィンドウからアーロンの声が届き、トージョーは振り返る。

「ボスに、一昨日おとといの戦闘記録は報告したか?」

『もちろん。ナオトくんはR・O・O・Tを使い、自身の目的──自分もお嬢も、ミッチェルすらも生かすことを成功させた。並のグリッチャーがやろうとしたら、だれかが死んでます。R・O・O・Tを差し引いても、才能がありますよ、かれには』

「そして、マーリアに与えられた使命はR・O・O・Tの回収。それはR・O・O・Tが入った脳でも、R・O・O・Tを操る新メンバーでも、同じことだ」

 先日の襲撃は、奇貨だった。

 ナオトは実力を証明した。電賊も、すべてを自由に扱えるわけではない。〈ウルヴズ〉でもだ。グリッチャーを捕らえ、国外へ連れ出し、生きた脳を取り出す? かなりのコストがかかるだろう。しかし、そのグリッチャーが、ボスすいぜんものの才覚を持っていて、自分の足でこちらにきて、忠実な仲間になってくれたら? コストは前者の一割未満。道中のリスクはさらに低下し、しかも〈ウルヴズ〉は即戦力を得られる。

 この最高の結果へ至る障害は、たったひとつ──。

『で、どう〈ウルヴズ〉に誘うんです? あれはカネで釣れる子ではないでしょう』

「人は変わる。グリッチャーですら。この共同戦線で、かれは様々なことを目にするだろう。心変わりするのに、十分なものを」

『なるほど? それと同時に、かれを守るお嬢も、日常で様々なものを見るわけだ。……学校に転入させたのは正解でしたね』

 画面に映るアーロンは、口端を持ちあげていた。

「結果的に、と言いたそうだな?」

『対象監視だけならもっと良い手がいくらでもあった。──理由は〝これ〟ですか?』

 アーロンが自分の左目を指差す。

 いま、マーリアを補佐できるのはかれだけだ。打ち明けてもいいだろう。

「……おまえの想像どおりだ。学校生活体験も、その一環だ」

『償い、ですか?』

「そんな大層なものではない。ただ、自分の責任を果たしたいだけだ」

 ──六年前。トージョーがまだ次席幹部で、セキュリティ事業を任されていた頃。

 かれは、ある護衛契約を結んだ。依頼人は、最高の護衛を必死で探していた。

 必死で当然。かれらは、あの【六・二〇】で使用された猛毒アプリ〈ヴァイパー〉のアンチソフト開発を担当するライフシェル社のチームだったのだから。

 だから、最高の警備を求めた。現実・仮想両面の攻撃を防げる者たち──電賊を。

 そうしてトージョーは〈テイルズ〉を指揮し、研究施設を守ることになった。

 そして、失敗した。大失敗だった。

 最大のミスは、人事記録にない者の生存に気付かぬまま撤退したことだ。チーム責任者の夫妻が、職場に娘を招いていることをトージョーも〈テイルズ〉も知らなかったのだ。

 ひどいミスだった。二年後、別企業がアンチソフトを開発し、〈無二の規範〉もせんめつされたが、どうでもいい。失態の責任は、まだ取れていない。

 心をボロボロにした彼女を見つけ、グリッチャーになっていると知ると、過酷な人生に屈しない力と電賊という人生を与えたが、これは責任と呼べない。

「わたしはマーリアを社会へ戻す。L・O・S・Tを奪われたのは、いい機会だ」

『そして対象──いや、ナオトくんが、いい子だというのも』

 トージョーも同意する。ナオトは純粋な子だ。なほどに。

 そばにいれば、おのずとマーリアが失ったものに影響を与えるだろう。

『……たしかに、これほどの仕事をやり遂げれば、ボスも脱退を許可するしかない。監視はつくでしょうが、お嬢は普通の生活ってやつを送れる』

 マーリアを気に入っているアーロンにとって、これほどうれしい結末はないだろう。

 しかし、かれの顔は曇っていた。

『でも、お嬢が社会に戻ったら、入れ替わりに、初めてともだちになるであろう子が電賊になる。おれたちは、一般人との深い交流はご法度。脱退者なら、なおのこと。二人は二度と会えないでしょうね。……このトレードは、釣り合いが取れてるんですかね?』

 二人は黙考する。

 やがて計算不能だと理解し、アーロンは首を振った。

『じゃあ、おれは寿ことぶきカンナの電子防衛の構築に入ります』

 アーロンは別れを告げ、通信を切る。

 一息つく間もなく、こんどは来客があった。下部組織〈テイルズ〉の副官マイクだ。

「チーフ、獲物から送金を確認しました。おんみつ撤収とクリーニングを開始します」

 マイクの報告を聞きながら、トージョーは別の考えを巡らせていた。

「……マーリアの方で、急ぐ必要が出てきた。動ける人数は?」

「〈テイルズ〉四〇名中、十二名が治療中です」

「負傷したのか? いや──」

 トージョーは言葉を切ると、繊細なガラス細工を扱うような慎重さでき直した。

「難しいと思うが、全員、万全の状態で動けるようにしてもらいたい。可能か?」

「もちろんです。すぐ準備に入ります」

 マイクは溌剌と一礼し、部屋を出ていく。

 室内に静けさが戻ると、トージョーは右目を閉じ、左の義眼の光も落とした。

「R・O・O・T、か……」

 あれがなにか、トージョーも知らない。だが、なにを起こすかは知っている。

 昔、だれかがブレイン・イノセンス・エンジンという技術をぽとりと落とし、VRSNSという新世界を構築して人々を結んだ。そして【六・二〇】が起きた。

 つぎに、だれかがグリッチャー・アプリをぽとりと落として、不特定多数の人間に力を与えた。そして、電賊業界という闇を作りあげた。

 そして今回、だれかがR・O・O・Tという新技術をぽとりと落とした。

 これはまだ波紋に過ぎない。だが、すぐ大津波に変わる。まれる者も出れば、乗りこなして、高みに昇る者も出るはずだ。リヴィオと自分がそうしたように。

「やはり、事を起こすのは今しかないな。……そうだろう、兄弟?」

 ──そして、いまこそ、マーリアを元の世界に戻す頃合いだ。