一章 おおかみと少年



 深夜〇時二〇分になっても、この世界は眠らない。長方形や曲刀形の高層ビル群を、無数の照明と立体ウィンドウ広告がこうこうと照らしている。

 そんなビル通りの端に、一台のオープンカーがまっていた。旧式フォード・マスタング四シート。そこらを走る最新スーパーカーたちに中指を立てるようなこつとうひんだ。

 その後部席に、マーリアはいた。としは十六。しかし後ろで結んだ金の長髪は猛獣の尾のようで、眠たげなへきがんは人を刺し、一七三センチの身体からだには、すでに美女特有のオーラをまとっている。安物のレインコートも、彼女が着ると儀式的な衣装に見えた。

 彼女は、きらびやかな世界を眺めていた。闇夜に咲く花火に、それよりも明るい、流行のライトライン入り衣装を着た人々の笑顔。

「なあ、なあ、なあ。いったい、いつまで待つんだ、これよぉ?」

 人の流動を観察していると、助手席の軽薄そうな青年──ウィリアムが騒ぎはじめた。

「素行を改めろ、ウィリアム。おまえはもうチンピラじゃないんだ」

 苦言を飛ばすのは、運転席の巨漢──アフリカ系のアーロン。った頭とこわもてなせいで、インテリがねが不似合い極まりない。二人は、マーリアと同じコートを羽織っていた。

 かれらはマーリアと同じ〝組織〟の構成員であり、彼女のチームだった。

 アーロンはがねを指であげると、手元に開いた立体ウィンドウを操作する。

「獲物が入った店には三時間の制限がある。長くても、あと二十分で出てくるさ」

「二十分! 退屈で死んじまう」

「お嬢を見習え。静かにしてるだろ。おまえも、彼女からプロ意識ってやつを──」

「待ち飽きました」

「「……なんだって?」」

 ウィリアムとアーロンが後部席に振り返る。

「本件は急ぎの仕事ということで招集されたのです。時間の浪費は避けたい」

「あー、マーリア? おれも退屈だが、べつに、計画を変更したいわけじゃないぜ?」

「早く動けば、それだけ猶予を得られます」

「まて、お嬢。──わかった。せめて、上から許可をもらってからにしよう!」

 アーロンが秘匿通信を開いた立体ウィンドウをマーリアへ放る。するとウィンドウに中年男──直属上司であるプラチドが表示された。組織で十番目に偉い幹部は、高級スーツで絞った肥満体を椅子に収め、険のある目をしていた。

「上級幹部プラチド。仕事を早める許可をください」

『それでうまくいくのか? これの依頼人は、我々の将来を左右するほどの大物だぞ』

 助手席から、ウィリアムがヌッと顔をウィンドウに突き出してくる。

「えー、ベッドからたたき起こされ、耳にぶちこまれた事前情報が正しけりゃね」

『口を慎め、チンピラぜいが』

「はいはい、チンピラですとも。でも〝ぶっ壊れた〟チンピラってことをお忘れなく」

 プラチドがウィリアムをねめつけるが、かれはちようしようを崩さない。

 やがて、プラチドは『情報は正しい』と不機嫌そうに語り始めた。

『……先日、生体アプリ系企業アドリンクス社で、分析を依頼されたアプリが盗まれた。犯人は同社社員ジム・ウォルシュ。アプリ名はR・O・O・T。衝動的犯行だったのだろう。R・O・O・Tは、個人用の記憶媒体に収まらないほど大きなデータだった。だからジムはそれを抱えたまま〝その世界〟をさまよっているが、買い手が見つからない』

「ですが、わたしたちは買い手を見つけられた」

『期限つきでな。四十五分後、依頼人が一キロ先の廃ホテルに〝運び屋〟を用意する』

「わかりました。計画が滞りなく進んでもギリギリです。行動に移る許可を」

『方法は任せる。だが、もういちど言うが、この一件には我々の未来がかかっている』

「はい。しかし二つ、質問の許可を」

 プラチドは不快そうにマーリアを見てから、ふしようぶしよううなずいた。

「まずひとつ。対象は〝こちら側〟の人間ではないのですね」

『ああ。調べによると、同業との接点もない』

「では、もうひとつ。わたしたちは帳簿係です。組織の潜在的負債を査定し、〝削減〟するのが仕事なのに、なぜ、泥棒から泥棒を?」

『……それは高度な話で、下っ端の知るところではない。──以上だ』

 通信が切られると、ウィリアムはヘッドレストに後頭部をぶつけた。

「ちぇっ。なーんか隠してるぜ、あのケツの穴野郎。賭けてもいい」

「おい、ウィリアム。おきてを尊重しろ。あれでも初期メンバーの一人で、上級幹部だぞ」

「あれに指図される一生なら、掟に殺されるほうがマシだ。な、マーリア?」

「いえ、プラチドは正しい。アーロン、移動用意を。ウィリアムはわたしと共に」

 マーリアはテキパキと指示する。チームで最優秀なのはとしかさのアーロン。かれには待機し、ハンドルを握っておいてもらう。仕事で重要なのは、いつだって頼れる運転手だ。

 つまるところ、マーリアたちの仕事とは犯罪だった。

 ウィリアムと車を降りると、マーリアは道行く大柄な男性にぶつかった。しかし両者ともよろけもせず、あいだに『強接触・注意』というウィンドウが表示されただけ。マーリアは男性と黙礼で別れると、目前の一〇階建てビルでエレベーターに乗った。

 すると、階層ボタン前にウィンドウが現れる。店舗表だが、二五〇を超えている。ビルに収まりきらない数の店は、チレチコやトルティーヤなどファスト・フード店ばかりだ。

「リード施設ですか」

 過去の行動からこうを分析して勧める〝リード機能〟によって〝重ね合わせ状態〟で存在するオススメ店へと導く施設だ。便利だが、いまは仕事の邪魔だった。

 ウィリアムが手動で店名を打つと、エレベーターは七階へ上がりはじめた。

「さて、マーリア。ここは大人の店だ。こんなカッコじゃマズい。仕事着になろうぜ?」

 うなずき、マーリアは立体ウィンドウを開いて衣装項目から『黒服』をクリックする。

 すると、かつこうが一変した。黒のワンピースドレス。同色のスパッツとスリップを何層にも包むシースルーのドレスはうねり、夜の海をまとっているような姿だ。軽く、両足のダブルスリットも深いので動きやすかった。

「おい、また衣装を変えたのか? こんどはだれの贈り物だ、着せ替え人形ちゃん?」

「ルイージャから。ブリトリャーニン製ですし、機能もデザインも気に入りました」

「マフィアの若奥様って感じ。……おれはどうよ?」

 紫のシャツと白スーツ姿を見せびらかすウィリアムを眺め、マーリアは小首をかしげた。

「結婚詐欺師でしょうか。もしくは詐欺セミナーの講師」

「ま、悪かない。おれたちゃだますし──」

「マフィアですから」

 七階に到着すると、廊下の先にあるかしと『未成年者お断り』という警告ウィンドウに足止めを食っている数人の少年たちがネパール語で騒いでいた。

「なんだよ。おれ、十六だぞ! どうして入れないんだよ!」

「あー、ここシドニーエリアだもん。ウチらの国のエリア行こうぜ。それか別の」

「ちぇっ! 知り合いに見つかったらどうすんだよ!」

 一人がかしに一蹴り入れて『強接触・注意』の警告を出したあと、全員がファスト・トラベルコマンドで青光の柱になって消え、ウィリアムを笑わせた。

「……年齢制限ですか。わたしは通れませんね。モードを切り替えましょう」

 二人はもういちど立体ウィンドウを開き、【グリッチャー】というコマンドを押す。

 途端、重力が強くなった気がした。

 正確には、よりリアルに感じられるようになった。五感が鋭くなり、樫扉の隙間から漏れるアルコールの匂いも嗅げるし、遮音壁越しのけんそうも耳が捉えた。首を回し、五指を開閉させてみる。骨や関節のきしみも──わずかな〝痛み〟も感じられる。良好だ。

「モード移行完了。行きましょう」

「確認だが、マジでいくのか? このモードになっちまったから、もうファスト・トラベルはできないし、ログアウトにも一手間いる。トラブったら駆け足で逃げるしかないぜ?」

「……イン・ボッカ・アル・ルーポ」

 イタリア語のつぶやきに、ウィリアムがやれやれと首を振る。

おおかみの口にとびこむ、ね。おれぁアイルランド人だから、な話、意味がわからん」

「冒険をためらわぬ者が栄光をつかむ。わたしはそう解釈しています」

 マーリアは手を伸ばすと、年齢認証をするりと抜け、樫扉を押し開いた。



 二〇七〇年現在から、二十年前のこと。

 量子コンピューターと神経リンクデバイス、それらと脳を無線通信させる体内ナノマシンの普及がほぼ完了したことで、世界は〝新たな世界〟を構築した。

 それがVRSNS。

 個人、国家、企業。あらゆるモノがこのフロンティアに、夢とカネを抱えて飛びこんだ。現在は三つの大型VRSNSが有名で、人類の過半がいずれかを利用している。

 VRSNSは、過去のオンライン・サービスすべてを包括・吸収した。

 あらゆるものがVRSNSとつながった。人々すらも。それほどの魅力があったのだ。

 魅力の基盤は、かつて匿名技術者が公開した〝ブレイン・イノセンス・エンジン〟。

 物理現象を完璧に表現するだけではなく、人間の五感をリアルにだます。花の香りも、花弁の鮮やかさも、かじったときの苦みも、葉々がこすれる音も、ざらついた葉の感触も。体験するあらゆる刺激は、このエンジンによって脳に出力されている。

 VR企業はこのエンジンを各々でアップグレードし、成功した。その将来性と信用度は、発行されているVRトークンが安全資産とされていることからもわかる。

 ばくだいな顧客とカネによって実現された、絶対的なセーフティとセキュリティのためだ。

 しかし、なにごとにもイレギュラーは現れる。

 それが、電賊。VRSNSの暗がりで活動する次世代マフィア。

 かれらは闇でだます。かれらは闇で奪う。かれらは闇で殺す……。



 目的の店内では不調和なライトと音楽の中で、あられもないかつこうの女性BOTたちがせんじよう的にポールに絡みついていた。それを客がはやし立てていて、ウィリアムも口笛を吹いた。

 マーリアはそれらを無視し、奥の席で背を向けている男を閲覧モード越しに見ていた。プライベート・レベルを最大にして、完全非公開設定にしている男だ。

「おろかな。SNSが基礎であるこの世界で、完全非公開はむしろ目立ちます」

 ジムは四人テーブルで、ひとりんでいた。けんそうが盾になると考えているらしい。

 それがまちがいだと知ったのは、向かいのシートにマーリアたちが座ったときだろう。

 驚いたジムはグラスジョッキを落としたが、床に落ちたそれは割れなかった。

「おい、気ぃつけろよ。ここが現実だったら店員に文句を言われるところだぜ?」

「両手をテーブルに置いてください。ログアウトも、ファスト・トラベルもなしです」

「あ、あんたたち、警察か? それともアドリンクス社の法務部か?」

 命令されるがまま両手をテーブルにつけながら、ジムがおどおどとく。

 マーリアはジムが落としたジョッキを拾いつつ、首を横に振った。

「あなたと同類項の犯罪者。ですが、あなたより悪辣な悪党です」

「……電賊、なのか?」

「はい。もっとも、特別な電賊ですが」

「目的はR・O・O・Tか? おまえたちに、あれは渡さない」

「なるほど。では、わたしたちがどう〝特別〟か見てから再考してもらいます」

 唐突に、マーリアはジョッキをテーブル角に打ちつけて割った。その音に客も従業員も振り返らない。大音量のBGMが流れているせいもあるだろう。

 しかし一番の理由は、食器が割れる音など〝ありえない〟からだ。

 だから、それを見たジムは目玉を落としそうなほどショックを受けていた。

「非破壊設定オブジェクトの破損。……そう、わたしたちはセーフティを破れる。制限、権限、カメラなども。【コラプト】という機能ですが──こういう使い方も可能です」

 マーリアは割れたガラス片をひとつ取ると、その切っ先を、ジムがテーブルにつけている左手の甲に当てた。するとパリパリと電気音がガラス片の先で鳴りはじめた。

 ジムの手の上に透明な膜が形成され、ガラスとの接触を阻んでいたのだ。

「過剰出力カットシステム。痛覚を脳に送らせないためのセーフティですね」

「やめろ。おまえたちがなにを言ったところで──」

 ──ブースト・アプリ〈おおかみの血〉を実行──

 マーリアがガラス片に体重を乗せると、カットシステムの抵抗を示す電光が強くなる。

 ついに、カットシステムがバリンと割れた。ガラス片はジムのてのひらを貫通し、テーブルに縫い留める。卓上に赤い液体が広がり、激痛でジムが悲鳴をあげた。

「【コラプト】はこれも破り、同期緊急ログアウト機能もさせる。いま、あなたの脳に痛覚が出力されています。ことの次第では、〝死〟の情報も送られるでしょう」

「くそぉ! くそっくそっくそっ……!

「さらに我々の〝力の本領〟は【コラプト】ではなく、そして死に方も様々です」

 歯を食いしばるジムに、マーリアが淡々と追い打ちをかけていく。

「それでは、やり直しましょう。──R・O・O・Tは?」

「……内ポケット。上着の内ポケット。右だ」

 マーリアがジムの懐を探ると、金属カードが出てきた。具体化したデータ・パッドだ。デバイスに送ろうとしたが、空き容量不足ではじかれ、しかたなくドレスのポケットにしまった。マーリアの最先端デバイスでも収納できない巨大データ。情報どおりだ。

 マーリアがガラス片を抜いて投げ捨てると、ジムは血まみれの左手を抱きしめた。

「これで済むと思うなよ、電賊ども……」

「いいえ、済みました。それでは」

「その力に代償がないと思ってるなら見当違いだと言ってるんだ、〝グリッチャー〟」

 席を立ったマーリアとウィリアムが、丸くした目を合わせる。

 この特別な力を操る者の名を──世界的に安全が認められているVRSNSの、隠されたぜいじやくせいの正式名をジムは口にしたのだ。その口で、ちようしようを作っていた。

「おまえたちは病気だ。その力の代償に気づいてないなら、先は短いぞ」

「代償、ですか? 〝力の本領〟を作った時点で支払いましたが」

「おまえたちはなにもわかっていない! いずれ後戻りできなくなる!」

「戻る過去を〝失った〟からグリッチャーです。あなたも知っているのでは?」

「そうだ。一部の〝過去〟と〝感情〟を支払うことで、無敵になったと勘違いしてる!」

 叫ぶジムの目が左右に動くのを、マーリアは見逃さなかった。無音通信か。店内を見回すと、五人の男がこちらを盗み見しながらくうで指を動かしていた。他者不可視のシークレット・ウィンドウを操作している。ウィリアムも気付いたらしく、無音通信を開いた。

(なあ、マーリアよぉ。ちょっと空気おかしくねえか? もしかしたら──)

 突如、ジムが床に転がると同時に男たちが動いた。〝ポーチ窓〟という、デバイスに物を収納できるウィンドウから細長い金属を抜き、その鉄筒先端を二人へ向けた。

「おーい、VRSNSでマシンガンだと? カタギじゃなかったのかよ」

「正確には仮想兵器。どこかのクリエイト系グリッチャーが創った、【コラプト】を宿す武器です。おそらく実銃のイスラエル製アサルト・ライフルの──」

 マーリアの説明を、五つの銃声が切り裂いた。

 驚いた客たちが次々とログアウトしていく。ここがVRSNSだということも忘れ、足をもつらせながら出口に走る者もいた。男たちはそんな客をけつつ、連射していた。弾丸は目標付近で内蔵爆薬を破裂させる対人さくれつ弾。現実なら、三発も食らえばミンチだ。

 仮想世界でもだ。カットシステムもこれほどの火力を受ければ停止し、自動ログアウト機能が働く。だが仮想兵器の【コラプト】がそれを阻むだけでなく、マーリアたちのグリッチャー・アプリ自体が、自動ログアウトという自衛セーフティをも拒否してしまう。

 そして五体を砕かれた情報が脳へ出力され、重要臓器を動かす自律神経が止まり、死ぬ。

 空撃ちの音がするころには、着弾点付近に白煙と熱のスクリーンが広がっていた。

 音響機器も壊れ、踊り子BOTだけが設定されたせんじよう的なダンスを続ける沈黙。

「──設計図をデータ化して落としこんだだけの、粗悪品ですね」

 煙の中で、赤い輝きが生じた。

「安心してください。歴史ではあまの死の記録が砂丘のように積もり、また積もり続けている。もし死んでも、そこに砂粒が一つ加わるだけ。ですから……」

 爆発的な突風が、煙と店のテーブルを打ち払う。

 煙から現れたマーリアたちに傷ひとつなく、悠然と、男たちを見つめかえしていた。

 なんの感動もない顔で。足元に、一頭の獣をはべらせて。

「わたしが記録に埋めてあげます。だれも振り返らないほど、深く静かな記録の底に」



 その獣は、炎のような赤毛をまとう巨大なだった。いや、獅子は緑色の宝石かぶとかぶらない。同色の硬質な尾やそうをもたない。人間的な右前足に、緑色の大剣を握らない。

 この赤と緑に彩られた獣こそ、グリッチャーが保有するもう一つの力。名は──。

「L・O・S・T……」

 ジムがあえぐと、無傷のマーリアたち、焦げた天井や床を見てから悲鳴をあげた。

「コードだ。【力の赤ポテレ・ロツサ】の慣性変更コードで、銃撃をらしたんだ!」

 しかし、護衛チームはわけがわからないという顔をそろえていた。グリッチャーを知っているのはジムだけで、ほかは仮想兵器を渡されただけの素人らしい。

「リオニ・アラディコ、コード〈証明の渦〉を」

 獅子剣士リオニ・アラディコが大剣をいつせんし、衝撃波を放つ。波動にまれた男の一人が壁にたたきつけられ、カットシステム停止時特有のガラスがぜるような音を鳴らした。

 こちらにも【コラプト】が宿っている。攻撃を受けた男は激痛にのたうっていた。

 残った護衛チームがあわてて予備弾倉をライフルに突き刺そうとするが……。

「具体化、ボガード・フーァル」

 ウィリアムの命令で横に現れたのは、じれた金毛に包まれたゴリラのような怪人。その巨体を支える前腕は、青い宝石のを装着している。

「【自由の黄ジヤーロ・リベルタ】冷却コード〈均衡の停止・ワイド〉」

 怪人が両腕の十指を広げると、てのひらから白い烈風が室内に巻き起こった。

 吹雪ふぶきをもろに浴びた男たちは、髪や衣装を霜に包まれながらもリロードして反撃しようとする。だが、弾は出ない。発射機構に薄氷が付き、トラブルを起こしたのだ。

 ブレイン・イノセンス・エンジンによる、過酷なまでのリアリティだ。

 ──VRSNSという『経済』を揺るがすために秘匿されているが、十数年前から世界中の不特定アカウントに宛先不明のメールが送られている。

 メールに添えられているのは、〝グリッチャー〟というVRSNS用アプリ。

 それを受け取った者たちは【コラプト】により、あらゆるセーフティを突破する。

 しかし【コラプト】が破壊するのは、セーフティだけ。

 この〝力の本領〟は、ブレイン・イノセンス・エンジンの物理法則をも破壊する。

 仮想兵器が壊れ、護衛チームは両手をあげる。ジムも、寒さと恐怖でへたりこんでいた。

「メインカラーが【力の赤ポテレ・ロツサ】のライオンに、【自由の黄】の悪鬼のL・O・S・T……きさまら〈ウルヴズ・ファミリー〉の〝埋葬屋〟と〝てつく両手〟か!」

 Link to Operate Special Terminator──通称L・O・S・T。

 L・O・S・Tの能力は〝カラー〟と〝コード〟と呼ばれて体系化されており、マーリアのリオニ・アラディコのメインカラーは【力の赤】。他者を圧倒する色であり、中でも衝撃の発生・増幅・減少・偏向・遅延を愛用している。一方、ボガード・フーァルは【自由の黄】によるクリエイトと、熱量法則の変質を得意としている。

 まさしく〝グリッチ〟といえる力だ。

 マーリアはドレスについた氷粒を払うと、剣士を連れ、ジムの前で片膝をついた。

「なぜ、一介の研究者で泥棒に過ぎないあなたが、そこまでグリッチャーに詳しいのでしょう? 我々は、世界的に隠蔽されている存在のはずですが」

 リオニがかぶと下から鋭い緑牙をのぞかせても、ジムは死人のように黙している。

 しかしマーリアが左手で先のデータ・パッドを振ってみせると、その顔に生気が戻った。

「このR・O・O・Tとやらは、グリッチャー関係のアプリなのですか?」

 ジムがデータ・パッドに飛びつこうとするが、マーリアは左手を引き、かわりに右手を差しだす。そこにはポーチ窓から抜かれた大型リボルバー拳銃があり、散弾対応の大きな銃口でジムの額を押し戻していた。ジムは観念し、うなずいた。

「……そうだ。それはグリッチャー関連のアプリだ」

「はっ! なーにが一般人だ。おもっくそ〝こっち側〟の人間じゃねえか、あのデブ」

 あきれて天を仰ぐウィリアムに呼応し、ボガードも頭を振る。

 ジムは、いちの望みを賭けるように言った。

「これは治療薬なんだ、グリッチャー。おまえたちは病気だ。このままでは──」

 マーリアはジムを無視して立ちあがり、出口に向かっていた。ジムがグリッチャーのことを知っている奇妙さについては、ほかのメンバーが調べるだろう。

 自分の役目は、あと三〇分でこれを運び屋に届けること。

 ──そうして、わたしはまたひとつ〝価値〟を示せる。唇が、僅かに笑みを作った。

 その笑みが、一瞬で消えた。頭の中で危険感知の針が振れたのだ。それもかなり大きく。

「……なあ、ジムおじさん。もう一つ教えてくれねえか」

 同じく表情を厳しくしたウィリアムが、うなだれているジムにく。

「あんたがアプリをパクったアドリンクス社は、グリッチャーを抱えてるのかい?」

「い、いいや。一人もいない。パイプもない。だがR・O・O・Tは──」

「つまりこれは同業ですね。……きます」

 ジムの後ろで、下から突き上げるような爆発が発生する。

 そうしてできた床穴から、緑と青の霧が噴出した。

 ノイズ音をまき散らしながら現れたのは、トンボだった。青色の胴はイトトンボに似るが、より細く針のように鋭い。緑色のついばねも、やいばのごとく鋭くきらめいていた。

 L・O・S・T。小さなL・O・S・Tの大群だ。マーリアは眉をひそめた。

「群体型L・O・S・T。メインカラーは【信頼の緑フイドーチヤ・ヴエルテ】、サブカラーは【成長の青クーシタ・ブル】ですね」

 トンボは穴からあふれてくる。一万匹弱か。その群れが分裂し、その場にいる全ての人間に殺到した。最初はジムだった。トンボ群に全身をまれた瞬間、カットシステムの負荷を示すスパーク音が響き、一秒足らずで消えた。直後に絶叫がほとばしった。護衛チームも逃げようとするが、その背にもトンボたちが襲いかかり、悲鳴と血を飛ばした。

 マーリアにも群がってきたが、リオニが緑尾をかすませると、宙でトンボたちが爆散した。

「……どこのグリッチャーでしょうか。目的は、このR・O・O・Tでしょうが」

「さーな、とにかく逃げるぜ!」

 ウィリアムの命令で、ボガードは手中にめていた冷気コードをさくれつさせ、トンボたちを凍結・撃墜しつつ空気中の水分を霧化させる。濃霧の隠れみのを生むと、ウィリアムはボガードの具体化を解除し、マーリアと一緒にリオニの背へ飛び乗った。

 二人を乗せたリオニはかぶとの頭突きで入口のかしを破壊し、廊下を走る。そしてあぎとから衝撃波を放ってエレベータードアとその向こうの外壁を破砕すると、夜空へ跳んだ。



 電賊はハッカーというより、現代技術に適合したマフィアと言っていい。

 だから電賊同士は衝突する。だから、どこの電賊もグリッチャーを常に求めている。

「【力の赤ポテレ・ロツサ】衝撃減殺コード〈無為なあらがい〉」

 七階の高さからマーリアたちを乗せたリオニが落ちていき、音も衝撃もなく歩道に着地する。すると例のマスタングが横づけし、運転席からアーロンがあせり顔を伸ばしてきた。

「おいおい、お嬢! こりゃなんの騒ぎだ!」

「同業とバッティングです。急いで出してください。おそらく追ってきます」

「例のお宝は?」

「もちろん、ここに。急いで引き渡しポイントへ向かいましょう」

 リオニの具体化を解除して後部席に飛びこむと、マスタングは急発進した。

 このマスタングにはハッキングコードを施している。運営の規制速度を破ってマシン本来の力を発揮する旧車は、大通りのスーパーカーたちを次々と追い越していった。

 華やかな通りをぶっ飛ばしつつ、アーロンはズレたがねを直した。

「同業とバッティングだと言ったな? どこのファミリーだ!」

「さあ? しかし、このエリアは我々〈ウルヴズ〉の縄張りのはずですが」

「業界の力学も知らない素人か? そうは思えんがな!」

「まーまー、旦那。物事のいい面を見ようぜ。とりあえず、時間にはまにあいそうだ」

 ウィリアムは後部席で立ちあがると、後ろを向いて微苦笑した。

「……悪い面は、これからグリッチャー戦になることくらいか?」

 三台のセダンが追ってきていた。各車に四人が乗っていて、全員が黒の戦闘スーツとフルフェイス・ガスマスクを装備している。セダン三台との距離は、着実に縮んでいた。

「全員、〈おおかみの血〉の準備を。ウィリアムは時間を稼いでください」

 マーリアが言ったとき、セダンのリアドアからライフルを持った男が上体を出した。

 ウィリアムがボガードを後部席に具体化する。壁となった悪鬼の胸に弾が激突すると、透明の破片が散った。獣毛と皮膚の間に氷膜を作り、異種多層装甲としていたのだ。

 銃声に通行人たちが悲鳴をあげ、道路の車も走路を乱す。ウィリアムも悪態をついた。

「また仮想兵器だが、こんどは高級品だぜ! タフなボガードでも長くはもたねえ!」

「しかし初手が銃撃とは。相手は、全員がグリッチャーというわけではないようですね」

「冷静に分析してる場合か、マーリア! このままじゃ──うおっ!」

 ボガードの脇を抜けた弾丸が耳元をかすめ、ウィリアムは頭を下げる。射手は一般アカウントらしいが訓練を積んでいる。それと仮想兵器が合わされば、グリッチャーも殺せる。

 対処法は、られるまえに殺るだけだ。

 マーリアは再具体化したリオニの背に乗り、目を閉じていた。

「……【信頼の緑フイドーチヤ・ヴエルテ】、〈反感でん〉」

 リオニが喉を反らしてえると緑色の霧が生まれ、背上のマーリアを包みこんだ。

「L・O・S・Tの身体能力の一部をアバターへ転写完了。──いきます」

 そして、リオニが突撃開始。跳躍してセダンのエンジンに緑大剣をたたきつけると、セダンはフロント部を中心に前宙し、逆さまに着地してガラス片を散らした。

 その一台と並走していたセダンの射手がリオニ上のマーリア本人を狙おうとするが、そのときには、猛獣の背に彼女の姿がなかった。

 カツンと、ボンネットをヒールの底が叩く。マーリアだ。運転手はすぐさま振り落とそうとし、助手席の射手も窓ごと撃ち抜こうとするが……。

 ──ブースト・アプリ〈おおかみの血〉実行──

 これが、大電賊〈ウルヴズ・ファミリー〉の特長であり、他電賊との差だ。

 風に粘りを感じた。〈狼の血〉は各種脳内物質を調整して認識・反射速度を向上させ、体内ナノマシンに構築させた通信網で神経伝達を加速・補完する。

 そうやって、〈ウルヴズ〉メンバーに狼を宿らせる。

 マーリアは両腕を広げ、指先を踊らせてポーチ窓を左右に高速展開。出現した二つのウィンドウから左手で幅広のナイフ、右手で大型リボルバー拳銃を抜いた。

 助手席の射手は、車内で長物を構えるのに苦戦中だ。マーリアは足元のボンネットにナイフを刺した。L・O・S・Tの筋力を転写するコード〈反感伝播〉のおかげでナイフは楽々と金属板を貫き、彼女の身を固定。そして右手のリボルバーで射手を狙い──。

「……死の記録がまた一粒」

 ごうおん。四一〇ゲージ散弾がフロントガラスを粉砕し、射手のガスマスクのレンズを破り、カットシステムを停止。間断ない二射目が、頭の右半分をかじり取った。

 相棒の死に気を取られた運転手が、視線を前に戻す。

 かれがさいに見たのは、硝煙をあげる銃口と、たなびく金髪と黒ドレスだっただろう。

 相手のライフルが高級品なら、このリボルバーは超高級品だ。あらゆる部品がリアルの工程をて作られている。それが〝銃撃〟という現象を、より忠実に再現する。

 ふたたびの二連速射で、セダンがよろけた。マーリアはボンネットからナイフを抜き、横へ身を投げる。それを、追走してきたリオニが背で受けとめた。

 運転手を失ったセダンが道路を外れて街灯に激突。傾く街灯上には運営の公式立体広告が浮かび、『あらゆる壁を超えて、あなたを運命の下に』という文句を輝かせていた。

 うそは言っていないだろう。壁には、超えてはいけないものもある。

 ──そして運命は、いつも無慈悲だ。血まみれの、あのセダンのように。

「さて。これで、残すは一台。ふつうなら全滅以上と判断する被害ですが……」

 顧みると、最後のセダンのルーフ上に、一人の男が立っていた。

 風貌はほかの敵と同じだが、武器を持っていない。空の右手でリオニを指している。

 マーリアはそいつへリボルバーをぶっ放すが、遠すぎた。散弾の一部がコンバットスーツの肩をかすめ、カットシステムの紫電をきらめかせるだけ。

 男の指先から黄色のこうぼうが生まれ、光の川となって襲いかかってきた。

「グリッチャー。なるほど、いままでのは準構成員。ここから本番ですか」

 黄光が具体化を開始。一瞬後には地をう大蛇に変わっていた。紫色のまだら模様をちりばめた黄金りんまとい、大きく凶悪なをもった蛇だ。

 速い。稲妻のように這い、リオニの後方につくと大あごを開く。しかしんだのは空気だけ。リオニは足裏で衝撃波コードを実行し、道路を破砕しながら反作用で跳躍していた。

 大蛇の頭が急上昇し、空駆けるリオニを追う。

「慣性変更コード〈屈服させる闘志〉」

 リオニが前方にカーブ状の慣性変更フィールドを描き、身を投じる。すると速度を維持したまま軌道を曲げ、ビル壁側面に着地。そのまま緑爪を食い込ませ壁を駆けた。

 ふたたび獲物を逃した大蛇の口端から、火の粉が漏れはじめた。コードの予兆だ。

 マーリアも攻撃的コードを命じようとしたが、鋭い頭痛がそれを拒んだ。

 コードは脳を使って実行している。連続使用すれば、脳がオーバーヒートして死ぬ。

 そのとき、蛇の左半面に冷気球が直撃。左目が凍結する激痛に、大蛇がのたうった。

 マスタングから、黄金悪鬼ボガード・フーァルが左手の冷気球も投げる。大蛇は身をひるがえして回避したが、その隙に、リオニはマスタングへと跳んだ。

「クールダウンに入ります。L・O・S・Tおよび〈おおかみの血〉を解除」

 マーリアはリオニを消滅させ、ウィリアムに受け止められて座席下へ放られる。

「よーし、ちょい休んどけ。だが、相手さんもやり手だ。逃げながらじゃ厳しい相手だぜ」

「しかし足を止めれば、騒ぎに気づいた運営から〝クリーナー〟が送られます」

「その心配も、おれたちが生きてればこそだがな!」

 ふたたび迫る大蛇の顎から、【自由の黄ジヤーロ・リベルタ】コードのえんそうが放たれた。

「なめんな、蛇野郎!」

 ボガードが両手から同カラーコードの冷気の奔流を放つ。分子運動の活性コードと停滞コードが激突し、混乱したブレイン・イノセンス・エンジンが景色を僅かにゆがませた。

 打ち勝ったのはボガードだった。炎は熱を完全に奪われ、霧散していった。

 ウィリアムの勝利の笑みが、引きる。消された炎の裏、そのくうから染み出すようにりよくし青胴のトンボ群が現れ、襲いかかってきたのだ。

「ハッ。【成長の青クーシタ・ブル】の視覚かくらんコード〈秘する賢者〉か……」

 ウィリアムの失笑が、羽音に潰される。光学的迷彩を解いたトンボの奔流がボガードの肉体を削って黄の粒子に変えつつ、背後のウィリアムをも襲う。

 やがてボガードが消滅し、後部席下にいたマーリアの眼前にウィリアムが落ちてきた。

 その上半身は、きれいさっぱり無くなっていた。

「ウィリアムが死亡」

「くそぉっ!」

 アーロンがアクセルを踏みつけるが、トンボ群がマスタングを包み、方々からいていく。マーリアの対弾ドレスもはねに刻まれ、肌でカットシステムが火花を散らせた。

 八つ裂きまで数秒。だが、すこしはクールダウンできた。マーリアは断面から血を噴くウィリアムの下半身を押しのけて立つと、そばにリオニを再具体化する。

 荒れ狂うトンボたちの中、剣士は二本足で立つと、右手の緑大剣を夜空へ掲げた。

「〈力のしるし・デュアル〉」

 二重せん形衝撃波コード。大剣を取り巻くように発生した二つの竜巻がトンボを大気ごと巻き取ると、はざですり潰し、夜空へ残骸を放つ。反作用で、マスタングがきしんだ。

 トンボの大半は消した。追撃に入ろうとしたとき、マスタングがぐらぐら揺れ、主従ともに倒れそうになる。ギアがこすれる高音が響き、ついで、アーロンの悪態が聞こえた。

「くそっ、くそっ、くそっ! ぶっ壊れた!」

「……ですが、タイヤは回っていますね。ハンドルをまっすぐ固定してください」

「なに? お嬢、いったいなにを──」

 リオニが右手の大剣を消滅させると、四肢の緑爪をマスタングの縁に食い込ませ、頭を後方へ向ける。その様はまるで大砲──いや、ロケットエンジンのようだった。

「指向性衝撃波コード〈証明の渦〉」

 リオニのあごから衝撃波が放たれ、反作用でマスタングは爆発的に加速した。進路先にはT字路があり、前方にはホテルが見えた。目的地だ。時間にはまにあった。

 アーロンの悲鳴から察するに、ブレーキは期待できそうにないが。



 遠雷のような音が連続し、歓声みたいな人々の大声が遠くに聞こえる。

 花火かな? ナオトはパーカーのフードを頭から外して辺りをうかがうが、ここはアーケードの下だから見えないし、そもそも、VRSNSでは花火など珍しくもない。

 なんていったって、この世界は、毎日がお祭りなのだから。

 ナオトはVRテスラプネ・シドニーエリア・第三地区のVR商店街をひとり歩いていた。雑貨店や服飾店のきらめくホログラム広告に、それに負けないくらい明るい顔をした人々。

 オーストラリア時間に合わせてある夜の商店街は、目がくらむほど華やかだ。

 だからナオトは、目がくらまないように石畳に視線を落としながら歩いていた。

 しかし、あるものが、その足を止めた。数十人が囲む壁端の広告映像だ。ペット特集のCMで、猫が優雅に木登りして、散歩して、孤独に飽きたら飼い主の膝で眠っている。

 広告を囲む全員が猫派、ではない。リード広告だ。みな、それぞれ違うCMが見えているはずだ。ナオトの場合、まえにペットを調べたことをリード機能が記憶していたらしい。

 ……猫、欲しかったな。借りているアパートがペット禁止で、VRホームも持っていない事実に気付いて諦めたが、たとえVRペットでも寂しさを和らげてくれただろう。

 ナオトは嘆息しながらフードをかぶりなおそうとして……。

「ねっ、ねっ、キミ?」

「ぴっ……!

 急に翻訳ソフト越しに声をかけられ、ナオトは肩を跳ねあげた。

 正面にいたのは、五人組の男女。二十歳前後か。健康上の理由によって、アバターは現実の姿から変更できない────たとえば、足を長くしたアバターで動き回ると脳が本来の歩幅を忘れ、現実で転んでしまう──ので、美男美女ばかりではないが、二ヵ月まえに高校生になったばかりのナオトには、みんな大人の気風をまとい、キラキラして見えた。

 声をかけてきた先頭の女性は、ナオトの驚きように驚いた様子で、それから噴き出した。

「ごめん、脅かしちゃった? 怪しい人じゃないよ。わたしら、デザイナーの卵でね。いま、アジア系のモデルを探してるのよ。それでー……」

 女性はナオトをジッと見つめる。閲覧モードでナオトの情報を調べようとしているのだろうが、あいにく完全非公開にしている。諦め、女性がいてきた。

「ええと、きみ、男の子? 女の子?」

「男、です」

 すると、五人全員が驚き声をそろえた。無礼ともいえる態度だが、怒る気はない。なで肩で、小柄で、線が細い身体からだに、色白のせいでむやみに強調される黒瞳と赤い唇。

 性別をまちがえられるのは、高校生になっても変わらなかった。そして──。

「おねがい、わたしらのモデルになって! こんどアバター衣装の大会用に出展するんだけど、きみにすごい創作意欲を感じるの。まずはフレンド登録を……」

 ドォンとまた遠くで音がして、女性がうっとうしそうにアーケードを見上げた。

「もう、うるさいな! VR映画の撮影? あっ、ごめん。それで──あれ? あの子は?」

「あ? いねえぞ? どこいった?」

「ふつーに、怪しい勧誘だと思われちゃったんじゃなーい? しかたないけどさー」

「ちょ、ちょっと、みんな本気で探して! 逃げた魚はでかいわよ!」

 女性の一喝で四人は散っていく。その死角からナオトは人混みに逃げ、最寄りのリード店舗へ向かう。そして店前に出たリード表の最上段の名を、見もせずクリックして入った。

 リード機能が選んだのは、アマチュア服飾屋だった。地味なジーンズやシャツなど、仮想世界の面白さを反映していない衣装ばかり扱っている。客も年配の男性数人だけだ。

 振り返れば、自動ドアの向こうで、先の女性たちがまだナオトを探していた。しかしオシャレな彼女たちのリード表に、この店は出てこないだろう。

 ナオトはリード機能に感謝し、同時に皮肉を覚えた。

 リード機能はこうに合うモノだけでなく、世界のどこかにいる同好の士へと導くためのものだ。それを人けに使うとは。ナオトは吐息をつくと、捜索の隙を突いて店を出た。

 ──性別をまちがわれるのは、高校生になっても変わらない。

 ──そしてVRSNS内でも、人が怖いのは変わらない。

「直さなきゃダメ、だよね? いつかは。うーん……」

 近くのリード広告が、大手メンタルケア企業クロエ・アンド・カンパニーのCMを流していたが、ナオトは無視した。かれの場合、治療が必要なほど重大なものではない。

 純粋に、怖がりなのだ。とくに明るい人たちは怖い。舌と頭が固まってしまう。

 情けないが、改めるのは今日ではない。ナオトは商店街を出ると、進学してから出会った中で、ゆいいつ、まともに話せる人から送られたメモを展開した。

 ナオトが所属するVR文化検証部の部長・寿ことぶきカンナ。二年生の先輩からのメモだ。

 VR文化検証部──通称・VR文検部──は、いわゆるオカルト研究部。VRSNSの怪談や都市伝説を調べ、考察している。本音を言うと、興味はない。しかし、せっかく知り合えたカンナが熱中している活動だ。できる限り手伝いたかった。

 ──人間より、仮想世界をさまようオバケとおしやべりするほうが気が楽そうだし。

 なので、目的の多目的ビルを前にしても、ナオトは冷静に通信アプリをひらけた。

「部長、ナオトです。ビルに着きました」

『よかった、無事についたのね』

 通信ウィンドウに映るのは、ふわふわの黒髪を肩に垂らしている女子。いかにも良家のお姉さんだが、はかなさはない。がねをかけた黒瞳には芯の強さが感じられる。

「VRSNSを歩くだけですよ、部長。無事も危険もありませんって」

『でもくんのことだから。知らない人に声をかけられて逃げ、逃げた先でも声をかけられ、さらに逃げ……そのうち迷子猫みたいなことになってないかと心配で』

「あうっ」

 ナオトが胸を押さえると、カンナは嘆息した。

『ごめんね、日野くん。やっぱり、わたしがログインするべきだったわ』

「へ、平気ですよ! おれは部長みたいに情報収集なんてできませんけど、VRSNS側での確認作業くらいならできますし。ささっ、調査を始めましょう」

 カンナはうなずくと、キリリと表情を引き締めた。

『……先日、VR文検部に匿名メールが送られてきたわ。内容はこう。〝今日の日本時間午後八時、そのビルでおまえが探しているものが見つかるだろう〟ってね』

「部長が探しているものって、どれだろ。データ化した幽霊に、電賊、運営のユーザー行動監視システム……あっ、高度自我をもって研究所から逃げ出したAIも」

 もちろん、どれも発見には至っていない。カンナは軽く肩をすくめた。

『わからない。その施設もクリーンよ。一二〇の企業が入っている、ただのVRオフィスビル。とりあえず、入ってみて。……視覚リンクをお願いしていい?』

 自分の視点をカンナと同期させてからビルに入ると、ホールでは笑顔の受付嬢がいてギョッとしたが、すぐにBOTだとわかり、ホッとしながら声をかけた。

「あの、約束があるんですけど。名前はナオト、もしくは、寿ことぶきカンナの代理です」

「各社にアクセス。──アポイントはありません。おつなぎしましょうか?」

「へっ、あ、いいです。すみません……」

 受付から離れると、カンナが言った。

『アポイントなし、か。うーん、メールの送り主は、対面したいわけじゃなさそうね』

「どうしましょう……?」

『メールには位置指定子も添えてあったわ。リード表の。ビルでリード表があるのは……』

「エレベーター、ですかね」

『ええ。注意して、日野くん。いつもどおり、ログアウトと通報の準備も常に』

 ナオトはホール奥のエレベーターへ向かうが、そこまで警戒していなかった。

 この二ヵ月、様々な活動をしてきたが、ノーヒット。カンナは不服だろうが、調査のおかげで風評被害が払拭されたと、現場のVR商業組合からお礼を言われたこともある。

 ──メールの人も、ビル関係者では? なにかいわくがあって、安全を証明したいとか。たぶんそうだと思いながらエレベーターに乗り、リード表にカンナから送られた位置指定子を打つとドアが閉まった。

 さて。オバケに会えるか? もし、いたら、どこかに自分の両親のオバケもいるのか?

 そんなことを考えていると、ふと、異常に気付いた。

「……あれ? 部長、このエレベーター、動いてないです」

『閉じ込められたってこと? 故障か、指定子が合ってなかったのかしら』

「どうでしょう。でも、ログアウトかファスト・トラベルかすれば簡単に出られ──」

 突然、エレベーターがガクンと震えた。階層ボタン前のリード表の文字は劇薬を浴びた線虫のようにうごめき、四方からはきしみ音が聞こえる。そして……。

『ターゲット捕捉。【自由の黄ジヤーロ・リベルタ】〈こうかつなる通路〉を実行』

 機械音声が聞こえたあと、エレベーターが猛然と急落下を始めた。

「うわっ、うわわわわわっ!」

 ナオトは壁にへばりつく。エレベーターは速度をあげ、ずっとずっと落ち続けている。

 平気だ。仮想世界でケガはしない。ナオトは目をつむり、いつかくる衝撃に備えた。

 いったい、あの位置指定子は自分をどこへリードするのかと思いながら。



 エレベーターが止まったショックで身体からだが跳ね、合わせて開いたドアから放り出された。床でバウンドしたとき全身から電気が散った。カットシステムの作動だ。これが連続すると強制ログアウトされ、運営からお叱りのメールが届く。いまもつんいで息を切らしているナオトの前に、『強接触・注意』の警告ウィンドウが浮かんでいた。

「なに、なにが……?」

 辺りは薄暗かった。そして、いまさらだが……変だった。ここは、どこかのホテルの一階らしい。しかし人はおらず、宙のほこりがガラス壁から差し込む街灯光にきらめいている。

 そうなのだ。あれだけ落ちたのに、ここは一階なのだ。

くん、日野くん! だいじょうぶ!』

「あ、部長。はい。でも、ここ、どこでしょう?」

『いま位置検索したわ。……ねえ、さっき、ファスト・トラベルした?』

「いいえ。そんな余裕ありませんでしたけど……」

 だが、ここはさっきと別の建物だ。振り返ると、エレベーターは照明と同じく電源切れで沈黙している。変だ。一部のアクセシビリティ機能を除き、VRSNSの事象はブレイン・イノセンス・エンジンの物理法則にのつとっている。これは、それを超越していた。

『そこは、さっきのビルから二キロ離れた、ホテルの〝モデル〟──設計図よ。現実側でホテルが完成したら、このモデルもVRSNSで利用する……はずだったけど、モデル施工段階で強度問題が発覚して、計画は中止になったそうなの』

「はぁ、だから人がいないんですね……」

『というより、いてはならないわ。VRSNSにも不動産はあるわ。このホテルは売物なのよ。つまり日野くんは……いま、不法侵入中。正確にはハッキング中よ』

「えええっ! お、おれ、エレベーターに乗っただけなんですけど!」

『平気。きちんとログも取ってる。けど、せっかくだから調べてみましょう』

 そうはいっても人はいない。もちろん、オバケも。あてどもなくフロントを抜けてカフェエリアへ向かい、埃が積もったカーペット床に足跡を残していくと……。

「んん……?」

 ナオトは小動物みたいに臆病だ。だからだろう。五感も、小動物なみに鋭い。

 その耳が異変を捉えたのだ。商店街で聞いた花火の音。あれが近付いてきている。

 T字路に面した横のガラス壁が、カッとライトに照らされた。

 車だ。ボロボロのオープンカーが、おそろしい速度で向かってきている。パンクしているらしく、タイヤから火と煙を噴き出していた。ブレーキの気配は、ない。

「わ、わ、わわわわわっ!」

 本能的に奥へ走り、カフェのカウンター上を転がるようにして裏へ隠れた数秒後。

 オープンカーがガラス壁を破って侵入。赤熱したタイヤでカーペットに火のわだちを描きつつ家具をね、カウンターを破ってナオトの横を抜けて、壁に突っこんで止まった。



 静かになると、ナオトはカウンターの縁から、そっと無残なカフェをのぞいた。ガラス壁や家具の破片がそこら中に散らばり、そんな惨状をカーペットにいた火が照らしている。

 食べ物ではないのだ。建物も家具も非破壊設定のはず。いったい……。

くん、日野くん! 映像が不明瞭になっているわ、なにがあったの!』

「あ、部長。えっと、その、車が、つっこんできて……」

 壁に半ば埋まっている車は、ここまでどんな目に遭ったのか、傷だらけ穴だらけだ。

「ホテルも車も、ボロボロです」

『かろうじて映像を確認できた。これは……すぐログアウトして。これは犯罪現場よ!』

 犯罪? ナオトが首をかしげたとき、オープンカーで動きがあった。

 運転席からい出てきたのは、レインコートを着た大男。かれはズレたがねを直すと、丸めた頭に手をやり、てのひらについた赤い液体を見て毒づいた。

「くそっ、カットシステムが止まった。──おい、お嬢、無事か!」

 後部席から、長身の女性が立ちあがる。奇妙な衣装だった。立派な黒ドレスだが、山火事現場を通り、そのあと荒波を泳いできたような有様だ。しかも血の海だ。

「カットシステム八七%減。アーロン、そちらの負傷度は?」

「かすり傷だ。……ウィリアムに比べればな」

 悲痛な顔をするアーロンという大男にひとつうなずくと、金髪の美女はホテルを見回す。

 そのへきがんぼうぜんとしているナオトを捉えると、近寄ってきた。

『はやくログアウトして、日野くん。そいつらは電賊よ!』

 ──電賊? VRSNSの無法者にして、情報社会の大敵?

 だが、ナオトは動けなかった。魅了されていた。こちらへくる女性の姿に。

 しい黒眉の下で輝く碧眼。後ろで縛り、サイドの髪も垂れ耳のように伸ばしている金髪。ボロボロのドレスも、肌のすすや血も、彼女に宿る動物的な美しさを浮彫にしている。

 だから女性が破れて垂れさがるショールを引きちぎり、何のためらいもなく、しなやかな四肢や腰をさらしても、ナオトは恥ずかしさを覚えず、ただ、圧倒されていた。

 女性が間近で止まると、一枚の金属カードを差し出してきた。