「舞踏会、ですか?」
「ああ。知人の主催する舞踏会に、父の代わりに参加することになったんだ。アリスさえ良ければ、一緒に参加して欲しい」
「公爵様の代わりに……」
アーサー様と婚約して、数ヶ月が過ぎたある日。
舞踏会に誘ってくださった彼は「駄目かな」と軽く首を傾げ、子犬のような瞳でわたしを見つめて。思わずすぐに頷きそうになるのを、わたしはすんでのところで耐えた。
「……お返事ですが、少しだけ待っていただけませんか」
「何か予定が?」
「いえ、そういうわけでは」
「それなら先日のパーティで、何か嫌な思いをしたとか」
「そ、そんなことはありません! とても素敵な日でした」
心配そうな表情を浮かべるアーサー様に、慌ててそう伝えれば、彼は少しだけほっとしたような表情を浮かべた。
問題があるのは、わたしの方だ。
「本当に、行きたい気持ちはあるんです」
「うん、わかったよ。無理はしないでね」
「すみません……」
「謝らないで欲しいな」
わたしの頭を優しく撫で、ふわりと微笑むアーサー様に申し訳なさで胸が痛んだ。心がずしりと重たくなっていく。
──ああ、本当にどうしよう。
わたしは一人、心の中で頭を抱えたのだった。
◇◇◇
『本当にグレイ様とアリス様は、いつも一緒ですのね』
『子供の頃から、これが当たり前なので。なあ、アリス』
『は、はい』
『仲が良くて羨ましいですわ』
無理やり笑顔を貼り付けて、グレイ様の後ろをついて回る。そうして今日もわたしは自分を押し殺し、ひたすら彼の機嫌を伺い続けていた。
『アリス、踊るぞ』
『えっ? で、でも、わたしは……』
『いいから付いて来い』
グレイ様は突然そう言ってわたしの腕をきつく掴むと、そのままどんどんホールの中心へと進んでいく。今すぐに逃げ出したいけれど、そんなことが出来たら苦労はしていない。
踊りを楽しむ人々の中へと混ざると、グレイ様は早くしろとでも言いたげな瞳でこちらを見ていて。わたしは恐る恐る彼の近くへと寄ると、差し出された手を取った。
……年に数回はこうしてグレイ様とダンスを踊る機会があるけれど、わたしはこの時間が本当に嫌いで、苦手だった。
至近距離で彼の真っ赤な瞳に見つめられると、身体が強張ってしまうのだ。わたしはひたすら俯き、ミスをしないようにと必死にステップを踏む、けれど。
『痛い』
『ご、ごめんなさい……!』
結局いつも、こうしてグレイ様の足を踏んでしまったり、間違えてしまったり。その結果、ひどく冷たい瞳で見下ろされると、泣きたくなってしまう。わたしが下手なのを分かっているのなら、他の人と踊れば良いのに。
そう思ったところで、もちろん彼に直接そんなことを言えるはずもなく。わたしは早く曲が終われと祈りながら、ぎこちないステップを踏み続けた。
『お前は本当に、いつまで経っても上手くならないな。俺が相手だからまだこの程度のミスで済んでいるんだ、絶対に他の人間とは踊るなよ。相手に恥をかかせることになる』
やがて一曲踊り終えると、彼は吐き捨てるようにそう言って、わたしを睨み付けた。
グレイ様と一緒でなければ社交の場に出ることも出来ないのだ。その上、いざ出たところで彼の隣から離れることすらできないというのに、どうやって他の人と踊ることができるというんだろう。
『……はい、すみません』
『分かったならいい。喉が渇いた、行くぞ』
そんな言葉を飲み込み、彼の機嫌を損ねないよう返事をすれば、グレイ様はわたしの腕を掴み、早足で歩き出す。
そうしてまた、彼の隣で、彼だけとしか話すことのできない、辛く長い時間が始まるのだ。
◇◇◇
「…………夢、か」
ベッドから身体を起こしたわたしは、夢だと分かるとほっと安堵の溜め息をついた。本当に、夢で良かった。
アーサー様からの舞踏会のお誘いをどうしようと悩み続けていたせいか、グレイ様との過去の嫌な夢を見てしまった。
──そう、わたしはダンスがとても苦手なのだ。
ダンスが下手なことで、もしもアーサー様に恥ずかしい思いをさせてしまったらどうしよう、幻滅されたらどうしようという不安が頭から離れない。
けれどいつまでも、逃げているわけにはいかない。いずれ避けて通れない日が来るのだから。
そして悩みに悩んだ結果、わたしは再来週に控えた舞踏会に向けて、猛特訓をすることにした。まだ、時間はある。
「アーサー様、先日お誘いして頂いた舞踏会ですが、わたしで良ければ一緒に参加させてください」
「本当に? 嬉しいな、ありがとう」
言葉通り、本当に嬉しそうに微笑む彼を見ていると、頑張らなければという気持ちが強くなっていく。
「わたし、頑張りますから!」
「うん……?」
返事をしてしまった以上、もう後には引けない。そう宣言すると、わたしは気合を入れたのだった。
◇◇◇
そしてアーサー様に一緒に行くと宣言した数日後、わたしはリリーと共に、とある舞踏会に参加していた。
色々と相談したところ、リリーが「習うより慣れろよ!」とわたしを連れ出してくれたのだ。わたしには、圧倒的に経験が足りないのだと彼女は言う。
けれどグレイ様としか踊ったことがないわたしは、見知らぬ人と踊るのもまた怖くて。その結果、リリーのお兄様が練習相手になってくれることになった。何度も話をしたことがある優しい彼が相手ならば、少しは安心して練習することができる。
三人でしばらくお喋りを楽しんだ後、そろそろ踊ってみようかという話になった時だった。
「……アリス?」
そんな聞き覚えのある声に慌てて振り向けば、そこにはアーサー様その人がいて。わたしは驚きで固まってしまう。
……どうして、アーサー様がここに。
「アーサー様、どうして……」
「君こそ、どうして此処に? もしかして今からダンスでも踊るつもりだった?」
ぎくり、としてしまったのが、顔に出ていたのだろう。
するとアーサー様は微笑んだまま「少し、話がしたいな」なんて言うと、わたしの手を取った。心なしか彼の纏っている空気が、先程よりも冷ややかなものになった気がする。
「こんばんは。彼女を借りても?」
「え、ええ。もちろんですわ」
「ありがとう。行こうか、アリス」
「は、はい」
アーサー様はそう言って二人に挨拶すると、わたしの腕を引いて歩き出す。そのままアーサー様に連れられて会場を出ると、彼はまっすぐ休憩室へと向かって。
やがて中へと入るとアーサー様はかちりと鍵を閉め、ソファに座るよう促された。わたしが恐る恐る座ると、彼もまたすぐ隣に腰を下ろした。
「ごめんね」
「えっ?」
「先に謝っておく」
それだけ言うと、アーサー様は突然、わたしの唇を自身の唇で塞いだ。いつもよりも少しだけ荒々しいそれに、心臓が痛いくらいに早鐘を打っていく。身体が、顔が、熱い。
やがて唇が離れた後、アーサー様は眉を下げ困ったような表情を浮かべて、わたしをじっと見つめた。
「……嫉妬した」
「え、」
「君が他の男と触れ合って、近距離で視線を合わせることを想像しただけで、おかしくなりそうになる。その前に偶然、君を見つけられて良かった」
「アーサー、様……」
まさか彼がそんなことを思ってくれていたとは思わず、申し訳なくなる。そしてわたしは、少しでもアーサー様に誤解されたくなくて、今日舞踏会に参加しリリーのお兄様と踊ろうとしていた理由を、正直に彼に説明することにした。
全て話し終えると、アーサー様は小さく溜め息をついて。次の瞬間には、わたしをきつく抱きしめていた。
「俺がすぐに気付いてあげられなかったせいだ、ごめんね」
「そ、そんな、アーサー様は何も悪くないです」
「ううん、俺が悪い」
そう言い切ると、アーサー様は続けた。
「そういう悩みも全て、話してもらえるようになりたいな。俺は一生、アリスの味方だから」
「アーサー様……」
「それにダンスは得意だから、アリスのフォローもしてあげられると思う」
「だからもう、他の男と踊ろうとなんてしないでね」
すぐにこくりと頷けば、アーサー様は「いい子だね」と言ってわたしの頭を優しく撫でた後、再びきつく抱きしめた。
◇◇◇
そして、舞踏会当日。
アーサー様は今日のために素敵なドレスを贈ってくれた。本当に、いつも沢山のものを頂いてばかりで申し訳なくなってしまう。
「本当に、いつもありがとうございます」
「こちらこそ俺が選んだものを着てくれて嬉しいよ」
馬車に揺られて会場へと向かう最中も、「緊張している顔も可愛いね」なんて言って、アーサー様は甘やかしてくれる。彼といるだけで、不思議と不安がどんどん薄れていく気がした。
やがて会場へと足を踏み入れると、広いホールには大勢の人がいて、その豪華さや規模に圧倒されてしまう。彼の手を取り歩いていくと、女性達は皆、すれ違い様にアーサー様をうっとりとした表情で見つめている。
二人で主催者の方に挨拶をし、挨拶回りをし終えた後、アーサー様は窺うようにわたしを見た。
「アリスが嫌なら、踊らなくても大丈夫だよ」
「……緊張しますけど、わたし、アーサー様と踊りたいんです。それに、アーサー様が他の方と踊るところを見るのも、その、嫌ですし」
少しだけ照れながらもそう伝えれば、アーサー様は驚いたような表情を浮かべた後、目を細め、柔らかく微笑んだ。
「どうしてアリスは、そんなに可愛いのかな」
「…………?」
「あまりにも可愛すぎて、二人きりだったら何をしていたかわからないくらいだ」
「えっ」
そして「大好きだよ」とわたしの耳元で囁くと、アーサー様はわたしにそっと手を差し出して。
彼にまで聞こえてしまうのではないかというくらい、大きな音を立てている心臓の音を感じながら、わたしは彼の手を取り、ホールの中心へと向かう。
「身体の力を抜いて、俺に身を委ねてくれればいい」
「はい」
やがて演奏が始まり、音楽に合わせてステップを踏んでいくけれど、驚く程に身体が軽い。その上、アーサー様の完璧なリードのお蔭で、迷わずに次の動きに入ることが出来る。
彼に出来ないことなんて、存在するのだろうか。そんなことを本気で思ってしまう。
「アリス、とても上手だよ」
「……本当ですか?」
「ああ。これで君に下手だなんて言う人間がいるのなら、会って文句を言ってやりたいくらいだ」
そう言って微笑むアーサー様に、また胸が高鳴る。ああ、彼のことが大好きだと、幸せだと心の底から思ってしまう。
──好きな人と踊ることが、こんなにも楽しくて幸せなものだったなんて、わたしは今まで知らなかった。
「アーサー様」
「うん?」
「わたし、今とても楽しいです」
「良かった。俺もだよ」
二人で視線を合わせて、微笑みあって。それから音楽が鳴り止むまで、わたしは夢のような時間を過ごしたのだった。
◇◇◇
それから更にもう一曲続けて踊った後、わたしはアーサー様と共にバルコニーに出て涼んでいた。
ちらりと隣の彼へと視線を向ければ、夜風によって柔らかな金髪が靡いていて、まるで一枚の絵のような美しさがそこにあった。やがてわたしの視線に気づいたのか、アーサー様はこちらを見ると、ふわりと穏やかな笑みを浮かべて。
「どうしたの?」
「あの、本当に、ありがとうございました」
「礼を言われることなんてしていないよ」
アーサー様はそう言うと、沢山の星が輝く夜空へと視線を移した。
「俺も、アリスのお蔭で子供の頃からの夢が一つ叶った」
「夢、ですか?」
「うん。ありがとう」
……彼の子供の頃からの夢とは、何だったんだろう。
その内容はわからないけれど、アーサー様がとても嬉しそうにしているものだから、わたしまで嬉しくなってしまう。
「アーサー様、大好きです」
身体の中から溢れ出てくるような気持ちを、思わず口に出してそう伝えれば、アーサー様は「俺もだよ」と微笑んでくれて。
わたしはこれ以上ないくらい、あたたかい幸せな気持ちに包まれていたのだった。