素直な気持ち
「……アーサー様の、仰る通りです」
やがて、ドア越しにそんなヘレナの声が聞こえてきて。「失礼な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした」という静かな声が続いた。
──ヘレナが、わたしを心配していた?
ずっと彼女の言動から、わたしは彼女に好かれてはいないのだと思っていた。だからこそ、その言葉に驚きを隠せない。
「どうか、アリスをよろしくお願いいたします」
「ああ、必ず幸せにするよ」
そんな二人のやり取りを聞いたわたしは、しばらくその場から動けなかった。
◇◇◇
その日の夜、わたしはヘレナの部屋を訪れていた。急にどうしたのよ、なんて言いながらも彼女はすぐに部屋へ通してくれて、お茶の準備をメイドに頼んでいる。
そうして目の前にティーカップが置かれたあと、わたしは早速、一番気になっていたことを尋ねてみることにした。
「ヘレナは、わたしのことが嫌い?」
「………っ」
彼女にとっては予想外の質問だったのだろう。ヘレナはひどく驚いた様子で、手に持ったばかりのティーカップを落としかけていた。
しばらくその大きな瞳は逃げ場を求めるように落ち着きなく泳いでいたけれど、やがて諦めたように彼女は呟いた。
「き、嫌いなわけ、ないじゃない」
「それならどうして、あんな態度をとっていたの?」
嫌いではないというその言葉に改めて驚きつつ、わたしはすかさず次の質問をぶつけた。まっすぐ彼女を見つめれば、長い睫毛がそっと伏せられる。
観念したのか、先程よりも早く答えは返ってきた。
「……子供の頃、アリスは急に元気がなくなったでしょう」
そう言った彼女は、皺が出来るくらいに淡いブルーのドレスをきつく握りしめていた。
きっとヘレナが言っているのは、グレイ様が突然変わってしまった時期だろう。その頃からわたしは自分に自信が持てなくなり、だんだんと内気になっていった。
「いくら尋ねても、アリスは絶対に理由を教えてくれなかったわ。それなのに私がしつこく聞いたせいで、ヘレナには関係ないって、言われてしまったの」
「……えっ」
「私はアリスに何でも話していたのに、って自分勝手な私は拗ねてしまって……それからは元気の無いアリスを元気づけたくても、っ意地悪なことしか、言えなくて、」
ヘレナの深い緑色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていく。彼女があんな態度をとっていたのは、そんなわたしの一言が原因だったなんて。
わたしからすれば、つい口から出てしまった何気ない言葉だった。けれど当時の彼女にとっては、かなりショックなものだったのだろう。そう思うと、胸が痛んだ。
……ヘレナに理由を話さなかったのは、心配をかけたくなかったからだ。それに当時は、彼女が王都にある我が家に遊びに来ることもあった。万が一、理由を話した後に彼女がグレイ様に出くわし、文句のひとつでも言って彼を怒らせてしまったらと思うと、怖かったのだ。
わたしもあの頃は自分のことで精一杯で、心に余裕など無くて。だからこそ、ついきつい言い方をしてしまったのだと思う。彼女はわたしを心配してくれていたというのに。
「くだらないと、思ったでしょう……? それなのにその年以降も、前の年の自分の態度を思い出したら、どんな顔をしたらいいかわからなくて、っ毎年毎年タイミングを逃して、今まで来ちゃったのよ……!」
そう言うと、ヘレナは子供のように声を上げて泣き出してしまった。彼女は昔からひどく不器用で、意地っ張りで。そのせいで失敗をしては、いつも泣いていたのを思い出す。
ヘレナに対して苦手意識など持たずに、わたしがもっと早くに歩み寄るべきだった。そんなわたしの態度もまた、彼女をそうさせてしまっていたに違いない。
「ヘレナ、ごめんね」
わたしは立ち上がると彼女の隣に移動し、その背中を優しく撫でた。
そんなわたしに対して、彼女はごめんねと何度も謝罪の言葉を繰り返していたのだった。
しばらくしてヘレナが泣き止むと、わたしは冷えてしまったお茶を淹れ直し、改めて彼女の話を聞いた。アーサー様にあんなにも話しかけたり、ずっとわたし達の後を付いて回ったりしていたのは、彼の人となりを知る為だったらしい。
好き嫌いなどわたしの話をずっとしていたのも、アーサー様にそれらをよく知ってもらい、少しでもわたしが暮らしやすいようにして欲しかったのだという。あまりにも不器用で斜め上を行くその心遣いに、思わず笑ってしまった。
そんな話をしていると不意にノック音が響いて。どうぞと声を掛ければ、ドアの隙間からロニーが顔を出した。彼は泣き腫らして真っ赤な目をしたヘレナを見て、彼女と同じ色の瞳を驚いたように見開いていた。
ソファに腰かけた彼に今までの話を説明すると、ロニーは「ようやくですか」と溜め息をついた。
「毎年コールマン家からの帰り道は、アリスにまた酷いことを言ってしまった、私はなんて馬鹿なんだろう、もう消えてしまいたい、と永遠に嘆く姉様の声を聴きながら馬車に揺られていたのですが、今年は大丈夫そうで安心しました」
「ロ、ロニー……!」
さらりとそんなことを話したロニーに、ヘレナは慌てたように声を上げ、頬を赤く染めた。ロニーが毎年、彼女を嫌いにならないでくれとわたしに言っていたのは、そんな彼女を見ていたからなのだろう。再び笑みが零れた。
「姉様がここに来られるのは、今年が最後なんですよ」
「えっ?」
「だからこそ、素直になれたのなら本当によかった」
驚いてヘレナを見ると、「嫁ぎ先はここからかなり遠いの」と、困ったように彼女は微笑んで。わたしの両手を、真っ白で艶やかな両手がそっと包み込んだ。
「今アリスが幸せそうなのは、アーサー様のお蔭なのね」
「……うん」
「昔と変わらないアリスの笑顔を見て、本当に安心したの。これで心残りがないまま、嫁ぐことができるわ」
そのお蔭で今年は少し素直になれたし、と彼女は笑う。
──もしもわたしが変われているのならば、それは彼女の言う通り、全てアーサー様のお蔭だ。彼の言葉や愛情に、その存在に、どれほど救われたかわからない。
「わたし、今とても幸せよ」
そんな心からの気持ちを伝えると、ヘレナもまた昔と変わらない笑顔を浮かべていたのだった。
◇◇◇
翌日、朝一番にヘレナは帰ると言い出し、あっという間に荷物をまとめて彼女達は馬車に乗り込んだ。元々無理やり延泊していたらしく、間違いなくお父様に怒られると、彼女は悪戯をした子供のような顔で笑っていた。
「ヘレナ、元気でね。今度はわたしが会いに行くから」
「ありがとう。ずっと待ってるわ」
……どうか、彼女が幸せになれますように。そう祈りながらアーサー様と共にヘレナを見送った。寂しさは勿論あるけれど、それ以上に胸の中は温かさに包まれている。
「アーサー様はお昼頃に発つ予定ですよね?」
「ああ。その事なんだけど、」
そうして彼は、良ければグリンデルバルド家の馬車で一緒に王都に戻らないかと誘ってくれた。わたしも明後日には戻る予定だったから、それは願ってもない申し出で。すぐにわたしは両親に許可を取り、荷造りを始めた。
「ヘレナと
「俺は何もしていないよ」
王都へと戻る途中、馬車の中で昨日のことを報告すると、彼は良かったねと優しく頭を撫でてくれた。アーサー様と出会ってからというもの、わたしは少しずつ前へと進めている気がする。
「きゃ、っ……!」
そんなことを考えていると急に大きく馬車が揺れて、わたしはアーサー様に思い切りもたれかかる形になってしまう。彼はすぐに腕をわたしの体に回し、支えてくれた。
「アリス、大丈夫?」
「はい、すみません……。雪、酷くなってきましたね」
「ああ。今日中に王都に着くのは難しそうだ」
コールマン家を出てからというもの、だんだんと天気は悪くなっていき、気がつけば猛吹雪になっていた。窓の外も真っ白で何も見えない。時折強い風が吹いては、馬車を揺らした。昔の我が家のオンボロ馬車なら、とっくに壊れていたに違いない。
御者や護衛の人々もこれ以上進むのは危険だと判断したらしく、急遽近くの街に泊まることになった。
「アーサー様とアリス様は、こちらへ」
そうして案内されたのは、綺麗なホテルだった。けれど何故か、護衛の男性の表情は暗いままで。
「大変申し訳ありません、この悪天候でどこも満室で、無理を言って何とか確保出来たのは一部屋だけでして……」
「えっ」
思わず、驚きの声が漏れる。
ちらりと隣にいたアーサー様の顔を盗み見れば、珍しく彼も驚いた表情をしていた。
「アリスは、それで大丈夫?」
「も、もちろんです!」
「良かった、ありがとう」
……どうやらわたしは今夜、アーサー様と二人きりで泊まることになってしまったらしい。