やさしい箱庭─アーサー視点─

「アリス・コールマン様が何者かに襲われ負傷、現在意識は無く病院へ運ばれたとの事です」

その知らせを聞いた瞬間、目の前がぐにゃりと歪んだ。手元からグラスが滑り落ち、薄い氷が割れたような音が響く。

──アリスが襲われて負傷? 意識がない?

言葉自体を理解していても、脳内では全く理解が追いつかない。意味が、分からなかった。分かりたくもなかった。

「アーサー、もう此処での用も大方済んだ。先に王都に戻りなさい」

「……どうして、アリスが、」

「今すぐにアーサーが王都へと向かう馬車の手配を」

「かしこまりました」

視察が長引き、遅すぎる夕食を一緒にとっていた父もその知らせを聞いており、動揺している俺の代わりに馬車の手配をしてくれた。そして、「しっかりしなさい」と肩に手を置いた。

すぐに用意された馬車へと、放心状態のまま乗り込む。馬車は足早に王都へと出発したけれど、どんなに急いでも半日はかかるだろう。

俺は馬車の中で一人、頭を抱えていた。

「アリス、アリス、アリス……」

何故、彼女がそんな目に遭ってしまったのだろうか。

父の秘書の一人であるロイドがあの場に現れた時点で、嫌な予感はしていた。我が家では王都から離れている間、非常事態があった時のみ彼が直接その内容を伝えに来ることになっている。

時刻を確認すれば、二十二時を過ぎていた。ロイドが昼に王都を出て、此処へ伝えに来るまで既に半日経っている。何故、こんな時に限って自分はこんな遠く離れた場所にいるのだろう。

そもそも、彼女は無事なんだろうか。

そんなことを考えるだけで、吐き気がした。アリスがもし、無事ではなかったら。俺は、一体どうするんだろう。

──この先、どうやって生きていけばいいんだろうか。

いつの間にか俺は、彼女がいない未来など想像出来なくなっていた。彼女が隣に居てくれるのが当たり前だと、思ってしまっていた。

浮かれていた。あんなにも恋焦がれていた彼女が傍にいてくれて、自分を好きだと言ってくれて、浮かれきっていたのだ。

この世界は理不尽で、絶対なんてものはないと、誰よりもこの身をもって知っていたはずなのに。

こんなにも絶望したのは、人生で三度目だった。

◇◇◇

結局、王都に着いたのは昼前で、アリスが病院に運ばれてから丸一日が経とうとしていた。ただ馬車に揺られる事しか出来なかったこの半日間は、本当に地獄だった。

一分一秒が惜しくて、病院近くの混み合っていた道路で馬車から降り、そこからは全速力で走った。息の苦しさなんて、最早気にならない。馬車の中で何も出来ずにいた方が何倍も苦しかった。

病院に着き、職員に案内された病室の前にはアリスの両親の姿があった。

「……っアリスは……?」

「グリンデルバルド様……! 意識はまだ無いものの、命に別状はないようです」

その言葉を聞いた瞬間、心の底から救われたような気持ちになった。アリスが無事で、本当に良かった。泣きたくなるくらいに安堵し、一気に体の力が抜けていく。

「あちらにいるグレイ・ゴールディング様が、アリスを助けて下さったんです」

息を整えながらコールマン夫人の目線を辿れば、少し離れた場所で椅子に腰掛けているグレイ・ゴールディングと目が合った。その衣服は泥で汚れ、所々破れている。そして何よりも、赤黒く腫れた頬が一際目を引いていた。アリスを守るために、奮闘したというのが見て取れる。

アリスを助けてくれたのだ、勿論彼には心の底から感謝をした。けれど、同時に込み上げてきたのは悔しさだった。

「アリスを助けて頂いたこと、礼を言う」

そんな自分勝手な感情を抑えつけ、頭を下げる。

やがて頭上から聞こえてきたのは、あまりにも厳しい言葉だった。

「お前に感謝される覚えはない。今の今まで何をしていたんだ? 婚約者というのは、ただ甘やかして可愛がって、物を買い与えるだけの役割なのか」

確か彼は侯爵家の子息だったはずだ。家格が上の自分に対し、こんな口の利き方をするなど許されることではない。

けれど、俺は何も言い返さなかった。言い返せなかった。全て事実だったからだ。彼女がこんな事になってしまったのは、間違いなく俺のせいだった。

俺が、アリスを守らなければいけなかったのに。

「……すまない」

そう呟けば、目の前の男は驚いたように、燃えるような赤い瞳を小さく見開いたのだった。


それからアリスが目覚めるのを待ち、数時間が経った。

その間に犯人が捕まり、身代金目的で彼女を襲い、誰でもよかったと話しているとの報告を受けた。そんな事のせいでアリスが傷ついたのだと思うと、抑えきれない程の怒りが込み上げた。

やがて様子を見に来ていた医者によって、アリスが目覚めたことを知らされる。ひどく安堵し、半日ぶりにまともに呼吸をしたような気さえした。

まずアリスの両親が呼ばれ、中へと入っていく。目覚めた彼女がまず気に掛けたのは、グレイ・ゴールディングのことだった。

病室のすぐ前の椅子に座っていたせいで、ぽつぽつと中の会話が聞こえてくる。

「グレイ様が居てくれて、良かった」

──彼女の口からそんな言葉など、聞きたくなかった。

何もかもが、憎かった。アリスを傷つけた男も、彼女を助けてくれたグレイ・ゴールディングさえも。そして何より、彼女を守れなかった自分自身が一番、憎かった。

包帯を幾重にも巻かれた彼女の痛々しい腕を見た瞬間、絶望した。俺はまた、失敗したのだと思った。やり場の無い怒りが、体中を駆け巡っていく。

……そんな時、ふと、思い出したのだ。

幼い頃、大事なものは大切に宝箱に仕舞っておくべきだと、母によく言われていたことを。


「その後は、我が家で君を預かるよ」

「えっ?」

アリスの退院まで、あまり時間が無い。帰ったらすぐに準備に取り掛かろう。

窓を塞いで、鍵をつけて。ああ、そうだ。彼女の好きな物も沢山揃えなければ。やらなければならないことは沢山ある。

「もう絶対に、誰にもアリスを傷つけさせやしない」

大事な彼女を守るための、『宝箱』を作るのだから。