届かない声
ゆっくりと瞼を開ければ、見覚えのない真っ白な天井が視界いっぱいに広がっていた。ずいぶんと眠っていたような気がする。
うまく働かない頭でここは一体何処だろうと考えていると、すぐ隣から声が聞こえてきた。
「コールマン様、お目覚めですか?」
ゆっくりと視線を動かせば、ベッドのすぐ側に白衣を着た女性が立っていた。周りの様子から、ここは病院なのだと理解する。
……どうして、ここにいるんだっけ。
そのまま視線を彷徨わせていると、包帯が幾重にも巻かれた自分の腕が目に入った。それと同時に、男に襲われた時の絶望感や恐怖が呼び起こされて、ぶるりと身体が震えた。
「体調はどうですか? 腕の痛みなどもありませんか?」
「は、はい。どちらも、大丈夫です」
「それはよかったです。問題はないようですし、ご家族の方をお呼び致しますね」
ちょうど彼女が様子を見に来たタイミングで、わたしは目が覚めたらしい。もし、何か具合が悪くなることがあればすぐに声をかけるように言うと、彼女は病室を後にした。
「アリス、本当によかった……!」
入れ替わるようにして病室へと入ってきた両親はわたしを見るなり涙を流し、そっと抱きしめてくれた。その温かさに安心感が込み上げてきて、思わず涙ぐんでしまう。
「お母様、グレイ様は……?」
あの時、わたしを懸命に助けてくれた彼の安否が、何よりも気がかりだった。彼だってかなりの怪我をしていたはずだ。
「怪我もされているのに、あれから一日以上アリスが目覚めるのをずっと、一緒に待っていて下さったのよ。今、呼んでくるわ」
そう言うと、お母様はすぐにグレイ様を呼んできてくれた。彼はパーティの時と同じ服装のままで、本当にあれからずっと待ってくれていたのだと知る。
そんな彼の頬は赤黒くなっていて、ひどく痛々しい。ずっと起きていたのだろうか、目の下には隈が出来ていた。全て自分のせいだと思うと、胸が痛んだ。
「助けて頂いて、本当にありがとうございました。グレイ様がいなければ、今頃どうなっていたかわかりません」
「……守りきれず、すまなかった」
「そんな、何を……」
ああ、そうだ。気を失う直前にも彼は、わたしに対しずっと謝り続けていた。今だって、この世の終わりのような顔をしている。
──ずっとずっと、彼のことが嫌いだった。正直、今だってそれは変わらない。今までされてきたことも、一生許せないだろう。
けれどあの時グレイ様が助けに来てくれたことで、わたしは本当に救われたのだ。ボロボロになりながらも、彼は何度もわたしの為に立ち上がってくれた。
「グレイ様がいてくれて、よかった」
それは、素直な気持ちだった。
「…………っ」
「グレイ、様?」
「……早く良くなると、いいな」
グレイ様はそう呟くと急に顔を背け、そのまま無言で病室を出て行ってしまった。
「あの、お母様、グレイ様の手当は?」
「何度も言ったのだけれど、しなくていいの一点張りだったの。お家にお医者様もいらっしゃるだろうけど……」
「そう、ですか」
彼が早く良くなるようにと、祈らずにはいられなかった。
「ねえアリス、グリンデルバルド様もいらっしゃっているのよ。お呼びしていいかしら?」
「えっ、アーサー様が? ど、どうぞ」
まさかアーサー様まで来てくださっているとは思わなかった。気を利かせたのか両親は病室から出て行き、わたしは彼が入ってくるのを待った。
すぐに病室へと入ってきた彼の顔色は、信じられないくらいに悪かった。
「……アリス、」
今にも消えてしまいそうな声で、わたしの名前を呼ぶ。
こんなにも余裕の無さそうな彼は初めてだった。
ベッドのすぐ側へときた彼は、包帯が巻かれたわたしの腕へと視線を移した。その瞬間、彼の顔からは表情が抜け落ちて。その姿はまるで、精巧に作られた人形のように見えた。
「その腕、どうしたの」
「ナイフで、刺されてしまって」
わたしの腕で済んだから良かったものの、もしあのままナイフがグレイ様に向けられていたらと思うと、ゾッとした。きっと、こんな怪我では済まなかったはずだ。
「……すまなかった」
「えっ?」
「痛かっただろう」
そう言うと、アーサー様は怪我をしていない方のわたしの手をそっと握った。彼の冷たい手は、少しだけ震えている。
「君が何者かに襲われ意識がないと聞いた時、このまま目覚めなかったらどうしようかと思った」
「アーサー様……」
「領地でこの知らせを聞いてから、此処で君の無事を知るまで、本当に生きた心地もしなかった」
ああ、そうだ。公爵様と遠くの領地へ視察に行くのだと、以前彼は話していた。クロエ様はきっと、アーサー様がいない日をわざわざ選んだのだろう。
「本当に、生きていてくれてよかった」
そう言った彼の瞳も声も、震えていた。
「君を失ったら、俺はもう生きていけない」
あまりにも悲痛なその表情と声に、胸が痛む。もう二度と、彼にこんな表情はさせたくない。
「犯人は捕まったと聞いた。今詳しく調べているようだけど、身代金目的で誰でも良かったと供述しているそうだ」
「……そう、ですか」
犯人は嘘をついていて、わたししか真実を知らないようだった。実際に、貴族の子息子女を狙うそういった事件は少なくないのだ。アーサー様もその言葉を信じているようだった。
──本当の事を話すべきか、かなり悩んだ。彼女は、あんなにも必死に訴えたわたしの話を、聞き入れてくれなかったのだから。
けれど目の前の彼は、今にも死んでしまいそうなくらい思い詰めた表情をしていた。元婚約者であるクロエ様がこの事件を起こしたと知ったら、どれほど自分を責めるかわからない。
そしてわたしは、今はまだ黙っていることにした。決してクロエ様の為ではない。全てアーサー様の為だった。
「本当に、心配をおかけしてすみませんでした」
「謝らないでくれ。俺が、悪いんだ」
「そんな、アーサー様が悪いなんて、」
「君を守れなかった、俺が悪い」
何故か彼は、ひどく自分を責めているようだった。グレイ様といいアーサー様といい、どうしてそんなにも自分を責めるんだろうか。
「医者からは一日二日様子を見て、問題がなければすぐに退院できると聞いている」
「そうなんですね。よかったです」
「その間は、ここに警護の者を置くから」
「は、はい。ありがとうございます」
「その後は、我が家で君を預かるよ」
「えっ?」
突然のその言葉に、驚きを隠せない。グリンデルバルド家で、わたしを?
「もちろん、屋敷の警備は今まで以上に厳重にする」
「ア、アーサー様」
「君個人にも護衛をつけるから安心してほしい」
「あの、アーサー様、」
「そうだ、君の部屋には頑丈な鍵も付けないと。窓も無くした方がいいだろうか」
そんなことを、彼は生気のない顔で話し続けている。何かがずれているような、言いようのない違和感がそこにあった。
わたしの声は、彼に届いているのだろうか。
「もう絶対に、アリスを傷つけさせやしない」
そう言って、アーサー様はわたしの頬にそっと触れた。愛おしげな、慈しむような瞳でじっと見つめられる。わたしはただ黙って、彼を見つめ返すことしか出来なかった。