そう言った彼女の言葉尻は震えていた。やがて、その大きな瞳から涙がはらはらと流れていく。そんな姿を見ていると、胸が締め付けられるように痛んだ。

クロエ様は幼い頃からずっと、アーサー様との結婚を夢見てきたのだ。今だって、こんなにも彼のことを想っている。

それなのに、あと少しで婚約という所で突然わたしが現れ、彼女の夢は潰えてしまった。それはきっと、これまでの彼女の努力も想いも、全てが否定されたも同然だ。

……もしもわたしが彼女と同じ立場だったなら、同じように相手の女性を恨んでしまうかもしれない。いなくなればいいと、思ってしまったかもしれない。それでも。

「お願いですから、もうやめてください……! あなたに、こんなことをしてほしくない」

精一杯の思いだった。こんなことをして、幸せになんてなれるはずがない。

一番傷つくのは、きっと彼女だ。

「……もう、遅いんです。何もかも、」

けれど、その言葉はクロエ様に届くことはなくて。

「あとは、言った通りに」

それだけ言うと、彼女はわたしの方を二度と見る事なくその場から去っていく。

クロエ様がその場から離れたのを確認すると、男はポケットからハンカチを取り出した。

それだけで異臭がして、何か薬品が染みこませてあるのがわかった。意識を失ったり、身体が動かなくなる類の物だと想像がつく。

このままでは、本当にどこかへと連れ去られてしまう。アーサー様にも、会えなくなる。

涙で目の前が滲んだ。

──そしてもう駄目だと、きつく目を瞑った時だった。

「アリス……っ!」

突然聞こえてきた声と、ぶれる視界。

次の瞬間には、わたしの身体は自由になっていた。そのまま、へなへなと地面にへたり込む。何が起きたのかと顔を上げれば、そこには男と組み合っているグレイ様がいた。

「……どう、して」

「っいいから逃げろ! 早く!」

彼の言う通りにしたくとも、足が震えて動かなかった。助けを呼びたくても、恐怖によって喉が詰まったように声が出ない。自分の無力さが、憎かった。

やがてグレイ様が男に殴られ、倒れていく。相手が雇われている玄人だったとしたら、力で勝てるわけがない。男はグレイ様の身体を思い切り蹴り飛ばすと、そのままわたしの元へと戻ってきた。腕を持ち上げられ、乱暴に無理やり立たせられる。

視界の端で、ふらふらと起き上がったグレイ様がこちらへと向かってくるのが見えた。

…そんなにもボロボロになってまで、どうして。そんな彼の姿を見て、余計に涙が溢れる。

「アリスに、触るな……!」

「っち、いい加減うるせえんだよ!」

かなり苛立った様子の男は、彼に向かって左手を振り上げた。そして、すぐに気づく。

───いけない、だって、その手には。

「……っ、う、……!」

そして、男とグレイ様の間に手を伸ばしたわたしの腕に、ナイフの切っ先が食い込んだ。

焼けるような熱さを感じたと思えば、その次の瞬間には、重い鈍い痛みに襲われる。口からは、言葉にならない声が漏れた。

「ちくしょう、傷は付けるなって話だったのに」

男はそう言うと、焦ったようにハンカチをわたしの口元に宛がった。慌てて息を止めるけれど、腕の痛みもあるせいで、すぐに限界はきてしまう。

耐えきれずに息を吸い込めば、視界が歪んだ。

「いい加減に、しろ……!」

グレイ様が後ろから男の首を締める形でしがみつき、男と共にそのまま倒れ込む。解放されたわたしの体は、そのまま地面へと投げ出された。

薬が回り始めているせいか、体が動かない。頭も少しずつ働かなくなってきた。

いつの間にか聞こえてきた足音と人の声に、男はまずいと思ったのか舌打ちをすると、グレイ様を無理やり振り払い、その場から逃げていく。

「アリスっ……!」

「……ぐれ、……さ、ま」

彼はふらふらとわたしに駆け寄ると、そっと抱き上げてくれた。その手は、ひどく震えている。

グレイ様がいなければ、わたしは今頃どうなっていたかわからない。今頃は薬で意識を失い、どこかへと運ばれている途中だったかもしれない。

彼は血が止まらないわたしの腕に視線を落とすと、今にも泣き出しそうなほどに顔を歪めた。

「どうして、俺なんかを庇った」

「……………」

「ごめんな、アリス……本当に、ごめん……!」

謝る必要なんてない、助けてくれてありがとう。そう言いたいのに、もう声は出なかった。

だんだんと、彼の声が遠くなっていく。

「っ俺は、お前のことが、」

そんな悲痛なグレイ様の声を最後に、わたしの意識はぷつりと途切れたのだった。