一方通行
いよいよ本番の日がやって来た。
音楽祭までのこの数週間、三人で練習に練習を重ねた結果、課題曲は満足いく仕上がりになっていた。あとは緊張でミスさえしなければ、十分に上位を狙えるように思う。
控え室で手を温めながらフィン様と他愛のない話をしていると、アーサー様が声をかけに来てくれた。その後ろには、スカーレット様の姿もあった。彼女をこんなにも近くで見たのは初めてだけれど、まるで人形のような綺麗な顔立ちをしていた。
「アリス、大丈夫? 緊張してる?」
「正直、震えそうなくらい緊張しています」
「君はあんなにも頑張っていたし、絶対に大丈夫だよ」
正直、緊張で心臓が口から飛び出そうなくらいだったけれど、アーサー様の顔を見ただけでかなり解れた。そんなわたしに彼は優しい言葉をかけ、そっと頭を撫でてくれる。
「本当、彼女に甘いのね」
鈴を転がすような声でそう言ったのは、スカーレット様だった。
「あなたの婚約者はね、入学当初から話しかけてもずっと無表情で冷たいし、会話もあまり続いたことがなかったの。私だけじゃないわ、全ての女子生徒に対してよ。だから今回の音楽祭も正直、一緒に組むのは不安だったわ」
「ス、スカーレット様……」
「でもね、先日あなたの話をしてみたら、それはもう笑顔で饒舌になるんだもの、驚いちゃった」
スカーレット様はけらけらと可笑しそうに笑う。
それと同時に、気づいてしまった。先日の昼休みに二人を見かけた時、アーサー様が楽しそうに話していたのは、もしかしたら自分の話だったのではないかと。
それなのに、くだらない嫉妬をしてしまっていた自分が恥ずかしくなる。
「聞いてもない事まで嬉しそうに話すのよ。そのおかげで話しやすくなって、練習もスムーズに出来て良かったわ」
「頼むから、それ以上はやめてくれないか」
そう言ったアーサー様は、片手で口元を覆っていた。その顔は少しだけ赤くて。つられてわたしまで恥ずかしくなってしまう。
「あなたが一生懸命練習しているという話も聞いていたわ。お互い、今日は頑張りましょうね」
「はい。ありがとうございます……!」
彼女は美しい笑みを浮かべると、その場から去っていった。いつも遠目で見ていた儚げな彼女が、こんなにも明るくて素敵な人だとは知らなかった。
「今のは忘れてほしい」
「ふふ、絶対に忘れません」
いつの間にか、そんな軽口を叩けるほどに緊張は解れていた。
二つ前のクラスの演奏が、間もなく終わるようだった。アーサー様にお礼を言うと、わたしたちは舞台袖へと移動する。同じく緊張していたらしいフィン様も、いつの間にか笑顔になっていた。
「やれることはやったよな」
「うん、最後だもの。楽しまないと」
そうして、わたし達はアナウンスで名前を呼ばれると同時に、スポットライトで眩しいステージへと歩き出した。
──きっと、うまくやれる。
そんな自信が、今のわたしにはあった。
◇◇◇
最近、両親が必死に婚約を結ぼうとしている侯爵家の令嬢に、音楽祭に代表として出るから是非来て欲しいとチケットを渡されたのは、一週間ほど前のことだった。
うるさいくらいによく喋る彼女の話には興味がなくいつも聞き流していたが、彼女がアリスと同じ学園に通っているということだけは記憶にあった。チケットを受け取って一番に考えたのは、一目でいいからアリスを見れないかということだった。
……両親の言う通りにする理由は、今の俺にはもうない。それに、この家はもう長くないだろう。奴らは欲に目が眩み、犯罪紛いの事業にまで手を出している。こんな家、早く取り潰されてしまえばいい。本気でそう思うようになっていた。家族だなんて思えないあいつらも、俺自身も、最早どうなったって良かった。
当日、足を運んでみたものの会場は思っていたより数倍広く、これだけの人数の中から彼女を見つけるのは不可能に近かった。どうやら時間の無駄だったらしい。そうして適当に演奏を聞き流し、ただ時間が過ぎるのを待っていた時だった。
「──次は、フィン・レイノルズ様とアリス・コールマン様による演奏です」
突然聞こえてきた彼女の名前に、俺は慌てて顔を上げる。そしてそのまま視線をステージに移せば、舞台袖から彼女が出てくるところだった。
──何故、アリスがそこにいるんだ。
アリスは昔からピアノが得意だった。だが、彼女はこんな大舞台に出るような人間ではなかったはずだ。思わぬ形で彼女を目にした俺は、驚きや喜びで心臓が高鳴っていくのを感じていた。
アリスは、誰よりも気が弱くて自信が無さげで、いつも不安そうな顔をしていた。目立たないように、ただ静かにいつもひっそりと俺の側に居たのだ。いや、俺がそうさせていた。
けれど今彼女は、数え切れないほどの観客の前で堂々と胸を張り、凛とした表情でそこに立っている。
こんなの、俺が知っているアリスではない。
「曲は、愛の始まりと終わりについて、です」
彼女はアナウンスの後に一礼すると、ピアノの前に腰掛けた。
やがて始まった演奏は、見事なものだった。白くて長い指が、なめらかに鍵盤を滑っていく。繊細な音を奏でる彼女の表情は、見たことも無いくらい穏やかで、優しくて、美しかった。
気が付けば演奏は終わっていて、会場中から大きな拍手が響いている。アリスは満足そうな笑顔を浮かべると、再び丁寧に礼をして舞台袖へと消えていった。
俺はただ、そんな彼女を遠く離れた場所から見つめることしか出来なかった。
「グレイ様、来て下さったんですね……! 嬉しいです」
「とても、素晴らしい演奏でした」
全ての演目が終わるなり、招待してくれた令嬢は俺の元へとやって来た。彼女がいつ何の曲を演奏したかすら覚えていないけれど、適当に褒めてやれば嬉しそうに頬を染めていた。
……ああ、本当にくだらない。
「表彰式には出なくていいんですか」
「もう出場者には結果が知らされているんです。私は入賞できなかったので、この後はずっと一緒に居られますわ」
満面の笑みでそんな的はずれな回答をされ、思わず苦笑いで返す。
そして表彰式が始まると、舞台上には再びアリスが現れた。その婚約者であるアーサー・グリンデルバルドの姿もある。
「一位の女性と三位の男性は、婚約者同士なんですのよ。二人とも入賞するなんて素晴らしいですね」
「あの二人は、有名なんですか」
「はい、特にアーサー・グリンデルバルド様は学園一素敵な方だと言われていますから。婚約者のアリス様をとても大事にされていますし」