過去2
「昨日はね、メイドのハンナとケーキを焼いたの。お菓子作りってとても難しくて驚いちゃった。アスランは何のお菓子が好き?」
「僕は、アップルパイが好きだな」
「じゃあ、今度はアップルパイを練習するね!」
「うん、楽しみにしているよ」
アリスは絶対に、俺の病気についての話はしなかった。元気になったら、なんて話もしない。ひたすら、他愛のない話をしてくれた。それが何よりも嬉しくて心地良くて。それも全て、彼女の優しさや気遣いだと言うことはわかっていて、俺はそれに甘えていた。
……そんな彼女の祖母が亡くなったと知ったのは、それから一ヶ月ほど経った頃。回診をしていた医者の、何気ない一言からだった。
「アリス様も、お祖母様のことがあったのにこうして此処に来るなんて、本当にアーサー様と仲が良いのですね」
「お祖母様のこと?」
「先々月、亡くなったじゃないですか」
「………え?」
彼は、アリスがいつもここに来ているのを知っていた。だからこそ、仲が良いはずの俺が知らないはずがないと思ったのだろう。
思いもよらない形でその事実を聞いてしまった俺は、しばらく声も出せずにいた。
──彼女は、あんなにも慕っていた祖母を亡くした後、同じ病の俺のために優しい嘘をつき、俺だけのために、辛い場所であろう此処へと会いに来てくれていたというのか。
俺はそんな彼女の事情も気持ちも知らずに、いつも自分のことばかり考えてしまっていた。
『こんにちは、アスラン! 遅くなってごめんね』
あの日、どんな気持ちで彼女は会いに来てくれていたのだろう。あの日の彼女の笑顔を思い出すだけで胸が張り裂けそうになり、涙が止まらなかった。
そして、そんな優しい彼女のことが好きだと気づいてしまった。アリスのことが好きで好きで、仕方がなかった。この先の人生で、こんなにも誰かを好きになることはないと思った。
けれど今の俺は、彼女に沢山の物をもらってばかりで、何も返せていない。このままでは、彼女に好意を伝えることさえ
この部屋でいつまでも彼女を待つだけの自分はもう嫌だと、心から思った。
「ねえ、アリス」
「なあに?」
「僕、手術を受けようと思うんだ」
「えっ、手術を?」
「うん。元気になって、アリスに恩返しがしたい」
初めて自分から病気に関する話をすると、アリスはとても驚いたような、不安そうな顔をした。きっと同じ病気の祖母がいた彼女なら、その成功率の低さについても知っているのだろう。
「わたし、恩返しをしてもらう程のことなんてしてないよ。お祖母様のお見舞いのついでに、アスランにお喋りして貰ってるだけだもの」
「うん。僕が、勝手にしたいだけだから」
そう言えば、アリスは「アスランが決めたことなら何でも応援する」と微笑んで、両手でそっと俺の手を握ってくれた。いつも優しく俺の手を握ってくれる、彼女の小さくて温かい手が大好きだった。彼女が居れば、どんなことでも出来る気がした。
けれど、当時の手術の成功率は四十パーセント程度。これから先、歳をとる度にその成功率は更に減っていく。
彼女に話す前に父にその話をすれば、今すぐに手術をする必要はないと必死に説得された。今はまだ進行は遅い上、このまま手厚い治療を受け続ければ数十年は生きられるのだ。そんな中で死ぬ確率の方が高い手術など、止めるのも当たり前だろう。
それでも、俺の心はもう決まっていた。
この部屋でただ長い時を過ごすより、たとえ死ぬ可能性が高くとも、彼女がいる外の世界で生きる可能性に賭けたいと思った。アリスと一緒にお茶をしたり、二人で街に出かけて彼女に何かプレゼントをしたり。そんな当たり前のことがしてみたかった。
もちろん、死ぬのは怖い。子供ながらに、死というものは怖かった。両親にも、そして何よりアリスにも二度と会えなくなると思うと、とても怖かった。それでも。
『僕は、アリスと同じ世界で生きたい』
そう言った俺を、父はもう止めなかった。初めて、泣いている父を見た。やがて「応援する」「何でもするから一緒に頑張ろう」と抱きしめてくれて、気が付けば俺も泣いていた。
それからは、アリスがいない時には父もよく病室に来てくれるようになった。元気になったら何をしようとか、そういう話を沢山してくれるようになった。
そしてある日、赤く目を腫らした母も来てくれた。久しぶりに見た母はとても痩せて
そんな話をアリスにすれば、自分の事のように喜んでくれた。この時の俺にとって彼女は、神様のような存在だった。
◇◇◇
手術の日が近づいてくると、俺は毎日恐怖と不安に押し潰されそうになっていた。
六十パーセントで、死ぬ。自分で決めた事とは言え、齢一桁の子供がその事実に耐えるのは不可能に近かった。眠れない日々が続き、突然涙が止まらなくなったりもした。
両親や医者の労りの言葉も胸に響くことはなく、誰も俺の気持ちなんて分かるはずがないと思っていた。この世にたった一人になったような、そんな孤独感に苛まれる。
この時の俺の精神は、完全に不安定だった。
そして、手術の数日前。アリスはまだ来ないかなと、ぼんやり窓の外を見ていた時だった。
いつもとは違う豪華な馬車から降りてきた彼女の隣には、知らない男の子がいて。いい身なりをした彼は、とても綺麗な顔をしていた。
──こんな姿の、僕なんかとは全然違う。
彼はアリスの手をしっかりと握って、何か親しげに話していた。やがて、彼女が馬車を降り建物に入ると、彼の乗った馬車はあっという間に見えなくなる。
「…………」
あの子は、誰なんだろう。アリスとはどんな関係なんだろう。僕よりも仲が良いんだろうか。
僕と違って、彼女と何処にでも行けるし、何でもしてあげられるに違いない。僕があの子に勝てることなんて、きっと一つもない。僕が死んだら、アリスは僕なんかのことは忘れて、ずっとあの子と居るんだろうか。
……そんなの、嫌だ。
その時の俺は、何もかも悪い方向にしか考えられなくなっていて、そして何よりもそれに拍車を掛けたのは、生まれて初めての嫉妬だった。
「こんにちは、アスラン」
「……………」
「どうしたの? 具合、良くない?」
今日も変わらない笑顔を浮かべ、アリスは病室へと来てくれた。けれど何も言わずにいる、暗い表情の俺を見て彼女は不安げな顔をしていた。
「……あの子、誰?」
「あの子?」
「今、一緒に手を繋いでいた」
「あっ……。グレイ様はたまたまお茶会で一緒になって、どうしても送っていくって言うから、」
「そんなの、聞きたくない!」
自分でも、あまりにも理不尽なことを言っているとわかっていた。アリスは何も悪くない。けれど、止まらなかった。
俺だって、彼女を馬車で送ってあげたり、彼女と一緒にお茶会に参加したりしたかった。自分に出来ないことをしているさっきの男の子が羨ましくて、悔しくて。自分が、惨めで。
──僕は、死ぬかもしれないのに。どうして、僕だけこんな目に遭わなければならないんだろう。
そんなどうしようもない苛立ちと、胸を潰されるような真っ黒な気持ちに、俺はもうどうしていいか分からなくなっていた。
アリスを見るだけで、胸が苦しくて仕方ない。アリスのことを考えるだけで、泣きたくなる。
もう、限界だった。
そうして俺は、人生最大の過ちを犯す。
「もう、来なくていい」
「アスラン……?」
「アリスにはもう、会いたくない!」
そんな言葉が口から零れた瞬間、激しい後悔に襲われた。
今まであんなにも良くしてくれた彼女に、俺は一体何を言っているんだろう。アリスに会いたくないなんて、そんなことあるはずがないのに。
けれど既に空気中に放たれたその言葉を、取り消せるはずも無くて。
こんな馬鹿な俺に、アリスも幻滅したに違いない。視界が、涙で歪んでいく。ごめんねアリス、そんなの嘘だよ、大好きだよ、と言いたいのに、声が出ない。
「ごめんね、アスラン」
「………っ」
「この子はね、スターリーって言ってわたしの宝物なの。お祖母様が作ってくれたんだけど、わたしのミーティアとお揃いなんだ。アスランが手術を頑張れるようにって、持ってきたの。……もう要らないかもしれないけど」
そう言って、可愛らしいうさぎのぬいぐるみを渡された。このぬいぐるみのことは、何度も彼女から聞いていた。大好きな祖母が、大好きなドレスで作ってくれた宝物。
それを俺に、くれると言うのか。こんなことを言ってしまった、俺に。
その瞬間、涙がぽろぽろと瞳から零れていった。
「手術、頑張ってね。わたし、あなたが元気になれるようにずっと祈ってるから」
そんな言葉を残して、彼女はパタパタと走って行ってしまう。
大声で引き止めることも、彼女を追いかけることも、この身体では出来なくて。一人きりになった病室で、俺はただ泣くことしか出来なかった。
……俺は、何をやっているんだろう。何よりも大切で、大好きなアリスを傷つけた。あんなにも俺を救ってくれた彼女に、なんてことを言ってしまったんだろう。
──この日の事を、俺は一生後悔することになる。
それから、アリスは二度と此処へと来ることは無かった。そして数日後、俺は手術のために別の病院へと移ることになり、彼女との関わりは完全に失われたのだった。
そして俺が再び彼女に会うのは、それから五年先になる。