過去1

「……あなたが、アスランだったんですね」

そう言ったアリスの顔はとても優しくて、穏やかで。泣きたくなった。

部屋へ戻ってきて、彼女の手にあるそのぬいぐるみを見た瞬間、頭が真っ白になった。

彼女の来訪に浮かれ、その存在は完全に頭から消えていたのだ。けれど、いつまでも黙っている訳にはいかないこともわかっていた。いいきっかけだったのかもしれない。

小さく深呼吸をすると、持ってきたお茶とアリスが以前食べてみたいと言っていた異国の茶菓子を、そっとテーブルに置いた。

「こっちで、話そうか」

「……はい」

アリスはぬいぐるみを抱いたまま、先程座っていたソファに腰掛ける。いつも俺は彼女の隣に座っていたけれど、今はなんとなくそこに座ってはいけない気がして、彼女の正面に座った。

「長い話になると思う。お茶もお菓子も君の為に用意したものだから、食べてくれると嬉しい」

「ありがとうございます、頂きますね」

そう言って、俺自身もティーカップに口をつける。温かくて甘い紅茶のお蔭で、少しだけ落ち着く事が出来た気がした。

「ずっと、黙っていてすまなかった。いつかは話さなければと思っていたけれど、勇気が出なかったんだ」

「いえ、わたしこそ、勝手にこんな……」

「アリスは何も悪くない。俺が悪いんだ」

今だって、あの頃だって。全部、俺が悪い。

「君が言う通り、俺はアスランと君に名乗っていた。初めて君に名前を聞かれた時、とっさに出てきたのが尊敬している叔父の名前だった。彼のようになりたいと、いつも思っていた」

「はい」

「公爵家の醜聞に繋がるのを恐れて、俺が樹変症だということを両親が隠していたのは知っていたから、本名を名乗ってはいけないんだと、子供ながらに思ったんだ」

──だからこそ、君に「アーサー」という本当の名前を呼ばれたのは、一緒に昼食をとったあの日が初めてだった。それがどんなに嬉しかったか、きっと君は知らないだろう。

「……初めて君に会った日のことは、今でも鮮明に覚えているよ」

◇◇◇

「こんにちは?」

「………!」

一人ぼうっと窓の外を眺めていた俺は、突然ひょっこりとドアの隙間から顔を出した女の子に、心臓が飛び出すのでは無いかというくらい驚いた。

俺が樹変症だと言うことは公爵家の醜聞に関わるため、両親とその腹心しか知らないようだった。親戚や友人と雖も隠し通しており、手紙のやり取りすら禁じられていた。

その両親すらあまり見舞いには来てくれず、医者くらいしか此処には顔を出さなかった為、余計に驚いたのを覚えている。

大きな淡い桃色の瞳と、目が合った。自分と目が合って、この姿を見ても逃げ出さない彼女が不思議で仕方なかった。

「迷っていたら、ここに辿りついたんです。わあ、すごいおもちゃの数! 全部あなたの?」

「そうだけど。……見る?」

きっと、この子もすぐに居なくなる。そう思いながらもそんな言葉が出たのは、きっと人恋しかったからだ。数え切れないほどのおもちゃや本、ぬいぐるみに囲まれていても、子供一人でこんな所にずっと一人でいて、寂しくないはずがなかった。

「入っても、いいんですか?」

「いいよ。敬語も要らない」

「ありがとう! お邪魔します」

そう言って病室の中へと入ってきたのは、同い年くらいの可愛らしい女の子だった。その身なりから、それなりの家の令嬢だと言うのがわかる。

長い亜麻色の髪が陽の光を受けてキラキラと輝いていて、とても綺麗だと思った。

「わたし、アリス。あなたは?」

「僕は、……アスラン、だ」

「アスラン様! よろしくね」

そう言って、彼女は真っ白い小さな手を差し出す。その先にあった俺の左手はまだ動いたけれど、その手を握り返すのは躊躇われた。

「……君は、怖くないの?」

「怖い?」

「僕は、見ての通り樹変症だよ。伝染るかもしれない」

この病気は、伝染るものではない。

けれど当時は症例数も少ないこと、知識が不十分だったことで、近づいたり触れば伝染るだとか、呪いの一種だと恐れられて、その患者には誰も寄り付かなかったのだ。

「自分の病気なのに知らないの? わたし、お祖母様が樹変症だけれど、いつも抱きしめてもらっているもの。伝染らないよ」

「………っ」

そして彼女は、柔らかな小さな手で俺の手を握りしめた。「ほら、大丈夫でしょう?」と微笑んで。

……きっとこの時にはもう、彼女に惹かれていたと思う。

「アスラン様は、いつもここに一人でいるの?」

「アスランでいい。たまにお父様が来てくれるくらいで、いつも一人だ」

「そうなんだ。じゃあ、これからはわたしが遊びに来てもいい?」

「……勝手に、すれば」

本当は、彼女がそう言ってくれて何よりも嬉しかった。けれどずっとこの病室に一人でいて、やさぐれてしまっていた俺は、ついそんな冷たい言葉を吐き出してしまう。

「ありがとう。わたし、お祖母様のお見舞いでよく来ているから、その度に遊びに来るね」

「わかった」

けれど、本当に彼女がまた来てくれるとは思っていなかった。そう思ってはいけないと、自分に言い聞かせた。期待して彼女が来なかった時の寂しさや悲しさを、味わいたくなかったのだ。

こんな所で動けずにいる、包帯まみれの無愛想な俺に会いに来たって楽しいわけが無い。そんなこと、自分自身が一番わかっていた。

……それでも、彼女が帰ったあとすぐに警備の人間にも担当医にも、もし同い年くらいの女の子が来たら通して欲しいと頼んでしまっていたのだけれど。


「こんにちは、アスラン。今日はいい天気ね!」

「……なんで、」

次の日も、またその次の日も彼女は来た。

ベッドの傍に座って、俺の手を握って。アリスは色々な話をしてくれた。彼女のこと、家族のこと。いつの間にか、それが何よりの楽しみになっていた。