気が付けば、わたしはグレイ様を突き飛ばすようにしてその腕を振り払っていた。心臓が、痛いくらいに跳ねている。怖かった。掴まれている肩も、その先の言葉を聞くのも。

「っ聞きたく、ないです」

そう言って、身を翻すとわたしはその場から逃げ出した。ドレスとヒールのせいで走りにくいけれど、その場から少しでも離れたくて必死だった。先程のグレイ様の顔が、瞳が、頭から離れない。

アーサー様に、会いたい。心からそう思った。

◇◇◇

逃げるようにして走っていくアリスの背中を、見えなくなるまでその場で見つめていた。先程まで彼女の体温を感じていた手のひらを、固く握りしめる。

リックもまた、彼女が去っていった方向を寂しそうに見つめていた。

「……お前も、昔からアリスが好きだったもんな」

そう口に出せば、虚無感が押し寄せる。初めは、ただ好きだった。それだけだったのに。


──彼女のことを好きになったのは、六歳の時だった。

当時の俺は、大切にしている物は全て兄に奪われていた。子供の俺が、五つも上の兄に力で勝てるはずもない。一番の宝物だったお祖母様に頂いた人形も兄に奪われ、目の前で壊された。奴は俺が悲しむのを見ては、嫌な笑みを浮かべ喜んでいた。

そんな兄を両親は軽く窘めるだけで、怒りもしない。俺が文句を言ったところで、我慢しなさいと言われるだけ。

……両親が俺よりも兄を可愛がっていることに気づいたのは、何時だっただろう。

幼いながらに、俺はもう何も大切な物を作らないと決めた。それを誰かに奪われるあの悲しみを、もう味わうのは嫌だった。最初からそんなもの無ければ、悲しい思いをすることもない。

そう、思っていたのに。

「はじめまして、グレイ様! アリスと申します」

咲いた花のような笑顔を向けられた瞬間、そんな考えはあっという間に消えた。

一目惚れだった。俺の世界は、彼女によって一瞬で鮮やかに色付いた。

当時のアリスは、明るく活発で皆に愛されていた。そんな彼女の家と我が家は付き合いが多く、彼女とはすぐに仲良くなれた。会う度にどんどん好きになった。何よりも、大切だった。

それと同時に、彼女が誰かに奪われてしまうのではないかという不安も、日々膨らんでいった。


そんなある日。貴族の子息息女を集めた集まりに、俺もアリスも参加していた。俺はいつものようにアリスの元へと一番に向かい、声をかける。

「アリス、今日は一緒に池の方に行こう」

「ごめんなさい、グレイ様。今日はジョシュア様にお話しようとお誘いされていて……。よろしければ、後でご一緒させてください」

ジョシュアは侯爵家の息子で、見目もよく令嬢達からも人気があった。そんな彼がアリスに好意があるのは傍から見ても丸わかりだった。アリスも彼と仲良くしていて、それを嫌がる様子はない。俺は、ジョシュアが嫌いだった。

……アリスが、このままジョシュアに取られてしまう。

そんな考えが、頭の中を支配する。ドクン、と心臓が大きな嫌な音をたてた。

「……今日は、俺といて」

「えっ?」

「お願いだから、ジョシュアの所には行かないで」

「でも、」

「嫌だ、アリスは俺といるんだ!」

気がつけば俺は、大声を出して彼女のことを突き飛ばしていた。

尻もちをついたアリスの淡い桃色の瞳が、大きく見開かれる。何てことをしてしまったんだと、手が震え、すぐに彼女に謝ろうとした時だった。

「……わかり、ました」

彼女のその言葉に、今度はこちらが目を見開く番だった。突き飛ばしてしまった罪悪感よりも、彼女が他の所へ行かなくなることに安堵してしまった、自分がいた。

そして、気づいてしまったのだ。優しく頼むよりも、強く言う方が簡単にアリスは言うことを聞いてくれるということに。勿論、これが良くないことだというのは子供の俺でもわかっていた。

それでも、独占欲が勝った。

それからと言うもの、俺はアリスを無理やり縛り付けるようになった。彼女の周りから、人が居なくなるようにした。地味な服装をするよう言った。いつの間にか、ジョシュアはアリスに見向きもせず、他の華やかな令嬢と仲良くなっていた。

……ほら、その程度なんじゃないか。アリスは、どんなに地味な格好をしていても可愛いのに。

そのうち、アリスは俺の前で笑わなくなった。彼女に嫌われていくのが分かった。それでも、彼女が誰かの物になるのが一番嫌だった。何よりも怖かった。

こんな感情、もはや愛ではない。

けれど、やはり彼女を離したくなかった。そんな自分勝手な感情で彼女を傷つけ続けた俺が、彼女に受け入れて貰える訳がない。そんなこと、わかりきっていたのに。


久しぶりに見たアリスは、驚く程綺麗になっていた。

もしもあんなことをせずに大切にしていたら、彼女は今自分の隣に居ただろうか。あの花のような笑顔で、笑いかけてくれただろうか。愚かな俺は、そんな有り得ないことを考えてしまう。

「……ごめんな、アリス」

そんな声はもう、彼女に届くことはない。届いたところで今更、許されるはずもないのに。