過去と感謝と
「またね、アリス」
「はい、また。お会いできて嬉しかったです」
「近いうちに会いに行くよ」
アーサー様は名残惜しそうにわたしの頭を撫でると、馬車へと乗り込んだ。一緒に居られた時間はとても短いものだったけれど、気持ちは満たされていた。馬車が見えなくなった途端、隣で一緒に彼を送り出していたリリーは、興奮したようにわたしに抱きついた。
「アーサー様って、どうしてあんなに素敵なのかしら? まるで絵本から飛び出してきた王子様じゃない!」
まるで好きな舞台俳優のことを語る時のように、リリーの目はキラキラと輝いている。
「先日、知人の舞踏会ですれ違った時に、アーサー様の方から声をかけて下さったのよ。アリスの友人のリリー嬢ですよねって」
「アーサー様が?」
「ええ。一度挨拶しただけの私を覚えていて、声までかけてくださるなんて……。緊張しすぎてあまり覚えていないのだけど、確か今度の誕生日パーティにアリスが来ると話したの」
『アリスはそれに一人で参加を?』
『はい、友人同士のささやかなものにする予定ですので』
『……もし時間が出来れば、俺も顔を出していいだろうか?』
『も、勿論です! アーサー様が宜しければ、是非』
『ありがとう、楽しみにしているよ』
リリーは、そんなやり取りがあったことを教えてくれた。アーサー様の記憶力と細やかな気遣いには、感服するばかりだ。
「アリスが羨ましいわ」
「リリー?」
「きっともうすぐ、私もお父様によって婚約者が決められるの。アリスとアーサー様のように、想い合える相手だといいけれど」
貴族の結婚というのは、ほとんどが政略結婚だ。その中で、こうして想い合えるのは果たしてどれくらいの確率なのだろう。お互いに愛人を作り、仮面夫婦のような家も多いと聞く。改めて自分が恵まれていることを実感した。
「私も校門で、適当に声をかけようかしら」
「ふふ、あんなに止めていたくせに」
そうして笑い合うとわたしたちは手を繋ぎ、再び会場へと戻ったのだった。
◇◇◇
「そろそろ、帰ろうかな」
窓の外を見れば、日が沈み始めている。リリーの誕生日から数日が経った今日、わたしは王都で一番大きな図書館へと来ていた。この建物自体が王都でも有数の巨大な建物で、オペラなどが行われるホールや会議室、カフェテリアなど様々なものが入っている。
コーヒーでも飲んで帰ろうかなんて考えながら、読みかけの本をカウンターで借り、廊下を歩いていた時だった。
「……君は、アーサーの」
「はい、アリス・コールマンです。お久しぶりです、公爵様」
目の前から歩いてきたのは、アーサー様のお父様である公爵様だった。あまりの予想外の出来事に一瞬固まってしまったものの、すぐに丁寧にお辞儀をする。
「今、時間はあるかい? 良ければ君と少し話がしたい」
「大丈夫です」
まさかの申し出に動揺しつつもそう答えると、公爵様は「付いてきなさい」と言ってゆっくりと歩き出した。その後ろをついて行くわたしの頭の中は、真っ白だった。
公爵様と二人きりで、一体何を話すというのだろう。もしもなにか粗相をして、アーサー様との婚約が解消されたらどうしようなんて悪い方にしか考えられず、今すぐ逃げ出したくなる。
応接室のような部屋へと着くと、公爵様と向かい合うようにして座った。
「コーヒーは飲めるかい?」
「はい、好きです」
「では私と彼女に一杯ずつ頼む。用意した後は彼女と二人にしてほしい」
近くにいたメイドにそう声をかけると、彼女は言われた通りにした後すぐに部屋を出て行った。
「今日は此処で会議があってね。君は何を?」
「図書館で、少し勉強をしていました」
「夏期休暇中だというのに、殊勝な心がけだ」
「いえ、本当に趣味のようなものなので」
そんな当たり障りのない会話をしながら、公爵様は一口コーヒーを飲むと、綺麗な所作でカップを置いた。そんな仕草も、アーサー様によく似ている。
「本題に入ろうか」
その言葉の後、やがてわたしの耳に入ってきたのは予想外すぎる言葉だった。
「大分成長していたけれど、君を一目見てすぐにあの時の少女だとわかったよ」
「…………?」
一体、何の話だろうか。全く見当がつかないまま、公爵様の話に耳を傾ける。
「アーサーが突然、伯爵家の娘と婚約させて欲しい、その代わりこの先の人生は全て私の言う通りにする。だからどうか許して欲しい、そう言って頭を下げに来た日は、本当に驚いたよ」
「………っ」
「私も気圧されてね。今まで我儘一つ言ったことない息子のそこまでの頼みだ、親としては叶えてやりたい。だが、グリンデルバルド家当主としてはとても聞ける頼みではなかった。公爵家に嫁ぐ女性だ、誰でもいい訳ではない。それにアーサーには、婚約者となる予定の女性もいたからだ」
「……はい」
「けれどアーサーのあまりの熱意に、ここですぐ断るのは得策ではないと考え、とりあえず婚約の許可を出した。そのうちにアーサーも仕方ないと納得できるような理由を作り、破棄させるつもりだったんだ」
ここまではクロエ様から聞いた話と同じだった。公爵様の対応も当然のことだ。それでも、アーサー様がわたしとの婚約をそんなにも必死に頼んでくれていたことを知り、胸が熱くなった。
「けれどその相手が君だと気づいた時、そんな考えはすぐに無くなったよ。あんなにも女性に興味を見せなかったアーサーが突然、婚約したいと言い出したのも納得だ」
「えっ?」
「……十年前の当時、私も妻もあの状態の息子になんと言葉をかけたらいいのか、全くわからなかったんだ。息子が喜ぶような楽しい話も出来なければ、そのうち元気になるという根拠のない励ましも、何も出来なかった。強い人だと思っていたはずの妻は、泣いてばかりでアーサーに会いに行くことすらままならなかった」
そう言った公爵様の手は、悔しげに固く握られていた。
「そんな中で君は、誰よりもアーサーに寄り添い、希望を与えてくれた。君の存在があったから、アーサーは手術を受けることを決意できたんだ。君がいなければ、今も息子はあの部屋に居たままだったかもしれない」
「………………」
「本当に、ありがとう。君にはずっと礼を言いたいと思っていた。どうか、これからもアーサーをよろしく頼む」
そして何も言葉が出てこないわたしに、公爵様は深々と頭を下げたのだ。
「お顔を上げてください! わたしなんかに、そんな」
「アーサーの父親として、本当に感謝している」
そうして顔を上げた公爵様は、とても穏やかな優しい表情をしていた。
息子を愛する、一人の父親の顔だった。
「アーサーの相手が君でよかった」
「わたし、は……」
「今日、君に会えて良かったよ。突然時間を割かせてしまい、すまなかった。私はもう行くけれど、君はもう少しここで休んで行くといい」
公爵様はそれと、と付け加えた。
「今度は妻ともゆっくり話をしてやって欲しい。君があの時の少女だったと伝えた時には、泣き崩れていたよ。彼女からも礼をしたいと」
そう言ってアーサー様に似た柔らかい笑みを浮かべると、公爵様は部屋を後にした。
頭を下げたまま、わたしはその場からしばらく動けなかった。たった今公爵様の口から語られた話は、すぐに理解出来るような内容ではなかった。
一人残された部屋で、ぽふりとソファに身体を預ける。コーヒーはとっくに冷めきっていた。
……あの時の、少女。十年前。手術。
公爵様の話を少しずつ思い返し、整理していく。やがてひとつの仮説が思い浮かぶ。かちりとパズルのピースがはまったような、そんな感覚があった。
───まさか、そんなこと、あるはずがない。