婚約者

夏期休暇が始まって三日目。半日ほど馬車に揺られ着いたのは、グリンデルバルド公爵領北部にある、豊かな自然に囲まれた美しい街だった。

馬車の中ではずっとアーサー様と二人きりだったけれど、会話は途切れることなく楽しい時間を過ごせた。毎日一緒に登下校をすることで、近すぎるこの距離感にも慣れてしまったように思う。

やがて街の中心部にある豪華な屋敷の前で馬車は停まり、後ろを走っていたノア様とライリー様を乗せた馬車も、間もなく到着するのが見えた。

「立派なお屋敷ですね」

「この辺りにある建物は全部我が家のものだから、好きに使ってくれて構わないよ」

お城のような建物が立ち並んでおり、これら全てが所有物だなんて流石だと感嘆する。

「アーサー様、ご友人の皆様、そしてアリス様。遠いところからようこそいらっしゃいました」

「ブライス、久しぶりだね。元気だった?」

「はい、アーサー様もお元気そうで何よりです」

屋敷の前でわたし達を待っていたのは、綺麗に整えられた白髪と美しい姿勢が印象的な、執事の男性だった。ブライスと呼ばれた彼は、長年グリンデルバルド家に仕えているのだとアーサー様が教えてくれた。

「アーサー様、実はお伝えしなければならないことが……」

いざ建物の中へと入ろうとすると、ブライスさんは何故だか躊躇うような様子を見せ、そう言いかけた時だった。

「アーサー様、会いたかった……!」

勢いよく扉が開いたかと思うと、突然中から華奢な美少女が飛び出してきたのだ。

驚く程に美しい顔をした彼女はアーサー様の胸に飛び込むと、涙を溜めた大きな瞳で彼を見上げた。美男美女である二人の姿は、まるで舞台のワンシーンのようで思わず見入ってしまう。

「クロエ、どうして此処に」

「アーサー様が避暑に来られると聞いて、すぐに来ましたの。お会い出来て本当に嬉しいです」

そう言うと、クロエと呼ばれた女性は再びアーサー様の胸に顔を埋めた。

彼はかなり驚いた様子で、完全に固まっている。ふと隣を見れば、気まずそうな顔をしたノア様とライリー様と目が合った。彼らの立場だったなら、わたしもきっと同じ顔をしていたに違いない。

……それにしても、アーサー様はいつまで抱きつかれたままなのだろうか。

そんなわたしの視線に気づいたらしく、アーサー様は彼女の肩をそっと掴むと身体を離した。

「すまないが俺は、」

「まあ、アーサー様のご友人の方々ですね! お話はよく伺っておりました」

「あ、どうも」

「……あはは」

アーサー様の言葉を遮るようにして、彼女はノア様とライリー様に視線を移した。

艶のある柔らかな桃色の長い髪に、長い睫毛に縁取られた大きな金色の瞳。真っ白な肌によく映える赤い唇は、まるで瑞々しい果実のよう。

そんな妖精のようにも見える美しい彼女は、明らかにわたしの存在を無視していた。

「クロエ、俺は今日大切な女性と来ているんだ」

「あら、そうでしたの。全く気が付きませんでしたわ」

アーサー様の言葉にきょとんとした表情を浮かべた後、こちらを向いたクロエ様とようやく視線が絡む。流石のわたしも、この近距離で気づかれないほど存在感が薄くはない。

「婚約者のアリスだ。彼女は従姉妹のクロエ」

「初めまして、アリス・コールマンと申します」

「クロエ・スペンサーですわ。よろしくお願いいたします」

……アーサー様の、従姉妹。そう紹介された彼女は笑顔を浮かべてはいるけれど、値踏みするかのような瞳の奥は、ひどく冷たい。よく鈍いと言われるわたしでも、その露骨な態度から、彼女がアーサー様を慕っているという事はすぐにわかった。

「皆様、立ち話も何ですからどうぞ中へとお入りください」

そんなブライスさんの一言で、気まずい雰囲気の中屋敷へと足を踏み入れる。ひとまず荷物を運ぶため、各々泊まる部屋へと向かうことになった。

そうしてメイドに案内されながら歩き出した途端、突然クロエ様がわたしの手をとった。

「アリス様のお部屋は、わたくしがご案内しますわ。女同士、いろいろとお話してみたいですし」

「クロエ、」

「大丈夫です、ぜひお願いします」

アーサー様は心配そうにしていたけれど、彼女の話というのが気になったわたしは、そのまま案内してもらうことにした。

◇◇◇

「……どんな手を、使ったんです?」

「えっ?」

「どんな手を使ってアーサー様の婚約者になったのか、と聞いているんです」

先程の儚げな彼女はどこへやら、クロエ様は部屋に入るなりそう言ってのけた。あまりの態度の違いに圧倒されてしまう。

「どんな手、と聞かれましても……」

「とぼけないでくださる? あなたさえ居なければ、わたくしがアーサー様の婚約者になるはずだったのに……!」

──クロエ様が、アーサー様の婚約者になるはずだった?

驚きを隠せないわたしに、彼女はなおも続けた。

「両家の間では昔から決まっていた事です。けれど、アーサー様は学園を卒業するまでは婚約をする気は無いと強く言っていたので、公的なものには至っていませんでした」

「そんな中で、アーサー様が突然落ち目の伯爵家の娘と婚約したいと言い出した時には、目眩がしましたわ。その上公爵様も、数少ない息子の頼みだから聞いてやりたいと言うのですから」

「けれど公爵夫人になるというのはそんなに簡単なことではないのです。いずれ適当な理由をつけて、あなた方の婚約は破棄するという事で話はまとまりました。アーサー様も年頃ですし、気が迷うこともあるだろうと、わたくしは黙って待つことにしました」

「……それなのに先日、このままアーサー様とあなたの婚約を続けさせて欲しいと、公爵様自ら頼みにいらしたのです。本当にすまないと」

そこまで彼女の話を聞いたところで、わたしの頭の中は完全に真っ白になっていた。

アーサー様とクロエ様の婚約のこと、そして公爵様のこと。わたしは自分の知らないところでそんなことが起きているなんて知る由もなく、呑気に暮らしていたのだから。

「アーサー様に愛され、公爵様にもそこまでさせるなんて、あなたは一体何なんです?」

「……わたし、は、」

「わたくしは子供の頃からアーサー様をお慕いし、彼と一緒になることを夢見てずっと努力して参りました。それなのに、突然現れたあなたに全て奪われるなんて、許せるはずがありません」

「…………」

「何ひとつ、言い返してこないのですね。本当にがっかりです」

「…………っ」

「アーサー様にあなたなんか、相応しくない」

そう言うと、彼女は静かに部屋を出て行き、残されたわたしは、呆然とその場に立ち尽くしていた。

……わたしは、公爵家に嫁ぐということがどんな事なのか、何一つ理解していなかった。理解しようともしていなかった。アーサー様から向けられる好意に、ただ甘えていただけ。

そんな自分が情けなくて悔しくて、涙で視界がぼやけていく。

けれど、わたしに泣く資格などない。ここまで言われてやっと気づくような愚かなわたしは、彼女の言う通りアーサー様に相応しくないのだろう。それでも。

変わりたい、変わらなければいけないと、思った。