知らない過去

「お嬢様、すみません。車輪が壊れてしまったようで……」

「えっ」

ある日の朝、いつものように馬車に揺られて学園へと向かっていると、大きな音がするのと同時に車体が左右にガタガタと揺れ、突然停まってしまった。そして申し訳なさそうな表情を浮かべる御者によって、馬車の故障が伝えられたわたしは、気が遠くなるのを感じていた。

思い返せば、この古びた馬車は大分長い間頑張ってくれていた。いつかこんな日が来てもおかしくは無かったのだ。これだから貧乏は嫌だと、独り言ちる。

……こんな我が家も、わたしが幼い時にはまだ裕福だった。お祖母様が奇病にかかってしまい、莫大な治療費がかかったことであっという間に家財は尽きたのだ。けれど、心から愛していたお祖母様のために全てやり尽くしたお爺様を、誰も責めたりはしなかった。わたしもそんな二人が大好きだった。けれどやはり、貧乏は辛い。

とにかく、今はそんな思い出に浸っている場合ではない。今いる場所は学園と家のちょうど中間地点で、本当に運がない。とりあえず馬車から降り、どうしようかと悩んでいた時だった。

「あれ、アリスちゃん? どうかし、……っぷ、ははは!」

「ノ、ノア様……」

「っごめん、笑っちゃいけないとは思ってるんだけど、さすがにこんな場所でこんな壊れ方……! っあははは!」

豪華な馬車から顔を出し、立ち尽くしているわたしに声をかけたのは、同じく学園へ向かっていたらしいノア様で。わたしと壊れた馬車を見比べると、彼はもう我慢できないといった様子で大笑いをし始めた。こんなにも笑ったのは久しぶりだと、涙まで浮かべている。

「ごめんね、お詫びと言っては何だけど乗って行きなよ」

「そんな、申し訳ないですし」

「いいからいいから! ほら、遅刻するよ」

そう言って半ば無理やり乗せられたわたしは、ふかふかの椅子に座りノア様と向かい合う形になる。ノア様と二人きりで馬車に乗る日がくるなんて思いもしなかった。

あまり緊張しないのは、彼の柔らかい雰囲気のおかげかもしれない。輝くような銀髪に紫色の瞳をした美青年である彼は、まだわたしを見ては思い出したように小さく笑っていた。

「先日は、妹の誕生日パーティに来てくれてありがとう。アリスちゃんにずっと会いたがってたから、とても喜んでいたよ」

「こちらこそ、ありがとうございました。リナリア様は本当に素敵な方ですね。お会いできて嬉しかったです」

「それにしても、あのアーサーが婚約者を連れてくるなんて皆驚いたみたいで、俺まで質問責めにあって大変だったな」

そう言ったノア様は、言葉とは裏腹に何処となく嬉しそうに見えた。その表情から、二人の仲の良さが窺える。

「ノア様は、アーサー様といつご友人に?」

「んー、学園に入る少し前くらいかな」

「そうなんですか? もっと前からだと思っていました」

「アーサーって数年、貴族連中の集まりに一切顔を出さない期間があっただろう? 俺が知り合ったのはその後だからね」

「……それは、知りませんでした」

「えっ、それは悪いことをしたな。結構有名な話だから、てっきり君も知っていると思っていたよ。理由は俺も知らないけどね」

出先ではいつもグレイ様にぴったりと張り付かれ、彼の許可なしに他人と話すことができなかったわたしは噂話に疎く、この話も初耳だった。

貴族の子息が社交界デビューの前にも、お茶会などの集まりに参加するのは当たり前のことで、公爵家の長男なら尚更のはずだった。その期間に何があったのか気になるものの、ノア様ですら知らないことをわたしが聞けるはずもない。

「せめてもの罪滅ぼしに、今からはアーサーの株が上がる話をさせてくれないかな?」

「ふふ、お願いします」

そうしてノア様はアーサー様との楽しい思い出話をしてくれて、気がつけば窓の外には学園が見えていた。到着後、何度もお礼を言えば、沢山笑わせて貰ったのだから気にしないでと微笑んでくれた。確かに彼は笑いすぎていたように思う。

アーサー様の婚約者の身であるわたしは、一応人目を気にしながら馬車から降りたのだけれど。それと同時に聞こえてきた声に、わたしは思わず足を止めた。

「アリス、何してるのかな」

馬車から降りてきたノア様は、見るからに「うわ」と言いたげな顔をしている。恐る恐る振り返れば、そこには爽やかな笑顔を浮かべたアーサー様が立っていた。

「ア、アーサー様、おはようございます」

「おはよう、アリス。何をしてるのか聞いてもいい?」

「え、ええと、途中で馬車が壊れてしまって、たまたま近くを通りがかったノア様に、学園まで乗せて頂きました……」

「アーサー、そんなに怒るなよ。あのまま道端に立ち尽くしてたら……っはは、アリスちゃんが可哀想だろう、あはは」

「怒ってなんかいないよ。ノアには感謝しているくらいだ」

そう言った彼の表情はにこやかだけれど、間違いなく怒っているのがわかる。ノア様も同じ意見だったらしく、「本当愛されてるね」と小声で囁かれた。

「それじゃ邪魔者は消えるよ。アリスちゃん、またね」

「ノア様、本当にありがとうございました」

ノア様は一人先に校舎へと向かい、わたしとアーサー様だけがその場に残った。

「あの、本当にすみませんでした」

「謝る必要なんてないよ、朝から大変だったね」

「はい。お恥ずかしい限りです」

軽く頭を撫でられ、急に柔らかくなった雰囲気にほっと胸を撫で下ろす。そうして二人で校舎へと向かい、教室の前で「また昼休みに」と別れようとした時だった。

「ああ、そうだ。明日から迎えに行くから。勿論帰りも毎日送るから安心してね」

「……ま、毎日?」

「うん、毎日」

眩しいくらいの笑顔を浮かべると、彼は当たり前のようにそう言ってのけた。