「わあ、思ったより外は涼しいわね」
「ほんとだ、気持ちいい」
不意にそんな声がすぐ近くから聞こえてきて、誰かがバルコニーへと入ってきたことに気づく。こんな状況を見られては流石にまずいと思ったのか、グレイ様はわたしからぱっと手を離した。助かった、とわたしはその場にへなへなとへたり込む。
そんなわたしを他所に、彼は振り返りもせずにホールの人混みへと消えていった。
彼は一体、何をしたかったのだろうか。本当に、訳がわからない。
……それでも一つだけ確かなのは、わたしは彼が世界一嫌いだということだった。
乱れてしまった髪やドレスを直し、ホールへと戻る。先程まではあんなに楽しい気持ちでいたというのに、今は悔しさや悲しさでいっぱいだった。
アーサー様はどこだろうと会場内を見回せば、かなりの距離があるにも拘わらず、呆気ないほどすぐに彼は見つかった。あまりにも存在感のある彼を、たくさんの女性が頬を染め、うっとりと見つめている。大勢の人がいる中で一際輝いている彼は、まるで違う世界の人のように見えた。
先程の出来事によって卑屈になっていたわたしは、そんな彼に声をかける気には中々なれなかった。何もかもが、遠く感じてしまう。
ぼんやりと遠巻きに見つめていると、彼が何かを探すようにして辺りを見回していることに気がついた。そしてその視線が、不意にわたしのいる方向で止まる。
……あれ、目が、合った。
そして、アーサー様はこんなにも離れた場所にいるわたしを見つけると、どうしようもないほど嬉しそうに笑ったのだ。
その瞬間、わたしは先程悩んでいたことや悲しかったことの全てが、どうでも良くなっていた。
どうしてそんなにも遠い場所から、人混みの中わたしを見つけ出せたのだろう。どうしてそんなに、嬉しそうに笑うのだろう。そんな疑問は尽きないけれど、ひとつだけわかったことがある。
──いつかわたしは、この人を好きになってしまう。
それは、確信めいた予感だった。
◇◇◇
馬車に揺られ、帰路に就く。いつものようにアーサー様のすぐ隣に座っていたわたしは、疲労のせいかかなりの眠気に襲われていた。そんなわたしを見て、アーサー様は眠っていいよと言ってくださったけれど、さすがにそんな訳にはいかない。目を開けているだけで必死だった。
「今日はありがとう。とても楽しかった」
「こちらこそ、ありがとうございました。とても素敵な一日でした。このドレスもアクセサリーも、一生大切にします」
「喜んでもらえたなら嬉しいよ」
そう言って、アーサー様はわたしの頭を優しく撫でた。彼にどろどろに甘やかされて、いつか溶けてしまうのではないかと時々心配になる。
「わたしばかり良くして頂いて……。なにかお返しが出来たらいいのですが、何も思いつかなくて」
「アリスはこうして、俺のそばに居てくれるだけでいい」
「……アーサー様は、本当にずるいです」
ほらまた、彼はわたしを甘やかす。なんだか可笑しくなって、笑みがこぼれた。
眠気のせいもあってか、身体が少し熱くてふわふわする。わたしはぼんやりとしながら、そういえばアーサー様の手は冷たかったなあ、なんてことを思い出していた。
「手を、繋いでもいいですか」
「…………え、」
「えっ、あ、す、すみません! 迷惑でしたら大丈夫ですので!」
ガラス玉のような瞳で呆然とわたしを見つめたまま、完全に固まってしまったアーサー様を見て、わたしは我に返った。睡魔に襲われていたとは言え、なんてことを言ってしまったのだろう。
彼は赤面するわたしの手を取ると、やさしく握りしめてくれた。
「本当にごめん。アリスにそんなことを言って貰えるなんて夢みたいで、これが現実かどうか分からなくなっていたんだ」
「アーサー様って、時々面白い冗談を言いますよね」
「俺はいつでも本気だよ」
アーサー様は完璧に見えるけれど、もしかしたら少しだけ天然なのかもしれない。
「わたし、アーサー様の手が好きです」
少しだけ冷たくて大きなその手は、何故だかとても安心感があって。ほっとするのと同時に、再び瞼が重くなっていく。
「……俺も、アリスの手が好きだよ。君の小さなあたたかい手に、どれだけ救われたかわからない」
そんな呟きは、彼の肩ですやすやと寝息を立てているわたしの耳に届くことは無いまま、夜は静かに更けていった。