やさしい手

何が悲しくて日に二回も、グレイ様と顔を合わせなければならないのだろうか。せっかくの楽しい気分が台無しだと、わたしは小さくため息をついた。

どうせまた、いつものように「そんな派手なドレスは似合わない」「お前のような辛気臭いやつがいると、華やかな雰囲気も台無しだな」なんて嫌味を言われると思っていたのに。

「どうして、婚約を断った」

やけに真剣な顔をした彼の第一声がそれで、わたしは思わず間の抜けた声を出してしまった。

「そんなに、あいつがよかったのか」

「……仰っている意味が、わかりません」

「俺より、あいつの方がいいのかと聞いている」

一体、何を言っているのだろう。これではまるで、わたしが婚約を断ったことに対してグレイ様が怒っているようではないか。

そして何より、アーサー様のことをあいつ呼ばわりされたことで、怒りが沸々と込み上げてくる。そもそも身分が上の方に対してそんな言い方をするなど、到底許されることではない。

「グレイ様がなぜお怒りになっているのかは分かりませんが、お互い婚約などせずに済んでよかったではないですか」

「……は?」

「ですから、グレイ様だってわたしのような嫌いな女と、婚約なんてしなくて済、……っ!」

そこまで言ったところで、わたしはグレイ様によって両腕を壁に押し付けられていた。思い切り壁に打ち付けた背中が、痛い。

……本当に、この人のこういうところがわたしは嫌いなのだ。頭に血がのぼったり、少しでもわたしが彼の思う通りに動かなかったりすると、すぐに手が出るところは昔から変わらない。

やめてくださいと強く言いたいのに、喉からうまく言葉が出てこない。ぱくぱくと金魚のように口を動かすことしかできないわたしは、さぞ間抜けに見えることだろう。幼い頃から十年以上積み重ねてきたグレイ様への恐怖心は、呪いのようにわたしの身体に染み付いていた。

少しばかり見た目を良くして、変わったような気持ちになったところで、結局わたしは変われないのだと思い知らされる。悔しくて涙が零れそうになるのを堪えようと視線を上に向ければ、何故か泣きそうな顔をしたグレイ様と目が合った。

意味が、わからない。泣きたいのはこっちだというのに。

「……俺がいつ、お前のことを嫌いだと言った」

「えっ?」

「俺は、お前が嫌いだなんて一度も言ったことはない」

そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。思い返せば、面と向かって嫌いだと言われたことはない気がした。けれど、それ以上に傷つくような言葉は数えきれない程言われてきたのだ。

それがどうした、という感想しか出てこない。

「本当に、お前は馬鹿だ」

「何を、」

「……だが、一番の馬鹿は俺なんだろうな」

消えそうな声でそう呟くと、グレイ様は右手を掴んでいた手を離し、そのままするりとわたしの頬を撫でた。突然のことに、思わずびくりと身体が跳ねる。驚くほどやさしい手つきだった。

明らかに身構えたわたしを見て、グレイ様は今にも泣き出しそうな顔で小さく笑った。