幼馴染
手のひらから滑り落ちていったグラスが、カシャンと軽い音を立てて割れ、わたしはようやく我に返った。それに誰よりも早く反応し、わたしの側へと来たのはグレイ様だった。
「アリス、怪我は?」
「だ、大丈夫です、すみません……!」
「破片が危ないから離れた方がいい、こっちへおいで」
──これは一体、誰だ。
わたしの知っているグレイ様ならばこんな時、「本当にお前は鈍臭いな、役立たず」くらいは言うはずだ。それに加えて二言三言、罵る言葉があってもおかしくない。
それなのに優しい言葉をかけられるなんて、夢でも見ているとしか思えない。言いようのない恐怖に襲われ、破片が刺さった方がまだマシだったかもしれないとさえ思った。
「アリス様、大丈夫でしたか?」
「はい、大変失礼致しました」
「これくらいよくあることですから、気になさらないで。それよりも、お二人は知り合いで?」
そう言って、リナリア様はわたしとグレイ様を見比べた。その後ろにいるサラ様も、少し不安げな表情でこちらを見ている。
そこでようやく、自身の肩にグレイ様の腕が回っていることに気がついた。そうっと抜け出そうとすると、余計に強い力で抱き寄せられてしまう。
「すみません。つい、いつもの癖で。アリスと僕は長い付き合いで、幼馴染というよりも家族みたいなものなんです」
「まあ、そうでしたの。グレイ様のような素敵な幼馴染がいるなんて、アリス様が羨ましいですわ」
「そ、そう、ですね……」
「アリスは昔から、僕がいないと駄目で」
グレイ様は爽やかな笑顔を浮かべ、聞いたことも無い僕という一人称を使い、いつものこと、家族みたいなもの、アリスは僕がいないと駄目、などと恐ろしい言葉を並べ立てている。
恐る恐る隣を見上げれば、思いきり視線がぶつかった。いつもならば逃げるように視線を逸らしていたけれど、いつまでもやられっ放しは悔しい。内心怯えながらも、わたしは軽く睨みつけるように彼を見つめ続けた。
こんなに間近で見ても、その整った顔には非の打ちどころがない。輝くような黒髪、鼻筋の通った高い鼻、長い睫毛に縁取られた燃えるようなルビー色の瞳、形のいい薄い唇、肌荒れひとつない陶器のような肌。本当に、昔から顔だけは良いのだ。
グレイ様の前では俯いてばかりいたせいで、久しぶりに彼の顔をまともに見た気がした。
すると突然、グレイ様は勢いよくわたしから視線を逸らした。黒髪の隙間から見える耳が、赤い。
「あの、グレイ様」
幼馴染だなんだと言っても、婚約者のいる身でこの体勢はよろしくない。グレイ様なら、そんなことくらいわかっているはずなのに。
そして、いい加減この手を離してくれませんか、と言おうとした瞬間、突然視界がぶれた。
気がつけば、温かくて優しい匂いに包まれていて。アーサー様に抱きしめられているのだとすぐに気が付いた。思わず彼の名前を呟くと、きつく抱きしめられる。
「一人にしてすまなかった。次々と知人に捕まって、中々抜けられなかったんだ」
「わたしなら大丈夫です。お気になさらないでください」
「本当にごめんね。……アリス、こちらは?」
アーサー様はわたしを抱きしめたまま、グレイ様へと視線を移す。抱きしめられているせいでその表情ははっきりとは見えないけれど、いつもより声に鋭さがある気がした。
「グレイ・ゴールディングです。初めまして」
「アーサー・グリンデルバルドだ。貴方には一度礼を言いたかったんだ、会えて嬉しいよ」
「礼、と言いますと?」
「今まで、アリスを守ってくれていたんだろう? そのお蔭でこうして出会えたんだ、感謝してもしきれないくらいだ」
「……なるほど、それは勿体ないお言葉で」
守られるどころかひどく虐げられてきました、と言いたいところだったけれど、わたしは大人しく黙って二人を見つめていた。
笑顔の彼らの間に流れる空気は恐ろしい程冷ややかで、どう考えても口を挟める雰囲気ではない。
「グレイ様は、妹離れできないお兄様のようね」
二人の様子がおかしいことに気づいたらしいリナリア様が、にこやかにそう言って下さったお蔭で、だいぶ場の雰囲気が柔らいだ。この中で口を開くなど、わたしには到底出来ない。彼女を心の底から尊敬した。
「そんなアリス様がアーサー様と婚約されて、お寂しいでしょう。グレイ様もご自身のお相手を見つけるいい機会では?」
その上、グレイ様を気に入っていらしたサラ様への応援も兼ねているなんて、流石ノア様の妹様だと、わたしはひたすら感服していたのだけれど。
「そうですね。でもまだ、結婚した訳ではないですから。ねえ、アリス?」
そうわたしに向かって微笑んだグレイ様のせいで、全てが台無しだった。
──ああ、わたしはこの表情の意味をよく知っている。
これは、彼がかなり怒っている時の顔だった。
◇◇◇
あの後、グレイ様がサラ様を連れてその場を後にしたことで、場はなんとか落ち着いた。
アーサー様は抱きしめたまましばらく離してくれず、その両腕から解放された
『アーサー様がこんなにも柔らかく笑うようになったのは、貴方のお蔭なのね。本当にお似合いだわ、どうかお幸せに』
今日一日、お世辞も兼ねてたくさんの方に褒めて頂いたけれど、中でもアーサー様を小さい頃からよく知るというご婦人に言われたこの言葉が、一番胸に響いた。沢山のものを貰ってばかりのわたしが少しでも彼に何かを返せていたのなら、それはとても嬉しいことだった。
「アーサー様、少しよろしいでしょうか」
「……アリス、」
「わたしは大丈夫です。少し疲れたので、端の方で休んでいますね」
一通り挨拶を済ませた後も、彼に声をかける人は跡を絶たない。公爵家ともなれば付き合いも大変なのだろう。声をかけた方の様子を見る限り、わたしが居ていい雰囲気ではなさそうで、席をはずすことにした。アーサー様は心配そうな顔をしていたけれど、「本当に大丈夫ですから」と伝え、わたしはその場を離れた。
長時間気を張っていたせいか、一人になった瞬間どっと疲労感が押し寄せてくる。窓際のテーブルへと向かい、苺が浮かんだ可愛らしいグラスに手を伸ばした時だった。
突然、思い切り腕を掴まれたかと思うと、そのまま物凄い勢いで引っ張られていく。
足元まであるドレスのせいでつんのめりそうになりながらも、あっという間にわたしはバルコニーへと連れ出されていた。……ああ、本当に、最悪だ。
「いいご身分だな、アリス」
「グレイ、様」
どうやら、大丈夫ではないらしい。