新しいわたし
アーサー様と婚約してから、半月が経った。
学園がある日には一緒に昼食をとり、時折グリンデルバルド家の馬車で送迎してもらうという生活をしていたけれど、わたしにとっては未だに毎日が非日常だった。
我が家のものとは比べ物にならないほど広い馬車の中では、必ずぴったりとくっつく距離で隣に座らされていた。お蔭で、初めて送って頂いた日の記憶はほぼ無い。
この半月は毎日のように顔を合わせているというのに、彼はわたしの顔を見る度に「今日も可愛いね」と嬉しそうに笑うのだ。
そのうち心臓発作で倒れるのではないかと、本気で思っていたある日。
「お誕生日パーティ、ですか?」
「ああ。ノアの妹のリナリアの十六歳の誕生日パーティに、是非アリスと参加して欲しいと言われてね。その日は俺の両親も参加するから、君さえ良ければ是非会ってもらいたい」
昼食後、テラスでお茶をしながらそんなお誘いを受けたわたしは、笑顔でティーカップに口をつけながらも、内心ひどく動揺していた。アーサー様のお気に入りだという、長い名前の高級な紅茶もまったく味がしない。
……いつかは必ずこういう日が来るとは思っていたけれど、いざアーサー様の婚約者として社交の場に出ると思うと、正直かなり気が重かった。
あのノア様の妹様の誕生日パーティだ。盛大なものに違いない。その上、アーサー様のご両親にご挨拶をするなんて、わたしには荷が重すぎる。
けれどもちろん断るなんて選択肢があるはずはなく、「喜んで」と笑顔で答えた。
「ありがとう、二人で行くと返事しておくよ」
「はい。楽しみにしていますね」
「ああ、そうだ。その日のドレスは俺が用意してもいいかな」
「アーサー様、ドレスなら先日たくさん頂いたので大丈夫です」
──先日、アーサー様はわたしの両親に挨拶をするため、我が家を訪れた。その際、数え切れないくらいのドレスや靴、アクセサリーなど、沢山のプレゼントを贈って下さったのだ。
わたしが持っているドレスを数着合わせてやっと、頂いたドレスの一着分になるくらいの値段のものばかりで、目眩がした。中でもブルーサファイアの大粒のネックレスは、これひとつで馬車が買えるのではというくらい高価なものだった。
さらに両親にも高級なお酒や嗜好品などを頂いてしまい、両親はひれ伏す勢いで娘をよろしくお願いしますと頼み込んでいて。恥ずかしさで謝ってばかりいるわたしに、アーサー様は「君の両親に気に入って貰えたならよかった」と微笑んでいた。
婚約して頂いただけでもありがたいというのに、これ以上高価なものを頂く訳にはいかない。
「あれは普段着にしてもらえればいいよ」
「あんな高級なドレス、普段着になんてできるはずありません。本当に、十分ですから」
「……君を初めてエスコートする日だから、特別なものを贈りたいと思ったんだ。迷惑だった?」
そう言って、アーサー様は捨てられた子犬のような顔でわたしを見つめた。
……本当に、ずるい。その顔でそんなことを言われて、断れる女性がいたら教えて欲しい。
◇◇◇
「こんな素敵なドレス、生まれて初めて見ました……」
リナリア様の誕生日当日、我が家の数少ないメイドの一人であるハンナは、アーサー様から頂いたドレスをうっとりと見つめていた。最先端の流行の形をした淡いブルーのドレスには、細かな宝石が散りばめられている。華やかで高級感のある、素晴らしいものだった。
恐る恐る袖を通し、ドレスを身に纏う。驚くほどに着心地が良くぴったりで、胸が弾む。まさか自分が、こんなにも素敵なドレスを着られる日が来るとは思わなかった。
「とても良くお似合いです!」
ハンナは興奮気味にそう言うと、いつもの様にわたしを化粧台の前に座らせ、髪を結い始めたけれど。彼女は突然、ぴたりとその手を止めた。
「あの、お嬢様。今日の髪型や化粧は、私にお任せ頂けないでしょうか?」
「もちろんいいけれど、なにかあった?」
「お嬢様はこんなにもお綺麗なのに、いつも最低限のお化粧と地味な髪型ばかりじゃないですか。何か事情があるのはわかっていましたけど、私、いつもやるせなくて……。ですから今日は、このドレスに合うよう精一杯やらせて頂けませんか」
「……ありがとう、是非お願いするわ」
そう言って笑顔を向けると、ハンナは「ありがとうございます!」と嬉しそうに頭を下げた。
メイドの彼女にまでそんな気苦労をかけていたとは知らず、内心ひどく胸が痛んだ。
「こんな日に備えて、最新のお化粧や髪型、勉強していたんです」
「ふふ、楽しみ」
今までは、わたしが社交の場に出る時には必ずグレイ様同伴だったから、地味なドレスに最低限の化粧、シンプルな髪型を義務付けられていた。もちろんわたしに拒否権などない。
『お前なんか誰も見ていない、地味な顔に似合った格好をしろ』それがグレイ様の口癖だった。
周りの令嬢達が着ているような、明るい色のレースや宝石がついたドレスにも憧れてはいたけれど、グレイ様の怒りを買ってまで着たいとは思えなかった。
──忘れもしない、七歳の頃。お母様に頂いたアクセサリーを着けて出かけ、皆に可愛いと褒められたことがあった。けれどすぐにグレイ様に見つかり、髪を引っ張られ、アクセサリーは踏み潰され、「お前みたいな不細工は、こんなものをつけるな」と、怒鳴られた。
今思えばあまりにも理不尽だけれど、当時のわたしは子供ながらに「グレイ様と仲良くね」という両親の言いつけを守らなければと思い、必死に我慢し続けた。
……ああ、本当にグレイ様と婚約せずに済んでよかった。
やがて、ハンナの「出来ましたよ!」という明るい声に目を開ければ、美しいドレスに劣らない、新しいわたしと目が合った。
本当に、今までの自分とは別人のようだ。まるで生まれ変われたような、そんな気分になる。
迎えが来たとの知らせを受け、胸元で輝くブルーサファイアのネックレスに負けないよう背筋を伸ばすと、わたしは扉を開けた。
そこにはタキシードに身を包んだ、王子様のようなアーサー様がいて。そんな彼に見惚れてしまったわたしは、伝えようと思っていたドレスのお礼も何もかもが頭から飛び、言葉を失った。
「………………」
「………………」
そして何故か彼もまた、こちらを見て固まっている。
「……あの、変、でしょうか」
先に冷静になりそう尋ねると、アーサー様は口元を手で覆った。
そんな彼の顔は、既に薄暗いこの時間でもはっきりとわかるくらいに赤く染まっている。
「世界一、綺麗だ」
そしてわたしもまた、彼と同じくらい真っ赤になっていたに違いない。
会場に着き、まずは主役であるリナリア様の元へ挨拶に行く予定だったけれど、入口付近にアーサー様のご両親がいるらしく、先にそちらに挨拶をすることになってしまった。
わたしはまだ心の準備が終わっておらず、今すぐ逃げ出したくなっていた。
突然息子が婚約者として連れてきた、何処の馬の骨ともわからない貧乏伯爵家の娘に、いい印象などあるはずがない。わたしは今、間違いなく人生で一番緊張していた。
「彼女がアリスです」
「お初にお目にかかります、アリス・コールマンと申します」
筋肉痛になるくらいに練習した礼をし、ゆっくりと顔を上げる。
そうして視界に入ってきたのは、恐ろしいくらいに整った顔立ちをした男性だった。
見るからに険しい表情をしていて、一瞬でわたしの心は折れかけた。けれど、目と目が合った瞬間、アーサー様と同じ色の瞳が驚いたように見開かれた。
「君は、まさか……」
そして何故か、公爵様はわたしの顔を見たまま黙り込んでしまう。
何か粗相をしてしまったのかと、冷や汗が止まらない。けれどやがて、「そういう事だったんだな」と呟くと、その表情はひどく穏やかで優しいものに変わっていた。
「アーサーのこと、よろしく頼んだよ」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
理由はわからないけれど、なんとか認めて貰えたらしい。
公爵様はアーサー様の肩を叩くと、耳元で何かを囁き、その場を去っていった。隣にいた公爵夫人も儚げな美人で、アーサーをよろしくね、と柔らかく微笑んでくれた。
「アリスのこと、気に入ったみたいだよ」
「それなら、よかったです……」
一気に緊張の糸が切れて、ほっと胸を撫で下ろす。
それにしても、わたしを見た時の公爵様の反応が引っかかる。まるでわたしのことを知っていたかのように見えた。けれどいくら考えても答えは出ず、わたしはアーサー様に手を引かれ、リナリア様の元へと向かったのだった。
◇◇◇
「あなたがアリス様ね! お会いできて嬉しいわ」
会場内にいる沢山の着飾った令嬢の中でも、一際目立つ美少女。それがリナリア様だった。
全てにおいて洗練されている彼女は、髪や爪の先まで輝いている。それでいて笑顔は花のように可愛らしく、同性といえども見惚れてしまう。
そのすぐ隣にはノア様がいて、悪戯っぽい表情を浮かべアーサー様の肩を小突いていた。
「今日のアリスちゃん、とても綺麗だね。ドレスもアクセサリーも、お前が贈ったんだろう? ほんっと、独占欲強いのな」
「余計なことを言うな」
「まあ、こんなアーサー様が見られる日が来るなんて。アリス様はとても愛されているのね」
「あ、ありがとうございます……」
思わずお礼を言ってしまったわたしと少しだけ顔の赤いアーサー様を見て、リナリア様は鈴を転がしたような可愛らしい笑い声を上げた。
「リナリア様、御機嫌よう」
「サラ様! 来てくれたのね」
わたし達の次に彼女の元へとやってきたのは、見事なブロンドの髪がよく似合う美しい令嬢だった。服や仕草からも、家柄の良さが滲み出ている。サラ様と呼ばれた彼女は、リナリア様のご友人らしく、二人は楽しそうに話をしていた。
アーサー様もノア様と話し込んでいて、わたしは一人近くにあったテーブルからグラスをひとつ手に取ると、一息ついた。
……あ、これ、すごく美味しい。
「サラ様、なんだか今日は嬉しそうね」
「そんなにわかりやすいかしら? 今日、お父様に紹介された方と一緒に来たのだけれど、お会いしてみたらとても素敵な方だったの! とても格好良くて、優しくて……」
「貴女がそこまで言うなんて、余程なのね。是非お会いしたいわ」
「途中で知り合いに会って挨拶していたから、もうすぐ来ると思うわ。本当、このまま婚約が決まってもいいくらいよ」
「まあ! サラ様ったら」
グラス片手に立っていると、そんな二人の会話が耳に入ってきて。アーサー様の他にも、そんなに素敵な男性がいるんだなんて思っていると、不意にサラ様と目が合った。
「もしかして、そちらは噂のグリンデルバルド様の婚約者の方かしら?」
「そうよ、アリス様というの。素敵な方でしょう?」
急に話題が自分に移ったことに驚きつつ、わたしは笑みを浮かべた。
「初めまして、アリス・コールマンと申します」
「サラ・スペンサーです、お会いできて嬉しいですわ。流石グリンデルバルド様が選んだ方ね、すごく綺麗。ね、グレイ様?」
そう言って彼女が振り返った先には、見間違うはずもないグレイ・ゴールディング様その人がいて。わたしは思わず、手に持っていたグラスを落としてしまったのだった。