君だから

───やっぱり、夢じゃなかった。


「やあ、アリス」

「ご、ごきげんよう……!」

すれ違い様にアーサー様がお声を掛けてくださるなんて、昨日までのわたしにはあり得なかったことだ。あまりにも眩しい笑顔に目が眩む。周りにいた生徒達も皆、アーサー様がわたしに声をかけているのを見て、信じられないという顔をしていた。

アーサー様が家柄の良い、限られたご友人達としか関わりを持たないというのは有名な話だ。学園一美しいと言われている、侯爵家のご令嬢であるスカーレット様のお誘いですら一蹴したという話もまた然り。

心に決めた人がいるのではないかとか、実は仲の良いご友人のノア様と禁断の関係なのではないかとか、女子生徒達の噂は日々増長していくばかりだった。

「ア、アリス……。まさか昨日の、本当に?」

「こちらのご令嬢は君の友人かな? 初めまして、アリスの婚約者のアーサー・グリンデルバルドだ。これからよろしく」

「も、もちろん存じ上げております、アリスの友人のリリー・クラークと申します」

そしてアーサー様の登場に誰よりも驚いていたのは、わたしの隣にいたリリーだった。

昨日、哀れみに満ちた目を向けてきた彼女は、あのあと起こった出来事について説明したところで、絶対に信じないだろうと思ったのだ。だからこそ、何も話していなかった。

……当の本人であるわたしですら、こうしてアーサー様に話しかけられるまでは、昨日の出来事が現実だといまいち信じられずにいたのだけれど。

早速、さらりとわたしの婚約者だと名乗ったアーサー様に驚き顔を上げれば、「何か問題でも?」と言いたげな笑顔を向けられた。

「二人はこれから昼食を?」

「はい。ですが私、急用を思い出しました。後はどうぞお二人で」

「ちょ、ちょっとリリー!」

それだけ言うと、彼女はあっという間に視界から消えてしまった。気を利かせたのか、理解が追いつかず逃げたのか。

どちらにせよ、わたしはアーサー様と二人きりになってしまったのだった。

「では、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

「えっ?」

「アリスは俺と二人で昼食をとるのは嫌?」

「そ、そんなことはないです! 喜んで」

「良かった、嬉しいな」

彼は嬉しそうに笑い、アイスブルーの切れ長の瞳が柔らかく細められる。

アーサー様もこんな顔をするんだと思わず見とれていると、案の定、周りにいた女子生徒達からは悲鳴に似た黄色い声が漏れていた。

「いつも君は学食で?」

「はい」

「それなら、学食に行こうか」

後から知ったのだけれど、アーサー様はいつもお抱えのシェフが作ったランチをご友人達と食べていたらしい。学食はこの日、わたしと行ったのが初めてだったという。全てがスマートすぎて、全く気が付かなかった。


アーサー様はわたしがいつも頼む、サンドイッチのランチセットを頼んでいて。これを頼む人は少ないと以前聞いたのを思い出し、なんだか貴重な仲間を見つけたみたいで嬉しくなった。もしかしたら、気が合うのかもしれないなんて思ったり。

……まさか彼がそれを見越して頼んでいたなんて、わたしは知る由もない。

彼は当たり前のようにわたしの分まで会計をしてくれて、慌ててお礼を言えば、「可愛い婚約者の分を払うのは当たり前だよ」と言われてしまい、顔が熱くなった。

アーサー様は本当に、絵本の中から飛び出してきた王子様のような人だと思う。

それと同時に、どうしてわたしと婚約してくれたのだろう、という疑問は募っていく。

空いていたテーブルに向かい合うようにして二人で座ると、周囲から刺さるような視線を感じた。噂一つ立ったことのないアーサー様が、女子生徒と二人で昼食をとっているのだ。それも貧乏伯爵家の娘と。当たり前の反応だった。わたしも野次馬だったなら、思わずじっくり見てしまっていたに違いない。

けれど彼は、周りの視線など気にならないといった様子で、微笑みながらこちらを見つめている。

むしろ、わたしの顔を見ているばかりで全く食事に手をつけていない。

「あの、アーサー様」

「…………っ」

「どうかされました?」

「……もう一度、名前を呼んでくれないか」

「アーサー様?」

わたしがそう言うと、彼は口元を押さえて俯いた。気のせいだろうか、顔が赤いように見える。

「……ここが、学食でよかった」

「どうかされましたか?」

「いや、こちらの話。気にしないで」

そう言うと、アーサー様はようやく食事に手をつけた。

しばらく無言が続いた後、わたしはずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。

「今更ですけれど、どうしてわたしと婚約をして下さったんですか?」

「君が申し込んでくれたからだけど」

「そ、それはそうなんですが……。そもそもアーサー様はわたしなんかと釣り合わないですし、いきなりの事だったのに、すぐに正式に申し込んで下さった理由とか、色々気になって」

そこまで言うと、アーサー様はそんな事かとでも言いたげに微笑んだ。

そして彼は、無造作にテーブルの上に置いていたわたしの左手に、そっと自身の手を重ねた。突然のことに驚きつつも、少し冷たいその手は何故かとても心地よくて。

──わたしはこの手を知っているような気がした。

「君だからだよ」

「えっ?」

「アリスだから。君以外に、こんな事はしない。それに釣り合わないなんてことはないよ、むしろ俺が君に釣り合わないくらいだと思ってる」

アーサー様のあまりにも真っ直ぐな視線に耐えられなくなり、わたしは逃げるように俯いた。心臓が信じられないくらいに早鐘を打っている。

わたしだから、なんて意味がわからない。アーサー様がわたしに釣り合わないだなんて、もっと意味がわからなかった。けれどこれ以上深く尋ねる余裕など、わたしにはなかった。

「顔、真っ赤だよ」

「ア、アーサー様のせいです」

「それは嬉しいな。アリスさえよかったら、明日も一緒に食べようか」

そうして明日も二人で昼食をとる約束をした後、彼はわたしを教室まで送ってくれた。

その後、リリーを含むクラスメート達に質問攻めにあったのは言うまでもない。

◇◇◇

「……グレイ・ゴールディング、か」

「はい。彼が原因だったようです」

「俺があの時一番最初に通らなければ、アリスは他の男に婚約を迫っていたんだと思うと、気が狂いそうになるよ」

「それでも、アリス様がお声をかけたのはアーサー様ですから。私は運命だと思っています」

「運命、か。グレイ・ゴールディングについて、より詳しく調べておいてくれ」

「かしこまりました」

……こちらからは関わらないと決めていたものの、少しでも彼女のことを知りたくて、彼女のクラスに家来であるビクターを置き、彼女がその日どんなことをして、誰とどんな話をしていたのかということを毎日報告させていた。

今や彼女の友人関係はもちろん、数学が苦手でよく居眠りしていることや学食で好きなメニューだって知っている。この事を知ったら彼女はどう思うだろう。気持ちが悪いと軽蔑するだろうか。

毎日彼女についての話を聞き、彼女のことを思い、遠くから見つめるだけの日々だった。

『アーサー様?』

だからこそ彼女に自分の名前を呼ばれることが、こんなにも幸福なことだとは知らなかった。あの甘い声を思い出すだけで、頬が緩む。

ずっと、遠くから見ているだけでいいと自分に言い聞かせていた。

そうしているうちに、いつしか本気でそう思うようになっていた。

けれど一度彼女の視界に入り、言葉を交わし、触れてしまえばもう駄目だった。もっと触れたい、彼女を自分だけのものにしたいという衝動が止まらない。

この十年、大切に大切にしまっていたはずの彼女への想いはとめどなく溢れ、呪いのように俺を蝕んでいく。

「……何も望まないと、決めていたのにな」

愚かな俺はいつの間にか、彼女に愛されたいと願ってしまっていた。