2 メグの戦い

【メグ】


気持ちの悪い沼にはまっているかのような心地だ。

ねっとりとした泥が体中に纏わりついて、思うように動けない。それどころか、頭がボーッとして身体に動けという命令さえ出せていないんじゃないかって感じ。

このまま沈んでしまったら、楽だろうな。沼は冷たくて、ちょっと気持ち悪いけど……力を抜いて楽になりたいって思ってしまう。

だってなんだか息苦しいし、このままは辛かったから。

「メグ!」

「……」

でも、それを許さないとばかりに誰かが私の名を呼んだ。聞いたことのある声。えっと、誰だっけ。確か……。

「レイ……?」

「そうだよ。意識をしっかり保って。楽な方に流れてはいけない!」

苦しくて、辛いのに、眠ることを許されないなんて。なんでダメなの? なんで頑張らなきゃいけないんだっけ。

ダメだ、うまく頭が回らない。ねぇ、レイ。知っているなら教えてよ。どうしてこのまま眠ってはいけないの?

「大切な者はなに? メグが絶対に守りたいものは? そう簡単に忘れてしまえるようなものじゃないでしょう?」

「たいせつな、もの……」

うっすらと目を開けると、必死な様子で私に声をかけ続けてくれる黒髪の青年が見えた。彼はどうしてここまで一生懸命なんだろう。それに応えてあげたいけど……眠くてどうしようもない。また瞼が下りてきてしまう。

「愛する人が傷ついてる! そのままでいいの!? メグ!」

愛する人……? 再びほんの少しだけ意識が覚醒して、言われたことを繰り返して声にする。

『メグ……!』

どこかで、私の名を呼ぶ声が聞こえた。この声はレイじゃない。もっと低くて、温かくて、愛おしい。

「ギル、さん……」

ああ、そうだ。私の愛する人の声だ。それで、傷ついている……? ……えっ、傷ついてる!? ギルさんが!?

急激に意識が覚醒していく。グイッと何かに身体を引き上げられたような感覚だ。でも実際に引き上げられたわけじゃない。

えーっと、どうしたんだっけ。今は……生身じゃない、ね。うん。また夢の中かな? そう思って魔力で探ってみたけど、それともまた違う。

ああ、そうだ。ここは私の心の中だ。

正確にはまた違うのかもしれないけど、そういう表現がしっくりくるのでそう呼ぶことにしよう。

「え、あ、あれっ、何っ、この状況!?

改めてよく見れば、私は身体のほとんどを黒い何かによって搦め捕られている状態だった。さっき夢現ゆめうつつだった時も気持ちの悪い沼の中にいる感覚だったけど、概ねそのままの状況だった! ひえぇ、気持ち悪い! 抜け出したいぃ!!

でもいくら抜け出そうともがいても、黒い何かがまとわりついてくるだけで全く抜け出せそうにない。嫌ぁぁぁ!

「ああ、やっと意識がハッキリしたね。よかった。第一段階はクリアだ」

「第一段階? それに、ちっともよくないよぉ!」

ホッとしたように微笑むレイだったけど、ほんと、まったく安心出来る要素がないんですがっ!

「このまま眠っていたら、二度と君が身体を取り戻すことが出来ないところだったから」

「それは由々しき事態ですね!! うん、よかった! 確かによかった!」

これはもがいてどうにかなる問題じゃないといち早く気付いた私は動きを止め、大きく頷きながらレイに答えた。

でも良い状況とは言えない。ピンチなのは変わらないままである。作戦とはいえ、自分から身体を引き渡したのは早まったかなぁ。でも、レイはこうするしかなかったと言うし。

「強引に奪われていたら、たぶん君は目を覚まさなかったよ。自分から明け渡したからこうしてギリギリのところで目覚められたんだ」

「そっか。でも、レイがいなかったら同じ結果になっていたかもしれないよね。ありがとう」

レイが起こしてくれたからこうして目覚めることが出来たんだもん。お礼を言うのは当たり前のことだ。でも、レイは私がお礼を言ったことをとても驚いているみたいだった。感覚の違いってヤツかな? 神様と人とは色々とズレていそうだもんね。

ともあれ、まずはこれからどうするかを考えないと。

「一応ね、事前に色々と作戦は練っていたの。時間がなかったからあまりじっくりとは考えられなかったんだけど……どうにかして、テレストクリフの名前をギルさんに伝えられないかって」

ギルさんだけじゃなく、オルトゥスの人たちからも聞いた話によると、神様の名前は特別なものだから呼ぶことで動きを少しだけ止めることが出来るんじゃないかって。

それを伝えると、レイはああ、と頷いて感心したように頷いた。

「神と呼ばれる者の名は特別だからね。ただ、人から呼ばれたとしてもほんの少しだけ動きを止める程度の抑止力しかないかな。でもそれが大事な一手になる可能性はあるね」

やっぱり名前は特別なんだ。でもそこまで重要ではなさそう。思えば、レイは自分から私に教えてくれたもんね。その程度の認識だったから教えてくれたのかもしれないな。

ただ、絶対に敵わない相手だからこそ、そういう小さな一手が大事だったりもするのだ。特に、ギルさんやリヒトならその僅かな隙を無駄にはしないはず。

「それでね? なんとか伝えたいとは思ったんだけど……」

「ああ、首の魔術陣で妨害されていたからね。その勘は正解だよ。でも、今なら妨害もないから伝えられるんじゃないかな」

「うん。それもわかるし、そうしようと思ってた。でも、いざとなるとどうすればいいのかわかんなくって」

ギルさんには力強く、必ず私が伝えるからって言っておきながら、実際は方法が何も思いついていない。謎の自信だけはあったから、いざとなったらわかるかなって軽く考えてたんだよね。こういうところがつくづく私である。

「あはは、メグって本当に見ていて飽きないよ。こんな時だというのに、笑っちゃうなんて」

「も、もうっ! これでも必死なんだよ!」

適当だと思われるかもしれないけど、その時その時を必死で生きてるんだよ、私だって!

でも、まぁ、行き当たりばったりなのは事実だし自覚もあるので笑われても仕方ないです、はい。

「頼もしいから笑っているんだよ。ねぇ、メグ。自信があったんだろう? なら、すでに方法は君の中にあると思うよ」

「私にはすでに、わかっているってこと?」

レイはニコニコしながらこちらを見つめて頷いている。私からどんな方法が出てくるのかを楽しみに待っているようにも見えた。うーん、そうは言ってもなぁ。

「……祈るしか」

「じゃあ、それが正解なんだろうね」

えぇ? そんなことでいいの? でも、今の私に出来るのはその程度だ。魂の状態だけど体の自由を奪われているわけだし。ここは心の奥の方だろうから、表に出て身体を取り戻すのにはまだ時間がかかりそうだし。

祈る、か。冗談みたいな考えではあるけど、確かにそれが正解なのかも。だって、私とギルさんは番同士なんだから。強く祈れば、伝わるかもしれない。

目を閉じて、ギルさんに意識を向ける。どうか見せて。貴方の見ている景色を。どうか教えて。貴方が今、どんな気持ちなのかを。

すると、ぼんやりとだけどイメージが浮かんできた。イメージは途切れ途切れでよくは見えなかったけど、どうやらリヒトと死闘を繰り広げているみたいだ。私に攻撃出来ないからか、回避してばかり、なのかな。うぅっ、二人が本気を出して攻撃すればもっとテレストクリフの動きも止められると思うのに。

まぁ、私の身体はもろそうだから戸惑うのもわかるけど。でも魔大陸中の、ううん、人間の大陸もだね。この世界、全ての命がかかっているんだから思い切って攻撃してほしい。ああ、もどかしい。

今見えたことをレイにも伝えると、彼はふむと腕を組んだ後に小さく微笑んだ。

「クリフにとってもこの身体は大切なはずだよ。神へと為ったらいらなくなる器ではあるけど、それまでは絶対に必要だから」

「……そっか。この身体と私の魂があるからこそ、全ての条件が揃っているんだっけ」

つまり、テレストクリフも攻撃されたらこの身体を守ろうとするってことか。それを伝えるか、どうにか気付いてくれたら私の身体にも攻撃してもらえるだろうか。

「でも……条件が揃っていたって、神には戻れない、よね?」

レイは愛を知ったから地上に堕とされたのだと言った。だから、今更どんな条件を揃えたところで戻れないんじゃないかと思うんだけど。

私が疑問を口にすると、レイはこれまで穏やかに微笑んでいたその顔からスッと表情を消した。

「……すでにクリフは神に戻ろうなんて思ってないよ」

え、どういう、こと? だって、そのために長い間ずっと……。ゾクリ、と背筋が寒くなる思いがした。

「戻るんじゃなくて、新しい神になろうとしているんだよ。クリフは」

理解が追い付かなかった。言っている意味はわかるんだけど、話があまりにも私の知る世界から逸脱いつだつしすぎていたから。

「新しい、神……?」

声が震えてしまう。レイは小さく頷くと、感情のない顔で淡々と説明を続けた。

「まずクリフは、この世界の全てを破壊し、命を刈りつくすよ。そうして真っさらになった世界で、自分にとって都合の良い新たな命を生み出すんだ。そうすれば、彼はその世界の神と言えるだろうから」

「や、やばい思考すぎてついていけないんですが……?」

天地開闢かいびゃくってやつ、だよね? まさしく神話だ。実際それをやろうとしているだなんて、現実味がない。

でも、じわじわと恐ろしさを感じるのは、それが出来てしまう力をこの身体が持っているとわかるからだ。私では無理でも、テレストクリフが操るこの身体なら出来てしまう。その力があるのだから。

「いくら世界を創り直したって、神になったって……きっと同じことを繰り返すだけだろうに」

レイはとても悲しそうに目を伏せた。

それは……私も、そう思う。自分に都合の良い世界なんて、出来っこないもん。命を吹き込まれた生き物には、それぞれ意思が宿るんだから。もしくは、魂を持たない存在をつくるつもりなのかな。私が宿る前のこの身体や、ダンジョンの魔物みたいに。

……ダンジョンの、魔物? そこまで考えた時、レイがフッと悲し気に目を伏せた。

「……君の想像通りだよ。ダンジョンの魔物は、クリフが生み出したシステムだ。人の能力を底上げするために生み出された存在で、魂を持たない。オリジナルのコピーにすぎないんだ」

「コピー……? じゃ、じゃあ、倒されてもいずれまた復活するのもそういうシステムだからなの?」

「そうだね。この世界の神だった時に彼が創ったものだ。君という器も彼が手を加えたからこそ生まれてきた。完全なる彼の創ったものとは言えないけれど。そうでもなきゃ、魔王とハイエルフの間に子どもなんかほぼ出来ないよ」

……まさかここでダンジョンの魔物について知ることになろうとは。衝撃の事実過ぎませんかね? というか、私がこの世界にいられるのもある意味テレストクリフのおかげってことじゃないか。大きな意味で生みの親というわけだ。ふ、複雑……。

「そうだったんだ……でも、魂を持たない存在であっても、コピーであっても、心は生まれたよ」

だって、この身体が望んだからこそ私の魂が呼ばれたんだもん。ダンジョンの魔物だって、微かに意思のようなものを感じる時があったし。

思えば、私と同じような存在だからこそ感じ取れたのかもしれない。他の人にはわからない、微かな意思を。

「そうみたいだね。これは新発見だよ。だからこそ、クリフのしようとしていることは……失敗する」

最初はうまくいくかもしれない。彼にとっての理想の世界で、思い通りにいくのだろう。でも、ほんの欠片かけらだった意思は確実に成長していき、いつかは彼の思う通りに動かなくなる。育まれた心によって、世界はそこで生きている者たちが動かすようになるんだ。

そうだよ。世界は神様のものじゃない。そこで生きている者たちのものだ。生み出してくれたことに感謝はするし、うやまう気持ちもある。でも支配は違う。絶対に違うって思う!

「でもこれは僕の推測だ。当たっているとは思うんだけどね。ごめんね。僕はこの世界の生き物たちを守ることに全力を使ってきた。だから、彼を止めるどころか思考を探る力もあんまりないんだ。今思えば、対話することこそが最も必要なことだったのかもしれない」

レイの推測は私もほぼ当たっていると思う。けど、そっか。ハイエルフの郷に別種族と子を生してはならないという掟を作ったり、膨大な魔力を分散させるために勇者という存在を連れて来たり、随分と遠回しな援助だなって思っちゃっていたけど……そういう理由だったんだ。レイは、自分に出来る精一杯で私たちを守ってくれていたんだね。

「でもクリフは、僕の存在に一切気付いてくれないから。ううん、それは言い訳だ。僕だって、彼と向き合うのが怖くて本気で対話しようとしていなかったのだろう」

テレストクリフは神になるために全ての力を注いでいる。だから、愛したはずのレイの存在にさえ気付かないってことか。

……なんだろう、違和感がある。それが何なのか、ハッキリとはわからないけど。

「確信を持ってアドバイスが出来なくてごめん。最悪な推測だったよね。不安をあおるだけになってしまったかな?」

そこまで話した後、レイは申し訳なさそうに私の顔を覗き込んできた。最悪な推測、か。ふふっ、そのくらいは慣れていますとも。

「大丈夫。常に最悪を想定して動くのが、オルトゥスのルールだから!」

「! そっか。そうだったね」

とにもかくにも、今はギルさんたちに私を攻撃しても大丈夫だってことに気付いてもらいたい。まずはそれを祈ってみよう。どうせ今はこの拘束から抜け出すことが出来ないんだから、出来る手を一つずつ!

『もし、私が身体を乗っ取られて、暴れるようなことがあったら……ギルさんが私を止めて。殺してでも』

ふと、あの時にギルさんとした約束を思い出す。あの覚悟は、今も変わっていない。たとえ身体が死ぬことになったとしても、私はそれを後悔したりしない。ただそれは、ギルさんの手による終わりであってほしいとは思うけどね。これは私のワガママだ。

「そうだ。あの時のことを、ギルさんが思い出してくれたら……!」

ポツリとそう呟いた瞬間、脳裏にギルさんがその刀を私に向かって振るうイメージが見えた。あまりにも速いその攻撃に、理解が追い付かない。追い付かなかったけど……。

「私に、攻撃をしかけてくれた……?」

もしかしたら、あの時のことを同じタイミングで思い出してくれたのかもしれない。その上で、腹を括ってくれたのかも。これが番としての繋がりだなんて都合の良い解釈かもしれないけど、信じてみる価値はあるよね。

ギルさんが攻撃を繰り出したことで、リヒトも吹っ切れたのか二人して攻撃を仕掛けるイメージが途切れ途切れに見えてくる。うん、うん! そうだよ! それでいい! よかった、絶望的にも思えた戦況に少し追い風が吹いたかもしれない。

「伝えられたみたいだね?」

「うん。でも名前となるとイメージで伝えるわけにはいかないから難しいな……ううん、伝えてみせるよ!」

そう、愛の力で! ……なーんて、ね。うっわ、恥ずかし。こんなこと、今しか言えないや。

すると突然、レイがお腹を抱えて笑い出した。ちょ、ちょっと! 思考を読んだの? さすがに恥ずかしいんだけどっ!

「違うよ。おかしくて笑ったんじゃない。互いに愛し合うことって素晴らしいなと思ったんだ。それと……」

相変わらず笑いながらだけど、レイが本当に馬鹿にして笑っているわけじゃないってことはわかった。でも、微妙な心境にはなるからやめてほしい。いや、いっそ今みたいに笑ってくれた方が清々しいかもしれない。恥ずかしいけど!

でも、レイがここまで嬉しそうに声を上げて笑う姿は初めて見たな。なんだ。私たちと同じように笑えるんだ。元神様でも。

「いつの間にか、メグは僕に対して気軽に話してくれているなって」

「え? あ……」

「それが、すごく嬉しいんだ」

そ、そういえば、最初は間違いなく丁寧に敬語で話していたはずなのに。い、いつからこんな気軽に接しちゃっていたんだろう? 元とはいえ神様が相手なのに申し訳なく……いや、今レイは嬉しいって言った。こんなふうに接した方が良かったってこと?

「僕は、人を愛しているからね。メグ、君のことはその中でも特に愛しているよ」

そうだった。そうだったよね。レイはこの世界に生きるものたちを愛しているからこそ、必死で長い間守ろうと戦ってくれていたんだ。なら、今度はそんなレイにもお返ししたいな。ずっと一人で戦い続けてくれたんだもん。

「ね、レイはどうしたい?」

「え? そりゃあ、みんながこの先も幸せに暮らせるように……」

「ううん、そうじゃなくて」

言葉を途中で遮るように伝えると、レイは不思議そうに首を傾げた。こうして見ると、なんだか幼い少年のようにも見えるなぁ。

「レイ自身はどうなりたいのかなって。この先も、神様のような存在としてこの世界に生きるものたちを見守りたい? それとも……」

私には、聞く前からその答えがわかるような気がした。レイはハッとなって息を呑む。

「人と同じように生まれて、死んで。巡る魂の輪に入りたいと思っているのかな」

人を愛しているとレイは言うけれど、もしかしたら憧れているのかもしれないって思ったんだ。

愛してしまったから堕ちたのではなくて、自分も人と同じように生きてみたいって、そう願ってしまったから、堕ちたんじゃないかなって。

「……メグは、すごいね。うん……うん、そうだ。僕は人になりたい。もう、解放されたいよ……」

そう言って笑ったレイは、まるで泣いているようにも見えた。だから私は余計に、彼のことも救いたいって思ったのだ。それが烏滸おこがましいことだとしても。

さて。テレストクリフの思惑はわかった。レイの願いもわかった。ついでにダンジョンの魔物についてと、私の出生の秘密もハッキリした。

「まずは名前を伝えて、この身体が他の人に危害を加えに行かないようにしないとだよね」

目標がハッキリすると、何をすればいいのかが見えてくるというものである。どうしたらいいのかサッパリわからなかったはずなのに、今ならわかる気がした。この感覚は、メグになってから何度も経験しているけど本当に不思議だよね。

心に、従おう。

『メグ……!』

「ギル、さん!」

その時、急にギルさんが私を呼ぶ声が聞こえてきた。思わずレイに目を向けて見ると首を横に振られたので、どうやら聞こえていたのは私だけみたいだ。ならこれは、魂に直接語りかけているということだ。つまり、私からも伝えられるということ。

ふと、ギルさんが怪我をしているイメージが浮かぶ。どうやら精神へのダメージが一番大きいみたい。一体どんな戦いをしているの……!?

ううん、心配している暇があるなら早く伝えなきゃ。それがギルさんを、みんなを守ることに繋がるんだから。

貴方を、信じているからね。

「聞いて、ギルさん」

その身体を今、乗っ取っているのは──。

「「っ、テレストクリフ!」」

ギルさんと私の声が重なった気がする。そして次の瞬間、私を捕らえていた沼がわずかに揺らいだのがわかった。あ、ちょっとだけ身体が動かせる。

それから数秒後、さっきよりももっと沼が揺らいで、いとも簡単に拘束が緩んでいった。それでもまだ身体に纏わりついていたから、私は慌ててその場から離れる。

レイも手を伸ばして私を引き寄せてくれたことで、ようやく私は沼から脱出することが出来た。よ、よかったぁ。本当に気持ち悪かったもん。もう二度と捕まりたくはない。

「い、今は何が起きたんだろう。レイはわかる?」

途切れ途切れながらもイメージが伝わってきたからなんとなくはわかるよ。ギルさんとリヒトがうまくやってくれたんだってことが。でも、何がどうなったのかはよくわからないや。

「そうだね。君と魂を分け合った勇者がうまく隙をつくって、その間に君の番がうまく動きを止めたみたい。今は魔石に封印されて、動きを制御されているみたいだね。たぶん、もうすぐ……」

レイがそこまで口にした直後、数メートルほど先にぼんやりと何かの輪郭が見えてくる。この心の中、というか精神の中にいる間、距離なんてさして意味はないかもしれないけど、ちょっと離れた位置に現れたことに、何かしらの意味がある気がした。

たとえば、そう。出来ればあまり見られたくない、とか。

何かが現れたのがわかるだけで良くは見えないんだけど、同じ空間にいるからそれが何なのかは予想がつく。

「テレストクリフ……?」

「そうみたいだね。行ってみようか」

「う、うん。でも、レイは大丈夫?」

二人の間には気まずい何かがあるんじゃないかなって思ってそう聞いたんだけど、レイはおかしそうにクスクス笑った。

「僕はそもそも、彼と話したいとずーっと願っていたんだよ? まだ彼が僕を認識出来るかはわからないけど、もしかしたらって期待しているくらいだ」

「そうでした」

「それより、メグの方こそ大丈夫? 彼の前に行ったら、またあの手この手で身体を寄越せって言ってくると思うよ? 邪魔するなって」

うーん、その可能性は高いと思う。というか、すでに身体は彼に乗っ取られているのに、それでもまだ言ってくるのかな? そんな私の疑問を察したのか、レイは難しい顔で腕を組んだ。

「確かに今、身体の所有権はクリフにある。けど、少しだけほころびが出来ているよ。今なら頑張ればメグが取り戻せると思うけど……また奪い返されるかもしれない」

「その繰り返しになりそうだよね。私にもそんな予感はあるよ」

出来ればすぐにでも身体を取り戻したいし、この世界を滅ぼされるのは絶対に防ぎたい。けど、物事にはタイミングというものがあると思うのだ。幸いにも、今はギルさんとリヒトのおかげで動きを制御されている状態だ。それなら、今のうちにここで出来ることをしておきたい。

出来ること、それはずばり対話である。っていうかそれくらいしか出来ないし! 戦いなんて向いてないもん! すぐ負けるもん、私!

「行こう。のんびりしたって、何も始まらないし終わらない!」

「ふふ、そうだね。行こうか」

レイは笑いながらそう言ったけど、その目はどこか不安そうに揺れているように感じた。

二人でテレストクリフのもとに近付いていくと、あちらも私のことに気付いたようでものすごい形相で睨んできた。私の顔で。

私って、あんな顔も出来たんだなぁ……。メグは怒った顔もまったく怖くない、なんていつも言われていたけど、あの顔はちょっと怖いと思う。憎しみや怒りって、本当に人の顔まで変えてしまうんだな。

「テレストクリフ、だね?」

『身体の盗人ぬすっとか。何の用だ。今さら来ても、身体は返さぬぞ』

彼は無色透明な魔石に身体の半分以上を取り込まれていた。口元も覆われているから喋ることも出来ないみたい。だから念話で話したのだろう。この空間が精神世界だからか、その声はビリビリとした不思議な響きを持っていた。

しかも私の声なんだよね。高めでかわいらしい感じの声だからか、すごまれてもそんなに怖くない。私の身体、グッジョブ! これで声もおどろおどろしかったら震えているところだ。だって怖がりだもん、私。

そんなわけなので、私は強気に彼の前に立つ。見た目は私の姿だから変な感じだけど、気にしてなんかいられません。

「不可抗力とはいえ、私がこの身体を横取りしたのは確かだと思う。でも、ここまで無事に育ったのは私のおかげでもあると思うんですけど」

色んな人に助けられて、愛されて、たくさんの経験をして。心も身体も健やかに育ってきたと自負しています。まぁ、いろんなトラブルには見舞われたけども。それでも、なんとか乗り越えてきたもん。ここまで無事に成長した、私にも身体の持ち主としての権利はあると主張します!

『ふん、人に助けてもらえる容姿に創ったのだ。放っておいても誰かが育てることはわかっていた』

えっ、それさえも計算尽だったんだ……!? やけに整っているもんねぇ、確かに。エルフという特徴だけではなくて、ほんのりピンク色の輝く髪といい、雰囲気といい、実際ものすごくかわいらしい容姿ではある。中身がこんなんで申し訳ないと常々思っていたから、あえてそうしたのだと知ってものすごく納得しちゃった。

いや、そんなことを考えている場合じゃない。どうにかして説得しなきゃ。

『笑いに来たのか? 神ともあろう存在が、人ごときに捕らえられたこの情けない姿を』

「ううん。話をしにきたの。世界を滅ぼすのは止めてほしいから。世界を創り直そうだなんて、考えないでほしい」

『は……』

しかし、私に交渉事は向いていなかった。

わ、わかってたよ! でも、よく回らない頭で無理に交渉をしようと思ってもどうせうまくいかないんだから、ドストレートにいくしかないでしょっ! 時間もないことだし!

『お前、なぜそれを知っている』

「え?」

呆れられるだけだろうと思っていたんだけど、どうもテレストクリフの様子がおかしい。さっき以上にすごい顔で睨みつけてきたから、思わず一歩後ろに下がってしまった。

『私が世界を創り直そうとしていることを、なぜ知っている……!』

「そ、れは。聞いたから……」

私の声を遮るように、誰に!? と叫ばれてさらに一歩下がる。

ああ……改めてわかったよ。やっぱり見えていないんだね。ここで彼と話し始めてからそんな気はしていたけれど。だって、私の隣にはずっとレイが立っているというのに、何の反応も示さないんだもん。

「レイだよ。レイフェルターヴ。貴方には見えないのね? ここにいるのに」

戯言ざれごと!!

ゴゥッという音とともに、ものすごい魔力の圧を感じた。心の中だというのに飛ばされそうで、慌てて両腕で顔を覆った。

だけど、思っていた以上の衝撃はいつまでたっても襲ってこない。おそるおそる目を開けると、私を守るようにレイが前に立ち、魔力の圧を防いでくれていた。

『な、なぜ防げる……!? ただの人間の魂ごときがっ!』

つまり、今はテレストクリフの目の前にレイが立っている。だというのに、彼の目にはレイの姿が一切見えていないようだった。

「クリフ……どうか、僕に気付いてよ。僕の意見を聞いてよ。僕は、この世界を滅ぼしたくなんか、ないのに」

レイの背中はとても悲しそうに見えた。

なんで? どうして? テレストクリフはレイのことを愛しているんじゃないの? だから堕ちたんじゃないの? それほどの愛を抱いていながら、どうしてレイのことを見付けられないのだろう。

『わかったぞ。人間の分際で、私を動揺させる気なのだな!? 我が最愛の名を出して虚偽きょぎを告げるなど……許せぬ。決して許せぬ!!

なんかものすごく怒ってる!? ちょ、私は嘘なんて言ってないのに!

テレストクリフがさっき以上に魔力を放出しているけれど、私は相変わらずレイに守られているから無事だ。それがせめてもの救い……そう思っていたんだけど。

「メグ、ダメだ! この魔力は外でも放出されている! 魔力に関しては結界も意味を成していない……世界中で、魔物の暴走が始まってしまう!」

焦ったように叫んだレイの言葉を聞いて、背筋が寒くなる。そ、それって。

「また、始まってしまう。魔物と人の、戦争が……!」

そんな……! 身体の動きを止めても、魔物の暴走が始まってしまうなんて。

それでも、一番厄介な敵となるであろう本体は動けないままだ。大丈夫。落ち着いて。こういう日が来た時のために、オルトゥスだけでなく他の特級ギルドや魔王城の人たちも対策を練ってくれているのだから。

信じよう。そして、私は全力で彼を止めよう。ここからが、私の戦いだ。