劇団〝Phantasm〟の演目、人魚姫。
美しい人魚が旋律を奏で、しかしひと言も喋らず、彼女に恋する人物ばかりが動き回る。
それはまったく、人々が見慣れている演劇とは違った。
観客たちは、どこを見てもいい。何故なら、演者たちは一人一人順番に喋らないからだ。
「なぁ坊ちゃんたち、彼女にどうアプローチすればいいと思う?」
あちらの席では軽薄そうな青年が、観客の子供たちに問いかける。
「そう、なら聞かせて。貴方は、目の前の彼女のどんなところが好きなの?」
こちらの席では
「そら見ろ、目が合ったぞ。あんたたちのお陰だ」
そちらの席では愛想のない少年が、頰をバラ色に染めて観客の淑女たちに笑う。
演者たちは皆、テーブルを一つずつ回るように動いた。
食事の邪魔をしないほどの間隔を空けて、各々全ての席をまんべんなく、決して無理強いはせずに観客とコミュニケーションをとりながら、ほどいた糸を再び
彼らはただ、個別で演じているだけではない。
時折、演者たちによるストーリーの中核に踏み込んだ劇が挟まるのだ。
そういった演技には決まった台本があるだろうに、その切り替わりに違和感はなく、物語にも一切の矛盾を出さない。観客との会話にすら、後から矛盾を生じさせない。
すべてが、予定調和であるかのように纏まっていく。
そして、最後のクライマックスへ──。
場所はサルスの冒険者ギルドの二階。
職場の真上とはいえ、完全な生活スペースであることに、受付姉妹たちは集まっていた。
彼女たちは今まさに、劇団〝Phantasm〟の人魚姫を観て帰ってきたばかりだ。
「ね~やばくない!?」
「やばい……」
「団長ちゃんの美少年ありがとー!」
帰り道からずっと興奮覚めやらない。
そうしながらも、彼女たちは続々とテーブルの上を埋めていた。感想大会を開催しなければ寝られないと判断し、各々好きに酒やらツマミやらを用意していく。
「いやー……いい……良かった……あー…………良かった……」
長女は酒瓶を抱きしめながら、目に焼きつけてきた光景を
「まず流石はファンタズムなんだよね。キャラクターを完全にモノにしてるの。あれだけの量のアドリブにあれだけテンポよく対応できるっていうのはまずあり得ないのね。私は昔っからあの子たちに実力があるって分かってたけど今回の劇はその集大成と言っていいんじゃないかって思うのね」
次女は五人分のツマミを続々と作りながらも語りつづけ──、
「全員に恋したけど全員に人魚姫とくっついてほしい矛盾に苦しんでるぅ」
三女は己の
「いや人魚姫ちゃんはそういうんじゃないから。あの子は海と結ばれて泡になるの」
四女は過激派となって開ききった瞳孔であらぬ方向を見つめ続け──、
「ねぇ衣装見た!? あの鱗なんだと思う!? 本物だと思う!? 今までの演劇と比べて衣装のクオリティ上がりまくってて感動したんだけど見た!? あのシルエットどうやって出してるんだと思う!?」
末っ子は趣味で極めている洋裁の、一種の頂点を見たことに大興奮していた。
この五人だが、事前に団長からチケットを貰えたおかげで観劇の機会を得られた。
彼女たちは劇団〝Phantasm〟がサルスを訪れる度に、劇を観に行っている。今回も当然のように予定していたが、なんと公演初日以降、随分と話題になってチケットの入手が難しくなっているようだ。
団長に貰えなかったら頑張っても観れなかったかもねと、そう話しつつ、彼女たちは仕事が終わってからレストランへと向かった。
新しい演目だって、楽しみだ、なんて和気
「劇だけど劇じゃなかった」
そして、あまりにも美しい衝撃を胸に受けた。
「いや劇でしょぉ、後味が劇だもん」
「でも言いたいことは分かるよ。なんかこう、近かったよね」
「そう、近かった」
「私擦れ違うたび『ひぇ……』って言ってた」
「言ってたね」
「あの距離で目が合ったら恋すると思う。した」
「するよ、あれは。しなきゃおかしいでしょ」
飲み物、食べ物、そしてタオルを揃え、感想大会の準備が終わった。
五人は速やかに席につき、我先にとばかりに溢れかえった衝動を口にしていく。
「てかやばくない? 団長ちゃんの美少年やばくない?」
「あの子ほんと天才。だってこれが団長ちゃんかぁって思わなかった」
「天才すぎる」
「目がちょっと気だるげでさぁ、分かる?
「分かるぅ」
全員、言葉が出ないあまりに身振り手振りが大きくなっていく。
「なん……なんで今回こんな……刺さった……?」
「ね……これまでも魅力的な役いっぱい見たのに」
「やっぱ絡んでくれるとさぁ、実在感あんじゃん……え、いる、みたいな」
「あとやっぱ全員恋してたじゃん……そんな目がさぁ、私たちを映すじゃん……」
「それ……それ……」
「好きになる……駄目だ……もう……駄目だこれ……」
感情で胸がいっぱいになっているのか、全員息も絶え絶えだ。
誰からともなく手元の酒を摑み、それを流し込む。もはや定かではない呼吸を通すためだった。
そこかしこから、言葉にならない呻き声が漏れる。
「……誰が好き?」
ぽつり、と長女である彼女が零した問いに、全員弾かれたように顔を上げる。
そう、それが話したかった。そして、それが聞きたかったのだ。
勿論、劇のクオリティは非常に高かった。各個人の技量が非常に優れているのは当然で、脚本も緩急があってどんどん惹き込まれてしまう。
作り上げられた舞台は完璧に物語の世界観を再現し、まるでシャンデリアの光一つ一つまで計算されているかのようだった。衣装も、食器も、すべてがその世界のためにあった。
その中央で、始まりから終わりまで歌い続ける人魚姫の美しさたるや。
何度も感嘆の息を吐いた。歌声のあまりの美しさに感極まって涙しそうになった。
だが今は、たとえ俗っぽいと言われようが、力いっぱいお気に入りの役の話をしたかった。
「私ルーヴェンデタ」
「だと思った」
「隠れクズって感じだもんね」
「クズじゃない!」
口火を切ったのは、もれなくダメ男に引っかかる実績を持つ長女だった。
劇中では甘える態度が多かったが、それによって、自分に都合がいい展開へ誘導しようとする節があった。それを決定づけるような、はっきりとした描写はなかったが。
だが姉妹たちは確信する。
目の前の長女のダメ男に惹かれる才能は本物だ。間違いない。
「彼はねぇ、椅子とかテーブルとかによく触るのがいいよね」
「そう、直接触ってこないくせに甘えてきてんだなって分かんの」
「声もいいよね。低くて甘ったるい声」
「分かる。完全に甘やかしてくれる側の声なのに甘えてくんの何なの?」
「
姉妹はしみじみと頷き合う。
「話してる時とか、『何々しちゃった?』って言い方するじゃん」
「それ」
「なんか私それ以降なんか隙あらば目で追ってた……」
「そう、刺さった役のことずっと追っちゃうの」
「隅っこのほうに立ってる時とかでも異様に凝視しちゃうよね」
「ルーヴェンデタは駄目。あいつは目が合うと目が合ったよって向こうが気づいてるようなリアクションするもん。そうやって愛想振りまいとけば何でもかんでも言うこと聞いてもらえるって思ってるよ絶対。だから駄目」
長女の情緒が壊れてきた。
隣に座る三女が、しっかりしろとばかりに腕を摑んで揺らす。
それを見るでもなしに、口を開いたのは次女だった。
「私は断トツでユユ様」
「美人だったよねぇ」
「擦れ違った時すっごいいい匂いしなかった?」
「した。香水教えてほしい」
「あの顔と体になりたい」
姉妹たちは、蠱惑的な表情と抜群のプロポーションを思い出す。
「なんか圧倒的な魅力を目の当たりにするとさ、異性より同性のほうがテンパらない?」
「分かる。男には『キャー』とか言えるけど、女には言えないもん」
「え、失礼かな、どうしよう、ってなるよね」
「こっちの言葉に笑ってくれるともうそれだけで満足」
「そう、笑ってほしい。そのためなら道化にだってなれる」
「同性の私たちがこんだけ魅了されるんだから男は何? どうなるの? 死ぬ?」
「あらゆる〝いい女〟を集めて固めるとユユ様になる」
歩みはゆったりと、姿勢は決して緩まない。
唇は常に薄っすら弧を描き、笑った時にちらりと見える白い歯に視線が囚われる。
少し下がった目尻と、そっと添えられた泣き黒子からは、品のある色香が立ち上っていた。
「話し方もすっごく落ち着いて魅力的なのに、声はちょっと可愛めなの本当ズルい」
「こっちの返事を待ってくれてる時のさぁ、あの慈愛の顔見た?」
「見たぁ~~あ~~ユユ様幸せになって~~」
次女の情緒も壊れてきた。
四女が少なくなってきていた酒を注ぎ足してやる。
「私はほんっと全員愛したんだけど」
長女がなんとか持ち直してツマミをつつき出したからか、三女が続く。
「一人しか選べないならヅェッド」
「お、ワンコ系」
「席にいるとニッコニコなのに、他の役と目が合うと態度悪くなんのいいよね」
「それがどっちも嘘じゃないとこが最高。私と話すの楽しいんだな~って思っちゃう」
「子供相手だと特に楽しそうなのがいいよねぇ」
「見た? 子供にバイバイってされて両手でバイバイ返してたの」
「可愛すぎる」
「それで役の中で一番体格いいっていうのが本気で可愛すぎる」
もっとも背が高く、綺麗に筋肉がついている青年だった。
だが観客には一切威圧的な様子を見せずに、長身の背を屈めながら気さくに声をかけていた。
だが時折、人魚姫を見つめては足を止める。
強い恋慕と憧憬を宿した瞳。その横顔は、ただ恋に支配される男のものでしかなかった。
「あの目をッ、向けてほしいッ」
「分かるよ。あの顔が一番綺麗だもんねぇ」
「私だけにッ、向けてほしいッ」
「でも人魚姫が相手だからこその表情なんだよね」
「分かってるんだよぉ~~私もくっついてほしいんだよ~~でもさぁ~~」
三女の情緒は割と壊れっぱなしだ。
彼女はマイ酒樽からざぶざぶと酒を注いでは飲み干していく。
あまりに酷い飲み方をしていれば止めるが、そうでないなら放っておくのが常だった。
マイ酒樽から分かるとおり
「私はもちろん団長ちゃん」
「ユーロイ?」
「うん」
四女の言葉に、末っ子は首を傾げる。
「人魚姫じゃなくて?」
「あの子は私がなんらかの感情を向けることさえ
開ききった瞳孔にやや狂気を感じた。
姉妹は揃って聞かなかったことにする。もう長いこと共に暮らしてきた姉妹なのだが、今頃になって彼女の持つ闇を目の当たりにするとは思わなかった。
「団長ちゃんの男役って本っっ当刺さるんだよね」
「いろんな役やってるけど全部?」
「大人も子供も明るい子も暗い子も見たことあるよね」
「ほんと全部刺さる。少年姿が一番だけどなんか条件反射で刺さる」
「そこまで来るともう顔じゃん」
「でも確かに団長ちゃんの男役って絶妙だよねぇ」
「ここが魅力だよっていうの欠かさず突っ込んでくるっていうか」
「毎回そこに引っかかるのなんで……自分でもどうにかしたいけど……毎回こんな情緒狂ってんのほんと無理……でもこんなんどうにかなるもんでもない……助けて……」
ついには助けを求め始めた彼女は、もしかしなくとも今までの全公演でこうなっていた。
あらゆる団長の男役を食らう度、好きだ好きだとしばらく引き摺った。
それがなんと今回、待望の少年役で、しかも間近で目を合わせることになったのだ。
ちなみに会話はできなかった。自分でも何を言うか分からなかったので、力の限り両手で口を塞いでいたのだ。
「褒められて然るべきだと思う!」
「え、何が?」
「公演中に拝まなかったことを褒められて然るべきだと思う!」
「拝んでたら多分あとで団長ちゃんに怒られてたよ」
「団長ちゃんに頼んでユーロイに会わせてもらえば?」
「ダメ。ユーロイの世界に私がいることが解釈違い。耐えられない」
「舞台の上にいる手の届かない役に、ひたすら情緒を狂わされてきた弊害が出てる……」
「会える、会え……会えるっていうのが違くない? ユーロイは普通にいて、あの世界で生きてて、私はそれを眺められるだけで良くて、でもあの時は私の隣にいて……?」
ついに四女の情緒も壊れた。
酒を片手に窓辺で星を眺め始めた彼女に、姉妹たちは理解できなくもないと頷く。
姉妹たちとて今日、あのレストランで出会った彼らにこそ、これほど心乱されているのだ。
「あんたは?」
「私?」
そして最後に、末っ子が話を振られた。
彼女は思案するように目を閉じる。瞼に移るのは、人魚姫の美しいマーメイドドレス、そこに縫い付けられた鱗のような宝石と、幾重にも重ねられたレースの
他の役柄では、ルーヴェンデタの輝かしいカフス、ユユの艶やかな布地のドレスに、ヅェッドの軽やかに踊る服の裾。我ながら欲に正直だ、と彼女は思った。
劇の内容はもちろん覚えている。
演者の演技も、印象に残った台詞も、それを目の当たりにした時に抱いた感動も、全て。
姉たちの言葉に同意を示したのも決して嘘ではなく、本当に魅力的だと思ったからだ。
だがしかし、もっとも強烈に彼女の心を動かしたのは衣装のデザインだった。
「皆、素敵だったからなぁ」
「一人にしなさい、一人に」
「一途な女になりなさい」
この話の流れで、まさか「役というより服!」などとは言えるはずもない。
末っ子である彼女はもう一度考え、ふと瞼に残る意匠とは別に、耳に残る旋律があることに気がついた。
ならば、そういうことなのだろう。
「人魚姫、ずっと綺麗だったよね」
四女が席に戻ってきた。
「凄いよねぇ、本当に最初から最後までノンストップで歌いっぱなし」
「遊ぶみたいにハミングとか入れたりしてね」
「途中から聴き慣れて、聴き流せるようになるんだよね。歌いっぱなしだから。それでもふと見てみると、改めてめちゃくちゃ綺麗な存在感と声だなぁって毎回思ってた」
「私も」
「なんていうか、一人だけ違うところにいるよね」
「見てるものが違うのかも。ユーロイの言葉を信じるなら、ずっと海を見てるとか」
海を愛し、海に愛された人魚姫。
いつだって海に抱かれている彼女は、もう何かを見る必要などないのかもしれない。
最愛の相手と、ずっと一緒に。大好きな歌で、海へと愛を囁いていられるなら幸せか。
ならば、あのレストランで見た彼女は、本当に皆が焦がれた人魚姫だったのだろうか。
もしかしたら、彼女に恋い焦がれた者たちによるただの幻想なのかもしれない。そうだとしたら、なんとも悲しくて愛しい、そんな時間を彼らと共に過ごしたのだろう。
「昼に見るとまた違うのかな」
「私たちは夜だからシャンデリアと、あと月明かりぐらいだったし」
「シャンデリアも水中にいるみたいな光が反射して綺麗だったけどね」
「えー、もう一回行きたい。昼行きたい」
「公演っていつまで?」
「いつもどおりなら暫くは大丈夫だと思うけど」
「チケット残ってるかなぁ、レストランがあった宿に聞けばいいんだっけ」
「日付が後のほうならまだ残ってるかも」
姉妹たちは早速、いつ二度目の劇を観に行けるのかを話し合う。
全員で休みをとって行くにも、代わる代わる行くにも、どちらにせよ両親への相談が必要だ。親子とはいえ仕事の立場的には上司と部下、彼女たちもそのあたりの線引きはなるべく心がけている。
何はともあれ、観劇チケットを手に入れない限りは机上の空論なのだが。
「私明日朝一で行ってくる」
「よろしく。ギルドのほうは任せて」
「何日分でもいいから買えるだけ買ってきて。お金ある?」
「あー……る、うん、ある。とりま纏めて払っとくね」
「なんか引き継ぎは?」
「ない。あ、でも今日、明日朝一で来るから私に依頼の手続きしてほしいみたいなこと言われた。いないっつっといて」
「了解」
受付姉妹は
そしてこの翌日。彼女たちは各々が完璧に仕事をこなし、無事に水中レストランのランチタイム公演チケットを手に入れたのだった。
ちなみに公演チケットは七枚手に入れている。
折角ならば姉妹揃って楽しみたい。なにせ日付を分けると、見終わった直後のテンションで興奮を分かち合うことができないからだ。
全員観終わるまで我慢、というのは耐えがたい。
やはり当日の衝動は当日に発散するのが一番楽しい。そのための秘策で七枚だ。
「母さんファンタズムのチケットとれたよ、一緒行こ!」
「えー、行く行く、すっごい楽しみ」
「七枚とれたからさ、父さんも一緒に行けるんだけど、昼公演なんだよね」
「日付近いんだけど、ギルド休みにできる? 父さんの分もあるんだけど」
そう姉妹揃って休むのは、たとえ両親が許そうが申し訳なさが残る。
何故なら、娘たちがいなかろうが両親はギルドを開けるだろうからだ。
受付業務は父親も母親もできる。ならば問題ないだろうと、二人はそう判断するはずだ。
なにせベテラン二人。たまにはこういう夫婦共同作業もいいな……なんて、照れ臭そうに言いながらバシバシ仕事を捌くに違いない。それを目撃した冒険者は何を思うのか。
とにかく観劇に挑む時には、
だからこそ、姉妹たちは家族全員分のチケットを手に入れたのだ。
「できるんじゃない?」
「ほんと!?」
まずは、観劇に興味のありそうな母親を味方につける。
「娘が一緒に出掛けようって誘ってくれてるんだから大喜びでついてくるわよ。お母さんも観たいし。お父さんに伝えておくから、ギルド休みの貼り紙作っておきなさい」
「はぁーい、やった」
すると父親も自動的についてくる。
これで全て解決だ。夕食時には、にやけ顔を堪えた父親が「仕方ないな」なんて言いながら、ギルド休みを宣言してくれるに違いない。
受付姉妹たちは受付カウンターの中で視線を交わし、作戦成功を確信して力強く頷く。
その光景を、早朝でギルドに集う冒険者たちはがっつりと見ていた。
「ギルドに休みなんてあんのか……」
「サルスでは時ったまある」
去っていく母親の背中を見ながら、彼らはなんとも言えない顔でそう零すのだった。