191

それは雲一つない夜空が拝める日。

ランプの明かりに照らされた宿の部屋で、ふとジルが告げた。

「明日ボス行く」

「行きゃいいじゃん」

カードゲームに興じていたイレヴンが、何を今更とばかりに返す。

なにせジルが迷宮のボスに挑むのは日常茶飯事さはんじ。迷宮攻略に挑みたい気分ではないが、がっつり体を動かしたい気分の時など、踏破済みの迷宮に潜ってはボスとだけ戦って帰ってきたりする。

あまりにも気楽にボスに挑む姿を、いまだにイレヴンは頭がおかしいと思っていた。

気分が乗れば自らも度々それに便乗したりするのだが、それはそれとして棚に上げつつ、ジルのことは軽率に人外だ人外だとはやし立てるのがイレヴンだ。

そんな彼の返答に、ジルの眉間の皺が深まる。

「もしかして、巨獣の迷宮ですか?」

そんなジルをちらりと見ながら、リゼルは可笑しそうにそう問いかけた。

その手元はテーブルに並べられた裏返しのカードを二枚、選んでいる。同じ数字だった。

今日のゲームは同じ数字を二枚揃えるコンセントレーションだ。暇を持て余したイレヴンに誘われてのゲームで、特に何かを賭けたりはしていない。

その理由は、リゼルの隣で真剣な顔をしてカードを凝視しているクァトだった。

「二、七、三、十一……」

クァトは覚えている限りのカードを、左上から順番に呟き続けている。

彼にはもはやリゼルたちの声など届いていないだろう。思考を少しでも余所にやったら忘れてしまうと言わんばかりだ。

初めてのカードゲームだというので、分かりやすいゲームにしたのだが苦戦している。

「ジル、少しずつ攻略してましたよね」

「ああ」

「ガチで? あそこソロで行ってんの? 頭おかしくなってねぇ?」

「だから地道に進めたんだろうが」

「ニィサン地道に攻略なんてできんの?」

酷い言い草だが、ジルにしても心当たりがあるので言い返さない。

ジルの迷宮踏破方法は、とにかく勢いをつけて一気に押し進むというもの。何も考えていない力押しとはやや違い、その迷宮の特性を体に叩き込み、その感覚を失わないよう連続して挑み続けることを徹底している。

魔物一匹とってみても、最適化した立ち回りを維持できることが強みとなるのだ。

特に深層ではそれが強いアドバンテージとなり、魔物に囲まれようが即座に慣れた相手から対処できたり、何らかのイレギュラーにも即座に気づいて集中できるようになったりする。

逆に一度迷宮を離れると、次に潜る時、感覚を取り戻すところから始めなければならない。

経験則による勘というものに重きを置くジルは、その時のもどかしさが好きではないのだ。

好きではないだけで、やれないことはないのだが。

「あそこはジルの〝一気に攻略〟とは相性が悪そうです」

「こいつにこう言われたんだよ」

「あー、そういう」

「本当は、完全な対抗策を用意したかったんですけど……」

「そこまで求めてねぇよ」

「迷宮だし」

「やっぱり迷宮案件なんでしょうか」

リゼルは立て続けに三組のカードのペアを揃え、順番をクァトに回す。

「二、七、三、十一、五、二……二……二……?」

揃えられるはずのカードを見失ったクァトが、多分このへんだったと手をうろつかせる。

「ちょっとっつならダルくなんねぇ?」

「初っ端よかマシ、疲れるは疲れる」

「本当ですか? なら滞在時間じゃなくて、深く潜るにつれっていう感じでしょうか」

クァトは一枚も揃えることができずに肩を落とす。手番はイレヴンへ。

大して見もせずにワンペア揃えるイレヴンに、クァトからは胡乱の目が飛んでいた。

彼はまだイカサマという存在を知らないので、何故そんなことができるのかという純粋な疑いの眼差しだ。同じくペアを揃えるリゼルには向けられないので、このあたりに日頃の行いの差が出ている。

「じゃあボスが原因とか?」

「流石にそれは……」

ううん、とリゼルは思案する。

あり得ないとは言わないが、すんなりと肯定するには違和感があった。

迷宮ならば仕方ない。そういうものだ、のひと言で納得できる。冒険者としては馴染みの考えだが、それは無秩序とはまったく違う、迷宮には迷宮なりのルールとこだわりがあるということでもある。

迷宮は破壊できない。壁に矢印など描けない。これらは冒険者への制限的なルールだ。

同時に、奥に行くにつれ攻略難度が上がる。ボスは必ず最深層にいる。こういった普遍ふへん的なルールも存在する。考えようによっては、冒険者側にとって有難いルールだろう。

そんな迷宮が果たして、魔物一匹が迷宮全土に影響を及ぼすような真似を許すだろうか。

「よっぽど、こう……迷宮とボスが密接に絡み合ってるとか……」

「迷宮とボスが密接に絡み合ってるって何?」

「遠隔で錯乱食らってねぇだろうな」

悩みつつカードをひっくり返したリゼルの手札が二枚、増える。

同時に、まったくもって理解できない発言にジルとイレヴンは思わず突っ込まずにはいられなかった。あまりにも分からなすぎて、単語ごとの意味しか理解できない発言だった。

迷宮に慣れ親しんだ冒険者でさえこうなのだ。過去に迷宮について解明しようとした研究者など発狂必至だっただろう。

だからこそ今、迷宮について研究しようなどという研究者が存在しないのかもしれない。

「ジル、明日一緒に行っていいですか?」

「好きにしろ」

「じゃあ俺もいこー」

件の迷宮の疲労感は、ボスが原因かそうでないのか。

気になったリゼルが同行を申し出れば、あっさりとした了承が返ってきた。

ジルも最初から、興味がありそうだと思ったからこそ迷宮へ向かう旨を口にしたのだろう。

「クァトはどうですか?」

「行かない。二、七、三、一、五……」

どうにもクァトは、ボスとだけ戦うといった挑み方があまり好きではないようだ。

一から全てとまでは言わないが、ボスだけというのは味気ないらしい。冒険者生活を楽しんでいるようで何よりだと、リゼルはペアを揃えられずに嘆くクァトを微笑ましげに眺める。

ちなみにゲームはリゼルが勝ち、次点はイレヴンだった。

そして二人に枚数で大きな差をつけられ、クァトが最下位となる。


翌日、リゼルたちはギルドに寄らず、まっすぐに迷宮へと向かった。

馬車に乗り、辿り着いた〝聖なる巨獣たちの国〟。リゼルは心躍らせて扉を潜る。

「そういえば、どうしてボスが近いって分かったんですか?」

「見りゃ分かる」

「ボスもでかかったとか?」

やや遠くを歩く巨獣を眺め、足元に横たわる薄い石板の上に乗った。

石板には転移魔法陣が描かれている。他は石柱に刻まれていたが、最初だけは違った。

「でかそうではあったな」

やや曖昧な物言いに、リゼルが疑問を抱いたと同時に魔法陣が発動した。

足元から光が立ち上る。視界を覆う白い光に、なかなか慣れないなとリゼルは目を薄めた。

だが、それも一瞬のみ。すぐに視界は色を取り戻し、移動先の光景を目の当たりにする。

「これは……」

リゼルたちは、小高い丘の上にある石柱にいた。

三人にとっては丘だったが、巨獣にしてみれば坂でもないのかもしれない。それでも頂点に立てば、十分に周囲を見回すことができた。

リゼルは思わず、感嘆の息を吐く。

「凄い」

──燐光を纏う蒼い草原。

その只中にいるのは、以前と変わりがなかった。それらの野草が己の背丈より高いのも。

──雲に覆われながらも酷く明るい空。

やけに遠く、高く見えるのも変わりがない。一面に広がる雲が少しも流れはしないのも。

「何あれ、木?」

「だろうな」

ただ、目の前に巨大な樹があった。

あまりにも巨大すぎて、世界を断絶する壁のようにも見えた。

「あれは……ウィステリア?」

見上げた先、まるで雲のような高さで、伸びた枝葉を隙間なく薄紫が埋めている。

おびただしい数のウィステリアだ。その花が、浸食するかのように空を薄紫に染め上げていた。

それでも天上からの光は明るく、ただ明るく、花々をすり抜けるように降り注いでいる。

「で、あそこにボスがいんのね」

「いかにもだろ」

その巨大樹の前に、祭壇のようなものがあった。

ただ薄い石材が隙間なく並べられただけのそれは、この迷宮で初めて見る人工物だった。

樹と比べるとあまりにも小さい。だがリゼルたちから見れば、村一つ二つほどの広さはある。

「行きましょうか」

「ああ」

「はァい」

リゼルたちは、以前と同じように細い細い獣道を進み始めた。

だが不思議なことに、この獣道を作ったであろう魔物たちの姿がない。その代わりかは分からないが、周囲には巨獣たちの姿をよく見られた。

「でかいヤツ増えてきた?」

「樹に近づくごとに増えてる気がしますね」

「こっち狙ってはいねぇな」

近くに、遠くに、淡い白光を集めたような巨獣が佇み、歩く。

巨大樹の樹皮や花でも餌にしているのだろうか。それとも本来はここら一帯が縄張りなのか。

そんなことを話しながら歩くこと、およそ一時間ほど。

「お、こっから床ある」

先を歩くイレヴンが、ひょいっと軽い動きで石床に飛び乗った。

遠くから見れば段差などないほど薄く見えたのに、目の前にしてみると胸ほどの高さがある。

リゼルはイレヴンの手を借り、なんとか膝をつかずに石床へと上ることができた。

「腰ぐらいの高さならなんとか上れるようになったんですけど」

「十分十分」

リゼルも日々成長中だ。

ケラケラと笑うイレヴンの後ろで、ジルも軽々と石床へと上ってきた。

「やーっと歩きやすそう」

「これ、なんの石でしょうか。古びた感じはあるんですけど」

視線の高さが周囲の野草より高くなり、一気に視界が広がったようだった。

一面の蒼い草原、揺蕩たゆたう燐光、果てには天に伸びる石柱。遠景はややかすみがかっている。

ならば巨大樹はとリゼルが振り返ろうとした時だ。

「止まってろ」

「はい」

何が、と問うより先に従った。

すぐにリゼルも気づく。草原に佇む巨獣たちが、歩みを止めてこちらを見ていた。

いや、彼らに目はない。眼球があるべく部分からは、一対の枝葉が角のように伸びている。

だがその顔は、確かにこちらを向いていた。

「やばい?」

「いや……」

小声で呟いたイレヴンに、ジルが眉間の皺を深めながら返す。

怪訝な声だった。何故なら巨獣たちからは敵意を感じない。ただ、こちらを見ていた。

こちらのほうを、見ていた。

「彼らは……」

リゼルは今度こそ巨大樹を振り返る。

視界を埋め尽くす樹皮。触れるまでにはまだ少し歩く必要があるだろう。

だがそこに、何かを見つけた。樹の高さを思えば酷く低い位置に、何かが貼りついている。

いや、違う。

「……人?」

リゼルは目を凝らした。

誰かが項垂うなだれているように見えた。腰より下を巨大樹に埋め、上体だけを表に出している。

その体は巨獣たちと同じく、白く淡い光が集まったかのようだった。酷くせて見えるが、それは恐らく腕が異様に長く、手首から先の手が歪に大きいからだ。

四本の腕、けれど二対ではない。左に三本と、右に一本。力を失ってだらりとぶら下がっている。

項垂れていて顔は見えない。だが巨獣にも似た、巨獣よりも立派な枝葉が一対、頭のあたりから伸びていた。

──巨獣たちは、それを見ている。

なんとなくそう考えて、それに確信があったものだから、リゼルは小さく頭を振った。

「リーダー?」

「大丈夫です」

心配そうなイレヴンの声に、リゼルは努めて平静に微笑んでみせる。

ただ沸き起こる自らの感傷か、それとも外部からの干渉か。区別がつかないのが厄介だった。

「来るぞ」

「様子見しましょう」

巨獣たちが一斉に近づいてくる。

彼らの蹄が地面に触れる度、ど、ど、と靴の裏から振動が響いてくる。

巨獣たちは走らない。ただ静かに歩を進め、石床へと足を踏み入れてくる。

リゼルたちもまた流れに逆らわず、巨大樹へと歩み寄った。後ろから悠然と通りすぎていく巨獣たちで、視界が徐々に埋めつくされていく。

三人は踏みつぶされないようにとだけ気をつけて、ひとかたまりになって進んでいた。

「なんかさァ……」

イレヴンがそれだけを呟き、口を噤む。

その顔が盛大に嫌そうに歪んでいるのは、気味の悪さからか、それとも敢えて感情を露わにして呑まれまいとしているのか。

少なくとも、以前のように思考を侵されているということはなさそうだった。

特にイレヴンは身をもって経験した身だ。本能の強い獣人というのもあり、二度と呑まれまいという警戒が無意識に働くのかもしれない。

逆に言えば、本能の強い獣人だからこそ以前は食らったという考えもできるのだが。

「大丈夫ですか?」

「だいじょぶ。ニィサンさァ、マジでソロでこんなとこ来てんの?」

「ここまでじゃねぇよ、今日まではな」

「これ、なかなか厄介ですね」

淡い白光に視界を埋め尽くされそうになりながら、リゼルは一度だけ瞬いた。

直後、強い風が三人を通りすぎる。まるで目を覚まさせるかのような、冷たく鋭い風だった。

「あー、いい、これ最高」

「考えてみりゃ暑いも寒いもねぇ場所だよな」

「停滞した環境だと思考も鈍って、影響されやすくなるそうです。だから」

リゼルは落ちた髪を耳にかけつつ、堂々と告げる。

「気合を入れましょう」

「気合!?

「根性論じゃねぇか」

「お爺さまが言ってました。かかってきやがれっていう気概でいればいいらしいです」

「何がいいんだよ」

「かかり方が違うみたいですよ。こういう、よく分からない精神攻撃でも」

「胡散臭ァ」

ジルが呆れたように溜め息をつき、イレヴンが常の人を食ったような笑みを浮かべる。

老紳士のアドバイスの真偽はともかく、二人もいつものペースを取り戻してきたようだ。

よしよしとリゼルは内心で頷き、真っすぐに正面を見据えた。

巨大樹まではあと少しだ。巨獣たちの歩みはすでに止まり、ただ巨大樹を見つめている。

「もうすぐですね」

リゼルたちは、巨獣の群れの先頭に並んだ。巨獣たちに倣い、そこで足を止める。

そして三人は、残り十数メートルにまで迫った巨木を見上げた。

「あれヒト?」

「魔物だろ」

「そうだけどさァ」

巨大樹に埋まる人型の何かが、細部まではっきりと見える。

それは巨大であった。恐らく巨獣と並んで立つと、釣り合いがとれるほどの大きさだ。

だが、立つよりも低い位置に埋まっているため分かりにくい。ぴくりとも動かずにぶら下がる四本腕も、指先が地面について曲がってしまっている。

その指も四本であったり六本であったりと、手によって本数が異なっていた。

顔はよく分からない。何故なら、金属のような質感の仮面で隙間なく覆われているからだ。

固定する金具は一切ない、だがうつむいた顔面から落ちる気配もない。まるで皮膚の代わりに仮面があるのかと疑ってしまうほどに、それはあるべき場所に収まっているような感覚があった。

くすんだ黄金にも似た仮面、その表面には太陽のような装飾が施されている。

そして、その目の位置にある穴からは一対の枝が伸びていた。もはや幹とも呼んでしまえるほどの、巨獣たちよりも大きく膨れ上がった枝葉だった。

「ぉわ」

「今度はなんだよ……」

リゼルたちの周りで巨獣が動く。

彼らは皆一様に、ゆっくりと頭を下ろす。巨大樹に埋まる何かに対して、首を垂れていた。

「巨大樹信仰、とかでしょうか」

「つっても獣だろ」

「強ぇボスに従うーとかのがあり得そう」

「いえ、それにしては」

彼らの眼窩から伸びる枝葉、それらが纏う蒼い燐光が、何かに吸い寄せられていく。

ウィステリアの薄紫の空の下、頭上を流れていく燐光が、真昼に見る星のようだった。

それらを見上げながらリゼルは思う。それにしては、服従の礼にしては、絶対的に違うのだ。

確かに頭は垂れている。捧げようという意図は感じる。

だが、それと同時に──。

「まるで、欲しているような」

巨獣が何匹か、歩を進めた。

たった数歩、それだけで彼らは巨大樹に届く。そこに埋まる何かに届く距離になる。

何かから伸びる枝葉は、今や多くの巨獣から捧げられた燐光により、強く煌めいていた。

項垂れた頭から伸びる枝葉は、その生え方から、巨獣に差し出されているようにも見えた。

あ、と零したリゼルの声は、音にならない。

「───────────ッッッ!」

何かの叫び声がした。

煌めく枝葉を巨獣にまれ、細枝ごと引きちぎられ、四本の腕が無秩序に暴れ回っていた。

だがリゼルはそれを見なかった。ジルの腕に囲われ、頭が割れそうなほどの悲鳴を聞き、強く肩を握り締められる手の感触に集中することで、その音を意識から切り離すことに努めた。

イレヴンは大丈夫だろうかと、彼がいたはずの方向に手を伸ばす。

何かに触れた。恐らく装備の布地だろう。上手く力の調整が効かない手で、柔く布をつまんで引っ張る。

その手が振り払われた。その手に縋りつかれた。

その手が、きつく噛みつかれた。

「、」

痛みにリゼルの意識ももう一段、はっきりとしたものになる。

見えないが、伝わってくる。指に食い込むイレヴンの歯は震えていた。耐えている。

ジルも大丈夫だ。駄目になれば、彼はきっと突き放すだろう。

「────ッッ! ────ッッ!」

悲鳴が断続的なものに変わっていく。

リゼルの頭の中で、金切り音のようなそれが何故か、安寧をもたらす子守唄と重なった。

心地よくなってしまったら、きっと、戻っては来られないのだろう。

「────……」

やがて、耳に痛いほどの静寂が落ちる。

「ジル」

囲む腕がなかなか解かれず、呼びかける。返答はない。

リゼルは空いた手を回し、ぽんぽんと背中を叩いて、もう一度だけ呼びかけた。

「ジル」

「……悪ぃ」

「いえ、全く。有難うございました」

深く長く、息を吐く音が頭のほうから聞こえてきた。

緩んだ腕に笑みを浮かべ、リゼルは丁寧にジルへと庇ってくれた礼を告げる。

そしていまだ拘束されている手に向き直る。縦長の瞳孔がじっとリゼルを見つめていた。

「イレヴン、平気ですよ」

噛みつかれているリゼルの手、その奥、イレヴンの喉からシリリリリと鳴る音がある。

リゼルの手に食い込む牙は、装備である手袋がなければ皮膚を突き破っていただろう。だがリゼルは、手袋があるからこの力加減なのだと知っていた。

「おい」

「大丈夫」

離せと苦言を口にしようとしたジルに、リゼルはなんてことないかのように微笑む。

どうやらイレヴンは、随分と気がたかぶっているようだ。自我を失ってもいなければ、錯乱に呑み込まれている訳でもない。もっとも表面に現れているのが、警戒心だというだけなのだろう。

ただただ、守るために離すまいとしている。

「イレヴン、もう大丈夫です」

喉の音が、徐々に小さくなっていく。

「守ってくれて、有難うございます」

「……おぇ」

イレヴンの口がリゼルの手から離れた。

えずいている背をよしよしと撫でてやる。実際に吐き気がある、という訳でもなさそうだ。

「手袋、不味かったですか?」

「手袋とかじゃなくて、なんか頭ぐらっぐらすんのに全力で耐えてた……」

「そっちに集中してたんですね」

「……リーダー手ぇだいじょぶ?」

「勿論です。ジルから貰った素材の手袋ですよ」

リゼルが誇らしげに言えば、その後ろでジルが呆れたように視線を投げる。

そうして会話していれば、調子を取り戻してきたのだろう。イレヴンが丸めていた背筋を伸ばし、切り替えるように周囲を見回した。

「でかいヤツらいなくなってんじゃん」

「食い終わったらどっか行った」

ん、とジルが視線で巨大樹のほうを指す。

巨大樹に埋もれた何かは、もはや暴れてなどいなかった。食い荒らされ、枝が剥き出しになり、ただ幾本の蔓がぶら下げるだけのそれを持ち上げ、背を反るように上体を起こしている。

その佇まいは、ただ荘厳だった。

枝葉が燐光を集めていた時よりも、巨獣に首を下げられていた時よりも、よほど威圧感に満ちているように見えた。

くすんだ黄金の仮面が、正面からリゼルたちを見下ろしている。

「ようやくボスと戦えますね」

それは献身を終え、ようやく解き放たれたのだ。


巨大樹の根元に、立てかけるように転がっていた黄金のチャクラムが四つ。

いばらを編んだかのような形であり、仮面と同じようにくすんだ黄金色をしている。巨大なボスが手にしていると小さく見えるが、リゼルたちが両手を広げたぐらいの大きさはあった。

ボスは四本の腕でそれを操り、絶えず猛攻を仕掛けてくる。

「これ、マジで、無理……ッ」

「いいから早くぶっ壊せ」

「ニィサンがぶった斬っても壊れねぇモンどう壊せっつうんだよ!」

チャクラム本来の使い方でもある投擲とうてきなど可愛いほうだ。

なにせチャクラム自体が浮いたかと思えば、輪の中心から白い光が放たれる。それが縦横無尽に飛び回り、非常に多角的な攻撃に襲われる。

ボスを狙った魔法など輪に吸い込まれ、そっくりそのまま帰ってくる始末だ。

お陰で三人はまったくボスに近づけず、チャクラムの猛攻を避けるために動き続ける羽目になる。

「は、っ」

リゼルもまた、乱れた呼吸を整えていた。

ジルやイレヴンほど駆け回らずに済んでいるのが幸いだ。魔力防壁で何とかなる。

チャクラムから放たれる光線は、一本ならばまったく影響はない。ただ眩しいだけだ。

二本揃ってようやく攻撃として成立し、あとは三本、四本と揃うごとに破壊力が増す。

リゼルの魔力防壁は二本ならば耐えた。また、気合を入れれば三本まで行けた。

よってリゼルは四つのチャクラム全てが向けられた時のみ、回避行動を行えばいい。ジルたちにも防壁はつけているが、魔力量の関係で壊れて張って壊れて張っては辛いので、なるべく避けてもらうようお願いしている。

それでも時折割れるので、その都度張り直してはいるのだが。

「おい、投擲」

ジルの掛け声に、リゼルは魔銃を従えながらもサイドに避ける。

チャクラム本体の直接攻撃は、流石にリゼルの防壁では受け止めきれなかった。

「(近寄れさえすれば、なんとかなりそうなんだけど)」

内心でリゼルは呟く。

チャクラムは四つ、リゼルの魔銃は一つ。最初こそ幾丁かの銃を出し、チャクラムをかわして射抜こうとしたが、相手の体躯もあって決定打とはならなかった。

特に仮面の周りは守りが硬く、チャクラムと四本の腕で守られると手が出ない。

眼前で爆発を起こし、視界を奪うことぐらいはできるかもしれないが、そもそも眼球のない相手に有効なのかは分からなかった。

「(弱点らしい弱点がないのは、いつもどおりのボスだけど)」

巨獣に捧げられ、己を捧げた存在。

四本の腕に、数も長さも歪な指。ヒトでないものが、ヒトを真似て作ったかのようだった。

だが、そこに尊厳は宿ったのだ。己の身を削る献身で、巨獣たちの敬仰けいぎょうをも集めてみせた。

だからこそリゼルは思う。

超自然的な事象が神と呼ばれるこの世界で、もし神と呼ばれる人間が現れるとしたら、それはきっと目の前の存在に似ているのだろうと。

「、ふふ」

光線を防ぎながら、思わず笑みを零す。

あちらの世界で〝死神〟と呼ばれている傭兵を思い出したからだ。

避けようのない死という現象、それを戦場で分け隔てなく与える存在。戦場で彼と相対した誰かが、そこにあまりにも大きな理不尽を感じてつけた異名なのだろう。

もしかしたら、恐怖とは紙一重の畏敬なども含まれているかもしれない。

リゼルはその傭兵にそういったものを感じたことはないが、目の前の魔物には──。

「あ」

それらを抱くべきは唯一人のはずだ。

星色の髪、月色の瞳。その姿を思い浮かべて、リゼルはようやく己の異変を自覚した。

微かに、ウィステリアの香りがした気がする。

「(さっきから、これが厄介だな……)」

ボスに対して、無意識の畏怖を抱いてしまう。

恐らく実際の香りが原因ではない。避けようとして避けられるものではないのだろう。

ジルとイレヴンがその証拠だ。

二人が攻めあぐねている。まったく近寄れない。そんなこと、あり得るはずがないのだ。

何かが無意識下に働きかけることで、ボスの有利である遠距離戦に誘導されている。そう考えて間違いはないだろう。

二人の戦意は本物だ。斬るとなれば躊躇ちゅうちょしない。だからこそ、自覚のしようがない。

「(なんとか解かないと)」

これが精神汚染だとして。

周辺国に名をとどろかせる魔法学院、その研究員たちに相談しても有効策は見出せなかった。

その理由が、今ならば分かる。彼らの精神汚染へのアプローチは、冒険者が必要とするものとは決定的に違っていたのだ。

つまり冒険者たちは精神汚染にかかったとしても、治療に時間をとることもなければ、距離を置いて様子を見るようなこともしない。敵わない相手だと思えばすぐさま逃げるが、勝てると思えば多少の無理など通してしまう。

戦い続けることを最優先にする冒険者と、不調の原因を取り除くことを最優先とする研究者では、求める結論に辿り着かないのも道理であった。

「ジル、イレヴン」

「何、危ねッ、リーダー何?」

「どうした」

だからこそ、リゼルは二人を呼び寄せた。

そして手袋をとり、遠慮なく手を振りかぶる。

「あ?」

ぺしんとジルの頰を打った。ジルの動きが一瞬止まる。

そんなジルを唖然として見ることしかできないイレヴンにも、同じように手を振るった。

やはりこちらも、ぺしんと迫力のない頰が鳴る。

「痛ッ、く、ねぇけど、は? 何、ごめん、俺なんかやった?」

「いえ、何も」

リゼルなりの全力ではあったが、慣れていなさすぎて二発ともほぼ掠っていた。

よって両者共に痛くはなかっただろう。目的を思えば、痛いほうがいい気もするが。

リゼルはこれでいいのだろうかと思いつつ、やや混乱中の二人に向かって堂々と告げる。

「お婆さま流解決法です」

実戦で培われた先人の知恵は、どんな研究者の推論にも勝るのだ。

「これから反撃に出ます。いいですね」

「……」

「え、うん……あ!?

数秒の間が空いて、ジルたちも気づいたのだろう。

何故か、自分たちが魔物に近づかなかったこと。わざわざもっとも攻撃が激しくなる距離にいたこと。それで今の今までほぼ無傷で立ち回っていたのだから、他の冒険者たちからしてみれば信じられないことではあるのだろうが。

とはいえ二人には、なかなかの衝撃があったようだ。

ジルは掌で顔面を覆いながら俯き、深い溜め息をつきながらチャクラムをはじき返す。

イレヴンは謎の唸り声を上げながら横に飛び跳ね、頭上から襲いかかる光線を避ける。

動きに精彩が戻ってきたなと、リゼルは一人で満足顔だ。

「相手に張りつけば、光線は使えなくなると思うんです」

「……ああ」

「あの四本腕に要注意ですね。もし無理そうなら距離をとりましょう」

「分かったァーーあーーもーーッ」

返答はやや投げやりだったが、剣を握る手には酷く力が入っている。

間違いなく、ボスは八つ当たりの的になるだろう。先程までの認識との落差は激しいが、結局のところボスと冒険者との正しい間柄に戻っただけに過ぎないのだ。

二人はもう一つチャクラムを避け、同時に駆け出した。

見慣れた光景が戻ってきたことにリゼルは微笑み、すぐにその背を追う。

「どこ狙う?」

「首」

「りょーかい」

「腕で守られそうです」

「先に落とすか」

「ニィサン頑張って」

三人はそんなことを話しながら、ボスの懐へと潜り込むのだった。


宿に帰って、まっさきにベッドに飛び込んだのはイレヴンだった。

「ッ疲れたァーーーー!」

「疲れましたね」

「ああ」

疲れたのは勿論、イレヴンだけではない。

リゼルも眉尻を落として椅子に腰かけ、ジルも据わった目をしてベッドに腰かけている。

今日は依頼を受けておらず、〝聖なる巨獣たちの国〟のボスを倒したのみ。時間だけ見ると、最初に三人で潜った時のほうがよっぽど長居したが、それでも今日の疲労感はそれに匹敵するほどだった。

「やっぱりあの、巨大樹に何かあるんでしょうか」

「枯れたけどな」

リゼルは眠気にうとうととしながら告げる。

あのウィステリアを冠する巨大樹は、ボスの討伐と共に一斉に枯れ落ちてしまった。

降り落ちる薄紫の花弁は、花吹雪というより猛吹雪だった。よって三人はボス討伐後、その胸元が裂けて落ちてきた踏破報酬を、疲労感漂うなか必死に花弁を搔き分けて探したのだ。

なにせ踏破報酬は小ぶりな箱に入っていたので、探し出すのに苦労した。

「あまり風もない迷宮だし、香りだけじゃ……でも、樹っていうなら別のよういんでも」

「お前もう寝ろ」

口調がふにゃふにゃしてきたリゼルを、ジルはばっさりと切り捨てる。

今日のうちに考えを纏めたい、ひと段落つけて気持ちよく寝たい、そういう考えがあっての粘りなのだろうが、今日のリゼルは疲労感だけでなく魔力不足にもなりかけている。

その眠気に、どうにも抗えそうになかった。

ちなみに既にイレヴンは夢の中に旅立っている。先程からぴくりとも動かない。

「馬車じゃ気取ってたのにな」

「気どってるわけじゃ、ないんですけど」

リゼルが椅子から立ち上がり、のろのろと着替えを始める。

普段から遅い着替えが、更に遅くなってなかなか終わらない。

「あ、おじいさまとおばあさまにお礼をいわないと」

「何をだよ」

「きあいと、ビンタです」

「ああ……」

ジルは「なんだそれ」と言いかけたが呑み込んだ。

実際に大いに役立ったので何も言えない。よって酷く端的な返事になった。

「おばあさまいわく」

ようやく着替え終わったリゼルが、もそもそとベッドに潜り込んでいく。

「いがいせいが大切みたいで、ビンタじゃなくてもいいらしいんですけど……」

語尾が曖昧になり、やがて消える。

リゼルについては疲労感だけでこうはならないので、やはり魔力不足もあったのだろう。ジルはそう結論づけて、自らもさっさと寝てしまおうと動き出す。

剣の手入れだけでも済ませたかったが、明日に回すことにした。

二人分の寝息が落ちた部屋は、それに釣られでもするのか酷く眠気を誘う。いまだ外は明るい時間帯だが、酷く疲れていることは確かなので、さっさと寝てしまうことにした。

「(意外性、ね……)」

寝入りばな、なんとなしに考える。

確かに、リゼルの下手くそなビンタは意外性に富んでいた。いや、下手なこと自体は意外でもなんでもないのだが。あまりにも下手すぎて全く痛くなかった。

だがあの時、もしジルに頰を打たれるような心当たりがあれば、動揺などなかったのだ。

「(やっぱやる奴によるんだよな)」

例えばイレヴンに殴られたとして、ジルは我に返ることなく殴り返して終わっただろう。

そう考えて、ふと気づく。意外性があれば、ビンタでなくともいいとリゼルは言った。

惰性を振りきり、我に返るほどのインパクトがあればなんでもいいのだ。

「(あいつ殴られなくて良かったんじゃねぇか)」

間違いなくイレヴンは、ジルがリゼルのビンタを食らった時点で我に返っていた。

本人はあまりの衝撃に忘れているのか、それとも言い出す機会を失ったのか。どちらにしても、それがリゼルに伝わることはないのだろう。

そんなことを考えながら、ジルは眠気に逆らうことなく意識を沈めていった。