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リゼルは一人、喫茶店のテラス席でゆったりと読書していた。

つい先日潜った迷宮が、精神的にも身体的にもなかなかに負担の大きい迷宮だったからだ。

当日は宿に帰ってすぐ、三人揃ってベッドに潜りこんで熟睡した。そして翌日に起きてようやく、深い疲労の原因が体力だけでないことに気づいたのだ。

相当メンタルがやられてたな、というのはジルの談。花もどきの錯乱であったり、巨蛇の震える呼気以外にも、知覚し得ない攻撃を知らず知らずに受けていたのだろう。

海千山千の元冒険者、宿の老夫婦も似たような経験があるという。この予想も、間違ってはいまい。

「(変に迷宮で自覚しなかったのは、運がいいのかな)」

自覚がないのも危険だが、自覚して立ち往生する羽目になるのは避けたい。

ジルはあの迷宮のボスが気になっているようなので、彼が次に潜る時までに解決策が見つかればいいのだが。迷宮仕様ならば仕方ないが、もし疲労を軽減できる方法があるのなら使うに越したことはない。

そういう考えからリゼルは今、関連しそうな魔法の研究書をひたすら読み込んでいた。

「(学院の論文は殴り書きが多いな……)」

もはや本人にも読めないのでは、そんな書面を解読していく。

喫茶店を訪れる前、魔法学院にも寄っていたのだ。ひょこりと顔を出し、〝聖なる巨獣たちの国〟について軽く説明した後、こうこうこういう資料が欲しいと告げれば、学院の研究者たちはこぞって関連しそうな書物や論文を持ち寄ってくれた。

その場で「それは関係ないだろう」「こっちの理論が使える」「魔道具が有効では」など激しい議論が巻き起こり、各々の所持する資料の壮絶なプレゼンが行われたが、リゼルはおおむね平和的に気になった資料を借りることができた。

「(そもそも本当に魔力的な原因があるのかどうか……心当たりもないし)」

癖の強い字を目で追いながら、紙面をめくる。

「(迷宮の中で感じてた、威容とか異様がそうなのかも)」

だとしたら防ぎようもないが、果たして。

リゼルは一人、小さく微笑む。まるで、学院の研究者にでもなった気分だった。

「おや、楽しそうだね」

ふいに声をかけられ、リゼルは視線を上げる。

水路に張り出すテラス席、そのすぐ隣にある橋にいたのは、蜘蛛くもの杖を持つ老紳士だった。

彼は小さくハットを持ち上げ、深く皺の刻まれた目元を茶目っぽく細めてみせる。

「少し話がしたかったんだが、お邪魔だったかな」

「いえ、全く」

リゼルも笑みを返し、向かい側の椅子を勧めた。

老紳士は店に回り、店員と親しげに言葉を交わしながらテラス席へとやってくる。

「改めて、アスタルニア王家への紹介の感謝を伝えたかったんだ」

穏やかで深みのある声が、ゆっくりと告げた。

リゼルは既に、アリム宛てに紹介の手紙を送っている。正確には宿主に向けて、だが。

アスタルニア行きの手紙には数量制限があるので、宿主の封筒にまとめて同封したのだ。

両国の距離を思えば、いまだ返答を受け取れてはいないはずだが、老紳士にはアスタルニア王家との協力関係が間違いなく成立するという確信があるようだった。

リゼルもそう考えたからこそ、紹介を申し出たのだが。

「元は俺からのお礼なので、気にしないでください」

「そうは言うが、いささか私が貰いすぎてはいないかな」

「商人らしいですね」

「何にでも貸し借りを持ち出すような真似はしないが、どうにもね」

我ながら度し難い、と老紳士は軽く苦笑を浮かべてみせた。

店内を通るついでに頼んだのだろう。ほどなく彼のコーヒーが運ばれてくる。

店員に礼を告げた老紳士は、少しばかり考えるようにして口を開いた。

「お礼に指名依頼でも、と思ったんだが」

「貴方からですか?」

「そう、報酬には色をつけてね」

悪友と悪だくみをしているような声で、老紳士は悪戯っぽくささやいた。

冒険者に指名依頼を出すことが礼になるのか、それは十分になると言えるだろう。

指名依頼は報酬の自由度が高く、親しい間柄の依頼人が安く受けろと自ら依頼用紙を押しつけてくることもあれば、実際の依頼ランクよりも高いランクの冒険者に受けてほしい時などは割り増しすることもできる。

そもそも大半の冒険者にとって、指名依頼というのはなんとなく嬉しいものだ。

その認識がややズレているリゼルたちは、指名依頼であろうとり好みするが。それは一刀の知名度の高さゆえに、知らない人間から指名されることが多いというのもあるだろう。

リゼルにしてみれば知人からの指名は嬉しいし、可能なかぎり受けたいと思っていた。

勿論もちろん、ジルとイレヴンの賛同が得られればというのは大前提だが。

「どんな依頼ですか?」

「そうだね」

老紳士が、にこりと笑う。

「君たちに、運び屋になってほしいんだ」

リゼルは一度だけ目を瞬かせ、詳しい話を聞くのだった。


二日後の早朝、リゼルたちは大橋の門の手前に集まっていた。

目の前を、入国したり出国したりする人々が頻繁ひんぱんに行き交っている。

「ここ?」

「はい」

「本人が来んだろ」

「そうだと思います」

三人は依頼で、とある相手を待っていた。

その相手こそ老紳士であり、リゼルたちは彼からの指名依頼を受けてここに立っている。

リゼルは喫茶店で話を聞いた後、ひとまず返事を保留にしてパーティに相談した。ジルは特に異論なく、イレヴンはやや渋ったが嫌とまではいかなかったようで、円満に指名を受けることになり今に至る。

「ロマネの通行証ってマジ?」

「凄いですよね、所有する商人なんて滅多にいないのに」

「それ受け取って、明日隊商に渡せってんだろ」

「そんくらいあの爺がやりゃいいのに」

「できれば、そうしてるんでしょうけど」

リゼルは苦笑する。

「過去二回、通行証を持った隊商が襲われてるみたいです」

「だろうな」

ジルが当たり前のように、リゼルの言葉に同意した。

ロマネ公国は、高品質の酒造りで名を馳せる国だ。その性質上、国内に足を踏み入れられる者は酷く限られていて、国外に居を構える者が領地内の親戚家族に会うことさえ難しい。

必然、その酒を扱える商人も限られる。

かの国の信頼を勝ち得た商人たちであり、そんな彼らであっても、年一回の開放日以外は領地内に立ち入れないという。そこまで徹底しなければ、品質と価値を保つのが難しいほどの酒なのだ。

「襲われたっつっても奪われなかったんだしいいんじゃねぇの?」

「通行証を任せられるだけの優秀な人材を、そう何度も危険に晒せませんよ」

「ふぅん」

「そんなもんか」

「そんなものです」

いまいちピンと来ていない二人に、リゼルは思わず唇をほころばせる。

冒険者は基本的に成果主義かつ、自己責任の部分が多いので分かりにくくて当然だ。

「襲撃があったのは、直近の二回」

「完ッ全にルート読まれてんなァ」

「ロマネの開放日なんて隠しきれるもんでもねぇしな」

普段から商人が出入りしている国ならばともかく、ロマネは決まった一日のみ門を開ける。

盗賊などからしてみれば狙い放題だ。ロマネから出た隊商は、襲われないほうがおかしいとまで言われている。よって各隊商は、金が許すかぎり護衛をやとうし、血眼になってSランク冒険者を探したりするようだ。

「ブツ狙われんなら分かるけど通行証は何なんだよ」

深い親交のある隊商しか入れないのだから、通行証を奪ったとしても入国できるはずもない。

怪訝顔のジルに、あっさりと答えたのはイレヴンだった。

「そんなん酒よか金になるからじゃん」

「あ?」

「通行証偽造して売りさばく、元の持ち主おどして金毟る、ホンモンあんなら密造酒とかロマネ産つって高値でばらいてもいいし。やっぱニセモンとは説得力ちげぇんだよなァ」

確かに本物は説得力が違う。

リゼルは感心したように頷き、ジルは捕まれと思った。

「だからこそ、彼も往路には細心の注意を払っていたらしいんですけど」

「情報屋が情報抜かれてんのウケる」

「てめぇんとこのが動いてねぇだろうな」

「多分?」

イレヴンは曖昧あいまいな返答を寄越しながらケラケラと笑う。

たとえ精鋭のうちの誰かが動いていたとして、それはそれで最短で解決するのだから問題ないだろう。リゼルたちが依頼で動いているのを知れば、己の身の安全を優先してきっぱりと身を引くはずだ。

精鋭せいえいさんが二回も続けて失敗するとは思いませんけど」

「は、なんで?」

「引き際はしっかりしてるので。初見はともかく、二度目を見誤るのはなさそうかなと」

「あ、そっちね」

リゼルが見るかぎり、そのあたりはイレヴンの教育の賜物たまものだと予想している。

教育というよりも、引き際の分からないメンバーはすでに淘汰とうたされているというのが正しいか。今なお生き残っている元フォーキ団のメンバーを眺めているとよく分かる。

自分のルールしか大事でないので、それを侵されなければ変に意地を張ったりもしない。

簡単に捨てられるし、簡単に膝をつけるし、簡単に負けられるし、簡単に台無しにできるのだ。

「ならどっかの盗賊かなんかが来んのか」

「密売人とかかなァ、裏商店が組んだりとか」

「その誰かから通行証を守って、明日の朝にロマネ行きの隊商に渡せば依頼完了です」

つまりは。

「合法的運び屋ですね」

何故か少し誇らしげなリゼルに、ジルとイレヴンは本当に何故なのかと思った。

「隊商って護衛付き?」

「それはもう、過去最高の護衛で固めるって言ってたので」

「ニィサンついてけば?」

「入れねぇのについてってどうすんだよ」

早朝の門前は、数多の通行人で賑わっている。

のんびりと話している三人に、今から旅立つ冒険者たちが「何してんだろう」という目をしながら通り過ぎていく。

そんな光景が十何回目になる頃、悠々と現れた老紳士は一人の女性を連れていた。


話は二日前の夜まで巻き戻る。

ジルとイレヴンは宿の自室で、リゼルから老紳士の依頼について聞いていた。

ついでにクァトも聞いていた。興味深そうではあるものの、口は挟まずのんびりしている。

「絶対内通者いんじゃん」

「そうですよね」

爪にヤスリをかけながら告げたイレヴンに、リゼルも同意した。

ロマネ公国との取引、その交易ルート、まさに商会のトップシークレットに違いない。

それを知る人間など、商会内でも恐らく片手で足りるほどの人数しかいないはずだ。

「そいつ情報屋の頭なんだろ、分かんねぇのかよ」

ベッドに何本もの剣を立てかけ、入念に手入れをしているジルが怪訝そうに言う。

巨蛇との戦闘では、あらゆる武器を使っていた。駄目になったものは置いてきたが、まだ使えそうな剣をジルはしっかり回収している。空いた時間に、その手入れに精を出しているようだ。

自らの手に負えないものは鍛冶かじ屋に任せたらしいが、一体何本の剣を持っているのだろうか。

リゼルはそんなことを考えながら、昼間に顔を合わせた老紳士を思い出す。

「多分、分かってはいるんだと思います」

「なら分かった時点で処分しろよ」

「仮に内通者がいるとして、その相手がすごく優秀なら泳がせるかなと」

「あー……」

イレヴンが納得したように半笑いで頷いた。

リゼルが生まれた時からいたのは、清濁せいだく併せ吞む貴族社会だ。全員が清廉せいれん潔白というのはあり得ず、思惑を通すための腹芸など当たり前で、むしろそれができない人間は政治に向いていない。

自らの領地に、ひいては国に、最大のメリットをもたらすことを第一と考える者ばかりだ。

「国も商会も、存続させることに一番労力がかかりますからね。そこに能力を発揮できるような優秀な人材は手放しがたいですし、そのためなら多少の損失だって必要経費です」

組織が消えれば、もはや損得すら考えるどころではない。

老紳士も野放しにしている訳ではないだろうが、手綱を握ったまま泳がせる程度には好きにさせているらしい。とはいえ代わりの人材が見つかり次第、あっさりと首を挿げ替えるのだろうが。

「つっても今回は動くんだろ」

「それこそ、代わりの人材が見つかったのかも」

「ああ……」

「動いたとこ捕まえて自警団送り?」

「それが一番、部下の反感を買わないですしね」

内通者は間違いなく、長く商会に貢献こうけんしてきた重鎮なのだろう。

容易に切り捨てれば、部下の信頼を失いかねない。だが商会の格を一段も二段も上げるような取引で、ただ妨害するのみならず、同僚に襲撃犯を差し向けるような真似が露見すればどうなるか。

信頼を失い、失墜するのは内通者ただ一人だ。

「要はパフォーマンスか」

「あのクソ爺っぽい」

「受けたくないですか?」

傍に来たイレヴンに促され、リゼルは素直に手を差し出した。

自らの手入れは終わったらしいが、ついでにリゼルの爪も整えてくれるようだ。

今回が初めて、という訳でもないので自然体で任せる。イレヴンは度々、リゼルの爪を整えたがった。