獣が歩を踏み出す。

傾くようにして浮いたひづめが、目の前で草を圧し潰しながら地面を踏みつけた。

ド、と腹の底に響くような重い衝撃がある。だが、不思議と恐怖はない。いや、あまりにも圧倒的な生き物を目の前にした時の、生存本能による根源的な恐怖はあったかもしれない。

ただリゼルは、その背筋のあわ立つような感覚を畏敬いけいの念ととった。

古代竜に感じたものとはまた違う偉容いようを、見惚みとれるようにただただ見上げ続ける。

「巨獣っていうから、そういう魔物がいるのかと思ったんですけど」

「ニィサン残念」

「これはしょうがねぇだろ」

巨獣たちは、〝人ならざる者たちの書庫〟にいた白い何かと同じような存在なのだろう。

敵対する様子は見せず、ただそこに存在している。あの書庫にいた白い何かと違い、踏みつぶされないよう気をつけなければならないが、彼らこそが本来の迷宮の住人なのだろう点は共通していた。

冒険者は、そのかたわらをそっと横切らせてもらうのみだ。

「あのでっかいの影うっすい」

「彼ら自体が薄っすら光ってますしね」

「足音あんなら踏みつぶされることもねぇだろ」

三人は、視界を草に遮られながらも歩き出した。

不思議とリゼルたちサイズの獣道らしいものはある。迷宮の扉をくぐって、すぐにこの獣道に出たので、ひとまずこれに沿って進んでいけば方向を見失うことはないだろう。

歩いていけば、いずれ巨獣の獣道(今のリゼルたちにとっては広大な街道)も見つけられるかもしれない。巨獣の住まう空間で、見通しの良い場所に出ることが正解かは分からないが。

「これ、植物も薄っすら光ってますね」

「匂いしねぇな」

「なら、ただの植物じゃないのかも」

「じゃあなんだよ」

「分かりませんけど」

リゼルは可笑しそうに笑い、歩きながらも茎や葉に触れてみた。

柔らかくつやがあり、一見して一般の植物と変わらない。だがジルの言うとおり、植物らしい青臭さはまったくなかった。目をらせば、葉脈が光を帯びているように見える。

「不思議ですね」

「つっても似たような迷宮あったじゃん。樹がでっけぇとこ」

「〝巨大樹の森〟ですか?」

リゼルもまた、いつかの巨大樹の登攀とうはんを思い出した。

一時だけ兄弟姉妹になったひなたちは元気だろうか。立派に巣立っていることを祈る。

「確かに、あそこも小人になったようで楽しかったですね」

そう口にしながら、こちらに背を向けて去り行く白の巨獣を見上げる。

「ただここは、それとは違う感覚というか」

「どゆこと?」

「ここは彼らのための世界で、彼らはあるがままにあって。俺たちも小さくなった訳じゃなくて、こういう生き物というだけの、ただ彼らの世界に迷い込んだ迷子に過ぎないのかも」

「なんかこえぇんだけど」

「実際に世界またいでる奴が言うと説得力ちげぇな」

顔を引きらせるイレヴンと、真顔になったジルに、リゼルは悪戯いたずらっぽく笑みを深める。

迷宮というのは、それぞれにまったく違った環境がある。ただ時に、この迷宮のように世界のことわりからして違うのではと思ってしまうような場所もあった。

そもそも迷宮はそういうものなのだが、それでも天から無限に塔が伸びる〝降り落ちる逆塔〟であったり、水中で生きることになる〝人魚姫セイレーンほら〟など、あまりにも特異すぎる迷宮はもはや感じる空気から違う。

リゼルはそういった迷宮が特にお気に入りだった。

ちなみに他の冒険者からは「戦闘以外にやること多すぎ」「まず迷宮内ルール考えるとこから始めんのが面倒」「なんかもう分からんすぎて怖い」と避けられがちな迷宮でもある。

「あのでかいのが魔物じゃねぇならどんな魔物出んだろ」

「俺らのサイズに合わせると虫じゃねぇの」

「げぇ」

ジルとイレヴンはというと、もはや魔物のほうに意識が向かっている。

今回の本来の目的、依頼達成ではなくジルのご機嫌取りを思えば、間違ってはいないのだが。

けれどもう少し、この迷宮への感傷を分かち合いたいなとリゼルは苦笑する。

とはいえ感傷にひたれるほどの余裕を持てるのも、この二人のお陰なのだが。周囲を自らより背の高い草花に囲まれ、いつ何処から襲われるのかも分からない状況で、こうして気楽に雑談を交わせるパーティはそれほど多くない。

「イレヴンは虫系の魔物が嫌いですね」

「斬るとすっげぇ汁出んじゃん。時々やばいくらいくせぇし」

「虫系もいるかもしれませんけど、それ以外もいるので頑張りましょう」

「依頼が依頼だしな」

「あー……【〝鉱石もどき〟の結晶と〝花もどき〟の花びら採取】だっけ」

この迷宮は、三人とも初攻略だ。

サルスからそこそこ遠く、近いところから順番に踏破とうはしているジルも訪れたことがない。

また、先の理由で他の冒険者も避けがちなので情報は少なかった。

リゼルもまた、迷宮名だけを魔物図鑑で知っていただけだ。サルスの魔物図鑑は特に詳細で、リゼルもゆっくりと堪能たんのうしているので、まだ全てを読破できてはいないのだが。

「俺見たことある魔物?」

「いえ、ここは迷宮固有種しか出ないみたいなので」

「お前ギルドで図鑑読んでんだろ」

「依頼の二種類はまだですよ。サルスの図鑑、分類別なんですよね」

「へぇ」

「そんなことあんのか」

リゼルは汎用はんよう性の高そうな分類(獣系、無機物系、不定形など)から読んでいるので、読んでいない範囲にある魔物というならば、よほど特殊な生態をしているのかもしれない。

ちなみに分類「その他」は、他のすべての分類を全て合わせたのとほぼ同じ数がある。なんともサルスの学者たちの葛藤かっとう垣間見かいまみえる瞬間だった。

「ただこの迷宮、他の魔物もなかなか興味深い姿をしていて……」

リゼルたちは足を止めた。

前方から、草をき分ける音がする。巨獣ならばすでに姿が確認できている距離だ。

ならば魔物が近づいているのだろうと、リゼルは傍に浮かせている魔銃をそちらに向ける。

「この獣道を作ってくれた魔物かもしれませんね」

「でかそう」

獣道をふさぐように左右から伸びる野草、その向こう側から魔物が徐々に姿を現す。

緩やかな歩調だ。真っ先に見えたのは魔物の足元で、蹄を持った四つ足の草食獣に似ている。

巨獣と違い、体は毛皮に包まれていた。地面を踏みしめる音は小さく、けれど力強い。

足元だけで予想するに、体高はリゼルたちと同じくらいか。ならば頭部は見上げた先にあるのだろうと、先端を交差するようにあちら側を隠す草の群れを眺める。

「こっち気づいてねぇな」

「そんなことあんの?」

「大抵、獣型の魔物には先手を取られますよね」

やや小声で話すも、魔物の歩調は変わらない。

まるで耳も鼻も機能していないかのようだ。獣らしい姿をしていてそんなことがあるのだろうかと、三人は会話の声を徐々に普段のものに戻していく。

だがそれでも魔物の静かな足取りは変わらぬまま、それは草を搔き分けて全貌を現した。

「お、……」

引きったように声を漏らしたのはイレヴンだった。

ジルは表情を消し、リゼルは魔物の上から下までゆっくりと目でなぞる。

リゼルたちの目前で足を止めたそれは、獣の下半身を持つ鉱石だった。いや、鉱石の上半身を持つ獣なのかもしれない。四つ足の上、首の根元から、先端の分かれた結晶が上へ上へと伸びている。

魔物は警戒をにじませ、頭を伏せるようにゆっくりと結晶を傾けた。

空から降り注ぐ白い光と、草花から零れる蒼白い燐光に照らされ、結晶に虹色が滲む。

「綺麗ですね」

結晶を見上げて告げるリゼルを、ジルとイレヴンは無言で二度見した。

「リーダー見て、俺鳥肌たってんだけど」

「あ、本当ですね」

「本当ですね!?

「お前あれ見て綺麗としか思わねぇのか」

「君たちはもっと分かりやすく醜悪な魔物をよく見てるじゃないですか」

それとは違うと言いたい。言いたいが、二人は口をつぐんだ。

何が違うのかと言われても、明確な答えを返せそうになかったからだ。確かに目の前の魔物に美しさを感じないと言えば嘘になるが、それはそれとして本能的な受け入れがたさを抱かずにはいられない。

ただ、存在し得ないはずの生命を目の当たりにした気味の悪さがあった。

「でも、確かにちょっと冒瀆ぼうとく的ですね」

「それぇ」

苦笑したリゼルに、イレヴンが嫌そうに同意する。

「つってもあの結晶が欲しい奴がいんだろ」

「依頼人誰だったっけ」

「サルスの宝石職人です」

あれがネックレスやら何やらになるのかと、ジルとイレヴンはなんとも言えない気分だ。

依頼人側からしてみれば、Aランクの依頼というのは非常にコストが高い。恐らく上流階級向けのアクセサリーになるのだろうが、いいのだろうかと思わずにはいられなかった。

ちなみにリゼルは、上流階級にこそ意外とゲテモノが流行ることがあると知っているので、その辺りは特に気にならない。希少性と特別性は、特に物事の本質を見失わせるものなのだ。

「つかこいつ目もなくねぇ?」

「敵対してるっつうなら見えてんだろ」

「結晶に写りこんだものを情報として取り込んでいるのかも」

「怖ァ……」

魔物の結晶の頭が、まるで水を飲むかのように、深く深く伏せていく。

開いた前足の間で、結晶の頭がぴたりと動きを止めた。相当な重量があるだろうに、細い四肢は少しも揺らがずにそれを支える。

結晶の先端が、剣先のようにリゼルたちへと向けられていた。

「突撃」

「発射?」

「いえ」

ジルとイレヴンによる初動の予測に、リゼルは手短に首を振りながら答える。

「魔法です」

目の前で、結晶が根元からきらめいた。

透きとおる結晶に光が満ちていく。根元から先端に、液体が満ちていくようにも見える。

それはまるで、熱と命を持つ肢体から、それらが吸い上げられているかのような光景だった。

「防ぎますね」

ジルとイレヴンは剣を握ったまま、避ける選択肢を捨てた。

リゼルが防ぐと言ったなら防ぐのだ。ならば相手の攻撃の後、即座に反撃に移れるように備えるのみ。

そしてリゼルの魔力防壁が二人を包んだ、次の瞬間だ。

広がるように成長した結晶の、それぞれの先端に光が灯り、光の線となって放たれた。

「入ってすぐの魔物じゃなくねぇ?」

「だからAなんだろ」

射線はリゼルによる防壁に阻まれ、その体を射抜くことなく途切れる。

同時に、二人は走り出していた。刹那せつなの間に距離を詰め、ジルは光を失った結晶部分へ、イレヴンは柔らかな肉と毛皮に包まれている胴体部分へと斬りかかる。

どちらの剣も狙いどおりに獲物を砕き、斬り裂いた。

「そっち俺でも斬れそう?」

「てめぇの剣が折れる」

「ハンマーでもぶん回そっかなァ、持ってねぇけど」

「イレヴンの一撃も十分決定打になってませんか?」

「初っぱなでコレだと奥でねばられそうな気ィする」

「こいつが自己強化できんならそうなるだろうな」

三人は、倒れたままピクリとも動かない魔物を囲む。

イレヴンがつけた傷からは、血液らしい青い液体が流れだしていた。

「依頼いわく、『結晶は輝きの強い物を』とのことですけど」

リゼルはしゃがみ、砕かれた結晶の破片を拾い上げる。

先程までは透きとおり、煌めきを宿していた結晶が、今やすっかり白く濁っていた。

「流石にこれは渡せませんね」

みがけば輝くーとかねぇの?」

「だったらわざわざ物の指定しねぇだろ」

リゼルは濁った結晶の一欠片だけポーチに入れて、立ち上がる。

ジルとイレヴンもまた、周囲への警戒を緩めながら剣を柄に戻した。

「魔力の関係でしょうか。結晶に魔力が行き渡ってから、撃たれるまでの間に砕く……とか狙えますか? 体のほうからき起こる光が、ちょうど結晶の先まで満たされた瞬間です」

「あー……どうだろ、発射前に近づくと頭……結晶? で、反撃されそう」

「タイミング摑みづれぇな」

まぁ追々試すしかないか、と三人は再び獣道を歩き出した。


無数の花がこちらを見ている。

獣の肉と皮をこね回し、虫らしい形に整えて、頭を満開の花にげ替えたような魔物だった。

光差し込むくもり空の下、立ち並ぶ野草の隙間から、何本も何頭もこちらを覗いている。

「〝花もどき〟でしょうか」

「もどきなのは花だけじゃねぇだろ」

この迷宮の魔物は例外なく、なかなかに壮絶な造形をしているようだ。

リゼルがいまだに魔物図鑑で、あれらに出会っていないのも納得だろう。もはや分類のしようもなく、記載ページを探そうにもどこを探せばいいのか見当もつかない。

更にリゼルたちは知らないが、〝鉱石もどき〟も〝花もどき〟も、この迷宮に出現する、こういった系統の魔物の俗称でしかなかった。頭文字を頼りに図鑑を調べようが出てこないという罠がある。

「あれの花びらだろ」

「普通に千切ればとれるでしょうか」

「こっちはモノの指定ねぇな」

「はい。見る限り、色味も大きさも違いがないですしね」

リゼルたちの前で、満開の花がゆらりゆらりと左右に揺れる。

魔物が幾本もの脚を動かすたび、首の据わっていない赤子のように頭部が揺れているのだ。

「目が合ってる気がしますね」

「眼球ねぇくせにな」

花びらの中央、副花冠が呼吸しているかのようにわずかに動いている。

「(あれ)」

リゼルは目を細める。なんだか奇妙な違和感があった。

ジルとイレヴンがそれ気づいた様子はない。ならば、違和感の正体は魔力的アプローチだ。

つまり、既に攻撃を受けている。だが、ジルの声色に普段との違いはない。

そういえば、先程からイレヴンが黙っているなと隣を見た。

「イレヴン?」

呼びかけに応え、イレヴンがこちらを見る。

満開の花をただ見つめていた紅玉こうぎょくのような瞳が、リゼルへと向けられた。

どうしたの、と緩んだ頰。見慣れたものだ。ただ警戒に気を割いていただけかと安堵あんどする。

そんなリゼルに、ふとイレヴンが口を開いた。

「 赤い皿がうちの波打ち際でざざんざざんて笑って咲いた 」

リゼルとジルは二度見した。そして、気づく。

イレヴンの両目はリゼルを映さず、ただ奥底で何かがぐるぐると渦巻いていた。

「イレヴン」

「 バイクィーンの暗渠あんきょにいる 」

リゼルの呼びかけに、イレヴンはどうかしたかとかすかにおとがいを持ち上げた。

いつもと変わらない反応。表情に、仕草。ただ言葉の内容だけが支離滅裂で、声色は鉄がびていくような音をはらみ、その眼はいまだにリゼルを映さず、開ききった瞳孔の奥深くで何かがぐちゃぐちゃにからんでいる。