187.
見渡すかぎりの草原は、緑ではなく、
見上げる先の空は遠く、高く、一面雲に
その草原を、悠然と歩く獣たちがいる。
四つ足の何かは、淡い白光を集めて獣の形にしたようで、ゆっくりと蒼の海を歩んでいる。
唯一色づくのは、
草原には、それらが歩く音と、か弱く吹く風の音しかなかった。
──そこは、〝聖なる巨獣たちの国〟と名づけられた迷宮。
人はただ、彼らの足元でひっそりと
早朝、冒険者ギルドにある依頼ボードの前で、ジルはリゼルに問われた。
「ジルはどんな魔物と戦いたいですか?」
こいつご機嫌取りを隠さなくなってきたな、と眉を寄せる。
嫌とまでは言わないが、いざ面と向かって機嫌をとられると、どう反応したらいいのかと考えてしまう。機嫌をとらせているのは自分なのだが。
この程度の会話は、普段からありふれたものだ。ピンポイントで受けたい依頼がない時などは、戦いたい魔物だったり、行きたい迷宮だったりと、ジルやイレヴンの希望をもとに依頼を選んだりもする。
だが、今日の問いかけは明らかなご機嫌取りなのだろう。
なにせリゼル本人が隠そうとしていない。むしろ知らせるかのように、分かりやすくこちらを伺っている。
「そこは選んでみせろよ」
「流石に分かりませんよ。今日はどんな魔物と戦いたい気分なのか、なんて」
「ニィサン気分で戦う魔物選んでんの?」
「そんな気がするんですよね」
「ウケんだけど」
「うるせぇ」
そういう日もある、というだけだ。
「だからリーダー、珍しくAから見てんだ」
「ひとまず高ランクなら間違いないので」
「Aとかだと魔物関係ばっかだしなァ」
「Aランクで、戦闘をまったく
「それどんな依頼?」
のんびりと会話するリゼルを、呆れたようにジルは一瞥する。
基本的にリゼルのご機嫌取りはさりげない。ジルが下手に出られるのを嫌うからだ。
落ち度のある相手を責めぬくような趣味の悪い真似に興味はなく、けれどそれでは気が済まない。そういう時は迷宮を巡って気晴らしをするのが常だが、それはそれとしてリゼルには示しておかなければならないのだ。
元の世界では地位が付きまとい、誰が相手でもそれを前提としていた男は、それらを全く伴わない対等というものに変な憧れがある。
空間魔法云々の時はイレヴン相手に、敢えて伝えも隠しもしないという方法をとって怒られたものだから、今度は完全に隠し通そうとしてみたのだろう。うっかりイレヴンから
「(急ぎだったっつうのは疑ってねぇけど)」
それでもリゼルは、支配者の元に直行しない選択肢もとれたのだ。
クァトを連れ、ジルにその可能性を知らせることを優先することができたはずだ。
その時にジルが操られ、万が一にもリゼルへと剣を向けることになろうが、刃の体を持つ男が守る。今のクァトが攻めを捨て、守りを固めれば、操られた末の剣など十分に防げるだろう。
それをしなかったのは、リゼルが嫌がったからだ。
一瞬でもジルが操られることを、気遣いなどではなく、ただリゼルが嫌がった。
「Aランクの迷宮は、低ランクではあまり見ませんよね」
「まぁ、迷宮自体にざっくり高ランク向けとか低ランク向けとかあるし」
「確かに、浅い層でもなんだか手強いなっていう迷宮が多いです」
「手強いっつか戦いにくい? 適当に剣振ってりゃいいのとそうじゃないのっつうか」
「経験を積んでないと対処しにくい魔物が多い、とかですか?」
「そうそう」
依頼用紙を見上げる横顔は、出会った時から変わらず品がある。
だが、随分と我儘を覚えたものだと思わずにはいられなかった。相手の希望を汲んで動いていた男が、ジルの意思よりも己の意思を優先した結果が、今この状態なのだから。
「ジル、決まりましたか?」
ならば対等らしく、ジルはジルの意思を示さなければならない。
「クラーケよりでかいやつ」
「うっわ、無茶ぶり」
その方法が気に入らなかった、と。
その結果、リゼルが操られる可能性があったことが気に入らないのだと。
示した結果、機嫌をとってくるのだからリゼルにも少しばかりの引け目があるのだろう。
開き直ればいいとも思うが、機嫌をとりたいというなら好きにさせておく。悪い気はしない。
「クラーケより大きい……」
「リーダー無視していいよ」
「大きいかもしれない、でもいいですか?」
「あ?」
「心当たりあんの?」
そうしてリゼルが手にした依頼用紙に、〝聖なる巨獣たちの国〟の名はあった。
淡い白光を集めたような四つ足の獣が、前方を伺うようにして立っている。
リゼルたちはそれの足元で、地面を覆う草花と同じような背丈になりながら、ただひたすらにそれを見上げていた。獣の眼窩から伸びる枝葉が、巨木のように空を覆いつくしている。
「でかすぎんだろ」
「これ魔物?」
「魔物ではなさそうです」