電子書籍版特典ショートストーリー『名無しのタヌキ』
「ここがジゼルのおうち?」
「にゃーにゃにゃ」
「ふまれないようにきをつける」
「にゃにゃっ」
「うん、しーつでもあそばないよぉ。いいこにしてる」
「にゃー」
「ありがとぉ、ぼす」
タヌキは猫にぺこりと頭を下げる。猫の名前はボス。誰によって付けられた名前なのかは当人ですら覚えていないそうだ。ただ、人間と動物達が尊敬の念と親しみを込めて呼ぶその名前がとても気に入っているのだと教えてくれた。
タヌキにはまだ名前がない。だから胸を張って自分の名前を言える猫が羨ましかった。
名前の通り、この辺り一帯の動物たちのボスに位置するその猫は、いきなり現れたタヌキの世話も率先して焼いてくれた。クールに見えるがかなりの世話好きなのだ。会ったその日に町中を詳しく案内してくれた。
ここで住むなら細道も覚えておいて損はない。分からなくなったら聞けるように、周りの動物たちにも挨拶をして顔を広めておけと。
ボスと一緒に歩いただけで、城下町に住む動物たちはタヌキを『仲間』として受け入れてくれる。
普通の動物とは違い、人前から姿を消すことができるタヌキに「蹴られないように気をつけろ」と教えてくれたのもボスである。おかげですっかりこの町での生活に慣れた。
そんなタヌキが『ジゼル』を知ったのは、ボスと出会って十日が経った頃だった。
この町の建物の一つである『精霊の釜』の案内をしてもらっている時、窓から錬金術を使う彼女の姿が見えたのだ。錬金釜の中からキラキラとしたガラスを引き上げる姿が一瞬で目に焼き付いた。
ボスに彼女の名前を教えてもらってからは、その名前すら宝物のように思えて、ずっと頭から離れなかった。それからというもの、タヌキは『精霊の釜』の屋根に住み着いた。窓からジゼルの作業を覗くのが日課となったのだ。
だがジゼルもずっとギルドにいるわけではない。空が暗くなればどこかへ行ってしまうし、まる一日来ない日もある。
一日なら我慢できるが、二日も来ないと心配でたまらず、タヌキはボスに泣きついた。
「ぼすぅ、ジゼルが! ジゼルがずっとかえってこないよぉ~」
「にゃっ」
落ち着けと額に猫パンチを食らわされ、タヌキは初めて人間には『家』があるのだと知った。動物だって巣があるのだから当然だろうと、呆れた目で見られた。
ギルドはいわば仕事場。お金を稼ぐために働く時しか来ないのだと。
「じゃあジゼルのすはどこ?」
「にゃにゃっ」
「すうじつっていつ? なんかいねたらジゼルくる? ほんとうにくる? べつのところいったりしない?」
「にゃ……」
「だってしんぱいだもん……」
しょんぼりとするタヌキを横目に、ボスは踵を返した。だが置いていこうというわけではない。
「にゃ!」
「ジゼルのところまであんないしてくれるの!?」
「にゃにゃ」
仕方ないと言いつつも、ジゼルの下宿先に案内してくれようとする。タヌキはボスに抱きつき「ありがとぉ」とお礼を告げる。ボスは嫌そうな鳴き声を上げるが、タヌキから逃げようとはしない。
店の裏手まで案内してくれた後もすぐに去るのではなく、注意点までバッチリと教えてくれる。ボスは優しい猫なのだ。
「にゃっ」
「ばいば~い」
ボスに手を振り、タヌキは自らの姿を消す。
知らない動物がそこらへんを歩いていたら人間は警戒するものだと、ボスが教えてくれたのだ。近くの木箱に乗り、窓に姿が映らないのを確認してから宿の正面ドアに向かう。
いつもいる錬金ギルドのドアとは違い、ここのドアは開かれていた。タヌキでも堂々と出入りできる。
入り口をくぐってすぐ、ジゼルを見つけた。カウンターで書き物をしているようだ。タヌキは数日ぶりにジゼルを見られたのが嬉しくて、つい叫び出しそうになる口を急いで押さえた。
「いらっしゃいませ。……ってあれ? 今、誰か来たような気がしたんだけど」
はて? と不思議そうに首を傾げるジゼル。タヌキは彼女の顔がよく見えるように、カウンターから少し離れた場所にぽてんと座った。あとはいつも通り。じいっとジゼルを観察する。
途中でやってきた人間に声をかけられ、他の場所に移動する時はトトトとついていく。さすがに閉められたドアの向こう側――ジゼルの自室まではついていくことができなかったが。それでもジゼルが元気そうな顔を見られただけで、タヌキは安心できた。
翌日からタヌキは、錬金ギルドの上と宿の裏手のどちらかで過ごすようになった。時たま様子を見に来るボスはまたここにいるのかと呆れた表情をする。
だがボスが様子を見に来るのは、タヌキが宿にいる時と決まっていた。ボスもまたこの宿が気に入っているのだ。
「きょうはいつもよりもぽかぽかなんだよぉ~。ぼすもおひるねしてく?」
「にゃっ」
ボスは短く返事をして、タヌキがよく寝転んでいる木箱の横で丸くなる。タヌキもボスと同じように眠りにつくのだった。
ボスの教え通りにちゃんと隠れていたつもりのタヌキが、女将さんに度々自身の姿を目撃されていたことを知るのは、ジゼルから『たーちゃん』という名前をもらった後のことである。