「今度はちゃんと寝てから来いよ」
「あははは」
軽く笑い飛ばし、宿屋に
ジゼルはいつものようにベーコンで目玉焼きを包み込み、トーストに載せてから
朝食後の皿洗いを終えた後、幸せを胸に
○ ○ ○
数日後。ジゼルは宿屋の裏で錬金釜を洗っていた。
ジゼルは、ギルドで使っていた大きな錬金釜は二ヶ月に一度、個人所有の小さな錬金釜は半年に一度くらいのペースで洗って
どちらも休みの日に二日かけて行う。
だが定期的に錬金釜の手入れをする錬金術師はごくわずかだ。
そのため他の錬金術師からは馬鹿にされがちだが、錬金釜は自分の相棒みたいなものだ。錬金釜も人と同じで、休みなく働かせていては疲れてしまう。
「よいしょっと」
ジゼルが個人で所有している錬金釜は全部で四つ。いずれも宿屋のキッチンで使われている
水が垂れてこなくなったら、専用の棚に並べて乾かす。この棚はジゼルが王都に来てすぐの
ちなみに四つ目の錬金釜は新品だ。元々使用していた
だがこれから錬金釜の
「これでオッケーっと」
「ジゼル。今、ちょっといいかい?」
「
「そっちはもう終わっているから大丈夫。実はジゼルに話があるって、ヴァネッサ
「私に、ですか? すぐ行きます」
道具を片付け、手を洗ってから客間に向かう。客間といっても来客対応のために作られた部屋ではない。普段は親父さんと女将さんの
受付カウンターのすぐ横にあり、ドアは厚めだが小窓が付いている。来客中は小窓を閉めて声が漏れないように、普段は小窓を開けておいてお客さんが来たらすぐ分かるように、と使い分けている。
「失礼します」
ドアをノックしてから部屋に入る。ソファには
「あんたがジゼルさんかい? 話は女将から聞いているよ。
義理の
「ギルドマスター、本題に入ってください」
「そうだった。なかなか
「はいはい。お嫁さんの話はまた今度にしてください」
「今日はあんたをスカウトに来たんだ。……ジゼルさんや、あんたさえよければ宿屋ギルドに入ってくれないか?」
「宿屋ギルドに、ですか?」
想像と違う切り出しに目を丸くする。てっきり錬金飴の話をされるものだと思っていたのだ。
「女将にはすでに話したけれど、『オリーブの樹』の規模ならまだ従業員数の追加が可能だ。追加料金もない」
「
身分証明書と言われてハッとする。錬金ギルドをクビになったからには、一ヶ月以内に他のギルドに所属するか国に申請する必要がある。村にいた頃は申請も
税金優遇などはギルドの規模によってまちまちで、主にギルドが国に納めている税金額によって変わる。ジゼルが所属していた錬金ギルド『
ちなみにギルドに所属していない個人の場合はやや高く設定されているのだが、ギルドに入るにも
なので彼女の言う通り、無理に入る必要はない。他のギルドに入っても個人で申請しても似たようなものだ。
「だが錬金飴を本格的に売り出すことを考えれば話は別だ。宿屋ギルドなら商業ギルドのマスターと直接
「本格的に売り出す、ですか」
宿屋『オリーブの樹』で錬金飴を売ることはジゼルも
あまりにも
けれどヴァネッサは気にせず、そのまま話を続ける。
「うちとしてはあくまで商品の一つとして扱うから、ギルドの利益としていくらか上乗せすることはあっても、ジゼルさんが決めた額よりも下げることはしない。他業種ギルドからの
「それは宿屋ギルド側に一体どんなメリットが?」
「我々がジゼル様に求めるのは、宿屋ギルドへの優先販売になります。現在の販売形式とは違う形での販売が決定した際には、別途細かい部分をご相談させていただく形になりますが、ひとまず宿屋ギルド所属者が使用する分を毎月一定数確保したいと考えております。
宿屋ギルドの所属者には肩こりや
差し出された資料に目を通していく。宿屋ギルド所属者への売り方は、まず宿屋ギルド本部で買い取り、それを個人に売る形になる。
あくまでも宿屋ギルドの関係者に販売する分の確保が目的なので、宿屋ギルドが利益を求めることはしない。ジゼルから買った額で売る。転売は禁止し、
この先、一年間の取り引きを確約。また
つらつらと並べられている条件一つ一つをしっかり読み込んでいく。
「代金は現物をいただく際、ジゼル様ご本人に現金にてお
「
「種類ごとに分けていただき、大瓶三つを二セット。空になった方をお持ちして、次回分を
「ならデザインは同じで、ボトルのカラーは変えた方がいいですね」
「助かります」
「種類ごとの売れ行きは私の方でも
「はい。受け取りとお支払いの際に売り上げ表をお持ちする予定です。こちらの条件でいかがでしょうか?」
なるほど。ジゼルにとっても悪い話ではない。それに月に各種二百個ほどなら宿屋の手伝いはもちろん、他の仕事が見つかった後でも続けられそうだ。
「分かりました。宿屋ギルドさんの方でお世話になろうと思います」
ぺこりと頭を下げる。するとヴァネッサの顔がずいっと寄せられた。
「それで、今月分はいつ頃もらえるんだい!?」
「え、えっと今日明日は錬金釜を休ませるので、最短で四日後のご用意になるかと」
「なら七日後に取りに来させる」
「ではこちらが初回分のお支払いになります」
ヴァネッサの指示に合わせて、お付きの女性は
「使い勝手を
「で、ですがさっきは現物との
「始めたばかりでいろいろと入り用だろうからね、今回だけ早めに
「祝い金制度があるんですか!?」
そんな話聞いたことがない。だが宿屋ギルドといえば、
国営ギルドのギルドマスターとなるにはギルド内はもちろんのこと、他業種ギルドのギルドマスターからの
やや
だがジゼルは新規で宿を開くわけではなく、宿屋の従業員と同じ扱いになるのであって……。ぐるぐると
「あたし個人からのものさ。本当に
「ではありがたくちょうだいさせていただきます。代わり、とは少し違うのですが、すでに個人からの注文分は作ってありますので、よろしければお持ち帰りになりますか?」
「いいのかい!?」
「は、はい。確か腰痛の錬金飴が二瓶と肩こりの錬金飴が一瓶でしたよね」
「ああ」
錬金飴はジゼルの部屋にある。取ってきますと一声かけ、立ち上がる。するとお付きの女性がスッと手を挙げた。
「数に
「少数であれば大丈夫ですよ。どれにしましょうか」
「
彼女は
「はい。確かにいただきました。それでは今お持ちしますので、少々お待ちください」
今度こそぺこりと頭を下げて部屋を出る。そのまま
「おまたせしました」
「あら、早かったね」
ドアを開けると、見覚えのない女性が一人増えていた。ヴァネッサの
だが二人とは服装がまるで違う。派手だ。大ぶりの宝石が付いたアクセサリーもたくさん着けている。それでいてまるで下品な感じがしない。服もアクセサリーも彼女を引き立てるものとしてしっかりと機能している。
見られることにも慣れているようで、ジゼルの視線もふふふと軽く受け流すだけの度量がある。しばらく観察してから、ようやく失礼だったとハッとする。
「えっと、そちらの方は」
「商業ギルド『満月の湖』のギルドマスター、ステファニーさ。知り合いだったから女将に言って通してもらったんだ」
「『満月の湖』って、王城近くの一等地に店を構えている完全
「うちのギルドを知っているのね」
「有名ですから!」
商業ギルド『満月の湖』には『精霊の釜』もかなりの数の錬金アイテムを納品している。
ほとんどが上級
王家が愛用している錬金ランプを作った錬金術師のアイテム、といえば聞こえがいいのかもしれない。他の商業ギルドからも依頼が来ていた。
初めのうちは
一度だけステンドグラスの生産依頼が来たことがある。あの依頼は『満月の湖』経由だった気がする。ちょうど錬金ランプの生産依頼が増えていた時期なので、どこからの依頼かまでははっきりと覚えていない。
だが両親の結婚記念日に贈る品としての注文で、依頼書には綺麗な字がびっしりと書き込まれていたことだけはよく覚えている。
思い出したら、あの日感じた胸の温かさまで
「それで、本日はどのようなご用件で」
「『オリーブの樹』で
「すみません……」
「ジゼルさん、
「商業ギルドですもの。そこはキッチリするつもりだったけれど、労働面もキッチリ整えるつもりだったのよ? 製品の質を高めるには、まず生産
ジゼルが自室に行って戻ってくる、わずかな時間で次を考えたらしい。さすが有名な商業ギルドのギルドマスター。頭の回転が速い。速すぎるくらいだ。あまりにもサクサクと会話が進められていくもので、ジゼルは目を丸くしたまま固まってしまう。
「あんたのところは効果も知らずに
ヴァネッサは
「宿屋ギルドのギルドマスターが直々に交渉に来るくらいですもの。効果のほどは疑いようもないわ」
まるでビスケットを割るかのように、なんてことなく言い切ってみせた。
「そりゃあそうだけどね」
「それに貴族の顧客がすでにいるなら売っても
「は、はい。シンプルなデザインですが、輸送時のことも考えて
「そう。ならこの場で決めるにしても百瓶は欲しいわ」
「百瓶も!?」
「これでもかなり
「えっと、さすがに数が多いので、とりあえずサンプルの飴を一個ずつお渡しします。そちらをお
この
「それ本気? 金貨二百枚以上にもなり得る取り引きよ? それとも即決するには安いと?」
「大きい金額ですよね。だからこそ、納得してから決めてほしいので」
「……あなた、初めにスカウトに来たのが宿屋ギルドでよかったわね。変なギルドに行ったら使い捨てられるわよ」
だがこれでもしチャンスを逃がしたとしても、ジゼル個人の損失でしかない。宿屋の女将さんと親父さんに
払うコストは
「ここの女将が変なのを通すわけないだろ。あんただってあたしがいなきゃ
「とりあえずサンプルはもらっていく。
「それならあたしのを一つやるよ。ゆっくり確認しな」
ヴァネッサは三つあるうちの一つの瓶の
「貸しにするつもり? でも、シンプルながら美しいわ」
「いいや。あんたのところで飾ればいい宣伝になるだろ。それで十分だよ」
「拡散力は
「金をしっかりと落とす質のいい客ほどありがたいものはないからね」
商売人の
「サンプルなので少し形は悪いんですが」
「一般販売分の形はヴァネッサのを見たし、味と効果が分かればいいわ」
「それから、これは薬飴の一種なので食べるのは一日一個まででお願いします。赤色が風邪の引き始めと肩こりに、青色が腰痛に、緑色が疲労に効く錬金飴になります」
「分かったわ。食べた上であなたに依頼するか、改めて検討させてもらうことにします」
「はい。お待ちしております」
ステファニーはジゼルから受け取った飴を先ほどの瓶に入れた。そしてスックと立ち上がる。
「じゃあお
「いえ、お声がけいただき、ありがとうございました」
カウンターで待っていた女将さんと
ジゼルが思っている以上に気の知れた仲なのかもしれない。馬車が見えなくなるまで頭を下げてから宿に入る。
「女将さん。今、お時間ありますか?」
「ああ、大丈夫だよ」
「代金を
「分かった。確認したらうちの金庫に入れて、明日の昼にでも一緒に銀行まで預けに行こうか」
「はい!」
元気よく返事をし、先ほどの部屋に戻ったまではよかったのだが――。
「やっぱり金貨だけでも三十三枚ある……」
錬金飴は一個銅貨五枚。銅貨十枚で銀貨一枚、銀貨十枚で金貨一枚相当なので、金貨だけ数えてもやや多い。そこに銀貨も加えられるとかなりの額になる。
ほとんどが祝い金というやつだ。あまりの大金に数え
「あたしもまさかここまで包むとは思ってもみなかったわ」
「いくらか返した方が」
もらうと返事をしたのはジゼル本人だが、まさかここまでとは思わなかったのだ。
大手ギルド所属の最高ランク技術者に指名依頼を出す時だってこんなには包まない。ましてやジゼルは個人である。店だって構えていない。錬金飴の販売だってこの先どのくらい続けていけるのか、見通しだって立っていない。
「もらっておきな。もらったものを返す方が失礼だよ」
「でも……」
「気になるなら、追加依頼が入った時にはなるべく対応するようにすればいいさ。ジゼルも知っての通り、かき入れ時の宿屋は目が回るくらい
「そう、ですね。とりあえず初回分は錬金釜を休ませ終わったらすぐに対応することにします」
「ああ。今日明日はジゼルも一日しっかり休むんだよ」
「え、お手伝いは」
「ジゼルが来客対応してくれている間にほとんど終わっちまったよ」
「そんな……やることないのに」
ここ十年間のジゼルの休日の過ごし方といえば、宿屋の手伝いと錬金釜の手入れ、錬金飴作りである。たまにドランとのお出かけの予定が入ったり、業務時間内ではやりにくい細々とした調合などが加わったりする。
これらの
落ち
考えていることが顔に出てしまったのだろう。女将さんが助け船を出してくれた。
「追加
女将さんの言うとおりだ。気づいた
「そうですね! ちょっと出かけてきます」
お金がたんまり入った
○ ○ ○
「休んでほしいんだけどねぇ。本当に働き者なんだから」
呆れと
「ジゼル用のプリン、今から作っておくか」
喜ぶジゼルの顔を想像しながら、二人は