少し先にあるベンチを見やる。あのベンチだって、大抵の人にとってはただのベンチだ。
でも、木について詳しい人なら木の種類に、木目の美しさに気づく。
もしかしたら歴史的背景があるかもしれない。
それを知っている人にとっては、これはただのベンチではない。このベンチに座って休憩するひと時だって楽しいはずだ。
そういう人から見た毎日はどんな景色なのだろう。
同じ物を見ているのに、感じることは人それぞれ違う。
きっとキラキラと輝いているんだろうな。
知っていることが増えるというのは、楽しく思う事柄が増えるということ。
こうやってたくさんのことを知っていく上で、私の一番をいつか見つけられるといいなと思う。
ジェイムス様には気軽に聞いてしまったが「大人になったら何がしたい?」という問いには私もまだ答えられそうにない。
「ジェイムス様は好きな人や物がありますか?」
「なっ!」
急にジェイムス様の顔が赤らむ。好きな人がいるのか。なんか意外。
好きなものでも良かったのに、好きな人を思い浮かべてしまうなんて青春だなぁ。
「言わなくてもいいですけれど、どんなところが好きか思い浮かびますか」
「あぁ」
「それと同じです。その方がたとえ絶世の美女だったとしても見たこともない人のことは好きになれないのです。今まで出会った人の中で好きな人もいれば嫌いな人もいるでしょう。でも等しく言えるのは、出会わなければ好きなのか嫌いなのかもわからないということです。だから私は勉強するんだと思います。勉強してたくさんのことを知れば知るほど、私が楽しいと思う事柄も増えるし、私が何を好きでどう生きていきたいかもわかる気がするから」
前世は何事にも一生懸命にならずに、なんとなく生きてなんとなく生を終えた。
この一生懸命になれなかった理由の一つは多分、自分の好きなものさえわからなかったからかもしれない。
前世は今世よりもたくさんの物があったし、たくさんの物事が簡単に知れた。
なんとなく生きていくだけでは、広く浅く好きなものはあれど、それを深掘りすることはなかったのではないだろうか。
少しでも好きだ、興味があると思ったことは、その世界に飛び込んでみたらよかったのだ。
そしたらあのキラキラな世界にたどり着けたかもしれない。
「なるほど。そうか」
ジェイムス様は何か思うことがあったのか、それからまた私と門で別れるまで何も話さずなにやら深く考え込んでいた。
その日からジェイムス様は少しずつ勉強するようになった。
会えば挨拶するだけでなく、立ち話をしたり、授業で習ったことについて議論をしたりすることもある。
放課後図書室で勉強している姿もよく見る。図書室で居眠りしている姿はもう見ない。
正直あのジェイムス様がこんなに変わるなんて思わなかった。
けれど、彼は必要ないと思っていたから何も勉強していなかっただけで、幼い頃は伯爵家で行われていた教育もちゃんと受けていたらしく、やればやるだけぐんぐん吸収していった。
こっそりデニスさんに聞いたところ、最近は私たちと一緒にいるからという理由もあるけれど、真面目に授業を受け、勉学に励むジェイムス様に以前のように嫌みを言う人はいないそうだ。
よかった。

「ルカー、いる?」
扉の外から声を上げているのは、俺と同じくお嬢様の専属のサリーだ。
ノックではなく、声を上げたのはきっと手がふさがっているからだと思い、ドアを開ける。
案の定、手に持つトレーには新作であろうプリンを載せている。
「ありがとう。これ、新作なんだけど食べてくれる?」
「おっ、うまそう。もうお嬢様は食べたのか?」
「まだ……」
新作だというプリンには、カラメルが入っていない代わりに上につやつやと輝く苺のソースがかかっていた。
「うまい。見た目も可愛いから、女の子は特にこういうの好きなんじゃない?」
「そう。それに今回は苺のソースだけど、いろんな果物で汎用できると思う。それだけで何種類もの新作だよ」
新作が増えるのは良いことじゃないかと思ったが、サリーはなぜか元気なく肩を落としている。
「なんで元気ないんだよ。新作が増えていいじゃないか」
「これ……私は考えてないの。バージルさんが提案してくれたの。バージルさん私より年上だし、もちろん経験だって向こうの方が上。お店の回し方とか、コストの考え方とか、接客だってそう……私今まで下働きだけだったから、何も知らなくって……」
バージルさんは、瑠璃のさえずりの開店時に雇った料理人だ。
クラティエ帝国では有名な食事処でも働いたことがある腕利きらしい。
俺も会ったことがあるが、有名店で働いていたことを鼻にもかけず、お客さんにも店員にも丁寧な態度の紳士だ。
一方サリーは、お店の経験はゼロに近い。女性ということで下働きでしか雇われなかったからだ。
俺とサリーはドレイト領にいたころから、二人で切磋琢磨し、お嬢様を追いかけてクラティエ帝国まで来た戦友だ。
時に弱音を吐き、時に励ましあいやってきた。
瑠璃のさえずりが開店する頃は、サリーもかなり緊張していたのか毎日のように話しに来ていた。
そのサリーの話を聞く限り、そのバージルさんは無茶苦茶できる男である。
何もかもできるバージルさんと何の経験もないサリー。
今はサリーが店の責任者だが、サリーはずっと罪悪感? 劣等感? いや、違うな……場違い感を感じていた。
それでも「プリンとパイは自分が作ったのだ」という一点を胸に頑張ってきた。
そりゃあ、店にとって良い新作まで考案されちゃ落ち込むよな。
しかも、それが美味しくて、見た目からも売れそうな良い商品だったらなおさら……。
「私がプリンを作ったのよ。誰よりもたくさん作ったことがある。なのに私こんな素敵なアレンジ、考えつきもしなかった……」
「そうか」
こういう時うまく慰められるといいんだが、俺はそういうのは苦手だ。
だがまぁ、相手はサリーだ。きれいな言葉じゃなくてもいいか。
「よかったんじゃないか。優秀な職人がいれば瑠璃のさえずりも安泰だろ?」
「そうなんだけど。私は……」
口をとがらせている。やっぱり、俺は慰めるのは苦手だ。
逆効果な言葉を口にしたのではないかと焦って、サリーの言葉を遮る。
「サリーは、お嬢様の専属だろ?」
「そうだけど?」
「だったらいいじゃねーか。お店はバージルさんに任せても。お嬢様が頼っているのは、バージルさんじゃない。いつだってサリー、お前だ。それに、バージルさんは今あるものをアレンジできるかもしれないが、サリーは今までにないものを作れるじゃん。それはサリーにしかできないってマティス様に言われたんだろ?」
サリーがはっとしたように顔を上げる。
「ありがとう。そうだった。私お嬢様の専属だ。今度は多分トマトで何か作ろうとしているの、お嬢様。チーズを使ったケーキも作りたいって言っていたし、何を作るのかすごく楽しみ。それで……この木型の山は何なの? 作り終わったと聞いたのだけど」
もやもやした気分が晴れれば、部屋中に散らばる木型に気がついたらしい。
せっかくだから、俺も話しながら作業させてもらう。
「あぁ、もう一セット作っているんだ。だって俺はお嬢様の専属だから」
そうだ。俺らは専属だ。俺らはお嬢様のいくところならどこへでも行くつもりだ。
お嬢様は今クラティエ帝国にいるが、ずっとというわけじゃない。
学園に通ってらっしゃるから卒業まではいるかもしれない。
でもそれからは?
ドレイト領に帰るかもしれないけれど、俺は何となく違うような気がしている。
だって、あのお嬢様だぞ。小さい体で、おとなしそうに見えて、なんでかいつも新しいことを引き連れてくる。俺の思いもかけない事態になっているんだ。
ドレイト領でも、クラティエ帝国でもない場所に行く可能性だってある。
どこへ行ってもお嬢様の靴を作り続ける。
それが俺の役割だ。
だが、俺の仕事には道具がいる。どこへでも行ってすぐにでも靴が作れるようにその環境だけは整えなければならない。
そうじゃなきゃ、ただのお荷物だ。
そんな話をサリーとすれば、サリーも専属としての気持ちを再確認したようだ。
「そうだね。私もお嬢様が行くところならどこへでも行きたい。私もいろいろと準備しないと。調理器具がどこでも手に入るとは限らないものね」
いや、さすがに森の中、山の中なんてことはないと思うんだが……。
「ルカ甘いわよ。お嬢様はカラヴィン山脈を越えて旅をしていた時の話を良くしてくれるんだけどね。結構楽しそうに話すの。山の中や森の中でもお嬢様は行くのに抵抗ないんだから」
「そうか。じゃあブーツをもう少し改良してもいいかもしれないな」
冗談を言って、笑いあう。
サリーはもうすっかり元気になったようだった。