「……やはりこうなったか」

「お、幸生。うむ、やはりこうなったようだぞ」

台所の入り口から幸生が顔を出し、クッキーが欲しいと駄々をこね跳びはねる空を見てため息を吐く。

「あのクッキーは、どうして初めて食べる人間をこれほどとりこにするのか……」

「本当に不思議ねぇ……何度か食べると慣れて、もう少し落ち着くんだけど」

「やはりあのばにらなんたらが悪いのではないのか? アレは確か雪乃がくにの神の巫女から貰った物だったろう」

雪乃が使ったバニラエッセンスは、もう随分前に治療のお礼にと人から貰った品だった。

昔、雪乃は人づてに魔法治療を頼まれ、大きな街で何人かの患者を診たことがあったのだ。

その患者の中には貿易のために日本を訪れた外国の人間もいて、何回かに分けて治療を施すうちに、その人とは通訳を介してだが世間話をするくらいの仲になった。

その世間話の中で、せっかく大きな街に来たので、娘が食べたいという外国風のお菓子を作るための材料を探してから帰る、と雪乃は話した。

するとその人は別れ際に、自国で近年作られ始めたという珍しい香料をお礼に贈ってくれたのだ。

実は彼女は自国ではとある神に仕える巫女でもあり、その神は香りに関わる権能を持っているらしい。これは彼女が神から賜った香料で、洋菓子にとても合う物だからきっと娘さんが喜ぶだろうと。

そんな貴重な物を貰えないと雪乃は断ろうとしたが、神が自分の巫女への治療のお礼として用意した物だからぜひ受け取ってくれと言われ、結局はそれを礼として受け取ったのだった。

確かにそれを入れると素朴なクッキーに甘い香りが加わり、とても美味しくなるのだが。

「田亀家の牛も良い乳を出すし、それ以外も良い材料を使っているが……正体が不明なのはあれだけだろう?」

「でもバニラっていう香料は、もう普通に色んなお菓子に使われているらしいわ。だからアレも珍しくない物のはずなのよ。あれから手紙で聞いてみたら体に悪いものは絶対に入っていないって言っていたし、この症状も一時的なものだし……」

「確かに、これほどの反応を示すのも、大体初回だけだからな」

幸生はそう言って、なおも跳びはねる空の両脇を掴んで持ち上げ、そっと棚から離した。空は幸生に両脇を支えられ、ビチビチと活き良く体を捻り手足をばたつかせている。

「これがないとちょっと物足りないから使いたくなっちゃうのよねぇ」

そう言って雪乃はテーブルに置いてあった小瓶を手に取り、ため息を吐きながら軽く揺らした。中の液体がゆらゆら動き、キラキラと金の光を微かに零す。

異国の神から賜ったという小瓶に入った香料は、もう長年使っているが何故か中身がなくなることも悪くなることもない。だが神からの賜り物にはそういう不思議なものがよくあるため、雪乃はそれを特に問題だとは捉えていなかった。

だから、自分で香料を買ったことのない雪乃は知らなかった。

バニラという物は一般的に濃い茶色や黒い色をしていて、それらを使って作った液体もやはり茶色い。決して雪乃の手にある小瓶のような、キラキラと煌めく金色ではないことを。

「とりあえず、幸生は空を外に連れ出して、気分転換をさせてこい。夕飯までには落ち着くはずだぞ」

「わかった」

「やだぁあぁ、もういちまいぃ!」

「明日ね、空」

雪乃たちの経験上、初めてクッキーを食べて狂乱した人でも少し経てば落ち着き、二度目からはこうはならない。

せいぜい、雪乃の作るこの特製クッキーが大好きになって、時折食べたいから作ってくれと材料持参で依頼してくる程度だ。

牛乳を買いに行ったらおまけでバターをお裾分けしてくれたので、そのお礼にクッキーを渡して以来定期的にやってくる田亀のように。

「やはりこれは魔のクッキーなのだぞ……空以外の孫に食べさせるのは、当分は禁止だな」

「仕方ないわねぇ」

「くっきいいぃぃ……」

どうやら神のクッキーは、人間には少々刺激的すぎるようだ。


ちなみにこの間、フクちゃんとテルちゃんは空の狂乱ぶりを台所の入り口からそっと眺めて、ちょっと怯えていた。

その後、空が食べこぼした欠片を啄んだフクちゃんが同じように狂乱してテーブルの周りをぐるぐると走り回り、テルちゃんをさらに怯えさせることとなる。

「クッキーコワイ! テル、オボエタ!」