大陸のほんの少し北側に位置する、アーサヘイム帝国の帝都。その中央付近にある帝城の中庭で可愛らしい声が響いていた。

 朝晩はまだ少し肌寒さを感じるような季節。柔らかい日差しが中庭を彩るフリージアやネモフィラを照らし、どこからともなく春の息吹が漂ってくる。

「んしょ! ああーしゃ!」

「はいはい、母様はここにいるわよ」

 小さな皇子リリアスが、四阿のベンチに摑まり足をグングン突っ張って身体を揺らしている。

「リリ、大丈夫だ。兄様が支えるからね」

「くー……しゃッ!」

「そうだ、クー兄様だ」

「まあ、クーファル兄様だと言っているわ」

「なんだと!? 母様の次は父様じゃないのか!?

「ふっふっふ。父上、私の方が先でしたね」

「くぅーッ! リリ、父様だ。父様」

「あうー! しょッ!」

 当のリリアスは、そんな事よりも自分の足で歩きたいみたいだ。さっきから片足をビシッと前に出したり戻したり、身体を揺らしてみたり。少し離れてしゃがみ両手を出しているクーファルを、キラキラした眼でジッと見ている。

「くーしゃ! あんばー!」

「そうだ、リリ。おいで!」

 リリアスがそっと小さな足を出す。だが、手はまだベンチを持ったままだ。

 ふんふんと身体を上下に揺らし、やる気は満々らしい。

「ふふふ、大丈夫よ。怖くないわ、クーファル兄様が呼んでいるわよ」

「ああーしゃ! くーしゃ!」

「そうよ、クーファル兄様ね」

「きゃっきゃ!」

 と、一瞬両手を離してパチパチと手を叩く。オムツをつけているぽっこりお尻が揺れている。

「お兄様! 自分だけ抜け駆けするなんてズルイわ!」

 大きな声で文句を言いながら、ドレスを翻して走って来るフィオン。

「フィオン、お前は何を言っているんだ。走るのではない」

「だってお父様! 私だってリリと遊びたいわ」

「フィオン、私は遊んでいるのではない。リリの特訓だ」

「お兄様、何を言っているのです。お顔がにやけてますわ」

 図星だ。クーファルは、嬉しそうな表情を隠しきれていなかった。フィオンに指摘をされて、クーファルの眼が少し泳いでいる。

 そんなクーファルの真横にしゃがみ込んだフィオン。

「こら、フィオン。ドレスが汚れるだろう」

「平気です! お兄様こそもう代わってください」

 一体何の取り合いをしているのか? 文句を言いながらフィオンはリリアスに向かって満面の笑みで両手を広げる。

「リリ、いらっしゃい。姉様よ」

「あぶぅ……くー……しゃ!」

「フッフッフッフ。そうだ、クー兄様だぞ」

「まあッ! お兄様! 抜け駆けだわ!」

「フィオン、何を言っているんだ。リリが私を呼んでいるんだ」

 クーファルとフィオンが揉めている間に、父である皇帝が静かに動いた。そして黙ってそっと両手を広げている。

 それを眼で追うリリアス。キョトンとしていたが、皇帝が両手を広げるとニパッと良い笑顔になった。そのままベンチを摑んでいた手を離した。

「ちょー」

「ふふふ、陛下ったら負けず嫌いなんだから」

「ちょー……あばぁ……」

 そういいながら小さな足を出す。ビシッと力強く前に一歩、そしてまた一歩。

 両手を少し広げてバランスを取りながら、ゆっくりと父へ向かって歩みを進める。

 大きくお口を開けて、キラキラとした笑顔で父を見つめている。

「ちょー……あうぅ……ちょー……

 父様と言っているつもりなのか?

 それにとろける様な笑顔で答える皇帝。

「リリ、ゆっくりだ。そう、上手だよ」

「あい! ちょーしゃ!」

「おおッ! エイル聞いたか!? 今リリが父様と呼んだぞ!」

「ふふふ、はい。聞いていましたわよ。確かに父様と呼びましたわね」

「どうだ、クーファル! これで同時だぞ!」

「父上、何を言っているのですか! 私の方が早かったでしょう!」

「え? え!? どういう事なのですか!? いつの間に!?

「ふぇッ! ちょー……!

 危なっかしい歩みのリリアスが、フィオンの声に驚いて尻餅をついてしまった。

「ふぇ……ふえぇー」

「ああ! リリアス!」

「フィオンが急に大きな声を出すからだ!」

「やだ、リリ!」

 皆が駆け寄る中、一番先にリリアスに手をかけたのは……。

「殿下、大丈夫ですよ。痛くありません」

「おきゅ!」

 穏やかに声を掛けながら、そっとリリアスを抱き起す。いつも鍛えているガッシリとした腕でだ。

 安心のオクソールだ。この男の腕の中は安全だと既にリリアスは知っていた。

「殿下、お母上の側に参りましょう」

「あい!」

 リリアスの両手を取り、ゆっくりと歩く。リリアスの両手を持っているのだ。だから自然とオクソールは後ろ向きに歩く事になる。

 なのに、エイルが座っている場所へ一直線に進んで行く。まるで頭の後ろにも眼があるかの様だ。

「おきゅ、ああーしゃ」

「はい、そうです。お母上です」

「きゃっきゃ! ああーしゃ!」

 手を引かれて、ヨチヨチと歩く。一歩進める度に、足元を確かめている様にギュッと踏みしめる。相変わらず、眼をキラッキラとさせて。

「お上手です。もう少しですよ」

 そう言いながら、そっと手を離していく。オクソールの指が、リリアスの手から全て離れる。だがそのままリリアスは、一歩ずつ足を進める。両手を前に出し、何かを摑むかの様に手を伸ばす。

「ああーしゃ!」

 あと数歩。エイルは両手を広げてリリアスを迎える。その手の中に飛び込むリリアス。

「きゃははッ! ああーしゃ!」

「リリ、凄いわ! よくできましたね〜!」

「あいッ! きゃはは!」

 片手をハイッと元気よくあげて、答えている。幸せそうな笑顔だ。

「なんだ、やはり母にはかなわないな」

「ええ、父上。本当に」

「リリったら、可愛いぃーッ!

 まだ春が始まったばかりの長閑な昼下がり。

 リリアスの歩む先にも、温かい日常がありますように。母であるエイルはそう願っていた。