この国に来て最初の一週間は本当に大変だった。他国から嫁いだ場合、まず最初にしなくてはいけないのは他の貴族家を覚えることだ。ガンドルフィン王国は、アルーバ神国の倍以上の国土があり、必然的に貴族の数も多い。それでもなんとか全ての家名と顔を覚えた。

 嫁いだ途端、毎日のように銀盆に収まりきらない程の招待状が届いたことにも驚いてしまった。王女時代も招待状をもらうことはあったけれど、騎士団の仕事を優先していたし教会派との関係も複雑で、ここまで数は多くなかった。

「まずはウチに慣れるところから始めましょうね。会合の出席はおいおいでいいから」

 山程の招待状を前に戸惑っている私に、義母上様は優しく微笑んでくれた。

 だから私はまず、ヴィストリアーノ家の方々の生活リズムを覚えることにした。


 ヴィストリアーノ家の朝は早い。陽が昇るのと同時に義父上様とジャンネス様が(こちらに戻っている時はアリーも)中庭で訓練を始めるのだ。

「うぅぅ、眠いぃぃ」

 私の横でまだ眠気と闘っているアリーの頭上では、ぷにちゃんが気合を入れるかのようにポンポンと弾んでいる。そんな二人の姿が可愛らしくて朝から口元が緩んでしまう。神獣様はまだ眠っているとのことだった。

 中庭には既にメリー含め数人の侍女とガエターノ様と数人の使用人が待っていた。

「皆、おはよう。では、始めるか」

 義父上様のこの一言で、一斉に訓練が始まる。とても起き抜けとは思えない激しい訓練だ。義父上様やジャンネス様は勿論、ガエターノ様や使用人たちも皆強い。通常の剣よりも遥かに重い模造剣を軽々と振り回し、華麗なステップを踏んでいるように動く。皆、アルーバの騎士団よりも強いのではないだろうか?

 試してみたいが転移の魔法陣を何度も往復したことで疲れが溜まっているだろうと、数日は訓練を休むように言われている。疲れが取れたら是非、訓練に参加してみたい。

 一方、アリーの方は体術での訓練だ。メリーや侍女たちが、次々とアリーと対峙する。あんなに眠そうにしていたアリーは訓練が始まった途端、生き生きとした表情で動き回って楽しそうだ。

 ベスティエ共和国から戻ったアリーは、以前よりも格段に強くなっていた。そんなアリーの頭上では相変わらずぷにちゃんが絶妙なバランスで居続けている。まるでダンスを踊っているようで楽しそうだ。

「はあぁ、可愛い」

 思わずボソリと呟いた私のすぐ横で誰かが笑った。

「私よりもアリーたちを見ているなんて、妬けてしまうね」

 ジャンネス様だ。軽く汗をかいている。朝日に照らされたアイスブルーの髪が、風に靡く度にキラキラして神々しく見えてしまう。こんな美しい人が自分の夫だなんて未だに信じられない。

 見惚れて動けなくなっている私の頬に、不意になにか柔らかな感触がした。なにかしら? と思った目の前にはサファイアのような瞳が見える。

「お兄様ったら」

「訓練中だというのに」

 アリーの笑い声と義父上様の呆れたような声色で、自分の身に起こったことを理解した。

 カアッと熱くなる頬の熱を隠すように両手で頬を覆う私に、サファイアの瞳の持ち主が微笑んだ。

「妻が可愛くてつい、ね」

 気付けば皆の訓練の手が止まり、私たちに視線が注目していた。恥ずかしさでいたたまれなくなった私はこの場から逃げてしまいたい衝動に駆られる。

「あ、あの。私、は、は、義母上様のところへ行って参ります」

 踵を返す私の背後からアリーの声が聞こえた。

「お義姉様の気持ち、わかるわ~」


 逃げるように屋敷内に戻った私は義母上様の元へ向かった。義母上様はダイニングで朝食の準備をしていた。驚いて目を丸くする私に気付いた義母上様が声をかけてくれる。

「あら? イレーネちゃん、おはよう」

「おはようございます、義母上様。あの、義母上様自ら朝食のご用意を?」

 義母上様は指示を出していただけではなく、自ら動いていたのだ。貴族夫人が家事をしている姿を初めて目にした私に義母上様が微笑む。

「ふふ、そうよ。朝の訓練で人が少なくなるでしょ。だから微力ながらお手伝いしているの。邪魔になってないといいのだけれどね」

 そう言いながら食器を揃えている。とても楽しそうだ。

「私にもお手伝いさせてください」

 私の申し出に一瞬だけ驚いた表情をした義母上様だったが、すぐにまた楽しそうな微笑みを浮かべた。

「ふふふ、そう? じゃ、一緒に並べましょう」

 義母上様に教わりながら食器を並べ終えると、そのタイミングで訓練を終えた義父上様たちが戻って来た。いつの間にか、訓練をしていたメリーたちも服装を整えて仕事を始めている。

「あら? もう。ふふふ」

 義母上様が義父上様を見て笑った。見れば義父上様は、髪から雫が零れ落ちている状態だ。そんな義父上様の傍に寄った義母上様は、義父上様に魔法をかけた。すぐに髪が乾きジャンネス様と同じアイスブルーの髪がサラサラになる。義父上様の顔が嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか?

「父上はね、繊細な魔力操作が苦手ということになっているんだ」

 隣に来たジャンネス様がこそっと耳打ちした。どういうことなのかわからず、目をパチパチさせていると、小さく笑ったジャンネス様が更に続けた。

「あんな見た目で甘えてるんだよ」

 義父上様の意外なギャップを目の当たりにして、自然と顔が緩んでしまう。仲睦まじい二人を微笑ましく思って見ていると、私の反対側に来たアリーも小さな声で笑った。

「ふふ、あんな姿、他の人には絶対に見せられないわよね」

 二人ともシャボンのいい香りがする。シャワーを浴びて来たようだ。魔術師団で創り出したシャワーというものがお風呂に設置されているのだが、これがとても便利なのだ。いちいち湯を溜めて洗い流す必要がない。シャワーで一気に洗い流せるのだ。なんでもアリーの発案で出来たものらしい。そう遠くない未来に他国にも流通させる予定になっているそうだ。私の義妹は本当に素晴らしい。そんなアリーの腕の中には、覚醒しきれていない神獣様がいた。

「はあ、お腹空いた。早く食べよう」

 アリーに促され席に座る。

「ぷに、ぷにぷに」

 テーブルには既にぷにちゃんが鎮座していた。皆で一緒に食べる朝食はとても美味しかった。


 朝食を終え、義父上様とジャンネス様とアリーは王城へ。見送りを済ませ義母上様とお茶を飲む。

「ふふふ、そのうち慣れるわ」

 真っ赤になっている私を見て、楽しそうに笑いながら義母上様が言う。

 見送り時、義父上様は義母上様に口付けをし、ジャンネス様も私に口付けをしたのだ。フレンチキスではあったけれど、慣れていない私は心臓がドキドキしてしまった。しかもアリーからもハグをされ頬にキスをしてもらい、もうクラクラが止まらない。そんな私に義母上様は優しく微笑んでいた。

「さ、お茶を飲みながらお仕事を覚えましょう」

 まずは山程ある招待状を片付けるところからだ。全てに返事を書きながらその家門の特徴を教えてもらう。大変な作業ではあったけれど、義母上様の説明が上手くて聞いているだけで楽しかった。

 領地の管理も仕事の一つだそうだ。ヴィストリアーノ家は、王都の屋敷以外に二つの大きな領地を持っている。どちらも魔法陣で繋がっており、すぐに足を運ぶことが出来るようになっている。一つの領地は農業が盛んらしい。もう一つの領地にはいくつか鉱山があり、それぞれに採れる鉱石が異なるということだった。義母上様は週に二、三度訪れ、隅から隅まで住民の意見を聞いて回るのだそう。

「次に行く時は、一緒に行きましょうね。皆、ジャンのお嫁さんに会えるのを楽しみにしているのよ。どんな美女にも興味を持たなかった男の心を掴んだ人を見たいって」

 そう言ってコロコロ笑う義母上様を見て、またもや顔が熱くなるのを感じた。



 それから十日程経ったある日。

「そろそろお茶会デビューしましょうか?」

 そう義母上様から提案された。相変わらず山のように届く招待状から厳選して行こうということだった。貴族の名前と顔は一通り覚えた。あとは実際に会って交流しようということだ。

 義母上様とアリーも一緒に行ってくれるという。こんなに心強いことはない。三人で少しずつデザインを変えたドレスを着て出向いた先は、マルケッティ公爵家。宰相様、ロザーリオ様のお屋敷だった。ロザーリオ様は勿論、ラウリス殿下やアリーの友人の皆さんがいてとても楽しい会になった。


 それからいくつかのお茶会や夜会に赴き、とうとう一人で、ある伯爵家のお茶会へ行くことになった。伯爵家には私より三歳若い令嬢がいるそうで、話が合うといいなと思いつつ向かったが、到着早々敵意を剥き出しにされてしまった。

 令嬢は初めてジャンネス様を見た時から好意を寄せていたらしく、どうしても私のことが気に入らないようだった。

「確かにお美しいかもしれませんが、年増、ですわよね」

「女だてらに武器を振り回していらっしゃるそうで。筋骨隆々の女性ってどうですの?」

「え? 刺繍も出来ませんの? 本当に女性なのですか?」

 確かに言われている内容は本当のことだし、ずっと好きだった男性が他の女性と突然結婚したなんて納得いかないのも無理はない。しかし、嫌味のオンパレードに腹は立たないが、ずっと聞いていると流石に辟易してしまう。

 どうにか帰る方法はないかと考えていると「失礼します」と柔和な声色のジャンネス様が現れた。途端に伯爵令嬢の頬が赤く染まる。声のトーンもグッと上がった。

「ジャンネス様もいらしてくださったのですか? 嬉しいですわ」

 ジャンネス様に駆け寄った令嬢に対して、彼は笑顔のまま答える。

「いえ、仕事が早く終わりましたので、妻を迎えに参りました」

 私に手を振りながら近寄って来たジャンネス様は、そのまま私の手を取り立ち上がらせて腰を抱いた。急な近距離に顔の熱が上がる。そんな私を見て更に笑みを深くしたジャンネス様は令嬢に視線を移すと「それではこれで失礼します」と爽やかに言って、あっという間にその場を後にした。

 なすがままに馬車へ誘われ隣同士で座ったジャンネス様は、私の手を握りながら見つめてきた。

「私のせいでごめんね」

「え?」

 思いもかけない謝罪の言葉に首を傾げてしまう。ジャンネス様曰く、伯爵令嬢は何度もジャンネス様にアプローチしていたのだそうだ。伯爵家から結婚の打診は勿論、断っているのに釣書を送りつけたり夜会などで会う度について回ったりと、中々な執着ぶりだったらしい。だから私が危ない目に遭うかもと気にかけていたそうだ。

「万が一にと準備していて本当によかったよ」

「はい?」

「こちらの話……ははは、父上や殿下の気持ちがよくわかってしまったなって、ね」

 ジャンネス様の言葉に急に悟ってしまう。

「もしかして……?」

 自分の薬指に嵌っている指輪を凝視した私を見て、ジャンネス様が笑う。

「あはは、ごめんね。諦めて」

 そう言ったジャンネス様の笑顔が眩しくて、胸の動悸が激しくなる。

「そんな顔で見られると困ってしまうね」

 どんな顔ですか? そう問いかけようとした私の口が、ジャンネス様の口で塞がれてしまう。

 この甘い執着を心地よく感じてしまう私も、すっかりヴィストリアーノ家に染まってしまったのだと感じながら、そっと目を閉じたのだった。