横抱きの要領でクラウディアを膝の上に乗せると、早くもシルヴェスターは煩悩と戦うはめになった。

「……このまま押し倒してもいいだろうか」

「ダメに決まっていますわ」

──気付いたときは、愛しい相手を抱き寄せていた。

それ自体は仕方のないことだと、心の中で何度も繰り返す。

ギーク枢機卿を介した、教会からの打診。

聖女祭を開催するにあたり、聖女の補佐役にクラウディアの名が挙がったのは、至極当然のことだ。次代を担う女性として、品格と教養が求められるとなれば、誰もが自分の婚約者を思い浮かべるだろう。

婚約式を執りおこなったことで、今や平民にも名が知れ渡っている。領地の垣根を越えた周知には、クラウディアと懇意であるエバンズ商会が一役買っていた。国の情報網を以ってしても、商人たちの伝達力には敵わないところがある。

クラウディアが補佐役になることは、王家、リンジー公爵家にとっても良い話で、今日までの進行はスムーズだった。

(禊のためとはいえ、なぜ異性との接触を禁止されねばならぬのか)

自分さえ許されるなら大歓迎だが。それこそ普段から考えていることである。

ご丁寧に親族も含まれるとあれば、シルヴェスターが手出しできる余地はなかった。

しかも明日からだ。

突然の別離。会えなくなるわけではないが、心情はそれに近い。

聖女祭までとはいえ、今、腕の中にある体温から二、三か月も離れることになる。

自分の腹の底に潜む凶暴な獣を、唯一宥められるものだというのに。

筋肉が張った硬い体に触れる、柔らかな肉の感触。

婚約式の夜、布越しに伝わる温もりに癒やされたことを思いだす。

不甲斐ない自分を晒してしまった後悔と共に、安らぎがあった。

気を抜けば煩悩にまみれてしまいそうになるものの、それだけではないのだ。

(だから、まだ理性的でいられると思ったのだが)

現状確認が一段落すると、二人の間に沈黙が落ちる。

クラウディアから微かな緊張が伝わってきていた。

いつもは余裕を崩さないが、こうして二人きりになると意識されるから堪らない。

胸が熱くなり、愛おしさが溢れる。

黒髪から覗く白いうなじに誘われて、頬を寄せた。本当は口付けしたかったが、止まらなくなりそうだった。唇を這わせ、全てを味わい尽くしたくなるに決まっている。

「ディア、君を愛してる」

実感を込めて、呟く。

緩やかなクセのある髪の一本一本が。

クラウディアを形作る全てが、愛おしい。

体の芯が沸騰し、伴う切なさで目頭が熱を持つほどに。

沸き立つ思いを知って、「愛」という言葉を理解した。

「私の心を、君が全て持っていくのだ」

「お互い様ですわ」

柔らかな声音が返ってきて、顔を見たくなった。どんな表情で口にしているのか。

頬を離し、彼女の横髪を手でそっと払う。薄いカーテンを開くように。

すると内側から放たれた芳香に、一瞬、目眩がした。

くらり、と頭が傾きそうになる。

クラウディアが愛用しているバラの香水。それと一体化した彼女のフェロモンがあった。

本能的に体が反応する。

こればかりは止めようがなかった。

理性ではどうにもならない部分。男としての性が、輪郭を持つ。

クラウディアも異変を察して身じろぐが、逆効果だ。

「すまない、今は、動かないでくれ」

「はい……」

性欲に翻弄されるたび、情けない、といつも思う。

どうしてこうも制御が利かないのか。

余裕を持っていたいのに。

いつだって、頼られる存在でありたいのに。

クラウディアを前にすると、呆気なく崩れてしまう。

これ以上、醜態は晒せないと深呼吸する。

吐き出した息が、クラウディアの黒髪を、頬を撫でていった。

呼応するように、朝露を含んだ花弁のような唇からも吐息が漏れた。

ようやく焦点の合った横顔。

薄く色付いた頬を見て、クラウディアの体にも熱がこもっているのを察する。

(本格的に危ないかもしれぬ)

理性の糸が擦り切れ、細くなるのが自分でもわかった。

汗で肌が湿り気を帯びる。

ただ、その段階になっても離れがたかった。

(ディアも同じ気持ちだろうか)

逃げようと思えば、いつでも膝の上から退ける。

にもかかわらず、クラウディアは律儀に動かずにいてくれた。

言葉はない。

呼吸だけが交わされる中、思いをくみ取る。

(冷静になれ)

どれだけ血が煮えたぎろうとも。

考えることをやめるな、と自分に言い聞かせる。

焦りに身を任せれば、失敗するだけだ。これで嫌われたらどうする。

恐怖を、抱かれたら。

決して訪れてほしくない未来があった。回避方法は言うまでもない。

いい加減、未練を断ち切るときだ。

長く息を吐き、クラウディアを解放する。といっても、隣に座らせただけだが。

隣からほっとした空気が伝わってきて、自分の行動が正解だったと知る。

空いた空間に寂しさを覚えるものの、幾分、こもっていた熱も放出された。

結局、何がしたかったのか。

不甲斐ない面を改めて見せただけではないのかと、自責の念に駆られる。

(呆れられているだろうか)

ことあるごとに、欲を抱いているのは伝えてきた。

隠すほうが紳士的だろうけれど、下手に隠すと失敗を招き、より悲惨な事態になりそうだった。

そんな未熟な自分を、クラウディアはいつも受け入れてくれる。怒られるときもあるが、引かない姿勢に救われていた。

とはいえ、さすがに毎度はどうかと自分でも思う。

しかも禊という神聖な儀式の前だ。

気分を害していたら謝ろう。それしか道はない。

意を決し、様子を窺おうとしたところで、先に動きがあった。

クラウディアが肩にもたれかかってきたのだ。

「少し、このままでもよろしいかしら?」

「少しと言わず、ずっとでも構わない」

断りを入れる必要すらない。触れられた途端、心臓は大きく跳びはねたが。

「本当に、ずっとこうしていられたら良いのですけれど」

時間は有限だ。

なお且つ、シルヴェスターにも、クラウディアにも立場があった。

人の上に立つ者として、個人的な時間は限られている。

問題が起これば、即中断させられるときもあるほどだ。

だからこそ、より離れがたくなってしまう。

(いや、これは言い訳だな)

仮に立場が違っても、時間に余裕があっても、傍にいたい気持ちは変わらない。

どちらともなく手を握り、指を絡める。

「私はディアに甘えてばかりだ」

いつだってわがままを通すのは自分のほうである。

それを当然だと思ってしまってはいけない。

以前、母親から聞いた父親への不満は、全て慢心によるものだった。たとえ元から割り当てられた行動であっても、感謝を忘れると信頼が揺らぐのだという。

自分の経験則ではないが、あのときの母親の疲れた表情が印象に残っていた。夫婦仲は良いほうでも、そういうときがあるのだ。

反省を口にするシルヴェスターを、クラウディアが見上げる。

「甘えているのは、わたくしのほうですわ」

「たとえば?」

「今だって、こうしてシルの時間を独占していますし」

「私も君の時間を独占しているが?」

そう答えると青い瞳が揺れた。

別の言い分もあるが、言いかねているようだ。

視線が逸らされる代わりに、握る手に力が込められる。

「……その、最終的には、シルの理性に頼り切っていますもの」

羞恥から声量は控えめだった。

甘く響く声に、喉が渇く。

「触れないほうが良いとわかっているのに離れられないのは、わたくしの意志が弱いからですわ」

最初に距離を詰めたのはシルヴェスターだが、隣へ解放されたあとに体を寄せたのはクラウディアのほうだった。

むしろ求められてシルヴェスターは嬉しいけれど。

「危険な行動ではあるな。自分で言うのもなんだが、結構綱渡りをしている」

一本の細いロープの上で、辛うじて保たれている理性。

次の瞬間には、押し倒している可能性もあった。

切実な心境を吐露すると、笑みが返ってくる。

「ふふ、それでもシルは、わたくしを尊重してくださるでしょう?」

軽口を叩いている間は大丈夫だと思われているのか、クラウディアに危機感はない。

これまで積み重ねてきた信用の賜物だと考えれば報われるものの、胸中は複雑だった。引き続き、理性を保てる自信がないからだ。

顔を上げ、潤んだ瞳を向けられれば尚更だった。

視線の先では、キツい目元が和らぎ、長い睫毛が影を落としている。

(だからといって信頼を裏切るわけにはいかぬか)

面と向かって言われたくらいだ。

手の平から伝わる温もりを尊び、空いているほうの手で腿を抓る。

今この瞬間さえ耐えられればいい。

どうせ、もう少しすれば、誰かが次の予定を促しに来るだろう。

自分が一番大切にしたい人を黄金の瞳に収めれば、多少の困難は乗り切れた。


その夜、ほとんどの人間が眠りにつく時間に客を呼んだ。

一人はお馴染みの赤髪の持ち主と、もう一人は男性の踊り子だ。後者は講師として招いた。

クラウディアが禊で身を清めている間、シルヴェスターは自分に何ができるかを考えた。

出た答えは、自己研鑽だった。

再び肌が触れ合えるようになったとき、よりクラウディアを釘付けにしたかった。

動機を踏まえれば、禊とは正反対のもののようだが、自己研鑽という大きなカテゴリーの中では同じだ。

個人的な魅力の底上げには、普段とは違う視点が必要で、思い至ったのが踊り子の存在だった。

過去、出席したパーティーで、彼らが人々の視線を集める技術を持っていることを知った。

男娼も候補に挙がったが、まずは入り口として、多人数向けの技術が気になった。

トリスタンにも声をかけたのは、ルイーゼ嬢との進展があまり見られなかったからだ。

講師は二十代後半で、シルヴェスターやトリスタンと似た背格好をしている。

呼ばれた理由を理解しているため、踊り子の衣装ではなく普段着だ。

挨拶を済ませるなり、視線誘導について教わる。

「まず自分を見てもらわないことには、はじまりません。一対一の場合も、見てもらいたいところへ、相手の視線を誘う必要があります」

一番簡単なのが目立つ色の布を振って存在を主張することだが、それこそ踊り子など演者でもない限り不自然極まりない。

「違和感なく使えるのが手です。また手ほど明示的ではないものの、視線の動きも有効です」

立った状態、座った状態で手本が見せられる。

ところどころ艶めかしい動きに、トリスタンが声を潜めた。

「シル、本当にこういうのが必要なんですか?」

「一緒に習いたいと返事したのは、お前だろう」

当初は乗り気だったものの、いざ自分が同じことをするとなると怖じ気づいたらしい。

戸惑いは講師にも伝わり、優しく声をかけられる。

「全てを真似る必要はありません。お伝えした技術は、自分を表現する手段に過ぎませんから。基になるのは自分という『個』です。性格に合わないことは、逆にしないほうが良いですよ」

そうなんですね、とトリスタンが頷く。

「気持ちが伴わない行動は、どう頑張ったところで良くはなりません。またいくら自分を見せたところで、相手が気に入らなければ、どうしようもありません」

そうですよね……、とトリスタンが床を見る。

見かねてシルヴェスターは口を開いた。

「お前はまず、自信を持つことが先かもしれぬな」

一緒に学ぶには、まだ早かったか。

しかしルイーゼ嬢のトリスタンへの反応を見るに、今夜の講義で得るものもありそうだった。

トリスタンの弱気な姿勢を見て、講師が言葉を重ねる。

「自分に自信がない場合は、相手を楽しませるのを意識してみるのはどうでしょう。どうすれば相手が喜んでくれるか、一つ一つ試して反応を見るんです」

この言葉には、シルヴェスターもなるほど、と思った。

自分をよりよく見せることが先にあったからだ。これは王族としての所作にも通じていた。

(よくよく考えてみれば、演説も、相手も喜ばせてこそか)

民が指導者に望む姿を見せるのも、結果的に同じことではないだろうか。

講師のフォローに、トリスタンも顔を上げる。

「相手を楽しませる……」

「そうです。単純に考えて、相手が楽しいと自分も楽しいですし、嬉しいでしょう?」

「はい」

「そのとき、手段が多いに越したことはないと思いませんか?」

人の好みは千差万別だ。

どれが相手に通じるかわからない以上、技は多いほうが良いだろう。

トリスタンも深く頷く。

「思います!」

「良い返事です。人に見てもらうのが一番の練習になりますが、羞恥心が勝るようなら、鏡の前でも大丈夫ですよ」

シルヴェスターが企画した講習会はつつがなく終わり、機会があればまた開催することが決まった。

「今度はヴァージルにも声をかけませんか?」

「あいつが参加するとは思えぬが」

「聞いてみないとわかりませんよ」

小舅こじゅうとに当たる人物を頭に浮かべると、あまり乗り気はしない。

けれど、ヴァージルにも楽しませたい相手がいるなら、呼んでみるのもいいかと考えを改める。そうすれば自分への当たりも、少しはマシになるのでは、という打算もあった。

客室に泊まるトリスタンと別れ、自室へ向かう。

途中、クラウディア用に設けられた部屋の前を通った。

婚約式の夜、忍び込んだことが思いだされる。

あのときの自分は理性がありつつも、心のどこかで狂ってしまいそうだった。

それを静めてくれたのは、ほかでもないクラウディアだ。

聖女ですら癒やせない傷を、癒やしてくれる人物。

唯一無二の存在。

少女のように可憐に笑む姿、腕の中で照れる姿、あるときは妖艶に人を誘う姿など、様々なシーンを思い浮かべながら暖房の効いた自室に入る。

そして姿見の前に立ち、講習会で習ったことを思いだしながら、自分の体に手を這わす。

(ディアは私のどこが好きだろうか)

時折、視線を感じるのは筋肉が見て取れるところだ。

服の上からでもわかりやすいのは、胸と腕。薄着になれば、腹筋や足も入る。

(いっそ直に見せてしまうのもいいと聞いたな)

袖をまくったり、シャツのボタンを外すのも効果的だと講師は言っていた。

特にシルヴェスターは、かっちりと隙のない服装が常だ。ギャップは、強く印象に残るとも教わった。

(ディアにも通じるといいが)

こればかりは反応を観察するしかない。

一通り復習を終えると、ベッドサイドテーブルにあるデスクランプ以外の光源を消し、窓を薄く開いて風に当たる。

凍てついた風が、一瞬にして熱のこもった体を冷やしてくれた。

日の光を失った外は、闇が広がるばかりだ。

見るものがないまま視線を向けた先で、婚約者の気を引こうと足掻く自分を反芻すると、自嘲が浮かぶ。

他人から見れば、さぞ滑稽こっけいだろう。

「トリスタンに限った話ではあらぬな」

自分とて、自信がないのだ。

婚約者になるまで、失敗を重ねていたからだろうか。今も失敗していないとは言い切れないが。

偏屈な性格が災いしている自覚はある。

ただ、それ以上に。

ふとした瞬間、瞬きをした隙に、クラウディアがいなくなってしまう不安があった。

不運体質の少年探偵に巻き込まれた件がきっかけではない。

その前からずっと、心の奥底でくすぶっているものがあるのだ。

理由はわからない。

誰しも、愛おしい相手ができれば感じるものなのかもしれない。

永遠に続くものはないとも聞く。

小さなことが積み重なり、不安となっているのか。

わからない。今後、克服できるのかどうかも。

座して待つことはできず、手当たり次第に行動を起こしている。

「ディア」

愛しい人の名前を呼ぶ。

もちろん何も返ってこない。

それでも。

「ディア」

名前に、声に、願いを込める。

何事もなく再会し、また睦まじい時間を過ごせるように。

最後には目を閉じ、祈った。