難民は救いを得る

疲れ果てていた。

夫は徴兵を受け、生死も知れない。

現実に絶望していたといってもいい、けれど子どもたちの手前、泣いてはいられなかった。自分に残された唯一の心の拠り所。

三歳と五歳になる息子たちと体を寄せ合い、旅をする中で浮かぶのは祖国のことばかり。

なぜ自分たちが生まれ育った地を離れなければならないのか。

(家を離れてしまったら、誰が夫の帰りを迎えるというの?)

けれど安全には代えられなかった。

近くの村が襲撃に遭った。食料が奪われ、女性と子どもは悲惨なことになったと。

血を流しながら、命からがら逃げてきた人の言葉だった。

身近に戦火が迫っていた。

逃げてきた人はそのまま息絶えた。明日には自分と我が子もこうなるかもしれないと思うと怖くて仕方がなかった。

疎開は村ごとにおこなわれた。二つ、三つ近隣の村を合わせて、移動がはじまる。

比較的被害の少なかった村は遠方へやられた。長い旅のはじまりだった。

脱落者は置いていくしかなかった。心の善なる部分が削られていくのを感じた。

明日は我が身である。ぐずる子どもたちに苛立ちが募っては、自己嫌悪に陥る。

祖国を出ても安心からはほど遠い。

物資を狙って盗賊が現れたからだ。

噂に聞く、パルテ王国人の強さを目の当たりにしたが、被害が出ることもあり、気が休まらなかった。

(無事に辿り着けるのかしら)

もしかして、こうしてジワジワと人を減らすのが狙いなのではと邪推してしまう。

誰だってお荷物を抱えたくはない。

着の身着のまま逃げてきた自分たちが、誰かの役に立てるとは思えなかった。

それでも死ぬのは怖かった。

顔見知りの修道者から聖女の言葉が届けられたときは、有り難かった。無条件に保護されるとわかったから。遠い旅路は無駄ではないと知れた。

同時に、自分たちが難民である事実が突きつけられたけれど。

(何も悪いことはしていないのに)

あの場所で暮らしていただけだった。住んでいただけで夫は徴兵され、自分たちは難民になった。普通の人でなくなってしまった。


やっと辿り着いた疎開先は、想像を超えていた。

背の高い建物をはじめて見た。

同行する修道者曰く、自分たちの暮らしていた場所は、周囲の国々からすると危険で、貧しかったという。それに対して、ここ、リンジー公爵領は豊かで平和だと。

しばらくは窮屈を強いられるけれど、一世帯ごとに家が与えられると聞いたときは嘘だと思った。

(体力をつけさせて、どこかへ売られるんじゃないの?)

聖女の言葉があっても、相手を信用できるかは別問題だ。

ずっと護衛してくれていたパルテ王国人たちが離れると聞いて、更に不安が心を蝕む。ここへ盗賊が出ないとは限らない。

現場監督を名乗る人間は大丈夫だと言うけれど、信じられるのは修道者しかいなかった。

現状の聞き取りがおこなわれるけれど、多くが口を噤んだ。見返りに何を求められるかわからなかったからだ。

ただ日に日に、人心地つける時間が増えているのは確かだった。

子どもたちが外で遊びたがる。

放ってはおけず、寒空の下、外へ出た。自然と母親たちの集まりができる。

「これからどうなるのかしら」

話題はその一点に尽きた。

日々の細々とした不満、愚痴を言い合う。現場を行き来する男性からの視線が不快だという声もあった。徴兵を免れた難民男性も含め、嫌な感じがする瞬間があるという。

「子どもに何かあったら耐えられないわ」

「協力し合いましょう」

人目があれば防げる問題だった。子どもたちにも注意を促す。

そんなある日、慰問がおこなわれると告知があった。

とても偉い人が様子を見に訪れるという。

──怖かった。

聖女の言葉に従えば、自分たちは保護されるべきである。

けれど無償の善意など存在しない。

遂に見返りを求められる日が来たのかと、子どもの肩を抱く。

身を硬くする自分たちに向かって、祖国から共に来た修道者──スミットが声をかけてくれる。

白髪が目立つものの、日に焼けた肌に、ガッシリとした体格は頼もしく、移動中もずっと皆の心の拠り所だった。

「怖ければ祈りなさい。祈る人に乱暴する方ではありませんから」

その言葉を信じて、当日は祈った。

極力、目を合わせず、嵐が通り過ぎるのを待つ。

しかし祈りは通じなかった。

白羽の矢が立てられ、公爵令嬢その人に呼ばれる。

(スミット様の嘘つき……!)

悪態を胸にしまい、ひたすら平伏する。

悪いことをしたつもりはない、子どもたちに罪はないと訴えた。

返ってきた言葉に耳を疑った。

謝罪だったのだ。

凜と澄んだ声音につられて、思わず顔を上げてしまった。

美しい人が、すぐ傍にいた。

地面についた拳に温もりが触れる。垢まみれの手に。

優しく包み込まれ、腰を抜かす。

「さぞ心細かったことでしょう」

続いて、次々と自分の人となりや、抱えている不安を言い当てられた。魚のようにパクパクと喘ぐ。

(ああ、もしかしたら、目の前にいるのは人ではないのかもしれないわ)

そう考えると、妙な納得があった。

手に触れる柔らかな肌も、宝石のような青い瞳も、上質な黒が織りなす長い髪も、この世のものとは思えなかった。

頭の中が見透かされているのも道理だ。

(スミット様への悪態も聞かれたかしら)

今になって後ろめたくなる。

いくら修道者でも、目の前の美しい人の行動は予測できなかっただろう。

ここまで埒外の存在を相手にすると、不思議と開き直りが生じる。

どうせ隠せないなら、吐き出しても一緒だと。

それと同時に、手の平から伝わってくる温もりに安心感も覚えていた。

膝を突き合わせて語られる内容から、彼女自身が心を開いてくれているのがわかる。

ぽつり、ぽつりと質問に言葉を返せるようになった。

幼子のような返事でも、美しい人は嫌な顔一つせず聞いてくれた。

悩みを全て打ち明けた途端、清々しさが胸を貫き、涙が溢れる。

フケや垢だらけの汚い体。自分のことで鈍化していても、悪臭を放っている自覚はある。

普通の人なら見向きもしない外見なのは確かだった。

なのに。

「ええ、よく頑張りましたね。子ども二人を連れて長距離を移動すれば、何度も心が折れそうになったことでしょう。でもあなたはやり遂げた。あなたはとても立派な母親よ。大丈夫、子どもたちも、ちゃんとそれを理解しているわ」

何一つ疑うことなく、真っ直ぐ目を見て、認めてもらえた。

(ああ、知ってくださっている)

自分がどれだけ苦労したか。大変だったか。

何の変哲もない普通の人間であることを。

美しい人の胸に抱かれて号泣した。

泣きはらした目に、水で濡らした布をあてられる頃には、身も心も軽くなっていた。

恥ずかしいところを見せて、すみませんと頭を下げる。

「いいのよ。でも、そうね、もし引け目を感じるときがあれば、一つだけやってほしいことがあるわ」

「何でしょう?」

「困っている人がいたら助けてあげてくれるかしら」

身近な人でもいいと言われ、首を傾げる。

「それだとクラウディア様には何も返らないんじゃあ……?」

「不思議なことに返るのです。巡り回って、あなたのおこないが誰かの助けになれば、やがてわたくしへも行き着きます」

そういうものなのです、と言われて頷く。

美しい人は自分とは違う視点で世界を見ている。この人が言うなら、そうなのだろう。

面談が終わると、次の人が呼ばれた。

美しい人が帰っていくのを見送り、集団幻覚じゃないですよね? と近くにいたスミットに確認する。

「現実ですよ。乱暴もされなかったでしょう?」

言われて、スミットの言葉が正しかったことに気付いた。

ならば手にした温もりも、現実のものだったのだ。

実感が湧いてきて、じわじわと胸が熱くなった。

ほう、と熱を吐き出して気付く。見慣れた浅黒い修道者の横顔が、疲れていることに。

当然だ、彼も自分たちと同じだけの苦労をしてここにいるのだから。むしろ病人やケガ人につきっきりだった彼のほうが疲弊しているはずである。以前より白髪も増えたように見えた。

どうして今まで気にせずにいられたのだろう。

「あの、スミット様はお疲れでないですか?」

「おや、他人を気遣えるほど回復されたようですね。自分は大丈夫ですよ」

笑顔を向けられるが、その目元にあるクマは色濃かった。

心配が伝わったのか、笑みが苦笑に変わる。

「気が昂ぶって少し眠れていないだけです。他の方もネリさんのように心の余裕を取り戻せれば、これに勝る安心はありません」

言われて、そうか、と納得する。

今まで無関心でいられたのは、自分に余裕がなかったからだと。

そしてどんな状況でも他人を気遣うスミットの姿に尊敬を覚える。

やはり自分たちのような普通の人間と、修道者であるスミットは違うのだと再認識させられた。

「スミット様は凄いです。わたしたちが負担じゃありませんか?」

「なんと寂しいことを。ネリさんをはじめ、皆さんの心の奥にまで寄り添えるのは、共に来た自分だけだと自負しています。むしろお役に立てて嬉しいくらいですよ。気兼ねなく任せてください」

「いつもありがとうございます」

感謝を口にしつつも、ようやく気付いた目の下のクマに、一日でも早く、彼が落ち着いて眠れることを願わずにはいられなかった。


しばらくして、領民との文化交流がはじまった。

伝わらない単語、やらない習慣などが洗い出され、互いの理解を深めていく。

ここで自分の頭の悪さが露呈した。

現地の女性たちと川で洗濯をしているときだった。

この頃にはお湯が行き渡り、身綺麗にできる余裕が生まれていた。

何でもかんでも施設の人に任せるのは気が引けて、汚れた食器なども一緒に洗おうとして止められる。

「あ、ネリさん、油汚れはダメよ!」

「洗濯はいいのに?」

「服はそうそう油まみれにならないでしょ?」

川に流していい汚れの基準があるのだとはじめて知る。

「考えなしに川へ流すと、汚れが広がって下流の人が困るのよ」

魚たちにも良くなかった。

そのために下水道があることを教わった。難民施設にも引かれているという。

人口の多い都市部では、洗濯すら川でしないとか。この辺りは農地が多く、比較的に人が密集していないため、許されていた。

「汚れた水を集めて、綺麗にするところがあるのよ。ある程度、汚れと水を分けてから川へ流すの」

「水を綺麗に……考えたこともなかったわ」

かしこく生きてきたつもりだけど、何というか、ものの考え方とか、視野の広さとか、ずっと狭い世界で生きていたのだと突き付けられた。

女性たちは環境の違いよ、と慰めてくれた。

領民でも農業従事者は、農業のことしか知らずに一生を終えると。

頭が悪いのではなく、知識が少ないだけだと言われた。

慣れれば自分に合った職が与えられ、賃金も出ると聞いて、感傷に浸るのはやめた。お金は大事だ。祖国の村では物々交換も多かったけれど、衣類の購入にはお金が必要だった。

ちょうど農業の繁忙期でもあるらしかった。

交流で一番盛り上がったのは子どもについてだ。どこでも母親が抱える悩みは同じで安心する。

「うちの子は、とにかく動くものが好きで、危ないって言ってるのに、すぐ工事現場へ行っちゃうのよ」

正に同じことで悩んでいて、思わず手を叩く。

「うちも一緒! 男の子だからかわからないけど、兄弟揃って工事を見ようとするの。施設周辺は何かしら工事してることが多いから、もう目が離せなくて」

「わかるわー! そうね、施設だともっと大変よね。わたしでも、いっそ犬のリードでも着けておきたいぐらいよ」

離れて見ている分にはいい。けれど大人が注意していないと、怖い物知らずでドンドン近付いていくのだ。しかも大人しくしていないし。

警備が増えたおかげで一時に比べれば不安は減ったものの、知らない人について行かないか、気が気でなかった。

話が盛り上がっていたからか、現場監督へお弁当を持って来ていた奥さんも顔を出す。

現地の領民と難民が打ち解けている様子に、奥さんはほっとした様子を見せた。

ふと、奥さんが持つ鞄に付いていた飾りに目が行った。

視線に気付いて、より見やすいよう前に出してくれる。

青と黒の小さなタペストリーだった。どうしてか心が惹かれる。

「これはクラウディア様とヴァージル様を象徴する、推し雑貨よ」

「推し雑貨……?」

面談をしてくれた美しい人の名前がクラウディアだということは、そのあとすぐに知った。

兄がヴァージルで、領主代行を務めているとも。

推し雑貨というフレーズは聞き慣れなかったけれど、二人の髪色と瞳の色を表すタペストリーに、概念はすぐに理解できた。

「わたしも手に入れられるかしら」

「あら、そうね……これは主人に提案したほうがいいかも」

言うが早いか、奥さんは現場監督の下へ向かった。

後日、難民の大人向けに見覚えのある飾りが配給された。

推し雑貨の存在は、難民の間ですぐに広まった。

持っていると領民の視線が和らぐとわかってからは、お守りになった。

仮設住宅の建設が一段落し、日雇いの人間がいなくなると、子どもを預けて働きに出られる女性が増えた。

皆、支援が永遠に続くものではないと理解していた。

打ち切られるまでに自立しないと。

運良く貴族の後援者が見付かった人もいるけれど、稀な話だった。

(一難去ってまた一難)

手持ちのお金を見て、溜息をつきたくなる。

配給物資の他に、毎月食費が手当としてあった。

炊き出しが終わったあとは、自分たちで賄わねばならない。とはいえ、配給物資に食料もあるので、現金は実質、緊急時に傷薬といった必要なものを買うためのものだった。

配給が終わったときのことを考えると憂鬱になる。

それでも命の心配がないだけ幸せだった。

予告もなく突然支援が打ち切られることはないと聞いている。それこそ戦争でもはじまらない限り。戦争なんてあり得ないと、現場監督の奥さんは笑っていた。

(不思議な感じ……)

二つ、三つ、国を越えただけで、平和な世界があった。

自分が物心ついた頃から、祖国の情勢はずっと不安定だったというのに。

(何が違うんだろ)

頭の悪い自分にはわからない。

けれど、何の杞憂もなく走り回る子どもたちを見られる尊さは理解できた。

時折、夫のことが浮かぶ。

もし。

もし、祖国が落ち着いたら、また会えるだろうか。

生まれ育った場所のことは忘れられない。

ただ昔の日常に戻れる自信はあまりなかった。子どもたちにとったら、ここで暮らすほうが幸せだろうとも思う。

土と掘っ立て小屋だけの、狭い世界に閉じ込めるのは可哀想だった。

(夢よね)

わかっている、いつかは帰らないといけない。

領民がどれだけ良い人たちでも、自分たちは難民で、異物に過ぎないのだから。

そのうち出て行く客人だから、優しく接せられているとも考えられる。

(難民でなくなったら、帰れと言われて当然よ)

聖女の言葉通り、難民だから保護されているのだ。

では、難民でなくなったら? 祖国へ戻るしかない。あの狭い世界へ。貧しい村へ。

正直言うと、貴族の後援を得られた人が羨ましかった。彼女はずっとここで暮らせるから。

夫が頭を過る。

忘れたわけじゃない、今だって恋しい。

だけど──。

(はぁ、今は目の前のことに集中しよう)

仕事に就かないと。

子どもたちの分も、推し雑貨を買ってあげたかった。


文化交流が終わり、職業訓練がはじまった。

土地柄、農業が盛んなのもあり、自分は農作業を選択した。

文化交流で友人になった領民の女性から勧められたのも大きい。今では彼女と一緒に農作業をし、給料を貰っている。その折、保険制度の話を耳にするようになった。

休日、洗濯物を干していると仮設住宅近くで現場監督を見付けた。子どもたちには見える範囲にいるよう言い含めて、呼び止める。

彼とは奥さんを通じて顔見知りになっていた。文化交流、様々である。

クラウディアから、自分が条件さえ整えば社交的になって前を向ける人間であると言われた通りだ。場を提供されたおかげで、領民の知り合いがたくさんできた。

一時期は難民施設に常駐していた現場監督だけれど、最近ではたまに様子を見に来るぐらいになっている。彼の自宅と元々の仕事先は都市部にあり、ここへは馬車を使わないと来られない。偶然会えたのは運が良かった。

(反対にスミット様は良く見かけるようになったけど)

スミットも仮設住宅を利用しているので、自分から赴かなくとも目に付く機会が増えた。

最近は、ぼうっとしている姿が多く、少し心配だ。目の下のクマも相変わらずだった。

声をかけても大丈夫と返されるばかりで、修道者に対し、ネリができることは何もなかった。

気を取り直して、現場監督に集中する。

難しい話は頭が追いつかないけれど、難民にも触れられていると知ったら、確認せずにはいられない。どこでも情報収集の上手い人間が得をする。

「ああ、まだ先の話だけど、実施に向けて動いている。仮設住宅を建てていた、たくさんの日雇い労働者がいただろう? その半分は今、学校をつくっているよ」

「学校?」

なぜ保険の話で学校が出てくるのか。

首を傾げると、現場監督は関係ない話だったと謝った。色んな仕事をしているので、一つの話題に、他のものも付けて喋ってしまうらしい。

「妻にもよく指摘されるんだ。そうだ、保険の話だったね。領民と特例で難民も、皆で保険をかけて、皆で安くお医者様に診てもらおうっていう制度をつくっている最中なんだ」

保険の仕組みを教えてもらうと、村で女性たちが集めていたお茶代と似ていた。皆で少しずつお金を持ち寄って、その日のお茶代にする。お茶代の金額は決まっていて、必ず余りが出るので、余った分を貯めて、困ったことがあったときに放出するのだ。

若い頃はお茶代も貯めたら良いと思ったけれど、皆でお茶を飲む時間も大切だった。連帯感が生まれるし、年長者から聞く経験則には助けられた。

実は今でも仕事の休みが合ったらやっている。

「お金って、たくさんいりますか?」

「大体、収入の一割から二割ってところかなぁ。ただし、収入が少ない人には割引がある。このあたりは支援との兼ね合いだ」

「なるほど……」

結構な痛手だ。けれど子どもたちの病気やケガを診てもらえるなら有り難い。

薬が効くのは体験済みだった。痛み止めを飲んだら、全く痛みがなくなった衝撃は今でも思いだせる。

祖国のまじないには即効性がなかった。リンジー公爵領では、まじないが効かないと知ったときはショックだった。修道者の話では、住む土地で効果が変わるのだという。

「お医者さんには難民も診てもらえるんですか?」

「もちろん! 皆だよ、皆。これって凄いことなんだ。口で言っても伝わりにくいのが残念だよ」

ヴァージルとクラウディアの考えだと聞いて頷く。

「それなら、きっと凄いことですね」

現場監督の視線が胸元へ落ちる。

鞄用のチャームを自分はネックレスにしていた。

青と黒を瞳に収めて、現場監督の目元が緩んだ。効果は絶大だ。

「君はクラウディア様推しだったか。この政策のおかげで、お偉い年寄り連中まで浮き足立っているよ。リンジー公爵領の未来が楽しみで仕方ないんだ」

「クラウディア様は凄い人ですから」

再び大きく頷く。

兄のヴァージルが次期領主で、クラウディアは王家へ嫁ぎ、ゆくゆくは国で一番偉い女性になると聞いて、納得したものだ。既に聖女の補佐役にも任命されているという。

彼らのすることに間違いはないだろうと、節約できるところを計算していく。

「いつからはじまるんですか?」

「早くて三、四年先だね」

「えっ」

気の長い話に、頭がついていかない。

「大きな政策だから準備に時間がかかるんだ」

「えっ、でも、難民も入ってるんですよね?」

「入っているよ?」

「もう難民はいなくなってるんじゃ?」

そう言うと、現場監督は口を開けて笑った。

「あはは、そうかもしれないね。領民になっている人もいるだろうし。その頃には、帰りたい人が帰れるようになっていれば良いね」

領民になっている人、帰りたい人、という言葉を上手く消化できない。

自分にとって、都合良く聞こえた。

帰りたくなければ、帰らなくて良いのだと。そんなことはあり得ないのに。

ちらりと現場監督を見る。

彼は質問を待ってくれていた。自分が話についていけていないのを察したようだ。

どうしてわかるのかと訊ねれば、眉間を指さされる。

「深いシワを寄せて難しい顔をしていたら、誰だってわかるよ」

「ああっ、気付きませんでした」

ゴシゴシと眉間を擦る。

「あの……誰にも言わないでほしいんです。わたしが勝手に考えていることだから」

「うん、口は堅いから安心して」

「祖国が落ち着いても、ここに残る方法ってあるんでしょうか? その、危ない方法じゃなくて」

今度は現場監督が考える番だった。

顎に拳を置いて、見るからに考える姿勢を取る。先ほどの自分も同じだったのだろう。

(やっぱり無理よね)

方法があるなら、すぐに答えが出るはずだ。

なんて欲張りで、恩知らずだと思われてるんじゃないだろうか。

(言わなきゃ良かった)

現場監督なら正しい方法があれば知っているだろうと、つい残りたい気持ちが勝り、訊ねてしまった。

彼らにしてみれば、一刻も早くいなくなってほしいだろうに。

(わたしってバカだ)

頭を抱えたくなる。どうしてもっとよく考えずに口にしてしまったのか。

今からでも謝ったら許してもらえるだろうか。

「その、ごめんなさい」

「ん? ああ、いや、方法がないわけじゃないんだ。何だか僕と君で食い違いがありそうで、原因を考えていたんだよ。また悪いクセが出てしまったね」

「方法があるんですか!?

「あるよ。今みたいに残りたいと言えばいい」

正確には、そのときが来たら、手続きしてもらうよと続けられる。

帰りたい人は帰って、残りたい人は残ればいいと。

そんな夢みたいな話があるのだろうか?

「多分、『難民』っていう言葉が悪いんじゃないかな。やむを得ず祖国を出なければいけなかったという点で、間違いではないんだけど。僕たちは『移民』として認識しているんだよ」

「移民……」

「移り住むために来た人、だね。実は領民の間でも難民受け入れに対して不安があったんだ。なぜかって、君たちが一時的ではなく、長期的にいる人たちだから。話が通じるか心配だったんだ。今は文化交流のおかげで解消されているけどね」

「じゃあ最初から……」

最初から、自分たちは残って良かったのだ。

犯罪者でない限り、強制送還されることはないと知れて、安堵で涙が溢れる。

「どうやら僕たちは、まだまだ話し合いが足りないみたいだ。君の気持ちを知れて良かったよ。近々、会合を開こう」

そこで改めて保険についても説明してくれるという。

早くても三、四年後に実施されると聞いて、気の長い話だと思った。

それは、これからも一緒に暮らしていこうという宣言でもあったのだ。

(やっぱり、凄い人……)

現場監督の言うとおり、リンジー公爵領には未来があった。

政策が、領民だけでなく、難民の背中も押してくれる。

気兼ねせず、明日も生きていいのだと言われた気がした。

「どうご恩に報いたらいいのか……」

「人に親切にすることだね」

クラウディアの言葉が蘇る。

もし気が引けるなら、困っている人を助けてほしいと言われた。

「案外、難しいんだよ。第一に、自分に余裕がないとできないから。感謝を求めてするものでもないしね」

「でも皆さんしてくださってますよね」

「いや、僕たちが君たちに求めるものは多いよ? 感謝してほしいし、君たちの平和な暮らしが、領地の発展に繋がるんだ。だから支援し、自立を促す。商売人が言うところの投資だね」

現場監督は裏があると言いたいのだろうが、自分たちにとっては得でしかない。

「困っている人を助けられるように頑張ります!」

「くれぐれも無理はしないで。助けてって言っている人だけでいいよ。手に負えないと思ったら、すぐに僕たちに相談すること。大きな問題を解決するのは、僕たちの仕事だから」

「わかりました」

意気揚々と、自宅になっている仮設住宅へ帰る。

世帯人数ごとに家の大きさは変わるけれど、つくりは大体同じだ。玄関を入ってすぐに、炊事ができる土間があり、一段床が上がってリビング、寝室と続く間取りだった。奥に向かって長方形になっているのが特徴だ。

家族世帯は一軒ずつ建物が離れているけれど、一人住まいの家は壁が隣とくっついていた。長屋といわれるつくりらしい。

難民施設がある広場と隣接する一帯は、すっかり住宅街へと変貌していた。ただ同じ形の家屋がたくさん複製されているので、一見すると、どこが自分の家かわからない。

けれど今は、玄関前で子どもたちが遊んでいた。いつの間にか、近所の子も増えている。

洗濯物を干しに戻ると、気付くことがあった。

「結局、普通に暮らしてたら良いと言われただけだわ」

要求されたのは、祖国の村にいた頃からしてきたことだ。

何も変わらない日常が求められている。

また泣きそうになった。

普通でいいのだ。

住む場所が替わったからといって、新しい自分になる必要はない。

今まで通り、子どもたちと毎日を生きればいい。

それが許されている。

肩の荷が下り、救われる、というのを体感する。

感謝で胸がいっぱいになった。

でも、すぐにできることはなくて、手を組んだ。

祈りが届きますように。

これだけは、心一つあれば十分だった。