侍女は赤面する

使用人寮の自室へ戻ったヘレンは、部屋着に着替えて体をベッドへ投げ出した。

あのあとすぐに侍女長のマーサが到着し、体調不良はヴァージルの勘違いだと伝えたものの、彼女は首を縦に振らなかった。

遂には働き過ぎだから、クラウディアがいないときくらい休むよう言われた。

(大丈夫なのに)

そう思うものの、体がベッドへ沈んでいく。

次に意識が浮上したときには、窓から茜色の空が見えた。

「侍女長が正しかったわね」

彼女の言う通り、疲れが溜まっていたようだ。

知らぬ間に熟睡していた。

サイドテーブルへ手を伸ばし、水差しを手に取る。

喉を潤せば、ほう、と息が漏れた。

起きて何かする気にはなれず、再度ベッドへ横たわる。

頭を過るのは、主人と同じ黒髪と青い瞳を持つ青年の姿だ。

意志の強さを窺わせる凜々しい眉に、真っ直ぐ通った鼻筋。角度によって紺碧を映す瞳は、サファイアに名付けられたリンジーブルーそのものだった。

(ヴァージル様は、言葉の意味をちゃんと理解されているのかしら?)

しているようで、していない気がする。

卵の絵の課題で、上から見た正円か、横から見た楕円を描くかで分かれるように。

同じ言葉でも、違う意味で認識しているのではないか。

そうでなければ、自分にとって特別などとは言わないだろう。

でも、もし。

もし、自分と同じ意味で捉えていたら。

(そんなはずないわ)

ぎゅうっと枕を抱き締める。また熱が上がったように感じられた。体調不良からくるものでないことは言うまでもない。

頬が赤いのは、心が余裕を失っている証拠だった。

(ううう、社交界でもあんな感じなのかしら)

君だけだ、と言うヴァージルの声が蘇り、両手で耳を塞いだ。そんなことをしても頭の中で響く声は止められないのだが。

(忘れなさい。声も、目尻に触れた、硬い指の感触も)

水差しの前に置いた、小さな箱が目に入る。

腹ばいの状態で手に取った。

淡い紫色のリボンは、瞳の色で決められたのだろうか。

封を解き、箱に収まったブレスレットを眺める。

細いシルバーチェーンに、クロッシングスターの上で輝く青い一等星。クラウディアへ贈られたものと瓜二つだった。

(嬉しい)

分不相応だと思う。侍女が受け取っていいものではない。

爪の先ほどの大きさとはいえ、リンジーブルーともなれば、ゆうに年収を超えた。

希少さから、貴族でもそうそう見ることはできない。

けれど、ものの価値より、ヴァージルの思いが嬉しかった。

クラウディアと二人で持てば心強いと言われ、不覚にも泣きそうになった。

断るのが正解だと頭ではわかりつつも、断れなかった。断りたくなかった。

そっとブレスレットを胸に抱く。

(クラウディア様……)

一番に主人を思う。そしてヴァージルを。感謝の念が尽きない。

有り難く受け取ったときの、安心した笑顔が蘇る。

キツい目元が和らぎ、周囲の空気が暖かくなったように感じられた。

また目尻が熱を持ちはじめ、窮屈な姿勢のまま枕へ顔を埋める。

(反則よね)

はじめてヴァージルと顔を合わせたときの厳しい目付きを覚えている。

次第に態度は軟化していったものの、クラウディアに比べ、ヴァージルは侍女をはじめとした使用人と距離を保っていた。

誰に対しても同じ態度だった。

だから予想外だったし、準備もなかった。

自分へ、あんな笑顔を向けられるなんて。

仕える相手への壁をすり抜け、心を一刺しされた。危うく勘違いしてしまいそうだった。

目元に触れられたときは一気に朱が走るのがわかった。全身が熱で赤く染まっていたように思う。

後の謝罪で、理性を取り戻せたものの、振り出しに戻っている気もする。

(わたし相手だと気が緩んでしまうって何)

ヴァージルの言葉の一つ一つが、自分を特別だと言っていた。

誰よりもクラウディアの傍で仕えているという意味なのだろうけど。

それにしては表情が個人的過ぎるのだ。

主人として報酬をくれた、とは認識できないほど、確かにヴァージルの気は緩んでいた。

(もうっ、深い意味はないって、わかっているのに)

あの顔が悪い。

普段は逆に端整過ぎて人を寄せ付けないクセに、妹にだけは甘いギャップが、ヘレンの前でも出ていた。

だとしても。

自分は侍女に過ぎない。

過去には伯爵令嬢という身分があったけれど、今は平民だ。

(立場を弁えなさい)

何度も何度も心の中で唱える。

そうしていると、近付く気配があった。

「あら、キャンディ、帰ってきたの」

長く柔らかな毛が頬に当たる。

拾ってきたときは、両手の上に乗るぐらいの大きさだった子猫は、すっかり大人になっていた。

いつもはヘレンの帰りを待つのに、今日は逆に迎えられて不思議がっている雰囲気があった。

頭を擦り付けてくるので、体を起こして抱きかかえる。ブレスレットの入った小箱は、枕の横へ置いた。

キャンディが満足げに喉をゴロゴロと鳴らす。

真っ白な体毛に、鮮やかなオレンジ色の瞳。今では使用人寮のマスコットだ。

日中は敷地内を巡回し、気ままに寝て、会う人たちに可愛がられている。

ヘレンをどう認識しているのかはわからないが、日が暮れて帰って来るのは、決まってこの部屋だった。

同室の同僚は、よくキャンディの腹に顔を埋めて、呆れた視線を投げられている。

キャンディが望むまま、眉間や目尻をマッサージしていると、その同僚が帰って来た。

「体調はどう? って、どうしたの、その頭」

訊ねられて手鏡を手に取る。

枕を片手に悶えていたせいか、長い髪が絡まり一見すると爆発して見えた。

手ぐしで軽く整えながら、先の質問に大丈夫だと答える。

「あまりスッキリしているようには見えないけど」

「そう? 熟睡しちゃって、夜眠れるか心配なぐらいよ」

「だったら精神面かな? 吐いて楽になるなら聞くわよ」

言いながら、同僚は、ヘレンの膝上にいるキャンディへ顔を近付けた。

気配を察したキャンディは、早くも呆れ顔である。

(悶々とし続けるよりは、外へ出したほうがいいかしら?)

客観的な意見をもらえれば、気持ちが整理しやすいかもと、ヘレンは語り出す。

けれど名前は伏せ、概要だけを伝えた。

「例の商会の彼?」

「違います」

「じゃあ商会の彼に恋敵出現ね。絶対ヘレンに気があるでしょ」

「そういうわけじゃないと思うのよ」

あくまでクラウディアを介して、特別なのだ。

それを言うと、相手がバレてしまうため、隠さないといけないのがもどかしい。

「ヘレンはどうなの?」

「わたし?」

「いつものヘレンなら、きっぱり断るじゃない? 相手が何と言おうと。これだけ悩んでるってことは、彼のこと悪くは思ってないんでしょう?」

「良い人よ」

「誘われたらデートに行く?」

「誘われるなんて、ありえないわ」

「仮定の話。想像してみて、さりげなく、お茶に誘われるの。ヘレンって仰々しいのより、日常的なのが好きでしょ? ほらほら、目を閉じて」

急かされて、言われるがまま、ヴァージルを思い浮かべる。

執務室で書類と格闘している姿が見えた。

難民の件で、最近はずっと忙しくしているからだろうか。

(お休みが必要なのは、ヴァージル様のほうよね)

それでいて侍女の体調を気遣うのだから、社交界での通り名はまるで本質をついていない。クラウディアにもいえることだけれど、疲れていても他人を尊重できる気高さはどこからくるのだろうか。

考えれば考えるほど、同僚の言う想像からかけ離れていく。

どう? と訊ねられて首を横に振った。

「遊んでいる場合じゃない気がしてきたわ」

「もう、ヘレンは真面目なんだから。でもいいんじゃない? 悩めるって幸せよ」

それだけ考えられる余地があるってことだから、と同僚はキャンディを吸う作業に入った。

適齢期になれば、問答無用で結婚させられる男女は多い。

何も貴族に限った話ではなく、地方では平民も親の付き合いで相手を決められると聞いた。

そうしたほうが生きていけるからだ。

切羽詰まっていた頃の自分を思いだす。

相手が頷けば、親のために嫁いでいただろう。

心に余裕がなかった。知らず、ストレスに押し潰されていた。

視野狭窄に陥り、何も考えられなくなっていたところを救ってくれたのが、クラウディアだった。

おかげで今は、可能性に思いを馳せられる。

(わかっているわ。ヴァージル様に他意はないって)

言葉に惑わされているに過ぎない。

(変に意識してしまうのは、婚期を考えるようになったからかしら)

エリザベスの言葉を受け、もしクラウディアの子の乳母になれるなら、と望みができてしまった。

ヴァージルが間に入った流れから断ってしまったけれど、ブライアンともちゃんと向き合うべきだ。

自分の心の在処を探る。

──まだ答えは出せそうにない。