「すまない、やはり外が寒かっただろうか」

「い、いいえっ、これは……何でもありません! 失礼いたします!」

頭を下げるなり、ヘレンは慌てた様子でヴァージルの前を辞した。

背を向ける瞬間、まとめられた髪の後れ毛に目を引かれ、細く白い首へと視線が流れる。何とはない光景が、不思議と煌めいて見えて胸が高鳴った。

今まで感じたことのない感覚に、胸を押さえる。

しかし自分の行動を振り返った瞬間、血の気が引いた。

「しまった、同意なく触れて気を悪くさせたか……?」

女性との距離感については、クラウディアから教わっていた。

侍女の中には、ヴァージルの身分を目当てに、あざとく近寄る者もいる。そういった者を遠ざけるためにも、距離を置いて注意していたはずなのに。

いつも冷静なヘレンにしては珍しく、慌ててヴァージルの前を去ったのも、自分が触れてしまったせいだろう。

(もしかしたら驚きより、恐怖が勝ったかもしれない)

ヴァージルは上背があった。

朝は騎士たちと一緒に訓練し、体も鍛えている。

極め付けは目元がキツい相貌だ。氷の貴公子と一部で呼ばれている理由は、冷えて見える表情にある。

一般的に、怖い印象を持たれる自覚はあった。

(次に顔を合わせたら謝ろう)

ヘレンの後ろ姿を頭に浮かべながら、ヴァージルは登城の準備のため二階にある自室へ向かった。


王城へ向かう支度を整え、改めて玄関へ下りる。

すると謝罪したい相手がそこにいて、背中へ向かって声をかけた。

「ヘレ──」

名前を呼ぼうとしたところで、ヘレンが接客中であると気付く。

咄嗟に声を落としたため、邪魔はせずに済んだ。

こういうとき、早逝した母親なら気にせず声をかけろと言っただろう。主人が使用人に気を遣う必要はないと。

けれどクラウディアの生活態度を見て、ヴァージルも考えに変化があった。

主人としての格を示さねば、困るのは使用人たち。という母親の教えも理解できるが、人間関係が円滑になるよう柔軟に対応するクラウディアにも見習うところが多かった。

本来は母親の教えを咀嚼し、自分なりにブラッシュアップしていくものなのだろう。母親はあくまで子どもでもわかるよう、シンプルに説明したに過ぎない。

ただヴァージルが歳を重ね、自分の頭で考えるようになる前に、クラウディアが実践していた。最初は考えが追い付かず、行動を否定したこともある。

(子どもの頃から、ディーは俺より賢かった)

特に今は、個人的に謝罪したい、というのがヘレンへの用事である。

仕事の手を止めさせるのは悪い。

(エバンズ商会のブライアンか)

ヘレン越しに見えた人物を確認する。

クラウディアが懇意にしている商会の者だ。学園で良い友人と巡り合えたらしい。

身分こそ男爵だが、その手腕についてはリンジー公爵家が囲っている商人からも聞いていた。

今日は、クラウディアが関わっている商品の売上げ報告に来たのだろう。

自分がいては不必要に緊張を強いるのでは、と見付からないよう柱へ体を寄せる。

(いや、おかしいか?)

家の主人とも言える立場なのに、なぜ隠れる?

ただ二人の和やかな雰囲気を見て、なんとなく存在を主張するのが躊躇われた。

自分の行動に頭をひねっていると、ブライアンの通る声が耳に届く。

「おすすめの料理屋があるんです。ヘレンさんさえ良かったら」

「失礼、仕事外の勧誘は断っている」

体が勝手に動いていた。

今し方、遠慮したばかりだというのに。

ヘレンとブライアンの間に割って入り、ヘレンの壁になる。

突然の登場に、双方からの驚きが伝わってきたが、態度は軟化させられなかった。

じっとブライアンを見下ろす。

一瞬、目を丸くしたブライアンも、負けじと見返してきた。

(ほう、俺を相手に目をそらさないか)

中々ないことだった。

社交界では冷たいと評されるのに比例して、恐れられている。

ヴァージルが持つ身分もあるだろう。近い年頃の中で、ヴァージルの上に立つのは、王太子のシルヴェスターしかいない。

ブライアンは怖いもの知らずというより、ヴァージルの立場を理解し、恐れを抱きながらも気概を見せていた。

(ヘレンに声をかけるだけのことはあるか)

状況を理解し、抗っているのだ。

自分がクラウディアに評価されていることも加味して。

いかにヴァージルでも、簡単にブライアンを処すことはできないと踏んでいる。もしくはこの程度で男爵子息を手にかければ、悪評にしかならないと考えているのか。

貴族は世間体を大事にする。特に嫁入り前の娘がいる家庭では。

なんにせよ、考えなしの行動ではなかった。

騎士が対戦相手と向き合うことで相手の力量を推し量るように、こういった対峙では相手がどういう考えのもと行動しているのかわかるときがある。

それは互いに同じだけの知見、共通認識があるのを示唆していた。

簡単に一般常識と言われるが、個人が持っている知識量、考え方には違いがある。この差が大きくなればなるほど、相手の考えは理解できない。

この時点でヴァージルは、ブライアンに好感を持った。

同じものを見て、同じことを考えられる同士を見付けたようなものだ。

とはいえ、ヘレンの前から退くことはできなかった。

どれくらい睨み合っていただろう。体感は長く感じられたが、一、二秒ほどだろうか。

最初に動いたのはヘレンだった。

「ヴァージル様、お手数をおかけして申し訳ありません。ブライアン様も、ヴァージル様のお言葉にあった通り、仕事外のお誘いはお断りしております」

「……そうですか、残念です」

ヘレンの答えに肩を落としたブライアンだったが、それも一瞬のことだった。

すぐに顔を上げ、なぜかヴァージルへ向かって口を開く。

「でもおれは諦めませんから!」

宣戦布告だった。

しかし、この場だけを切り取ると、いらぬ誤解を招くのではないか。

特にブライアン側から見れば、ヘレンの姿がヴァージルで隠れてしまっている。

流れを知らない者からしたら、ヴァージルのことを諦めないと宣言しているように見えるだろう。

そんなことを考えていると、ヘレンが笑みを漏らす。

「これではヴァージル様を誘っているようですね」

ヘレンも似たような印象を受けたようだ。

二人の危惧が伝わったブライアンは、目を白黒させる。

「へっ!? えっ、違います! 違いますよ!?

「心配せずとも意図は伝わっている」

「良かったぁ……あ、それでは、おれはこれで失礼いたします」

「うむ。だがヘレンから苦情があれば、次はないぞ」

「はい、線引きは心得ています。嫌われては元も子もありませんから」

「ならばよい」

彼なら付き纏いをする心配はなさそうだった。

そもそもクラウディアが認めた人物である。ヘレンに対し、一家言あるのもクラウディアのほうだ。先にある程度の試練は通過しているだろう。

(ディーのヘレンへの思い入れも相当だからな)

ブライアンが辞し、改めてヘレンと向き合ったところで、頭を下げられる。

「助けてくださり、ありがとうございます」

「余計な手出しだったみたいだが」

ヘレンの態度を見れば、自分で対処できたのは明白だ。

間違った捉え方をされては困ると言葉を続ける。

「君の能力を過小評価したわけではない。守らねばと咄嗟に体が動いたのだ」

はい、と頷くヘレンに、誤解はなかったようで安心する。

そして今こそ、当初の目的を果たすべきだ。

「先ほど、その、君に触れたのは軽率だった。誤解を招く行動を取ってしまったのは、こちらの落ち度だ」

「誤解……はい、わたしも取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」

やはりヘレンにも思うところがあったのか、話題に上げた途端、体が強張った気配がした。

「他ではありえないのだ。俺も考えてみたが、どうも君相手だと予防線が力を発揮しないようでな。君が悪いと言いたいのではない。俺の問題だ。気が緩んでしまうというか……」

「えぇと、ヴァージル様は誤解を解かれたいのですよね?」

「そうだ。妙齢の女性に触れるなど、あってはならないことだった。反省している」

「はい、その件については理解しました。ヴァージル様が清廉潔白であられることは存じ上げておりますので、ご安心ください」

軽薄な主人ではないと伝わっているようで心からほっとする。

「時間を取らせてすまない。君に、他の女性にも同じことをしていると思われるのは嫌だったのだ」

「はい……」

「プレゼントを贈ったのも、君だけだ。普段、形式的に贈っている返礼品とは違う」

「はい……」

「ヘレンだけは、やはり俺にとっても特別なのだろう。いや、俺が勝手に思っているだけだが」

「あのヴァージル様、少し落ち着きましょう」

「俺は落ち着いているが?」

誤解されていない安心感から、つい口が軽くなってしまったようだ。

見れば、ヘレンが顔を赤くしていて焦る。

「すまない、体調が悪かったのか!? 誰か、医者を」

「大丈夫です! すぐに治まります!」

「無理をするな。君に何かあったら困る」

「失礼を承知で申し上げますが、ヴァージル様は一度口を閉じてください」

「う、うむ……」

ヘレンは会話をするのも辛そうだった。

やはり医者に診てもらうべきだと動こうとするが、当人に止められる。

「本当に大丈夫ですから。ヴァージル様はこれから登城されるのですよね? わたしのことは気にせず、ご出発ください」

言われて馬車を待たせているのを思いだす。

だからといってヘレンを放っては行けなかった。

見れば目も潤んでいる。熱が出ているのかもしれない。ブライアンが帰ったあとで良かった。こんな弱った状態の彼女を見たら……。

「すまない、先に謝っておく」

「え? ヴァージル様!?

ブライアンに限らず、他の男には見せられないと思ったらダメだった。

先ほどの発言を反故ほごにしてしまう行動を取っているとわかっていても、動かずにはいられない。

心配が勝り、早く彼女を人目のないところで休ませたかった。

ヘレンを横抱きにし、空いてる部屋へ連れていく。

「マーサを呼ぶ。彼女なら君も安心できるだろう」

「は、はい……」

体勢がしんどくはないか確認してソファーへ寝かせ、すぐに侍女長のマーサを呼んだ。

本当は医者を呼びたかったが、ヘレンに断られている。実際に必要かどうかの判断はマーサに任せた。

女性にしか伝えられないこともある。

心苦しいが、男の自分では解決できないことがあるのを身をもって知っていた。

その後、念のため経過を知らせるよう言付けておく。

執務中、大事はない報せが届き、ヴァージルはほっと胸を撫で下ろした。