修道者は確信を得る

電撃が頭の中を走ったように感じられてから、修道院にいるシスターとたくさん話した。

食事──得ることを忘れていた知識──をむさぼるように。

その結果、希薄きはくだった人間関係が濃くなり、たくさんの人が挨拶してくれるようになった。

(前は、ただただ面倒だったけど)

挨拶で終わるときもあれば、ちょっとした情報をくれるときもある。隠れて手紙を渡されたときは驚いた。人前では話せないこともあるのだ。

中には、口うるさい先輩シスターの過去にまつわる噂もあった。何でも当時結婚していた夫から日常的に暴力を受け、修道院へ逃げてきたのだという。

似た経験を持つシスターは他にもいた。

(個人名を使わないのも、理由があったのね)

女性だけの修道院。

シスターで統一された呼び名は不便なことも多いけど、名前という個性をなくした生活をしたい人もいるのだ。

ついでに聞いた話では、いつも怒られがちなどんくさい子は、元貴族の令嬢らしかった。

修道院へ来る前については、暗黙の了解で聞き出すことが禁じられているものの、噂は絶えない。特に元の身分については、身についた所作からすぐにバレた。

炊き出しが好きな赤毛のシスターのように、自分から打ち明けてくれる子もいる。

話を聞いていくうちに、そういった子は、過去と向き合い、新たな自分へ成長しようとしている子だと学んだ。

手入れの行き届いていないバシバシの赤毛の彼女は、歳の離れた弟と妹を食べさせることが叶わず、失意で放浪している先で保護されたのだという。

炊き出しが好きなのは、こんな自分でも誰かの助けになれると感じられるからだそうだ。

前までは、笑顔が鼻につく子だった。

過去を知った今では、もう違う。

(よく無知でいられたものだわ)

自分の知っていること以外を全てシャットアウトしていた。

生まれてから自分が蓄えた知識なんて、ほんの僅かなものでしかないのに。

会話の中で誰かが言っていた。

蓄えた知識は、常識は、自分をつかさど偏見へんけんでしかないのだと。

これが正しい、と自分では思っても、それは自分の中だけの正解でしかなく、他者にとっては不正解である場合もあると。

どれだけ多くの人が賛同しても、正解だとは限らないとも。

聞けば聞くほど、迷路に迷い込むような話だった。

(わたしにはまだ難しかったわ)

やっと先日、思考回路が活発化したところである。

よちよち歩きをはじめたばかりの自分に、出口の見えない迷路を進むのはまだ無理だった。

(でも諦めない)

前までなら、小難しい話は総じて面倒と切り捨てていた。

けれど「知る」ことの大切さを学んでからは違う。

少しでも知識が吸収できると、新たな視点が生まれて楽しいのもあった。

世界は広いのだと、改めて教えられた気がした。

「ふう、こうして形になると、仕込んだかいがあるね!」

明るい声が思考の海から自分を引っ張り上げる。

土臭い倉庫。

日があまり入らないため、朝でも薄暗かった。

足下に目をやれば、木樽から瓶に移されたワインたちが綺麗に整列している。

畑で採れたぶどうを絞り、果汁を木樽で寝かせてお酒にしたものだ。

日頃の世話から収穫、と手に傷を作りながら励んだ日々が思いだされる。改めて振り返ってみると、修道院が持つ農地の広さに驚いた。ぶどう畑以外にも、葉物野菜や根菜を植える畑もあるのだから。

「さぁ手を動かして! 瓶詰めが終わったら、梱包こんぽうですよ!」

のんびり感慨に耽る間もなく、いつもの先輩シスターから指示が飛ぶ。

うるさい怒号のような声も、誰もが理解できる話し方なのだと学んでいた。極端な話、言葉を理解できなくとも、気迫で急かされているのはわかる、といった具合に。

「休憩ぐらい許してくれてもいいんじゃない?」

知見を広めたとしても、それはそれ。疲れから出る不満は止められなかった。

一緒に作業をしていた赤毛のシスターが、笑いながらまとめた髪を肩へかける。

作業の邪魔になるので、自分も一つに結っていた。

瓶が割れないよう、藁で仕切りを作って箱詰めする。

十二本ずつワインボトルが入れられた箱を、次は小さな荷車に積んだ。

「せーの!」

重いため、シスターとタイミングを合わせて持ち上げる。

ガタンッ、と音を立てて積むと「慎重に!」と有り難い叱責しっせきが飛んできて、心の中で舌を出す。この程度で割れるほど、使われている瓶の厚さは薄くない。捨てられることはなく、何回も繰り返して使うので、より丈夫なものが選ばれていた。

このあと、注文数と差異がないか確認され、修道院製のワインは出荷となる。

注文のあったお店まで運ぶのも自分たちだ。

(取りに来いっての)

というか梱包して、なぜ配達まで自分がやらないといけないのか。

不満は次から次へと湧いて出た。

壁穴から覗かれていた件もあって、町の人への心証しんしょうは悪い。できるなら出かけたくないのが本音だ。

こんなときでも──今日は炊き出しじゃないのに──目の前にいるシスターは笑顔だった。

理解できない、と吐き捨てる自分はもういない。

「大変で、嫌だって思わないの?」

「だって結果が出るじゃない? ワインが売れれば修道院のお金になるし、丹精たんせい込めて造ったものが喜ばれたら嬉しいわ」

「喜ばれなかったら?」

「残念ね」

「それだけ?」

「うーん、次は喜ばれたらいいなって思う。いつも上手くいくとは限らないもの」

徒労とろうに終わっても、嫌にならないの?」

「あ、勘違いしないでほしいんだけど、つらいとは思うよ! 疲れるし、楽しくない作業だってあるわ」

「そこは同じなのね」

「そうそう! だからシスターがぼそって文句言うたび、わたしも同感って笑っちゃう」

「……あれって、共感した笑いだったの」

よく笑う子だと思っていた。何にも不満を抱かない良い子なのだと。

「もしかして作業が楽しいと思ってた?」

「うん、てっきり」

「あはは、炊き出しとか気合いが入る催しもあるにはあるよ。けどわたしが楽しいのは、シスターと一緒だから!」

「え?」

「シスターって他の子と違って、すぐに文句言うじゃない? それを聞くとスカッとするし、わたしだけが感じてることじゃないんだって、他の人も同じなんだって救われるの」

加えて先輩シスターにも聞き咎められないよう加減しているところが好きらしい。

そんな捉え方をされているとは夢にも思わなかった。

「この修道院にいる人って、色んな事情を抱えた人が多いから……平均的っていうか、等身大? わたしは特別じゃないことが安心材料なの」

飢えに苦しんだ人、暴力に苦しんだ人。

不平等の名の下に生まれた、悪い意味で他とは違う人が集まる修道院。

自分は自由を望んだけど、彼女は平均であることを望んでいる。

そして不満だらけの自分と過ごしていて楽しいという。

先輩シスターには、これが自分の悪いところだと指摘されたというのに。

「あなたって、ちょっと変わってるわね」

「えっ、そうかな!?

「安心して、特別っていうほどじゃないから」

なら良かったと、彼女はまた笑う。

気付けば自分も笑っていた。


さすがに昼食を抜いてまで運搬しろと言われることはなく、人心地つく。

「重労働ばかり任されている気がするわ」

「あはは、当番制のはずだけどね」

仕事は平等に割り振られている。しかし自分ばかりが苦労しているように思えるのは、どうしてだろうか。

あなたの性格が悪いからよ、というのは先輩シスターの言葉だ。

確かにアカギレのある手は、皆一緒だった。

でも、と口答えしたくなる。

しんどいと感じているのは事実なのだ。

結婚相手の暴力から逃げてきた人からすれば、些細ささいな悩みなのかもしれない。自分にとっては憂鬱この上ないのだけれど。

(まだ考えが足りないのかしら)

楽しく生きるためには。

まだまだ赤毛のシスターのように、屈託のない笑みは浮かべられなかった。

先輩シスターが近付いてくるのを見て、重い腰を上げる。

午前中に積んだワインを、町の料理屋へ運ぶ時間だった。

荷車の取っ手を持ち、引いていく。すっかり相方になっている赤毛のシスターは、後ろから押す担当だ。修道院から町までは、なだらかな下り坂になっているので、今は逆に引っ張ってスピードを制御してくれた。

怠け心が巣くった胸のうちは曇天どんてん

逆に空は晴れていた。上空では風が強いのか、雲が流されている。

乾燥で巻き上がる砂ぼこりが顔に当たって痛い。

寒さのせいで、ちょっとした衝撃にも肌が敏感になっていた。

男性からの視線は意識しないよう心掛ける。このときばかりは先輩シスターの存在に助けられた。小うるさい彼女も、男性からは守ってくれる。

町には商店が並ぶ通りがあり、露店の上では、日光で色せた布が張られていた。

(寂しい風景)

人通りが少ないからか、見える色彩が一辺倒だからか、心がちっとも沸き立たない。

どこかから漂う、小麦の芳ばしい香りが唯一の救いだろうか。

目的の料理屋も、入り口が大きく開け放たれ、行き場をなくした椅子が店からはみ出ている様は、綺麗とは言い難かった。ペンキもところどころ剥がれている。

無事にワインを届け終わると、あとは帰るだけだ。

荷車の前後の担当を代えたところで、鋭い声が通りに響く。

「ドロボー!」

人の動きが激しくなり、砂埃が視界を遮った。

(もうっ、迷惑この上ないわね!)

労働を強いられ、出てきたくもない町に来たことでストレスが上限に達していた。

早く帰って休みたいというのに、余計な騒ぎで歩みを止められて、殺意にも似た怒りが湧く。

騒ぎを聞きつけて、集まってきた野次馬やじうまも邪魔だった。

道が狭まって立ち往生してしまう。

(こっちは荷車があるから小回りが利かないのよ!)

口に出して文句を言いたいが、先輩シスターの目があるため、心の中に留めた。

「ねぇ、あの捕まってる子、小さくない?」

どうやら無事に物取りは捕まったらしい。

けいら隊によって地面に押さえ付けられている犯人を見て、赤毛のシスターがこちらを振り返る。

野次馬が引かない限り、荷車は動かせない。自分も前へ出てシスターの隣に移動した。

「本当だ、少年だね」

「痩せててわからないけど、六歳くらいだよね?」

骨が浮き出た腕で、丸いパンを抱えている。

大人の力でねじ伏せられてしまえば、抗いようもない。

それでも少年はかたくなに訴えた。

「小さな弟がいるんだ! 食べなきゃ死んじゃうよ!」

週に一度、多ければ二度おこなわれる炊き出しでは足りてないことは、彼の貧相な体が物語っている。

周囲からは、親は? どうせ路上生活者でしょ? と、眉根を寄せた声が届く。これだから家無しは迷惑なんだ、と少年を助けようとする者は誰もいない。

いや、一人いた。

「シスター、どうにかなりませんか? あの子は弟さんのために、盗みを働くしかなかったんです」

赤毛のシスターが、先輩シスターへ訴える。

その間も、しきりに少年へ目を向けていた。過去の自分を思いだしているのかもしれない。幼い弟と妹を救えなかったことを。

先輩シスターは厳しい目付きで首を振る。

「罪は罪。どんな事情があろうと、犯した罪は償わねばなりません。盗みなら、大人十回、子ども五回のむち打ちの刑です」

「そんな……!? 死んじゃいます!」

少年の体が鞭打ちに耐えられるとは到底思えなかった。

先輩シスターの答えに、自分も少年を凝視する。

現行犯の場合は、その場で実行されるようで、少年は取り押さえられたまま地面の上で座らされた。もう一人の警ら隊員が腰に携えていた一本鞭を取り出す。

野次馬を見る。

目を背ける者もいるが、この場を立ち去る者はいない。

少年が受ける痛みを想像したのか、表情を歪ませながらも、瞳は爛々らんらんとしていた。

(何よ、これ……)

以前なら、野次馬の表情など気にならず、自分と関係ないことに興味はなかった。

でも人とたくさん話すようになって、観察するようになって、修道院の中では道が開けた気になっていた。

けれど、目の前の光景は。

(なんて歪んでいるの)

罪は罰さなければならない。

現行犯で刑が執行されるのは、見せしめのためだ。同じ過ちを犯させないための警告だった。

だというのに、実際はどうだろうか。

(単なる見世物じゃない)

野次馬から少年への同情は一切感じられない。

表面上は痛々しい顔をしながらも、地面へ両膝をつく少年を見下ろし、愉悦ゆえつに浸っている。

非日常を楽しんでいるのだ。

(覗きと同じだわ)

修道院の壁に出来た穴から、内部を覗いていた男たち。

ぞっとしたときの記憶が蘇り、胃液が迫り上がってくる。舌の付け根に苦みが走った。

(この町が異常なの?)

孤島という環境がそうさせるのだろうか?

それとも。

(これが、世の、普通だというの?)

見世物になった少年は、鞭打ちの恐怖から体を震わせていた。

震える口から漏れる声は小さくて聞こえないが、血の気が引いて、顔が真っ青になっている。

今か今かと鞭打つ瞬間を待ちわびる野次馬たち。

(歪んでいるわ)

ぐっと拳を握る。

騒ぎを聞きつけて集まった野次馬と、自分が一緒にされるのは嫌だった。

赤毛のシスターが先輩シスターにすがる。

「お願いします、シスター! 助けてくださいっ、鞭打ちなんて、耐えられません!」

「無理です」

切なる訴えは、厳格の前で膝を折る。

先輩シスターは自身が法であるようだった。無表情を保ち、前を見据えている。

野次馬が持つ好奇こそないものの、無機質な壁に感じられた。

少年と先輩シスターとの間で視線を行き来させる。

そんなことしかできない。

遂に警ら隊員が、鞭を持った手を振りかぶる。

その動作が、殊更ことさらゆっくりと見えた。止めるなら今しかない。

(でもどうやって?)

わからない。

隣にいる赤毛のシスターは、目に涙を溜めていた。

野次馬はむしろ面白がっていて、盗みの被害者である店主はふんぞり返っている。

(どうすれば、この子を救えるの?)

わからない、わからない。

ぼろ切れのような服をめくられ、背中を出した少年は、ごめんなさい、もうしませんと泣き叫ぶ。

(わからないわ! どうすればいいっていうのよ!?

助けてあげたい、でも方法がなかった。

頭がパンクし、誰かに八つ当たりしたくなる。

食べものがあれば、生活に困ることがなければ、少年も盗みなんかしなかったのに。

答えが出ないまま、鞭を持った警ら隊員が手を振り下ろす。

瞬間。

「っ!?

気付いたら走り出していた。

視界の端で、警ら隊員が目を見張る。

少年を抱き締め──。

同時に、背中へ焼けるような痛みが走った。

「わ、わたしを打ってください!」

「何を言って……」

どうしてそんなことを口走ったのか。そもそも、なぜ身をていして少年をかばってしまったのか、自分でもわからない。わからないことだらけだ。

確かなのは、自分にできるのが、これだけだったということ。

「この子の体で鞭を受ければ死んでしまうかもしれません! だからわたしが代わりに鞭を受けます!」

警ら隊員の戸惑いが、ざわめきとなって野次馬にも広がっていく。

止めようと、いち早く動いた先輩シスターに向かって叫ぶ。

「わたしには、これしか彼を救う方法がないんです! 他に何もできない!」

炊き出しでは間に合わず、少年は店先に並んだパンを盗むに至った。

彼は悪いことをした。

けれど、飢えがなければ、自分でお金を稼げれば、犯罪に走ることはなかった。

そして犯行は自分のためではなく、小さな弟のためだった。

「教会が、この子を救えますか!?

少年を含め、食べていけない子たち全員を救えるのか。

無理だ。

大陸全土に教義を広げている教会であっても、差し伸べられる手には限度がある。

本来は、国が、領主が保護すべきだが、その手は教会以上に足りてない。

この世は、不平等だ。

「罪は償わないといけない。ならば、この子より恵まれているわたしが代わって罰を受けます! 償います!」

修道院で食に困ることはない。ケガをすれば、傷薬が与えられる。

少年とは違い、自分は保護されていた。塀に守られていた。

(これが自由の代償……)

時間を好きに使えるから、家族と寄り添えるから、修道者の生活より恵まれていると思っていた。

全部、間違いだった。

(わたしはどこまで無知なの)

ここでも自分の視点でしか物事を捉えられていなかった。

背中の痛みは、考えが浅い、自分への罰だ。

先輩シスターが口を開く前に、同行していたシスターも少年に抱き付いた。

「わたしも一緒に償います!」

「あなたたち、いい加減になさい!」

先輩シスターの怒号が飛ぶ。

今までにない展開に、警ら隊員はおろおろするばかりだ。

おくさず先輩シスターへ反論する。

「シスターこそ、わたしたちと行動を共にするべきではありませんか! 教会がこの子を救えていたら、こんなことにはならなかったんです!」

教会の施しに限らず、この町にいる大人たち全員が、一口ずつでも子どもたちへ食べものを分けられていたら、少年は罪を犯さずに済んだのではないか。

少年が震える手で自分を抱き返してくる。

「生まれに関係なく、弱者を救済するのが教会でしょう!?

「……全てを救うことはできません」

「だったら尚更、この一時でも救うべきではありませんか!」

ここで庇ったところで、少年とその弟は飢えたままだ。

根本的な解決ができるわけではない。全ては救えないのだから。

なおも叫ぶ。

「被害者がいるのです。罪をなかったことにするつもりはありません!」

「あなたのしていることは、単なる自己満足です」

「それでこの子がケガをしなくて済むなら本望です! 痩せ細った子どもを鞭で打つことで、解決することなんて何もないでしょう!?

当然だ、罰は救済ではない。

住みやすい社会をつくるためのものだ。

わかっていても、不条理を訴えずにはいられなかった。

だって不平等の落とし子は、その社会に含まれないのだから。

「この子は罪を犯しました。では、この子を飢えさせた罪は誰にあるのですか!?

生まれが悪かった。ただそれだけで、一方的に罰せられる立場に追いやられる。

国も教会も、全てを救うことはできない。

無力なのは自分だけではないのだ。

「なぁ……」

「ねぇ……」

先輩シスターとの問答に、最初は面白がっていた野次馬たちも視線を巡らせる。

結局のところ、誰が悪いのか。

少年が犯行に至った理由は周囲にも伝わり、じわじわと同情が首をもたげていく。

子どものことは親が責任を持つ。けれど、その親がいない場合は?

自分が身代わりになるという年若い修道者は、自分のほうが恵まれている、という理由だけで行動を起こした。

ならば野次馬の中に、少年より、年若い修道者より、恵まれた者はいなかったのか。

そうではないことを全員がわかっていた。

遂には被害者だったパン屋の店主が、被害を取り下げる。

店主の申し出に、警ら隊員もほっとした表情を見せた。

「ほら、これも持っていけ」

「いいの……?」

しまいには、座り込む少年へパンを握らせる。

「なんだ、その……わしも考えが足らんかった。お前も、次からは声をかけろ。傷みかけがあれば譲ってやらんこともない」

「本当!? ぼくも……ごめんなさい!」

「反省しとるならいい。あとお嬢さん方にも礼を言うんだ。若い体に傷を作ってしもうて」

罪のない人間の背中に、一筋の傷ができた。

平民であっても女性は体に傷ができるのを嫌う。若ければ若いほど──未婚であれば、もっと。それだけで、人としての価値が下がってしまうという考えがあるからだ。

修道者になった以上、結婚しないからといって看過かんかできるものではない。

痕が残れば、これからの人生、ずっとその傷を背負っていくことになる。

「聖女様っていうのは、あんたみたいな人のことを言うんだろうなぁ」

店主の言葉に、その場にいた人々が頷く。

「簡単にできることじゃないわ」

「いくら子どものためとはいえ、知らない子でしょ? しかも薄汚れた子を相手に……どれだけ心が広ければ、あんな行動が取れるのかしら」

「俺たちも考えさせられたな」

「やっぱり修道者は心が綺麗なんだ」

周囲で賛美が広がる中、おずおずと少年が立ち上がる。

「あ、ありがと……」

俯いたまま発せられた声は、緊張していてか細かった。真っ赤になった耳を見て、頬が緩む。

勇気を振り絞った少年のお礼に、一緒に庇ったシスターは大粒の涙を溢れさせた。

彼女の目には、失った弟や妹の姿が映ったのかもしれない。

「どういたしまして。これからは盗みなんてしたらダメよ」

「うん、もうしない。おじさんに声をかけるよ」

少年の言葉に、ああ、同じなんだ、と思う。

彼も自分と同じように知識が足りなかったのだ。食べるためには、盗みしかないと思い込んでいた。

けれど店主から、売りものにならず捨てるパンもあると聞き、新たな手立てが増えた。最初から知っていれば、盗みというリスクを冒すこともなかった。

少年の明日がどうなるかはわからない。

それでも今日よりは、生きやすくなったんじゃないだろうか。

「良かったわ」

「うん、うん、本当に良かった……っ」

「あなた、まだ泣いてるの」

ぐすぐすと鼻を鳴らすシスターに呆れた視線を投げる。

ケガをしたのは自分のほうだというのに。

「いつまでも座り込んでいないで! さっさと立ちなさいっ」

先輩シスターの鋭い声に、非難の視線が集まる。

そのおかげか、すぐに理由が付け足された。

「帰って手当しますよ。荷車は……わたしが引きます」

今までにないことだった。

涙目のシスターと目を合わせ、立ち上がる。

しかし引きつる痛みに、バランスを崩した。

「大丈夫!? わたしに掴まって!」

シスターの肩を借りて、傷に響かないようゆっくり歩く。

修道院までの道のりが、いつも以上に長く感じられる。

けれど、人々の賞賛がずっと続いているおかげで苦ではなかった。

「凄いよ。偉いよ。わたしには絶対できないから……」

「痛いもの、しなくていいわよ」

自分でも、どうして咄嗟に庇えたのかわからない。

(鞭打ちがどれだけ痛いか知っていたら、わたしも動けなかったかも)

目に涙が残るシスターの背中には、いくつものミミズ腫れの痕が残っているのを知っていた。

彼女も過去、盗みを働き、捕まったことがあるのだ。

修道院よりもずっと過酷な環境にいた彼女にとって、修道院は心穏やかでいられる楽園だった。


夜、鍵が閉められた部屋で横になる。

隔絶された部屋に安らぎを覚えるようになったのは、覗きと目が合ってからだ。

自由がなく、窮屈で仕方がなかったというのに、今では自分を守ってくれるゆりかごだった。

冷気を防ぐため、ここのところずっと雨戸は閉めている。

けれど小さな隙間から、月明かりが木漏れ日のように差し込んでいた。

傷の手当てを受けたものの、じくじくとした痛みは続き、到底仰向けでは寝られない。

背中が熱を持っているように感じられた。鞭の痕は残りそうだ。

痛みを抱えつつ、一つ確信する。

(後悔はないわ)

だって少年を助けられたのだから。

最後は面白がっていた野次馬も考えを改めてくれた。

自分の行動で、人の意識を変えられたのだ。

そして、ようやく自覚する。

(わたしはバカなんだわ)

これまでは、人よりさといとすら思っていた。

全然だった。

今日という一日を振り返って学んだ。

(自分だけが苦労していると考えていたくらいだもの)

頭の隅では、もっと大変な人がいることくらいわかっていた。

ただ他人より、自分が大切だった。

自分のつらさを取り除くことが、何よりも重要だった。

だというのに、利己的な考えだと認めるのが嫌で、他が悪いのではないかと理由を探していた。

自分にとって都合の良いように。

(わたしって、いつもそう)

良い子にしている人を見れば、鼻につくとおとしめながら、その実、誰よりも自分が良い子であろうとしているのだ。

自分に間違いがないと思いたいがために、他が悪いと決め付けてきた。

やっと自分自身と向き合えた。

ぎゅっと肩を抱く。

痛みのせいで眉根からはシワが取れない。

それでも少年を庇ったことを振り返ると、笑みが漏れた。

(自分でもびっくり)

あんな行動に出られるなんて。

考え方を改めようとしていた余波だろうか。

いつも他人のせいにしてきた自分が、誰かのために動けた。

バカでも人を救えるのである。

根本的な解決はできなくとも、人々は行動を褒めてくれた。彼らにはできないことを、自分がやったからだ。

(権力や財力があっても、全てを解決できるわけじゃない)

現に助けられない人がいる。飢えた子どもたちがいる。

修道者の自分は、そのどちらも持っていないけれど、一時の救いは与えられた。少年は今後を見直す機会を持てた。

(何もないわたしにも、できることがある)

この世は、不平等だ。

自分は、持たざる者だった。

浅慮せんりょで、いつだって我が身が一番可愛い。

でも間違いなく。

今日、あの場で少年を助けたのは、王様でも、教皇様でもなく、自分なのだ。

他の誰かではない。

(ここにいる、わたしが、したこと)

周りの人たちも認めることだ。

思い上がりではない、事実を噛みしめた。