修道者は天啓を得る

「これは何の皮肉かしら」

大量の煮炊きの準備に追われながら、心境が口をついて出る。

先日は、なんとか決壊けっかいを迎えることなく、トイレへ駆け込めた。

ほっとしたのも束の間、朝会で聞かされたスケジュールに唇がへの字に曲がったのは記憶に新しい。

曰く、地域住民へ向けて炊き出しをおこなうという。

大量の食材を調理するには、前もって準備が必要だった。

自分たちの口に入らない芋を掘り、炊き出し当日の今に至る。

朝から準備で慌ただしく、水仕事で手が荒れる一方、額に汗が滲んでいた。

「この修道院だって、どう考えても恵まれてないでしょうに」

装飾のない建物を見れば一目瞭然りょうぜん。修道院を示す看板がなければ、倉庫と見間違えそうだ。

現地での寄付に頼れず、島の外から来る定期船の援助で成り立っていた。

裏を返せば、それだけ地元住民の生活も苦しいのだが。

晴れ渡った空を見上げる。

「自由があるだけマシよ」

好きなときにトイレへ行ける。寒くなったら、家族と身を寄せ合える。

長く、あの牢獄のような部屋で孤独に過ごしている身としては、どこに施しの必要があるのかわからなかった。

溜息をついていると、後ろから明るい声がかかる。

自分と歳の近い子だった。腰まで伸びた赤褐色かっしょくの髪は、手入れすれば綺麗きれいだろうけれど、残念ながら傷んでバシバシだ。

「シスター、追加の水汲みに行ってだって」

「えーっ!? さっきもやったところじゃない」

この修道院では、在籍しているのが全員女性ということもあって、名前ではなく一様に「シスター」と呼ぶ決まりがある。修道者として皆平等の存在であり、個々を示す名前は必要ない、という考え方らしい。他にも教義にはない、独自の教育を色々受けた。

すぐさま不満を返すと、相手からは笑みが漏れる。

何が楽しいのか、彼女はいつもこうだ。修道院の生活が、さも充実しているかのように振る舞う。

「わたしも一緒だから、すぐに終わるよ」

「良い子ぶらなくていいわ」

「そういうのじゃないんだけどなぁ」

これから井戸で滑車かっしゃを使い、水を汲み上げるという重労働が待っているのに、彼女には悲嘆の「ひ」の字もなかった。

晴天でも吹きすさぶ風は冷たく、こっちは水になんか触れたくないというのに。

ぐずぐずしていると先輩シスターから怒号が飛んでくるので、なけなしの気力を奮い立たせて井戸へ向かう。

先輩シスターは、くすんだ金髪を肩で切り揃えた三十過ぎの修道者だ。

もう慣れたものだけれど、修道院に来た当初は人をいたぶるのが好きなんじゃないかと勘ぐるほど指導を受けた。

担当が決まっているのか、いつも視界には同じ先輩シスターがいる。

「何であたしが、こんなことしなきゃいけないわけ!?

「黙りなさい! それでも修道者ですか!」

ヒステリーが聞こえてきて、わかるわかる、と頷く。

新しく入ってきた子だ。自分もよく先輩シスターに噛みついていた。

懲罰があるとわかってからは、聞こえない範囲で愚痴ぐちるのに留めている。

他の子と比べれば、自分も隣を歩く彼女も立ち回りは上手いほうだ。

「雨じゃなくて良かったね。わたし、炊き出しって好き」

「だから、わたし相手に点数を稼ぐ必要はないってば」

「本心だよー。修道院以外の人と交流できるじゃない? 感謝もされるし」

「交流できたところで何にもならないわよ」

この島の住民たちも不平等の落とし子だ。

薄い味付けの、おいしくもない炊き出しに集まるような人たちである。彼らから得るものなど何もなかった。

彼女の言葉に正解があるとしたら、交流についてだろうか。

礼拝の場である教会と違い、修道院は修道者の暮らしの場だ。

礼拝堂を兼ねて市民の礼拝を受け入れている修道院もあるが、ここは違った。

修道者以外と会話するには、炊き出しや町へお使いに出るときぐらいしか機会はない。

彼女にとっては、部外者との交流が楽しみらしい。

「何にもならないこともないよ、わたし、前のときに花のかんむりをもらったもの」

「道ばたの草でできた冠でしょ?」

しかも土で汚れた手で作られた冠は、お世辞にも綺麗とは言い難かった。下手をすると折れた茎から汁が出ていることもある。

貰って嬉しくないものナンバーワンだ。

なのに何故、目の前の彼女は宝物のように言うのだろうか。

(理解に苦しむわ)

身なりは変わらない。

同じ修道服のワンピースに、ボロボロの爪。お風呂はなく、桶に溜めたお湯で体を拭く日々。髪が傷んでいるのはお互い様だった。自分のことは全て自分でしなければならず、食事の調理も当番制。掃除や洗濯に畑仕事も加わり、一日が終わる頃にはヘトヘトになる毎日だった。

だというのに、彼女は満面の笑みを浮かべる。

(理解できないのが、罪なのかしら)

答えは出ない。

日常に心も体も疲れ果て、彼女のように振る舞えないのだけは確かだった。


「おおお、修道者様、感謝致します」

「次の人がお待ちですので、場所をお空けください」

さっさと退けと言っているのに、老人は動こうとしない。

器に煮炊きしたものを入れ、順番に手渡しているところだった。

大量に作っても数には限りがある。

ほしい人には並んでもらい、鍋の底が見えれば終了だ。嫌な行事は早く終わらせたかった。

「いつもありがとうございます」

「っ……」

空いていた手を握られ、顔に嫌悪感が浮かびそうになる。

直前に何を触っていたのかわからない手。望んでもいないのに体温を感じさせられ、鳥肌が立つ。振り払いたい衝動を堪えるのがやっとだった。

(これだから炊き出しは嫌いっ)

準備の重労働も、貧しい人との交流も。終われば後片付けが待っているのも。

ただでさえスカスカの自分から、これ以上、何をしぼり取ろうというのか。

(わたしは、あの子とは違うの!)

笑顔になんてなれない。

こんな生活に楽しみなんて見いだせなかった。

走って逃げ出したい。そんなことは先輩シスターが許してくれないけれど。

(早く離して!)

老人は何度も自分の手を握る。若い肌をなつかしむように。

気持ち悪かった。

普段と違うことがあれば先輩シスターが止めに入ってくれるのに、これぐらいなら大丈夫だと放置されていた。

(こんなときに限って!)

やっと次の人へ代わっても、胸のむかつきは治まらなかった。

炊き出しが終わるなり、井戸へ走る。

縄の付いたバケツを水に落とし、滑車から垂れ下がる縄を引いた。急げば急ぐほど、縄で手のひらが擦れる。重いし、痛い。けれど水がなければ手は洗えないのだ。かじかむ手を懸命に動かす。

汚れを落としたかった、記憶ごと手を綺麗にしたかった。

水の冷たさで、見ず知らずの体温の生暖かさを消し去りたかった。

「ふっ……」

最後、井戸の縁で水をこぼしては台無しだと慎重にたぐり寄せる。失敗した経験は何度もあった。

く気持ちを抑え、地面へ無事バケツを着地させて、やっと止めていた息を吐けた。

あとは手を洗うだけだ。

透き通る水の清らかさに涙がこみ上げてくる。

「っ、ううっ……」

今までだってつらいときはあった。数え切れないほど。

けれど、どれだけ経っても心が慣れない。

縄で擦れた皮膚に冷水が沁みた。

記憶は上書きできても、決して癒やしてはくれないのだと、視界が滲む。

それでもないよりはマシで、何度も水をかけ、手を擦り合わせた。

バケツの底が見えて、人心地つく。

「もう嫌……」

ポロリと溢れた言葉。

それが皮切りとなり、逃げたい衝動に駆られる。

一秒たりともこの場に、修道院に留まっていたくなかった。

(自由がほしい)

頭の中で、地図を描く。

修道院は敷地を囲うように、石でへいが造られていた。人の背丈の二倍はあり、簡単に越えられるものじゃない。

外への出入り口は、表にある門だけだ。炊き出しが終わった今、門は固く閉じられ、鍵がかけられている。門から出るには鍵を入手するしかない。

(けど鍵は先輩シスターが肌身離さず持っているし……)

まるで誰一人、逃がさぬように。

「だから、わたしが何したっていうのよっ」

身も心もボロボロだった。

治まっていた涙が溢れ、袖で強引に拭く。

こうなったら何がなんでも抜け出してやる、と近くの塀を見上げた。

足場がなければ、登るのは難しい。登ったところで、向こう側へ下りる手立てもなかった。

(どこか、傷んでるところはないかしら)

女手しかない修道院。

建物の補修も、基本的には自分たちだけでやる。先輩シスターたちは慣れているとはいえ、所詮は素人の仕事だ。全てを把握しきれているとは思えない。

長年の風雨でもろくなっている場所はないか。

人一人、通り抜けられるぐらいの穴は開けられないか。自分は大柄ではないし、修道院へ移り住んでから痩せた自覚もある。大きい穴は必要ない。

塀に指をかけ、崩れそうな場所を探す。文字通り手探りだ。

くぼみに指をひっかけては力を加えた。

想像以上にビクともしなくて、ガッカリする。

けれど諦めたくなかった。時間をかければどうにかなると自分を鼓舞こぶする。一日、一週間、一か月、時間はいくらでもあるのだから。

(他のシスターが通らない場所……)

物陰になっている塀へ足を進める。

すると考えがこうそうしたのか、指をかけた部分に崩れる感触があった。

石壁のほんの表面には過ぎないけれど、もろくなっているのは確かだ。

塀に齧り付き、状態を見る。

(やったわ! ここよ!)

確認すれば隙間すきまを埋めている小石もなくなり、僅かな空間が生まれていた。

何とか向こう側の状況を知れないかと、覗けるほどの穴を探す。

(見付けた!)

と思った矢先。

目が合う。

生きている、人の目だった。

「ひっ……!」

咄嗟とっさに飛び退く。

相手も予想外だったのか、塀の向こう側からも、うわっと驚く声がした。

次いで複数人の気配がする。全員、男だった。

「シスターがいたのか?」

「おい、俺にも見せてくれよ!」

「なぁ、服は? 服は着てたのか?」

「若かった?」

会話に身の毛がよだつ。

すぐさま、その場から逃げ出した。

(何、何なの!? 覗き?)

いつから? どれだけ自分たちは覗かれて、話のネタにされていたのか。

怖い、気持ち悪い。

生理的嫌悪感に胃が収縮する。こみ上げる吐き気を抑えられず、口を手で覆った。

(早く、早く、人のいるところに!)

必死に走る。足がもつれそうになっても、ひたすら前へ、前へ。

見慣れた先輩シスターの姿が目に入り、抱き付いた。怖かった。誰でもいいから助けてほしかった。

口うるさい相手でも、この際、関係ない。

「急にどうしたのです?」

「あ、あ、あっちの塀に……!」

涙ながらに状況を説明する。

偶然見付けた塀の穴から、覗いている男がいたと。

「はぁ、またですか。穴は全て潰したと思っていましたが……明日にでも修繕しましょう」

「ま、また……?」

「女性が一か所に集まると、内でも外でも色々あるものです。ここにはあなたを含め、若いシスターもいますからね」

事もなげに言う先輩シスターの言葉が信じられなかった。

「これにりたら、一人で動くのを控えなさい。誰かと一緒のほうが、あなたのためですよ」

それには答えず、うつむく。

先輩シスターは溜息をつくと、別のシスターを呼んだ。

「彼女を部屋で休ませてください」

「わかりました。シスター、大丈夫?」

自分を覗き込んだのは、炊き出しを楽しみにしていた赤毛のシスターだった。

心配そうに腕を背中へ回される。そのまま、自室へと向かった。

「怖い思いをしたの? でも安心して、ここは安全だから」

「安全……」

「そうよ、何たって高い塀に囲まれているし、食べものもあるでしょう? 鳥や虫には気を付けないと畑が被害に遭うけど、大きな害獣はやって来ない。こんな安全な場所はないわ」

見上げたシスターの顔には、いつもの笑みがあった。

小さな窓から入る陽光が彼女を照らす。

だからだろうか、見慣れた笑顔に答えがあると感じられたのは。

(もしかして、わたしは考え違いをしていたのかしら)

部屋に入り、わらのベッドへ腰掛ける。安心感で腰が抜けそうになった。

「ここへは、外の人は入れないわ」

彼女の言う通りだった。

表の門は施錠せじょうされ、建物は塀に囲まれている。

開いた穴から覗くことはできても、誰も塀は越えられない。その穴も明日には塞がれる予定だ。

(ずっと檻の中にいると思ってた)

自分を逃がさないための牢獄のような場所だと。

けれど本当は、自分を守ってくれていたのだとしたら?

(わたし、考えているようで、何も考えられていなかったのかな……)

自分にとっての感想を抱くだけで、それ以外の情報を知ろうとしてこなかった。

目の前の若いシスターをじっと見る。

歳の近い彼女のことさえ、自分はよく知らない。

皆、事情があって修道院にやって来る。自分も含め、あまり人に話したい内容ではない。だから何も聞かないでいたけれど。

「わたし、あなたの好きな食べ物すら知らないわ」

「ふふっ、急にどうしたの? わたしはねぇ、採れ立ての瑞々みずみずしい野菜が好き!」

「果物じゃなくて、野菜なのね」

「だって果物って高価じゃない? 食べてると背徳感はいとくかんのほうが強いの」

背徳感? と首を傾げる。果物を食べるのは、道徳に反する行為ではない。

自分でも変だと思ったのか、シスターは言葉を付け足した。

「わたし、弟と妹がいたの。あの子たちは果物を食べたことがなくて……未だにわたしだけ食べるのは、罪に感じちゃうんだ」

彼女は笑顔だった。

けれど今まで見たことのない、切ない笑みを浮かべていた。

過去形で語られた弟と妹たち。彼女が一人でここにいることからも、既に他界していることが窺える。

(ああ、本当に……)

自分は無知だったのだと痛感する。

こんな身近にいる人のことさえ、まともに知らなかったのだ。

炊き出しを楽しみにする彼女が理解できないと思っていた。

理解できないのは、彼女のことを何も知らないからだと考えることもせず。

働いていなかった頭の中で、パチパチ弾ける音がする。

ようやく、ようやく回路が繋がったようだった。